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官僚神話の源流を追う

別冊宝島『官僚くんが行く』(1998) 収録

菊池 信輝(一橋大学)

(ただし掲載文はさらに改訂が加わっている。また、同誌収録の各種インタビューなどは、官僚実像理解にたいへん役立つので必読)

1. 官僚は優秀か?

 次のような官僚批判を耳にしない日はないといっていい。

「戦後 50 年。日本の再建は官僚主導の保護貿易によって成功したものの、一度作られた保護主義を解放することは難しく、日本の改革は、10 年遅れたといわれる〜Japan-bashingから Japan-passing そして Japan-nothing とさえいわれるようになった。バブルや住専問題のつまずきはその象徴であり、官僚の中の大物といわれる官僚があいついで汚職で摘発されるのは官僚の権力とおごりの結果である〜かくて官僚主導経済を是正しなければならない」(加藤寛『官僚主導国家の失敗』東洋経済新報社、1997年)

 しかしながら、筆者は現在の不況の責任を官僚に負わせるとしたら、またそもそも日本の経済成長が保護主義の故だというなら、それは官僚の「過大評価」であると考えている。最近の官僚に責任を押し付けるような批判は、「世界に冠たる日本の官僚」という官僚に対する一種の期待と、「エリート主義」に対するコンプレックスの裏返しに過ぎないのではないだろうか。いわば皆が皆「官僚神話」に取りつかれた振りをしている。

 「官僚神話は幻想」−本当は官僚達自身、とっくの昔からそう思っていたが、自尊心が邪魔して素直になれなかっただけなのかもしれないのに。

2. 官僚神話はいつできたのか

 これは『文藝春秋』1951 年 11 月号に掲載された「官僚を欠席裁判する」という座談会の一節である。

小汀利得 「統制経済というものは、国民の上にあぐらをかいて、仕事をする。善良な国民が役人というものに頭を下げなければ何もできないようにしたことなんだ。その悪風をもってるから、量において圧倒的であり、質において最悪であるものが残る」

武見太郎 「議会がよくならないから官僚はよくならない。官僚を責める前には、やはり正義の士に議員に出てもらって、ちゃんとやってもらうという態度ができなければ、官僚だけ責めても絶対に官僚組織というものはよくならない」
「いわゆる外郭団体という奴が魔窟なんだからね。外郭団体の多い局ほど魔窟です。その局がいいか悪いかということは、外郭団体をどのくらい持ってるかを見れば大体わかる」
「電源の調査費というのを政府は一億円だしておるが、実際に使ったのよりも、途中で合法的に消えちゃってる方が多い。実にひどい」

 「権力の権化」、「税金泥棒」、「官僚主導」、「外郭団体」等、ここで言われている内容は果たして今の官僚批判と何か変わるところがあるだろうか?総じて 50 年代の官僚論は「納税者のお荷物」などと、極めて評判が悪かった。因みに小汀氏は戦前から戦後にかけて活躍した経済評論家であり、武見氏は長く日本医師会会長だったあの人である。

 もう一つ、これは 63 年から 65 年にかけて同じ『文藝春秋』に連載された松本清張氏の「権力の司祭群」(後「現代官僚論」文藝春秋社刊)の一節である。

 「政党自体に財界のヒモがついている今日、官僚の仕事は国民の公僕的奉仕ではなく、財界のための奉仕に役立つことになる」
「通産省は独占企業の云うことを聞かなければならない立場にある。つまり独占資本へのサービスとなって現れるのだ。国民生活へのサービスは二の次の官庁だ。あるいは云うかもしれない、通産省の中には中小企業庁というのがあって、これら零細な企業に対しても十分な配慮をしていると。しかし、実際の行政面を見ると、中小企業に対しては規制を強要するだけで、何一つ見るべき政策は行っていない」

 こちらの方では経済界が官僚に勝っている状況が描かれている。こうした議論は最近の官僚批判のもう一つの側面と同じである。つまり薬品メーカーや金融機関を十分に指揮、監督できない弱い官僚像である。だがこれに正面からあたった官僚論はあまり見られないように思う。

