Hey Man, I Dig Your Point, But...(final)

(寺倉正太郎編『ワーグナーの力』青弓社, 2005年2月頃)
ワーグナーの力
山形浩生

要約: キース・ウォーナー演出『東京リング』は、ジークフリートに対する英雄崇拝が嫌いで、それをガキっぽくくだらないものとして嘲笑しようといた意図はよくわかる。しかしワーグナーからそれを除いて何が残るのか? またその他のCG映像やテレビ、音楽での新しい試みらしきものは、勉強不足でださい。



 東京リングでキース・ウォーナーのやりたかったことは実にあからさまではあった。そしてぼくは、かれの主旨には大いに賛成ではあるのだ。だからそれがかなりぶざまな形で失敗していたのは、ぼくとしては残念だった。が、それはある意味で失敗を運命づけられていたのかもしれない。それともちろん、キース・ウォーナー自身の詰めの甘さというのも当然あるんだけれど。

 キース・ウォーナーの意図というのは何か? 一見すればわかるだろう。かれはワーグナー式の、ガキっぽい英雄崇拝じみたご託が嫌いだったんだ。だからそれに加担するような真似は一切したくなかった。そういうことだ。評判の悪かった、おもちゃの木馬で出てくるブリュンヒルデ。クマの着ぐるみを着て、スーパーマンのマークを胸につけて出てくるジークフリート。明らかにプラスチックのおもちゃの剣。通常なら山場として処理される、ラインの黄金ゲットの瞬間とかノートゥング引き抜きと大蛇退治とかも、ずいぶんあっさり処理されていた。これはみんな、ニーベルングの指輪の中心になっている、あの幼稚なヒロイズムをバカにする仕掛けだった。ニーベルングの指輪なんて、この程度のお話でしかないんだよ――キース・ウォーナーはくどいくらいにこれを描き出そうとしていた。

 そしてそれがぼくの好きなところでもあった。だって、正直言ってそうだもん。ワーグナーやそのファン/信者は一生懸命なにやら箔をつけようとするけどさ、ジークフリードって結局のところ、身勝手で深みも慎みもない体育会系バカでしょう。かれが最後に死ぬのだって、自業自得のざまみろという感じ。そもそもワーグナーが、ジークフリードを英雄に仕立て上げて、かれのアレを悲劇に仕立ておおせたってこと自体が驚異だと思うね。初演のときにだれかが「でもあのジークフリートってアホじゃん」と一言言えば、場内爆笑でこの芝居自体が崩壊したんじゃないか、という気さえする。だから、こういうぼく自身の偏見に与する演出は、それ自体としてはとっても嬉しいことではあった。いけいけキース・ウォーナー!

 が……一方で、それこそまさにワーグナーの、そしてニーベルングの指輪の人気の源泉でもある。多くの人がワーグナーを好きなのは、自分のガキっぽい欲望が大仰に飾り立てられて、正当化されているのが嬉しいからだ。芸術性がどうのこうのとか、神話的な寓意がなんたらかんたら、とかいうよくあるワーグナー讃は、しょせんそれをごまかすための口実にすぎないことが多い。それを露骨にバカにされちゃあ、まあみなさんカチンとくるわな。今回の会場ではブーイングまで出たけれど、それほどキース・ウォーナーの演出を嫌った人々が頭にきたのも、たぶん何よりもそこんところだ。そして……ここでキース・ウォーナーの直面した困難がやってくる。ワーグナー人気のそもそもの根底の部分を敢えて否定するのであれば、かわりに何を売りにしようか? キース・ウォーナーがつまずいたのも、そこんところだった。というのも、ワーグナーには実は、それ以上のものってほとんどないんだもの。

