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プロジェクト杉田玄白の思想

山形浩生

(『をちこち』 2008年6月1日発売号)

要約:プロジェクト杉田玄白は、翻訳をしたい人と、翻訳されたい文章マッチングさせるような場として考えられているし、各種フリーソフト運動にも影響を受けている。今後、札束勝負とかできるといいなあ。


 日本は翻訳文化だと言われる。それは日本文化というものが、二世紀弱前までしょせんは(かなりのローカルな展開を見せたとはいえ)シナ文化の周辺文化でしかなく、そしていまは欧米文化の周辺文化でしかないという事情からして仕方のないことだ。これは別に、日本文化にユニークなところがあるのを否定するわけじゃない。でもその「ユニーク」を唱える人を問い詰めれば、結局それは、日本的あうんの呼吸に頼るものだったり非常にローカルな情緒や自然環境に依存したものばかりで、砂漠の真ん中でもツンドラのさなかでも通用する代物かといえば、そんなものは一つもない。だからぼくたちは、いろんなものを翻訳の形で輸入することになるわけだ。

 そしてそれが大きな役割を果たしてきたことは論を待たない。杉田玄白や前野良沢が『ターヘルアナトミア』を訳し、中江兆民がルソーの翻訳をしたことが、日本の文化の発展にとっていかに大きな意味を持ったことか。ときに翻訳はオリジナリティに欠ける輸入学問とされることもある。が、三流のオリジナルよりも、一流の輸入のほうが、読者に与える効用は高いし、学者ならいざ知らず、読者としてはそんなことは気にする必要なんかないのだ。

 さて、いまインターネットが人々に与えられた。ネコも杓子も、へたくそなエッセイだの小説もどきだの落書きまがいの絵だの、世に見せるべきでない代物まで含めて大量に公開している。一方で諸外国からはいろんな情報が直接入ってくる。日本に紹介されるべきものはたくさんある。さらに翻訳を仕事にしたいという人もそこそこいるようだ。何やら翻訳学校なるところにお金を払ってまで通う人たちがたくさんいる。

 それなのにネット上には目立つほどの翻訳があまり出回らない。著作権の切れたフリーのテキストを出回らせようという試みはあったけれど、そこには翻訳が全然入ってこない。原文の版権は切れても翻訳者の著作権が残っているからだ。著作権切れの翻訳は確かに古い。でも、やっぱり輸入文化たる日本で、翻訳が自由に手に入らないのは困るだろう。各種古典でも「翻訳が悪い」と言われるものがあるのに、それが放置されているじゃないか。

 じゃあ自分たちでそうしたものを訳して出回させればいいだろう、と思って始めたのがこのプロジェクト杉田玄白だった。翻訳文献のニーズはある。一方、翻訳した人もいる。それをマッチングさせるような場があればいいじゃないか。そもそもの発送はそういうことだ。

 もともとこれは、Linux関連の文書をいろいろ訳していたのがきっかけだ。Linuxなどフリーソフトウェアの世界では、だれかのやった作業をみんなが感謝して作りあい、いろんな人が改善案を出すことでもっとよいものを作り上げていく。それは各種マニュアルやインストールガイドも例外じゃなかった。よくぞ訳してくれましたという賞賛とともに、ここの訳はこうしたら、あそこの部分がわかりにくいが、という注文がたくさん入って、翻訳自体も目に見えてよくなる。ふーん、これはフリーソフトウェアに限らず、あらゆる翻訳にも適用できる手法じゃないか、と思ったのもきっかけだ。

 他の創作物だとこれはむずかしい。『ロメオとジュリエット』の最後が気に入らなかったので、改善してあげましたよシェイクスピアさん、というようなことは……普通はしないし、それで作品がよくなるとも思えない。というより、それが改善か改悪かを判断するまともな基準もあり得ないだろう。でも翻訳はちがう。原文があるので、「ここはまちがっている」というのがはっきり指摘できる。

 さらに「まちがい」も様々だ。原文とつきあわせて誤訳をきちんと指摘するのは、ハードルが高いかもしれない。でも「誤植がある」というか、現在なら変換ミスがありますよ、というような突っ込みはだれにでも入れられる。「この一文が抜けています」なんていうのもすぐわかる。実力のある人は、微妙な表現やニュアンスまでコメントできる。いろんな人がレベルにあわせて協力できる——そんな仕組みを作りたかった。

 個人的には、いずれ岩波文庫に入っているくらいの各種古典が揃ったらおもしろいとは思っていた。そういうニーズはあると思うし、また暇な年寄りが手すさびにやってみようとか思わないものかな、と期待はしていた。