 もう一つ、政治が官僚に優位するという見解がある。

「高度成長を信じて疑わない時期は、ある意味で官僚主導型だったと思うんです。ところが福祉ということがいわれ出し、高度成長のひずみが出はじめてきた昭和四十年代以降は、自民党主導型に移ってきたのではないかという感じがするんです」(「座談会官僚と政治」『世界』1980 年2月号)

 日本の官僚論は、これら三つ「官高政低論」、「財界優位論」、「政高官低論」にわけられる。これらの三つの官僚論が出された時期の違いについて少々説明すると、最初にあげたような議論は戦後まもなくからあり、官僚機構はGHQの改革にも関わらず「牛乳の表面からクリームを掬いとる程度の改革しか実現させえなかった」(辻清明『新版日本官僚制の研究』)から、戦前の官僚と戦後の官僚が連続しているという見方である。最近影響力を持った「1940 年体制論」も、戦時中を起点にとってはいるが、基本的には同様な問題意識である。別に新しい見解ではない。

 二番目の議論が書かれたのはちょうど日本の貿易の自由化の時期に当たっている。今の金融ビッグ・バンが製造業や素材産業で起こったようなもので、それまで産業界を「統制」していた通産省は、自らの役割がなくなるとして、過剰反応を示した。その抵抗の一環が、城山三郎の『官僚達の夏』で有名になった佐橋滋の「特定産業振興法案」(特振法)であった。

 三番目の議論は自民党の長期政権化で議員が特定の部門について専門家化し、族議員となったころを捉えている。最近の顕著な例でいくと、もともと厚生省のエイズ事件が国民の広範な官僚批判をもたらしたのに、いつの間にか小泉厚生大臣の郵政省批判で焦点がそらされてしまった。あれこそ族議員の極みである。

 おそらく本当の官僚像はこれらの3つが折り重なっているものと思われるが、最近の議論における官僚論はまるで先祖帰りのようにこのうちの一つ目の議論に終始している。特に『世界』や『中央公論』などの総合雑誌、朝日や毎日新聞といったジャーナリズムは一貫して「政治的指導力の欠如という歴史的に長い伝統」(『世界』1980 年2月号)に基づく官僚主導国家像をいつまでも信奉しているようである。

 このように見てくると、早い話、国内では官僚が非常に優秀で、かつ清廉で無謬だという議論はあまり起こっていないことに気づく。ではいわゆる「官僚神話」はどこからでてきたのか。

3. 経済官僚の登場

「官僚組織が腐敗したとき、国家は内部から崩れていく。日本は政治は三流だが、官僚が支えている−諸外国からはそう見られてきた。今度の事件は、その『官僚神話』が幻想になったことを教えている」(朝日新聞 1995 年 9 月 12 日朝刊社説)

こう語られていることから判るとおり、それは日本の高度経済成長に驚き、畏怖しかつあきれた米国を中心とした欧米先進国からであったと思われる。

 米商務省によって有名な「日本株式会社」というレトリックが使われだしたのは 1972 年のことである。米国による日本官僚の「過大評価」は、E. ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)、C. ジョンソンの『通産省と日本の奇跡』(1982年)、で頂点に達した。「悪名高き通産省」というニックネームが物語るように、このとき主として重要視されたのは日本の企業側に立ってタフな交渉を続ける通産省であった。彼らは廃墟同然の日本を許認可や行政指導で市場経済と組み合わせながら効率よく重化学産業化させたというのである。

 以後、米国は長いこと「日本の官僚の役割にあまりに取りつかれ」(K. カルダー)ていた。これはごくごく最近、日米構造協議の頃まで続く。

 ところで、米国の注目が日本の高度経済成長にあったことを考えれば、官僚神話は基本的に経済官僚神話だったわけである。しかしながらこの官僚神話は実際の状況とは時間的なズレがあった。

