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お寺の経済学

補論:祈りと救済の経済学:『お寺の経済学』解説

山形浩生

中島隆信『お寺の経済学』(ちくま文庫) 解説)

要約:本書で述べられているお寺の奇妙な部分の根幹には、それが取引する基本的な財である救済と祈りの特殊性がある。それは信仰という非金銭的な経済関係であり、フリーソフトなどを律する経済と同じだ。それと商業経済との関係はいま大いに注目されており、それをどう区分するかが両者の共存では重要だ。お寺にも同じ原理があてはまるかもしれない。


 お寺とそれを取り巻く活動は、日本人の多くが知っているつもりで実はあまりよく知らないものだ。本書はまる一冊かけてその風変わりな部分を分析し、そしてそれが歴史的・制度的な枠組みの中では十分に合理性を持つことを説明したおもしろい本だ。

 その詳細は本書を実際に読んでいただけばいいのだけれど、ぼくなりに整理してみると、お寺をめぐる経済学の特殊性は、次の三点から生じている:

  1. お寺が人々に提供する「財」が不明瞭で非金銭的なこと
  2. お寺が統治の出先機関として既得権を与えられた保護規制産業であること
  3. サービスの特殊性に伴なう特殊な専門業者が周囲に発達していること

 もちろん、この三点も独立ではなく相互に関連しあっている。

 このうち、本書の記述が多いのは、二番目と三番目だ。檀家制度の成立とお墓を通じた国民の管理、法人としてのお寺や本山制度の持つ意味合い、宗教法人認可や新しい僧侶のリクルートなどの話は二番目になるし、葬儀屋さんや仏具屋さんの話は三番目だ。本書はそれらを、ガバナンスの問題や産業保護問題、情報の非対称性や規模の経済などの経済学的な概念を使って、かなり合理的に説明してくれる。

 が、この一番目の点については、各種教団の成立事情やお寺が保護規制産業として成り立っている条件の説明などで、散発的には触れられているものの、まとまった説明はない。それはもちろん、これが難しいからだ。人が宗教や信仰から何を得ているか? そんなの人によってちがうし、また計測できるものでもない。だから、あまり直接的には触れられないのも無理はない。だが、これを少し考えていたほうが、その他の点も見通しがよくなると思うのだ。

・宗教の提供する財とは?

 仏教――いや仏教に限らずあらゆる宗教――が与えてくれるのは、心の平穏かもしれず魂の救済かもしれず、死んだ後で天国にいけることかもしれず、この世の生活のガイドラインかもしれず、そして現世で何か願いがかなうことかもしれない。これは本書でしばしば触れられる、お寺の「サービス」ではない。葬式のときにお経を読むとか戒名をつけるとかいうサービスは、今挙げた最終的な財を提供するための手段でしかないと思う。

 そういう財すべてに共通することが一つある。それは、こうしたものが本質的にお金で買えるものではない、ということだ。ぼくの所属するある冗談宗教は、「永遠の救済、さもなきゃお金は三倍返し」がスローガンだ。これがなぜ可笑しいかといえば、救済とはそういうものではない、というのをだれもが知っているからだ。お坊さんやローマ法王が「救済」の在庫を持っていてそれを市場価格で販売するのではない。救済を得るには、人は金銭ではない、心やふるまいを提供しなくてはならない。いうなれば、祈りを提供しなくてはならない。

 もちろん人は各種の宗教的存在にお金を払い、なにかしら救済めいたものを少しは得ている。でも、そのお金は決して直接救済を買うものではない。その支払行為は本来は非金銭的である祈りの表現でしかない。喜捨とか浄財とか、そうした金銭的支払いを表すことば自体が、そうした直接的な財の金銭的取引ではないことを表現しようとしている。宗教の提供する非金銭的な財を手に入れるためには、こちらも非金銭的なものである祈りを提供するしかないのだ。

 そして実は、そうした貨幣経済とは別のところで機能する経済についての知見は、近年になって大きく発達している。インターネットの発達で大きく成長して注目を浴びた、リナックスをはじめとするフリーソフトや、悪質なものも大量にあるとはいえ現在の世界で無視できない勢力となりつつあるNGOやNPOの活動、そして各種のアニメやマンガをめぐるファン活動への関心がその背後にある。