 それでも、おばかの大将ジークフリートが出てくるまでは、アルベリヒくんとかウォータンくんとかミーメくんとか、それなりに魅力的なキャラはいるし、かなり見せ場も工夫されているんだが……でも、そこまでだ。まず困ったことに、いったんジークフリート&ブリュンヒルデが出てくると、もう魅力的な人間というのはほとんど出てこなくなる。ワーグナーも、もうこの二人のことしか念頭になくなってしまうしね。これはまあ、キース・ウォーナーのせいじゃなくて、ワーグナーのせいではあるんだけれど、でもこの二人を茶化すことにしたら、他にはだれも残っていないということになっちゃう。いや、唯一対抗できる技量の持ち主としてハーゲンがいるか。頭いいし、度胸もあるし深みもあるし、「神々の黄昏」のドラマの伏線を一手に引き受けさせられているだけのことはある。キース・ウォーナーもそう思ったのかな。かれを思いっきり惨めな悪役にする演出もあるけど、でも今回のやつではそこそこいい感じだ(というかアニーベルング族の系列はみんな、そんなに悪くない味付けをもらっている)。これが映画用に脚色していいんなら、「神々の黄昏」の大部分はハーゲンを中心に書き直すところだろう。が、残念ながら、こいつはワーグナーの書いた通りの脚本にしたがわなきゃいけないのね。だからハーゲンの活躍も自ずと限られたものとなってしまう。

ぼく自身はことさらワーグナーやら「ニーベルングの指輪」の上演歴に詳しいわけじゃない。でもその筋に詳しい知り合いの話では、これはかなりはやい時期から露呈していた問題なのだという。まあそうだろう。ぼくがここで書いたような「指輪」罵倒だって、キース・ウォーナーが初めて思いついたものでもなかろうし、ましてぼくの独創なんかじゃない。だれでも思うことではあるし、ワーグナー嫌いの多くは、まさにこの点でワーグナーを嫌っているんだから。当のワーグナーがある意味で「ニーベルングの指輪」の限界でもあり、足かせでもある。そして『ニーベルングの指輪』に限らずワーグナーの演出はすべて、ワーグナー原理主義みたいなもの(伝統的な演出)とそれを打破しようとする新しい試みとの間の綱引きとなっているんだそうな。トーキョーリングは明らかに、打破しようと言う試みのほうに属するものだったわけだけれど、十分に打破できているとはとても言えないだろう。打破した後で新しいものができているか、という以前に、その枠から逃れ切れてはいないんじゃないか。

 まあキャラや脚本はしょうがない。でも舞台美術やそれを使った演出部分では、もっともっと工夫の余地があったはずなのに。特にジークフリートが出てくるあたりから、ステージ全体がせせこましくおざなりになってくるのはどうしたもんか。最初に黄金が盗まれる場面では、オープニングで仕掛けた映画のテーマを引き継ぎながら、映画の観客席を舞台に作ってフィリップ・ジャンティみたいな人形仕掛けも使いつつ、ねいちゃんたちとアルベリヒのからみが展開するのは悪くない。巨人たちはすばらしかったし、それに対する神々は、迫力不足ではあったけれど(巨人に貫禄負けするようじゃ神様はつとまらんでしょ)、どうせウォータン夫婦以外はチョイ役だからどうでもいいか。あと、ファフナー邸でのジークムント&ジークリンデの場面もよかった。巨大な机で家の内部であることを強調しつつ、舞台を上下に仕切って立体的に使ったのは、優れたアイデアだと思う。だいたいぼくは容積率引き上げ支持者なので、舞台でも高層化・立体化が進むのは空間の効率的利用の観点からも非常に評価できる。それ以外にも、床を傾かせることでなるべく高低差を作って演出しようという努力はかなーりよかったのだ。それが後半にいくにつれてどんどんなくなってくる。全体の演出も平板で、舞台の前のほうをちょろちょろ使うようなものばかり。ミーメさんちは二階建てになっててそれなりに工夫もあったのに、ギービッヒのお城場面とかはなんであんなにセコイのだね。最後にドーンと奥行きを使うための伏線かと思ったら、そうでもなかったしぃ。ひょっとして単純に予算がカットされたとか?