 日本において経済官僚が華々しくマスコミに登場するのは、1961 年、前年に起こった安保闘争や三井・三池争議で混乱した日本を治めるために、バラ色の未来を国民に提供しようとした『国民所得倍増計画』が発表された後のことである。科学的な推計法に基づく成長ビジョンをひっさげ、下村治氏や大来佐武郎氏がさっそうとマスコミに登場し、以下のように縦横に説いてまわった。

「やっぱり日本の産業の恐るべき適応力というのですか、それから恐るべきバイタリティ、それから非常に高い投資率ですね。イギリスの鉄工業などに比べて日本の製鉄業はずっと新しいので、ずっと能率的なんですね」(「貿易自由化は第二の黒船か?」『文藝春秋』1961年9月号)

 だが既に 1955 年前後から日本は高度経済成長期に入っており、こうした官僚達が力を得るのは経済成長のお陰でもあった。実際、戦後直後の官僚は自信喪失状態にあり、GHQ のパージで幹部層がいなくなり、中堅の管理職クラスだけで再出発した企業の経営者の方が遙かにエネルギッシュだった。

「それまでは商工省の官僚たちは、ずっと長い間統制経済でやってきた。ところが民主化ということになると統制はもうできないと考えこんで、ちょっと混迷状態にあって、もうなんにもできないという感じがあった」(有沢広巳氏の証言、安藤良雄『昭和経済史への証言下』(毎日新聞社、1966 年))
「政治家あるいは官僚は、長期的な見通しとかあるいは計画を立てていろいろ経済政策を実行するとなると、ビジョンという点で、どうもビジネスマンよりは一段劣っていて、ビジネスマンの方が日本経済を引っ張っているという感じがするのですが」(シンポジウム「経済成長とエリート」における小宮隆太郎氏の発言『エコノミスト別冊』1961 年4月10日)

 だから財界の有力者の「一番優秀なのは官僚なんです。だから彼らにやらせておけばいい」という発言は、官僚に対する企業経営者の優位性の現れであったといえる。

 さらに言い尽くされた感があるが、こうした日本の経済官庁の主役達は経済の専門家ではなかった(もっとも企業経営者が経済の専門家ばかりでもあるまいが)。いうまでもなく大蔵、通産は法学部が占めていたし、経企庁の大来氏は工学部の出身であった。経企庁は法科万能主義の日本の官僚機構においては異質な存在だったのである。それだけに経企庁の地位はその後漸次後退していった。『国民所得倍増計画』については、「所得倍増計画がすんなりと実施されたのは、それまで関係各省が企画庁に対してタカをくくっていたため、干渉するところがすくなかったから」(草柳大蔵『官僚王国論』文藝春秋社、1975年)とまで言われている。

その所得倍増計画の中身を再検討してみて気づくことは、この計画の前文に今日の官僚批判につながる内容が既に盛り込まれていたことである。

 それもそのはず、同計画を答申した経済審議会は、経済界の代表である財界の意見を多く盛り込んでいたからであった。だから同計画が「農業三割論」と呼ばれた、産業構造の転換による劣位産業の後退を語ったのは当然のことであった。

一方、官庁の中の官庁である大蔵省は、米国にも当時はあまりマークされておらず、マスコミにもなかなか登場しない。大蔵省はこの計画に当初は乗り気でなく、このことを考えてもそもそも5カ年計画を官僚主導の国家運営の象徴のように捉えることが誤りであることが判ると思う。だがその大蔵省もいざ計画が決すると今度は健全財政主義を捨てるかのような積極財政を行って、後の財政破綻の遠因を作っていく。

因みに「土建国家」のもとになった「全国総合開発計画」は、この所得倍増計画の翌年に、農水省を初めとする各官庁の綱引きに、財界が「公共投資してくれるならいいや」と乗ったもので、経済的自由主義が標榜された所得倍増計画のちょうど裏の関係にあたっていたことは注目されていい。