・非金銭経済としての信仰

 こうした活動は、貨幣を媒介しなくても経済だ。友人や恋人や家族関係は、非金銭的な経済だ。友達が、飯や酒につきあってくれたり、つらいときにたすけてくれても、お金は払わない。でも、お互いにその関係から何かを得ているし、片方が一方的に出すばかりなら、その人は利用されているように思って、いずれ友情は決裂する。

 さらにもう一つ。友人が何かしてくれるたびにお金を払い、何かしてあげるたびにお金を要求したらその友情は決裂するだろう。水くさい、そんな金が受け取れるか、バカにするなと怒る人もいるだろう。あるいはボランティア活動を熱心にやっている人に、百円やるからもっと頑張れといったら激怒して、無料でやっていたボランティア活動さえやめてしまいかねない。非貨幣的な経済にお金を入れると、その経済自体が崩壊してしまいかねない。

 信仰、つまり祈りと救済によって形成される経済も、まさにこれらの性質を持っている。祈りと救済は、別にきちんと計測されて一週間ごとに精算されるものではないが、それでもある程度のバランスは必要だ。またお金を明示的に入れればその関係は台無しになる。

 となると話は簡単そうに思える。お寺でもお金を一切排除すればいいのでは? 救いはお金とは関係なく得られる。そもそも、別に宗教団体が救いをくれるわけではない。救いは本来その人の中にあって、宗教はそれを見出す手伝いをしてくれるだけだ。お寺はその手伝いをボランティアで提供し、お金のやり取り一切なし。すっきりしてすばらしい……が、そうはいかないのはすぐわかる。救済というのは、山奥の仙人でもない限り自分ひとりの頭の中だけではすまない。多くの人は、他人が同じものを信じているのを見ることで自分も救われる。そしてもちろん、どの宗教団体も精神と同時に物質的な救世活動も行うし、コミュニティのまとまりを作ったりもするし、するとそのための場も必要だ。お寺という物理的な場がほしいし、そこを維持管理する必要もある。その他活動範囲を広げれば、その分だけお金がどうしてもかかる。

 宗教団体はそのためにお金を集める。だが、そのお金が本来の、非商業的な活動を破壊しないためには細心の注意が必要になる。両者が混じらないようにしなくてはならないのだ。

・商業経済と非金銭経済

 さて、この両者を、混じらないようにしつつ共存させる方法はいろいろある。ひとつのやり方は、名目を変えることだ。喜捨もお賽銭もザカートも、名目は本人が富を自ら放棄する行為だ(そのお金が教団の懐に入るのは、建前上は偶然でしかない)。それがその宗教組織により、現世的で利己的な目的のために使われることがあるのは、みんな当然知っている。ただ、教団も金がいるだろうからそれは大目に見ようと思うわけだ。お志だけ寄付してくれ、という言い方もあるかもしれない。別にそれで救済を売るわけではないが、でもこっちの事情も察して少しでも助けてよ、というわけだ。これはフリーソフトの大義のために寄付してくれ、といった表現に近い。

 あるいは使途を決めて明朗会計にするやり方もある。神社に石灯籠を寄付したり、瓦を寄付したり、という現物出資もある。その他宗教施設建設のためにお金がいります、某所の災害救済でお金がいります、とお金を集めたりもする。同様にサーバーを増設するので寄付してね、というフリーソフト系プロジェクトはたくさんある。

 が、これが進むに連れてだんだん話がぼやけてくる。教団は本当にその金がいるのか? どこまでが必要でどこまでが利己的な動機なのか? 救済を考えるにしても、自分の教団や宗教施設がでかいことに満足をおぼえ、救われた気になる人は多い。うちの神様の神殿はこんなに立派だとか、うちの宗教の儀式はこんなに壮大だとか。だがそれを救済に資するものとは考えない人も多い。そうやってだんだん救済その他の「財」があいまいになるにつれて、金銭的、非金銭的の境もあいまいになる。信仰とお金は関係ないはずなのに、金を払ったやつばかりがいい目を見ているような雰囲気も出てくる。