 さらに。全体を映画として構想するという当初のアイデアも、後に行くにしたがってどんどんおざなりになる。前半ではまあ活用されていたんだけれど、その後は冒頭のところでウォータンが映画を見ているのと、あとノルンたちが映画のフィルムと戯れているあたりでなんかそれらしい表現はあるんだけど、結局それだけ。フィルムであることが小道具や舞台美術のツマにしかならないんなら、全体を包含するコンセプトとしてそれを最初と最後にもってくる、というのが何にも生きないじゃないか。オープニングではウォータンくんがなにやら映画を見ている。いちばん最後にはその映画が終わり、そしてだれもいなくなった映写機のうしろから、バラバラと人が入ってくる。あれはつまり、神々の時代が終わって人間の時代がやってきましたというのを表現したいんでしょ。でも下手だよね。それまで人間なんか全然でてきてないのに、こいつら何しにきたの、という感じになってる。舞台でありながら映画であるというのが全然表現できてない。ついでに言うなら、ラインの黄金をジグゾーパズルのこまとして表現するというのも、ちーっとも活かされてない! これも大道具小道具の意匠にしかなってなーい! しかも途中で完全に忘れられてるー! この点では映画モチーフ以下だ。神々の黄昏の最後でジグゾーパズルのモチーフが突然戻ってきたとき、何が起きてるのか思い出すまでにえらい苦労したわい。

 そしてそれにからんで指摘しておきたいこと。CG とテレビの使い方のあの貧相さだ。かつて、ワーグナーが『ニーベルングの指輪』を初演した頃、それはたぶん当時の最先端技術を使ったものだったはずだ。それが今回の演出だと、テクノロジーが全然使えてない。ニーベルング一族はテレビ系、ウォータン一家は映画系、みたいな色づけをしようとしていたような雰囲気もあるんだけれど、それならもうちと考えろよ。キャラが舞台から消えたときに、テレビを通じて各種のメッセージや本心が語られる、という演出も、意図はわかる。でもそれなら、テレビをもっとでっかく使えよ。すいません、ぼくは貧乏人なもんで後ろのほうの安っちい席にいたから、なかなか見えなかったんでひがんじゃうんだよな。そしてその程度の貧乏人の家にあるようなちっちゃなテレビでチマチマやられても困るんだよね。一応神様とか王さまとかそういうお金持ちの話だろうに、それを現代的な演出に移植するんなら、まあ100インチくらいのプロジェクションテレビとか、もっと見せる仕掛けはあるだろうに。小さなテレビだって、映画『未来世紀ブラジル』では小さな画面をフレネルレンズで拡大して テレビの持つうそくささとレンズのゆがみでいろんなものを表現してたけど、そういう工夫がちっともない。テレビ使ったことだけで自足してちゃだめだよ。

 CGも、もうちと金かけろよ。いまの観客は映画の特撮CGに慣れちゃってるんだから、使うんならそれとタメを張れるくらいのものでないと。最低でも画素数をいまの10倍くらいにしてもらわないと話にならないよ。最初のラインの黄金を盗むところのジグゾーパズルのCGもぼけてたけど、まああれはなんとか我慢できる。でも最悪だったのは、「神々の黄昏」でジークフリートがあの頭巾だかなんだかをかぶって遠距離を移動する場面。ステージ上部の画面に、たぶん出来合モノの流用ちっくなカーナビの地図がそのまま映しだされるんだけれど、それがもう画素あらあらもいいところ。10インチの画面用に作った地図をそのまま使ってる上に、ビデオプロジェクタで投影してボケボケになっちゃってる。だめだって。そしてそのカーナビ画像その間ずっと、チープなヘルメットみたいなのをかぶったジークフリートくんは、ステージ上で何もないところをヨタヨタしてるだけ。なんだよあれは。やることないんならひっこんでろよ。ラララ・ヒューマンステップスの新作でも、同じくらい貧相なCGが使ってあってがっかりしたんだけれど、なんか舞台系の人たちって、CGとか映画に対する危機意識があまりに希薄だと思うんだ。これだけ映画やビデオやゲームが発達してときに、わざわざ舞台をやるという時代錯誤ぶりについてもっと自覚的じゃなきゃいけないし、そのライバルたちを舞台に引き入れるときには、もっと緊張感を持つべきだと思うんだ。それをだらしなく、間延びした「まあこんなところで」的な代物でへらへら満足してるってのは、そもそも自分たちの置かれた状況についての認識が足りない。CGに関していうなら、重要なのはCG自体じゃなくて、CG的な感覚なんだよ。CGのいいところをどう舞台的に奪うか。それを舞台的にどう実現するかってのがキモでしょう。そしてキース・ウォーナーにそれが欠如してるわけじゃないんだ。「ワルキューレ」で赤い矢/槍が黒い背景や地面に突き刺さることで戦いの進行を表現しているのは、視覚的にもCG的な感覚をうまく出していた。さらにはその赤いトンガリがマクロ的な説明とミクロの舞台設定をうまく結んで、とっても効果的だった。あれが全編に貫徹していればねえ。