国民は高度経済成長の恩恵に浴し、マスコミはそれが所得倍増計画と全総によってもたらされたものというイメージを植え付けた。さらにそれは官僚神話といった明瞭なものではなかったが、経済官僚の力によるものと理解されるようになった。池田勇人をはじめ、佐藤栄作や福田赳夫、大平正芳といった経済官僚 OB が政権を務めたこともそれに一役買ったことだろう。そして他の省庁も成長の果実を補助金の形で分配することでその存在を正当化していった。

「どういうものか、官僚出身者は選挙に強い。官界や労組からの政界進出も、そろそろ先がつまって、新人が入り込む余地も少なくなりはしたが、それにしても、官僚出身者は新旧を問わず選挙に強い〜なぜ官庁が選挙に威力を示すのか不思議だが、どうも補助金や土木事業がモノを言うらしい」(『今日の問題「選挙に強い官僚」』朝日新聞1962年6月4日夕刊)

こうした新聞のコラムに見られるような状況が日本各地に広まっていったのである。

4. 短かった官僚達の夏

 だが実際には国内で経済官僚が力を振るった時期は意外に短かった。ジョンソン自身「1952 年から 61 年までが通産省の黄金期であった」と語っている。もっといえば 50 年代の終わり頃から独占禁止法をめぐって財界は通産省に失望しはじめていたから、凋落はそれ以前から起こっていた。財界は独禁法の規制緩和を望んでいたのに、通産省は公正取引委員会との直接対決を避け、特例カルテルという妥協に堕していたからである。

 凋落を決定づけたのは、先に挙げた松本清張氏が描いた時期に起こった「特定産業振興法」の挫折である。詳しい説明は省くが、同法案は佐橋滋氏を中心としたグループが、自由化に備えて国内産業を通産省主導で合併、資本増強しようとするものであった。強制的に拠出を迫られることが予想された金融業界が反対するのはもっともだったが、この法案が審議されていた 63〜64 年には既に製造業も通産省の過保護ともいえる産業政策に反対するほどになっていた。この法案は「スポンサーなき産業振興案」と呼ばれ(例えば朝日新聞論説委員土屋清『文芸春秋』1963年5月号)、以降「佐橋連帯」と呼ばれた保護主義的な通産省の路線は消滅していく。

 この失敗以降、通産省は面と向かって産業政策ができなくなったから、以降行政指導という方式に切り替える。周知の通り、その後経済界はこれすら辞めてくれと言い出すほどに成長する。

 60〜70年代は、経済界と官僚の関係が大きく変わった時期で、同時に社会も大きく変わった。だから公害反対の市民運動や革新自治体など、1970 年代の「大衆社会化」から官僚を論じた草柳大蔵氏が「思えば、『権力』とその「司祭者」とが暮夜ひそかに談合していた時代の方が牧歌的であったのです」(『官僚王国論』文藝春秋社、1975)と語っているのはうなづけるところである。

 電通総研の初代所長で、国際派のエコノミストとしてならした天谷直弘氏もかつては佐橋連帯の一員であり、以前はこう語っていた(この点に関することは特振法当時公正取引委員会に所属していた経済学者の御園生等氏が述懐している「経済官僚の自立性について−「官僚達の夏」は終わったか」『唯物史観』第23巻1982年)。

「通産省では企業を無色のものと見ず、民族資本と外資系企業とでは価値が異なると考えているので、国内市場の大きさが有限である以上、市場が巨大外資系企業によって寡占されるよりも、民族系企業による寡占の方が望ましいと思う。われわれは、ビッグ・スリーの力を跳ね返し得るような力を持った民族系企業の発展を望む。そのためには、民族系企業同士で、業務提携や合併が行われることが望ましいと考えた。これは国内企業だけをとって考えれば、寡占化が望ましいということになる」(『日本経済政策学会年報 1970 年』「寡占と経済政策」、天谷直弘「寡占と経済政策に関する若干のコメント」)。

彼は一時期国内の産業政策から退いていたが、復活後、80 年代には「官僚は、オーケストラの中におけるバイオリンやチェロの奏者」であるべきだと語り、かつ以下のように大蔵省批判をし始める。