 それは単なるねたみではなく、宗教そのものの根底をゆるがせてしまう。宗教と人の関係を、ぼくは祈りと救済と表現してきた。それは同時に、その宗教の核となる存在や思想と人々との直接のつながりだ。聖書を読むことで人は神と直結できるという発想が、プロテスタンティズムの革命だった。イスラムも、あらゆる人がコーランという神のことばに直接触れられるところに本質があったはずだ。仏教の念仏や禅だって、人はその行為を通じて直接宗教の本質に触れることができるというものだ。

 だがそれがやがて形式化してしまう。それは一方で、信仰する人々の願望に応えたものでもある。いつでもどこでも神や仏との結びつきを感じられる人は少ない。現世的な日常性から離れた、それなりの場所がほしいと思うのは人情だろうし、また何らかのプロトコルを求めるのも人情だ。だがそれがやがて形骸化、官僚化につながり、かえって人と救済との間に割り込んで邪魔をするようにさえなる。ダイレクトに与えられるはずの救済は、なにやら官僚的な手続きと小難しい理屈の彼方で手の届かないものになり、それを媒介するのにお金の力も借りるようになる。お寺も含む多くの既存教団は、こうした段階に達しているように思う。

 ちなみに、このような形で滅びて行ったフリーソフト系のプロジェクトもたくさんある。宗教はフリーソフトに比べて得られる財が明確ではない。その分だけ宗教団体のあり方も多様だし、商業化された部分と非金銭的な経済の混ざり方にも幅が出てくる。が、その幅が一方では、多くの人が感じる既存宗教団体――お寺を含む――に対する現代の不信と人気の低下にもつながっているのではないかとぼくは思っているのだ。

・お寺の未来

 さて、フリーソフトやボランティア活動でも、こうした商業化された部分と非貨幣的な原理で動く部分とを共存させた例は多い。そしてこれまた多種多様ではあるのだけれど、成功例の多くでは、商業部分と非金銭的な部分をきちんとわける。そして、非金銭的な部分に商業部分がどう貢献していて、商業が非金銭的な活動の成果をどう利用しているかを明示し、透明性を保っている。

 ひょっとしたら、お寺をはじめとする宗教団体もそれを考える必要があるんじゃないかとは思う。信仰の部分では金は一切取らず、別立てにしたほうがいいのかもしれない。アメリカのある新興宗教は、発足当時は専業聖職者を認めなかった。宗教サービスにはお金はからまない。だから宗教が腐敗することもない(とはいえその宗教は決してその理想通りには進まなかったのだけれど)。

 さて本書の著者は、お寺は墓を捨てるべきだという。墓質に頼らず、その教えの魅力だけで信者を集められるようになるのが仏教の王道であり、お寺の存在意義であるべきだ、と。著者の問題意識は十分にわかる。それは既得権益を捨てろということだ。そして墓をダシにした商売に堕しているとすら思えるいまの寺のあり方を変えるべきだ、と。

 これはまさに、非金銭的な活動としての信仰活動部分を純化しろという提案につながる発想だ。墓という信仰と直結した部分に営利をからませず、お寺が信仰活動とは別立ての営利活動を営めればいいのだ。

 実はぼくは、お寺の土地に住んでいる。そしてその寺は墓を持っていない。ぼくをはじめとするアパート住民――この人たちはお寺の信仰とはまったく関係ない――が支払う地代が、お寺の経営(お寺の各種維持費)の一部を支えている。お寺は墓がなくても、地元の人々にサービス提供を行い、布教活動を行っている。大家さんにゴマをするわけではないけれど、ぼくはこのほうが純粋なお寺のあり方ではないかなと感じている。

 もちろんお寺の商業活動には自ずと制約はあるだろう。さすがに風俗産業や銀行業に手を出すのは無理……いや意外にいけるかもしれないが。ひょっとしたらその中で、お寺が非宗教的な形で営利的にお墓の管理を行うという道もあるのかもしれない。そしてその過程で、お寺は祈りと救済の場という役目についてもっと考えなくてはならない。それがなくては、そもそもお寺というものの存在意義はないのだから。

 そしてそれが実現したとき、本書の中で説明されている各種の官僚的な組織や制度、儀式はどのように変わるだろうか? そうしたものが現状の仕組みの中でもつ合理性を、本書は詳しく説明してくれる。それはまた、前提となるお寺のあり方が変わったときの、新しい仕組みへの示唆ともなっているのだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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