恩田陸『図書室の海』解説: 採用バージョン

2005/06/27

 略そうとしても略しきれない経緯を経て、書かれて採用された解説はこんなものでございました。


解説

山形浩生

 最近の映画館、特にロードショー館は入れ替え制になってしまったところが多いのだけれど、昔はそういう野暮なことはなかった。いつでも入れていつでも出られる――それが芝居なんかとちがう映画のよさでもあった。途中から入って、終わりのほうを見てから冒頭に戻る。ラストを見て、こんな話に収束してくるまでにどんな展開があったのか、どんなひねりがあったのか、それを各種の思わせぶりなせりふやちょっとした画面のヒントから推測する。それは、答えから問題を導くような、ちょっと倒錯した楽しみだ。そして冒頭に戻ってからは、頭の中で始点と終点をつなぐ多様な可能性の糸がだんだん棄却されて収束するのが感じられる。それは、作者の思惑通りに流されていくのとはまったく別の、自分で世界を構築しなおすような喜びではある(だからぼくはネタバレとかいうくだらないことで大騒ぎする馬鹿な人々がまったく理解できない、というか理解できるけれど浅はかでつまらない連中だと思う)。もちろんときにはまったくこちらの予想がはずれ、こんな馬鹿なご都合主義があるものか、と思っていたラストにすばらしい冒頭部や展開がついていたり、逆に見事な終わり方の映画の導入部がひたすらごちゃごちゃしていてダメだったりする場合もあるのだけれど。

 そしてその間に予告編が大量にはさまる。予告編も(その使命からして当然のことではあるのだけれど)実際の作品とはかなりちがう。いいところだけつなげ、期待をもりあげようとする。そして……予告編を見たときに頭の中に生まれた予想映画と、後日実際に見た映画とは往々にしてまったく別物だったりする。予告編では実に意味ありげで重要そうに使われていた一場面やせりふが、実際の映画ではただのつなぎ以上のものではなかったり。予告編の力点が実際の作品とはまったくちがっていて面食らったり。予告編を見ながら、ぼくの頭の中ではいくつか細部のぼんやりした映画ができあがっている。そしてその脳内映画を信じて数ヶ月後にいそいそと映画館にでかけ、実物を見る。そのときに予告編から編み上げた自分だけのあの映画が、ポロポロと剥落する壁のように崩れていって、愕然とすることさえある。こんなはずじゃない、こんな映画じゃない、おれが夢見ていたあの映画は、こんなものじゃなかったはずなのに! だがその間もリールはまわり続け、映画はあらぬ方向に向かって勝手に突っ走り、ぼくは裏切られたような、だれを責めたらいいのかわからない気持ちで(というより、だれも責めるわけにはいきませんがな)暗がりの中に座っている。そして見終わったあとも、あの予告編に登場した各種のかけらで構成された、そうあったかもしれない映画、あり得たかもしれない映画の幻が、どこかに漂い続けているのが感じられる。

 もちろん逆もある。ぼくの貧相な脳内映画なんか問題にならないくらいのすさまじい代物がスクリーンで展開され、他の可能性が一切かき消されてしまうこともある。そういうとき、かつて予告編で見たパーツはすべて、自分には予想もつかなかった、でも今にしてみればこれ以外にはあり得ないという組み合わせで一分の隙もなく展開され、そのほかの可能性が一気に消滅してしまうのだ。それでも時に、ふとかつて漂っていた別の映画が思い出されることがある。特に、別の場所でまたその予告編に出くわしたときなど。実物にはかなわないけれど、でもまったくありえなかったわけじゃないような、物語空間の片隅として。

 さてそこのあなた。本書は、恩田陸の予告編コレクションのような性格を持った本ではある。あなたが恩田陸のよき読者であるなら、本書を読んであなたは多くのなじみ深い人々や場面に出くわすことだろう。あなたは、ここに出てきた人々や場面と、自分のかつて読んだことのある別の物語とをつなげることができるはずだ。あるものは、かつての物語に含まれていた隙間を埋めるものだったりする。そしてあるものは、かつて読んだ物語に先立つものだ。ここから、あそこまでの無数の道筋をあなたは思い浮かべることができるだろう。いや、それができなければ、そもそも小説なんか読む意味はないのだ。

 そしてもしあなたが恩田陸のよき読者でないなら――これまで彼女の小説をあまり読んだことがないのであれば――この本を読むのはなかなかにおもしろい体験となるかもしれない。通常の小説を読むという、本来であればとりあえずはそこだけで完結する体験に加えて、本書の作品の多くには、それぞれ続きというか本編がある。いったい、本書で予告されている「本編」はどんなものだろうか? あなたはそれを思い描くことになる。