「私は大蔵省の財政健全化政策が間違っていたと思う。もっと内需を刺激すべきであるにもかかわらず、財政健全化ということにプライオリティを置きすぎたのです」(VIP インタビュー「日米のライバル時代が到来した」『月刊知識』1987 年6月号)

 何がいいたいかというと、官僚達の夏はジョンソンらが評価し出す頃にはとっくの昔に過ぎており、通産省は経済界の要求の変化に呼応して変質していたということである。80年代になるころには通産省は「国際派」と称し、それまでのように国内産業を保護しようというのではなく、積極的に国内市場を開いていこうとした。それは元日銀の総裁の手による前川レポートと同様の内容を含んでいた。貿易摩擦など、もはや一国内にとどまれないほど大企業は巨大になり、海外への直接投資(現地生産)といった欧米先進国企業同様の「多国籍企業化」が必死だということであった。

 これを加速したのは 85 年のプラザ合意後の円高であった。貿易の自由化や資本の自由化はなんとか株式の持ち合いやカルテルで乗りきったが、今度ばかりはそうはいかなかった。

 通産省は早くから日本 IBM など外資系企業に天下りを出していたから、別に日本の大企業が多国籍企業になっても大過ないと本能的に察知していたのだろう。基本的に東南アジアや貿易摩擦を起こしているアメリカ本国への自動車産業の進出を後押しした。

 こうした官僚のオポチュニストぶりは村松岐夫氏のように政治家が官僚に対して優位に立った現れであるとみるものも多かったが(これは先に挙げた官僚論の類型の三番目のものである)、後知恵的にはこれまた経済界がより官僚機構を上手に使えるようになっただけのことともいえる。事実、通産省から初めて自動車業界に天下った山本重信氏は、しぶるトヨタ自動車に積極的な海外展開を進めたという。だが、いざ多国籍企業化するとトヨタは手のひらを返すように経団連会長をつとめ、官僚批判をあおりはじめたのだから、経済界も負けず劣らずオポチュニストである。

 他の官僚も経済界の変化のあおりを受けて、大きく基盤が揺らいだ。通産省OBの経済学者、並木信義氏が言うとおり、石油ショック後の石油行政は「史上最低」だったし、「円切り上げ(48年8月)は“寝耳に水”だったな」(元大蔵省財務官柏木雄介氏の証言『証言・戦後経済史』日本経済新聞社、1988)というように、そもそもニクソン・ショックの時にいつまでも外国為替市場を開け続け、大損を出した大蔵官僚の権威も大きく傷ついていた。

 ロッキード事件(これは運輸官僚を巻き込んだスキャンダルだった)に揺れた際、代表的な経済団体の一つである日経連の桜田武氏が「日本はこれから危機を迎える、しかし検察・警察・裁判所および所要の官僚機構がしっかりしているならば、もう一つは、職場を基礎とする労使関係が安定しているならば、この危機を乗り越えることができる」と発言した。これは通常、官僚の優秀さの例として理解されているが、以上の文脈から解釈すれば、それだけ経済界は官僚を従えるまでになっていたのである。

 こんなわけだから、1979 年に日本の経済を担っている官僚を必死に探した田原総一朗氏は結局その証拠を見つけられず、ひたすら省庁のなわばり争いの現状をレポートした(『日本の官僚 1980』文藝春秋社、1980)。その結果、かえって「新しい時代に対応し、あるいは時代を先取りするために、大きく変わろうとしている官僚、そして官僚機構」を捉えることになり、1987 年の続編ではその変化した官僚を目の当たりにしたのである。

5. ただ乗り論

 「達観してみれば、このような世界情勢のもとで日本の高度成長は当然の現象であったともいえる」(小島祥一『日本経済改革白書』岩波書店、1996)と経企庁 OB が自ら語るとおり、日本は類い希な国際環境に恵まれていた。いわゆる「ただ乗り論」である。ブレトン・ウッズ体制が 70 年代までもっていてくれなければ、日本は現在のアジア諸国のように通貨危機に見舞われていたかもしれない。あんな時期まで1ドルが 360 円だったなんてまったく驚くべき事だ。