 ちなみにこの手のCGっぽい感覚を持った人物としては、建築家のベルナール・チュミにザハ・ハディド、そしてダニエル・リベスキンドがいる。みんな、実作はダメダメだけれど、ドローイングや模型のかっこよさは比類がない。特にダニエル・リベスキンドは、「トリスタンとイゾルデ」の舞台美術(と演出)を手がけた経験もあるし、それに同じくキース・ウォーナー演出によるロンドンはコベントガーデンのリングサイクルの舞台を担当していた。そりが合わなくて2003年に降りてしまったけれど。ぼくは建築家としてのリベスキンドは好きじゃない。意味不明の理屈をこねたり(かれの文を訳したことがあるけれど、ひどいもんだ)、美術館や博物館みたいな目先が変わっていても許されるものなら、まあちょいとお目こぼしでやらせてあげるのもいいだろう。特にワシントンやベルリンのユダヤ博物館は、歪んだ空間づくりが展示の中身とあうから。でも先日、ニューヨークの貿易センタービル跡地の開発をかれがやることになってしまった。普通の人が普通に使うオフィスやら住宅やらを、普通のデザインができない人物にやらせる? 何考えてるんだ。が、そういう実用性が問題にならないドローイングや模型だと、かれの作品のかっこよさは比類がない。ノイズの散乱する背景に、ジグザグに入りこんで浮かび上がる、よじれた異様なコントラストのかたまり。そして、かれもまた、ワーグナーの舞台美術なんかに手を出しているくせに、ワーグナー嫌いを公言してはばからない。その意味で、コベントガーデンでのウォーナーとの共同作業が物別れに終わったのは何とも惜しいことだ。これがうまく言っていれば、ワーグナーの限界を越える「ニーベルングの指輪」が実現したかもしれないのに。そして「ワルキューレ」あたりまでの舞台美術は、降りる前のリベスキンドのアイデアにかなり影響を受けているんじゃないか、という気がしなくもない。傾いた床面、歪んだ家具、黒を背景に入り込む原色の槍――そして終わりのほうの舞台美術が冴えないのも、多少なりともリベスキンドのアイデアが出てきていなかった部分にさしかかったからじゃないか、という気がしなくもない)。

 映画と実写の組み合わせについては、映画のほうがずっと自覚的だったりする。ラールス・フォン・トリアーの『ヨーロッパ』をご覧。このラールス・フォン・トリアーも、バイロイトの「ニーベルングの指輪」演出を任されて、2006年の上演をめざして作業を続けてきたのに、2004年に「とうてい思い通りのものができない」といって辞退している。これも残念なことだ。トリアーが選ばれたことは、ワーグナー原理主義者たちにとってはかなりのショックだったそうだけれど、でもトリアー自身はワーグナー好きを公言しているし、ワーグナー映画を撮るのは生涯の夢とまで語っている。その意味でウォーナー(やリベスキンド)とはちがうんだけれど、でもあのトリアーならカナーリ変な代物になったのはまちがいないところ。すでに詳細な演出計画はできていて、ただそれが自分の美的な基準を満足するような形ではとうてい実現できないというのが辞退の理由だった。かれがどんなものをやろうとしていたのか、実に興味があるところだ。絶対にワーグナーの枠組みにおさまってすむようなものじゃなかったはずだから。