 結果としては——予想以上だけれど期待以下、というところだろうか。短い文章はかなりたくさんの翻訳が出てきた。そのときの時事的なニーズに対応したもの(WHOによる劣化ウランの評価文書等)から古典哲学まで様々。一方で、さすがに多くの人は長篇を丸ごと訳すほど暇でも熱心でもないようで、ある程度以上の長さの作品は数えるほどしかない。まあこれは仕方あるまい。

 そしてぼくが当初考えていたニーズのほうは、まちがっていなかった。当初、入っているものが古くて現代的なニーズがないと言われたこともあったけれど、それを覆す例も出てきた。残念ながらこのプロジェクトからではなかったけれど、光文社の古典新訳文庫だ。あれがちゃんと商業的に成立しているということは、プロジェクトとしての発想はまちがっていなかったということだ。古いテクストを新しい翻訳で読みたいというニーズは確実にあるのだ。

 いま、プロジェクトとしての勢いは一時ほどではない。何人かの主要な訳者が忙しくなるとすぐに新作がなくなってしまうのがつらいところ。内容的にも少し拡充したいな、というところはあるし、翻訳しなおすのはアレだが作品としてネット上に欲しいなと思えるものはいろいろある。

 その意味でいずれやりたいと思っているのは、すでに絶版状態で日の目を見なくなっている翻訳を、金で買ってくることだ。いま、本を一冊訳して訳者の懐に入るのは、100万円くらいがいいところ。絶版続きの本となれば、たぶん将来的に収益を生み出す見込みはまずない。だったら30万円くらいでその権利を譲ってはもらえないものか? それをスキャンしてネットで公開すれば、需要はあるはずだ。

 そしてそれが実際に出版につながることだってある。プロジェクトでいちばん人気のキャロル『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』は実際に本になったし、他の打診もある。ある程度以上長いテキストは、絶対に全文ダウンロードとかプリントアウトとかあり得ない。その意味で、長い作品——たとえば『三銃士』全文とか——を、このプロジェクトを通じてネットにあげることは、出版そのものの需要創出のためにも有効なんじゃないかとぼくは思っている。

 協力して翻訳を改善する、という主旨のため、このプロジェクトに参加する翻訳は、原則として改変自由だし、二次利用も(商業利用も含め)勝手にやっていいことになっている。場合によっては原文の制限などでそれができないこともあるけれど。でも、そうした版権の自由度は、単に出版やその文章を読むといった狙い以外のところでも、意外な有用さを出してきた。ある研究者は、意味解析のアルゴリズムを作るにあたり、プロジェクトのテキストを利用したい、と言ってきた。もちろん意味解析のためには、原文と翻訳とが両方あって、それを切り刻まなくてはならない。さらに最終的に研究では結果を公表しなくてはならない。でも著作権が残っているような文章だと、切り刻んだ文章を論文の中で出すのですら、勝手な改変とみなされ、著作人格権(ぼくはこんなくだらない権利はないと思っている)の侵害だと騒がれる可能性すらある。が、このプロジェクトの文章にはそうした制約はない。研究以外にも、この文章に勝手にイラストをつけてみたり、電子ブック向けに加工してみたり、予想外の様々な利用が生まれている。

 そしておそらくはそうした意味解析研究なども結果もあって、このプロジェクトの寿命は限られているだろう。少なくともぼくはそう思っている。いずれ——いまから50年以内くらいに、ぼくはかなりの翻訳はコンピュータができるようになると思う。いまでも各種のウェブのオンライン翻訳は、なんとか意味がわかる程度のところまではきている。各種翻訳ソフトも——まあまだまだ力不足だが、使えるところは使える。これが発展すれば、いずれいまある産業翻訳市場はほとんどが壊滅(だいたいかれらはいまでも翻訳ソフトの出力をちょっと手直しするくらいでお金を取っているんだから)。たぶん文芸翻訳はもうしばらく残るだろう——ある種の名人芸として。でもそれも時間の問題だろう。その間のどこかで、こうしたプロジェクトも過去のものとなる。

 が、それもまた世の流れ。それまでにどこまで行けるかが勝負だろう。このプロジェクト、最近ちょっと停滞気味だ。やはりある程度まとまった大きなものがないと、人々の注目もすぐに薄れてしまう。逆に大きなものがくると、それを見た人が「じゃあ自分も」と応募してくる。そろそろ次の目玉を仕込まないと。それに作品点数が多くなってきて、そろそろ各種検索や登録作業の自動化も必要になってきた。あれもこれも、と課題だけは残しつつはや10年近くだが、これからどうなるかはやっている自分でもよくわからないのだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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