 所得倍増計画に代表される、自由放任的な経済政策(そんなもん経済政策っていうんだろうか?)にもとづいた放漫な投資とインフレは、それを可能にしてくれた国際環境のお陰で破綻せずに済んだ。さすがにその後数々の5カ年計画はこの路線の修正を迫ったものの、文字通りの官僚の作文に堕し、一顧だにされなくなった。「生活大国5カ年計画」がつい一昨年まで続いていたなんて、一体誰が覚えているだろう。

 もっとも民間企業が力をつける、あるいは海外展開を終えるまでは官僚は依然として魅力的な存在である。

 通産省は産業政策の観点から見れば力を失っていたが、対米貿易摩擦の防波堤としては依然として経済界にとって有用で、半導体摩擦の際の黒田審議官はさながら無謀な米国の要求に対抗するヒーローに仕立て上げられた。だが結果的には半導体にこだわっているうちに日本は米国のヒッピーや学生のつくったパソコンに一杯食わされた形になった。これは民間企業も国際環境の故に体力勝負が得意になっただけで、けっして特に有能なわけでもなかったことを窺わせるものである。しかしながらこれも大抵は官僚の誤謬として処理されてしまっている。

「超 LSI 計画で気をよくしてか、通産省は、その後、何発も派手に「日の丸プロジェクト」を打ち上げてきたが、最近、成功事例はめっきり減った。たとえば第5世代コンピュータなどは、世界中から参加していいですよなどといっていたが、その割に、成果は全然聞こえてこない。
 結局、官主導の親方日の丸でビッグ・プロジェクトをやろうとしても、うまくいかない時代になったのだ」(大前研一『平成官僚論』小学館、1994年)



6. 今の官僚批判は的をはずしてないか?

 現在の官僚論の「結論」は大別して二つある。一つは市民が主導権をにぎり、官僚を公僕たらしめようというものである。始めに書いたようにこれは戦後直後からある結論である。このタイプの場合「官から民へ」という時の民はふつうは住民とか国民を指している。

 もう一つの官僚論の結論は、許認可や行政指導を排して民間企業の創意に任せ、それによって景気の回復、産業構造の高度化を図れというものである。この場合「官から民へ」というのは一見市民を指しているように見えるが、実は企業のことである。最近ではこの見解に「グローバル・スタンダード」なる公準が与えられて、さも当然であるかのごとく語られている。

 二つの結論に共通しているのは官僚が強力だということであり、これは翻れば、経済が失敗するや否や官僚に全責任が負わされることにもなる。西部邁氏が言う、「市場経済の失敗を政府の失敗に帰す」(「総ざらいエコノミストの犯歴[上]」『財界』1998 年3月3日号)というやつである。

 さて、今回の官僚批判が盛り上がるのは、1993 年に自民党一党支配体制が終わりを告げ、細川政権が成立した時を起点としている。第三次行革審の答申が提出され、マスコミは細川の動向に期待したものの、何らこれまでと変わるところがなかったからである。

「今後の展開は首相の指導性にかかっているだが、行政改革の旗手とされる首相も、このところ官僚ペースにはまっているとの評判がもっぱらだ」(朝日新聞 1993 年 10 月 28 日朝刊社説)。

 大蔵主導といわれた深夜の「国民福祉税構想」は非常に評判が悪かったが、これに続く村山政権において、同様な消費税率アップが行われた。もともと政治に過剰な期待を抱いたのはマスコミだったが、政変にも関わらずより強権を行使するようになったかに見えた官僚機構に、マスコミは反感をつのらせたのだった。そして既に冷戦という国際的な環境は失われ、かつ基本的には古典的な「市場の失敗」、つまり企業経営の失敗による不況の深刻化でそれまでのツケが一気に吹き出した。