 そこまでいかなくてもいい。ステージ的にはナイン・インチ・ネイルズのライブにでかけてご覧(2005年春にまたツアー開始するから)。足を運ぶのが面倒なら、ビデオCloser収録のライブ映像や、DVDのAnd All that could have been やを見てほしいな。CG、ビデオ、ステージをどう組み合わせて表現すべきか? 方法論的にも結果的にも、ずっと高度なものが実現されている。ライブのステージをやりながら、それがそのままスクリーンとブレンドするのにこんなやり方があるのか! しかもそれが、最小限の設備で実現されている経済性にもぼくは感動したな。あるいはアンダーワールドの「Everything, Everything」でもごらんよ。そういう努力無しに「映画だってことにしたから一つよろしく」と冒頭で言ってあとはほったらかしというのはあまりに怠慢じゃないか。

 そして音楽だ。東京リングは、全体に現代的な意匠を導入しようという意図で展開されていた。テレビ、アイロン、電子レンジ、おもちゃ、引っ越し荷物、プラスチック――音楽もそれにあわせるべく、演奏も軽め(低音域をおさえめで中高音域のメロディラインで仕上げるやり方)になっていた。人によっては、それがうまくマッチしていると思ったようだけれど、ぼくはそうは思わなかった。というのも、現在のポピュラー音楽ってそうじゃないもの。ベースラインをおさえてドラムスもエレキドラムやドラムマシンの軽い処理ですませていたのは、1980年代までのはやり。懐かしのデュラン・デュランはそんなのでしたっけ。でもその後、その流れは急激に下火になった。レゲエやラップの影響で、ロックやポピュラー音楽は完全に変わった。それに拍車をかけたのがハウスやテクノなどダンス系の音楽の影響だ。マイ・ブラディ・バレンタインのケヴィン・シールズが語っているように、ハウスとテクノはポピュラー音楽において何が正しいかを完全に変えた。低音重視。可聴域を下回るくらいの、ベースラインものすごく強調したもの。部屋の中より外でズンズンと響くような、あの感じ。もちろんモーニング娘。や松浦亜弥やSMAPなんか聞いててもこれはわからないけれど(そして欧米のポピュラー音楽だって、軽いものは軽いままではあるけれど)、浜崎あゆみ程度でも多少はそういうのが取り入れられている。それらと距離を少しおいた正統ロックの世界でさえ、かつてオルタナティブロックと呼ばれていた重い工業ノイズを主体にした傍流が、1990 年代のニルヴァーナを筆頭とするグランジの流れに伴っていつの間にか正統なロックの継承者となっていった。ベースラインの重視。ミニストリーなんかに見られるツインドラム。こちらも低音の強化という路線は変わらない。

 その感覚からすると……あのアレンジは軽すぎて古くさいんだ。ポピュラー音楽でいえば80年代くらいの感じでしかない。そしてそれがぼくの判断のつきかねているところだ。キース・ウォーナーは、マジでやってるの、それともイヤミでやってるの? ぼくは後者だと思っていた。ジークフリート周辺をバカにするために、しつこいくらいチープな意匠を配置していたように思ったから。それにあわせて音楽のほうでもあえてださいアレンジを依頼したのかと思っていた。でも一方で、映画の処理とかCGの処理とか見ていると、実はかれの現代認識ってのは1980年代くらいで止まってるんじゃないのか。その後ポピュラー文化がどう発達してきたという認識が薄いんじゃないか、そんな気がしてならない。

 ということだ。あーあ、なにやら罵倒だらけになってしまった。でも繰り返すけれど、ぼくはキース・ウォーナーのやりたかったことはとってもよくわかるんだ。そしてその主旨には結構共感している。「ジークフリート」の前半くらいまでは本当に期待してみていたんだ。ただ、ネタの根本的なところを茶化すんなら、いったい何でプロダクションを立たせるのか、というのを考えないと。ワーグナーはそれは提供してくれないし、キース・ウォーナーもそれを支えられる代替物を出せていない。茶化すんなら、たとえばケン・ラッセルが映画『リストマニア』でやったくらい徹底的にやればまだ救いもあったかもしれない。でもとうていその水準にも及ばない。そしてそれ以外の部分での安易さや、他のメディアに対する無自覚ぶりは、ぼくは誉められないのだ。ワーグナーの枠組みをすてて、キース・ウォーナーがもっと自由にアレンジできるんなら話は変わったかもしれないのだけれど。Hey man, nice try, but....



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