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お約束ごとと自由@ウィリアム・バロウズ

(『早稲田広告』(2001 年 9 月, 早稲田大学広告研究会)p.21)

山形浩生

 世界にはいろいろお約束ごとがある。働かざる者食うべからず、とか。赤信号では止まりましょう、とか。小説の世界でもそういうお約束ごとがあった。セックスシーンを生々しく描いちゃいけない、とか。同性愛を描いちゃいけない、とか、ある種の言葉遣いをするものだ、とか、短いものだとか。それに対して、たとえば紫式部が長編小説という分野を生みだし、ディケンズが街場の下品なロンドン英語をそのまま作品に使ったり、ダシール・ハメットが探偵とギャングの裏世界のことばをそのまま導入してみたり、そしてヘンリー・ミラーやロレンスがセックスについてそれまで考えられなかった露骨な表現を導入したり。それは毎回、毀誉褒貶の的にはなったけれど、同時にことばの自由度を広げ、世界を拡大するものだった。

 ウィリアム・バロウズも、その系譜の中にいる。かれは『ジャンキー』で、ドラッグ中毒者と売人、そして麻薬捜査官たちの裏世界の、独特なことばを英語表現に持ち込んできた。また、『裸のランチ』で、それらに加えて同性愛者の地下世界のことばをも持ち込んだ。同時に、起承転結のはっきりした伝統的な物語構成をまったく無視した断片の羅列のような小説を提示し(そしてそれを多少なりとも商業的に成功させることで)、まったくちがう形の小説の可能性を提示してみせた。

 同時に、かれは自分自身も無職、麻薬中毒、同性愛者、さらには殺人者という社会の周辺の存在として生きつつ、それを公然と認めることで、従来の価値観から自由な生き方を実践してみせている。これもまた、かれの人気の大きな原因となっている。

 が。その後、バロウズの小説は、通常のことばをしばる文法をも無視しよう、ことばを縛っている約束ごとからも自由になろうとして、カットアップという変な技法を多用するようになる。そしてまた、かれは変な理論にとりつかれるようになる。この現実は存在せず、いろんな記録があるだけだ――そしてその記録を書き換えれば、現実も変えられるのだ、という理論。記録を切り刻んで並び替えることで、かれはこの現実とその記憶から逃れようとまじめに努力をするようになる。

 だがこの技法がもたらしたのは、実は各単語やフレーズをさらに強くもとの文脈にむすびつける結果だった。一つのフレーズが、前に読んだ文の記憶をまるごと呼び覚ます。そして、記憶をいくら切り刻んで並び替え、書き換えたところで、バロウズは記憶から一向に解放されることはなかった。だって、記憶から逃れる唯一の方法は、それを忘れることだもの。それをいじくりまわしたり「ああしていれば」と後悔するのをやめることなのだもの。

 バロウズの試みはこうして失敗する。晩年のかれは、孤独で悲しみの中に暮らしていた。でも、かれの失敗はまたぼくたちが生きる中で直面する問題でもある。ぼくたちは、一応ある程度自由なはずだけれど、その自由とは実は結構限られたものでしかない。いますぐ仕事をおっぽりだして遊びに行くのは、不可能じゃない。でも、実際にいろんなしらがみを考えると、それは不可能だ。ある人に言わせると、サラリーマンは自由のない奴隷だという。が、それならそれ以外の可能性って何があるんだろう。

 バロウズの求めた「自由」――それは文の面でも、生き様の面でも――は、よく考えるとある限られた文脈の中での自由でしかない。それを認識すること、そしてその中で、自分たちの求める「自由」というのがなんなのかを考えることが、今後はますます重要な課題になってくる。それは広告というものでもそうだ。いったいそれは、自由を増す行為なのか、それとも人を洗脳して不自由に囲い込む行為なのか? バロウズのつきあたった難問は、またぼくたちにもあらゆる場面でつきつけられる問題でもあるのだ。

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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