 屋山太郎氏の『官僚亡国論』(新潮社、1993 年)を始め、大前研一氏の『平成官僚論』(小学館、1994 年)等、これ以降の官僚批判論はまさに百花繚乱である(因みに週刊誌連載時のタイトルはそれぞれ「平成官僚ほめ殺し」、「官制粗大ゴミ」というよりショッキングなものだった)。この結果、世論調査の結果も「中央省庁の統廃合などの行政改革が必要と考える人が全体の七割以上を占め、民間企業への「天下り」を否定する人が六割強に達した」(日本経済新聞社『官僚−軋む巨大権力』1994 年<付録>)といわれるように、官僚にその「ツケ」を負わせる世論が形成されることになったのである。

 海外の論調も、1991 年の K. V. ヴォルフレンの『日本権力構造の謎』に見られるように、90年代に入ると日本を異質な国だと見る「日本異質論」に転化し、むしろ日本をかつてのソ連のように封じ込めてしまえと言うようになった。特に日米構造協議を境に、米国はそれまで主としてマークしていた通産省から、大蔵省へとそのターゲットを変え、名指しで日本の官僚を叩くようになった(イーモン・フィングルトン「日本の目に見えぬリバイアサン」『フォーリン・アフェアーズ』1995 年2月)。『戦略的資本主義』の K. カルダーのように、そもそも日本の高度経済成長は大蔵省をはじめとする金融当局のお陰だとする議論が出てくるのも 90 年代初頭の日本の政変と時期を同じくしていた。

 しかしながら、こういった官僚批判は的をはずしていないだろうか。

 そもそも 93 年の政変は市民主導の国家や生活大国を作るというよりは、経済界がドラスティックな行政改革をやってくれる政権を必要としたからだった。したがって「再び自民党が政権についたとき、自民党と大蔵省との関係は 1993 年以前とは全く異なるものとなっていた」(馬渕勝『大蔵省はなぜ追いつめられたのか』中公新書、1997)ということを見落してはいけない。

 過去の行政改革が行われた時期を省みると、第一次臨時行政調査会は所得倍増計画による急成長の産物であり、第二次臨調は第二次石油ショックを減量経営と洪水輸出で乗りきった余勢をかっていた。今回の行革は一見不況が最大の原因のように見えるが、むしろこれまでと違って経済界の意見が大きく二派に分かれたこと、すなわち円安で最高益を出す企業と危機に瀕した企業が同一の業界に存在するような状況に対応しているといえる。

 金融機関の破綻に関して言えば、国際優良株とされる企業は既に国際的に生産基盤を分散し、国際的に資金が融通できるため、別に護送船団に頼る必要がなくなっていた。1994年の1ドル= 85 円という円高は、金融系シンクタンクを中心に「空洞化」の懸念を巻き起こし、国内の農業や流通市場を開放しろとせまった。だがそもそもそうした企業は円高や円安に一喜一憂しない。むしろ外資系企業のように、豊富な貯蓄をあてに金融や保険に参入したいので、金融機関の破綻に冷淡になる(日本の保険会社を救ったのが米国の家電メーカーや自動車会社系列だったことを思い起こして欲しい)。金融機関もコメや流通と同様に扱われたのである。

 また、第二次行革審が国鉄や電電公社など現業部門を対象にしていたのに対して、今回はホワイトカラーの削減を背景に、官僚そのものの削減をもくろんでいる。これなどは経済界のその時々のリーディング産業の意向によって、官僚機構を役に立つか立たないかで取捨選択している最たる例だ。

 大蔵省はかような次第で財界に見捨てられ、それはまた政治にも反映された。金融と財政の分離が言われ、一方の日銀に経済同友会の前代表幹事が総裁の座に着いたのはこのことをあまりにも露骨に示しているではないか。金融機関の救済は、あたかも法人税減税の人質のようであった。

 官僚批判は最初に提示したような「今はもう時代に合わなくなった規制者」といったイメージではなく、遺憾ながら、これまであまり国民のために必要な規制をしてきて下さらなかった、「哀れな企業のための奉仕者」というところから始めなければならないのである。