 本書で初めて恩田陸の本を手にする人は、いったいどのくらいいるのだろう。数千人? 数万人? 切りのいいところで仮に一万人としようか。そのそれぞれが、本書の短編それぞれにつながる「本編」を潜在的に胸に抱くことになる。するとざっと十万編。十万の、あり得たかもしれない恩田陸の長編が、人々の頭の中に生まれることになる。え、本書には本編がない独立した短編もあるって? それはその通り。だが実は本書で明示的に「予告」されている小説の中には、未だに書かれていないものもあるようなのだ。たとえば「イサオ・オサリヴァンを探して」が予告しているはずの小説とか、あるいはクリストファー・プリースト『逆転世界』みたいな「オデュッセイア」の世界とか。それならば逆に、明示的に予告されていないけれど、いつかここの短編をもとに生まれ出てくるかもしれない長編だって、十分に考えられるのだ。たとえば「茶色の小瓶」の主役の過去、そして未来を描くような長編はすぐに想像できる。彼女がどこからきて、どこへ行くのか? そんな小説に興味はないだろうか? その意味で、これは恩田陸の既存の読者も十分に参加できるゲームだったりする。あなたはこの作品たちをどう広げてゆくだろうか。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスというアルゼンチンの作家が、「バベルの図書館」という小説を書いた。その図書館の本には、有限の文字のすべての組み合わせが存在している。したがって、その図書館には論理的にいえばあらゆる書物が存在していることになる。そのバベルの図書館のどこかには、この『図書室の海』が置かれていることだろう。だがそれと同時に、本書の読者たちが思い描いた十万通りの本も、みんなそのどこかにある。あなたが思い描いたものも。ぼくが思い描いたものも。そしてそれらは、一方で恩田陸の書いた/書きつつある/書くかもしれない作品と対峙しつつ、一方でそれとはまったく独立した存在としてバベルの図書館のたなにすわっているのだ。

 いつの日かその作品が登場したとき――すでに書かれた作品をあなたが手に取ったり、あるいは未だ書かれぬ作品がいつか実際に書かれたとき――それはそのバベルの図書館に並ぶ、ぼくたちの脳内作品を上回るものとなってるだろうか? 多くの場合には、当然答はイエスだろう。予告編からぼくが思いついた脳内作品が映画館で実際の名作を前に一瞬にして消え失せるように、十万冊のほとんどは、自分の相対的な貧相さをあらわにされて、一瞬恥ずかしげな表情を浮かべながら閉じられ、もはやだれにも思い出されることのないままその図書館の棚でホコリをかぶり続けることとなるだろう。だが、どうだろう。その十万冊の中で三冊くらいは、実際の恩田陸を上回る恩田陸作品になり得るのではないか、なんてことをぼくは妄想してみたりする。恩田陸にも想像のつかなかった、まったく別の恩田陸の世界があり得るんじゃないか。本書はそんな広大な可能性の海へと通じる、ちょっとかわった窓口でもあるのだ。


ポイント

 ざっと見ると、なんとなく「広大な可能性」なんてせりふを使って見せたり、冒頭部分で昔話をしてノスタルジーっぽいものをかき立てたりすることで、なんかソフトで肯定的な印象をでっちあげてはいる。でも実はよく読むと、この解説は恩田陸の小説についてほとんど何も語っていない。解説と称してまったく解説してないのだ。もちろん、一切ほめてもいない。むしろ「あなたが勝手に妄想した小説のほうが、恩田陸の実際の作品よりよいかもしれない」と言ってるわけで、ほめなさ具合から言えば没バージョンよりもひどいかもしれない。まあ、この本におさめられた短編をきっかけとしてそうした優れた妄想を展開できる、と言っているのは、ほめているともいえなくはないかもしれないけど。

 恩田陸の小説に対する批判をバンドルして売ることは商品としてありえん、と最初のやつを没にした編集者はおっしゃったけれど、こちらはバンドルされてオッケーだと思われたわけだ。ここからわかることは、多くの人は実際には文章の中身なんか読んでない、ということ。「捨てる」「ダメ」「バカ」「つまらない」といった、否定的な単語があるかどうかという出現頻度だけに反応して、批判だとかそうでないとかいう判断を下している。ネットの恩田陸関係のサイトでは、没バージョン(の前振り)を見て、読者をバカにして書いている、没になって当然だとか言っている鑑識眼のない人々がいたけれど、向こうは実はあまり読者をバカにしてはいない。揶揄している部分とそうでない部分を読者が選り分けて、それ自体としておもしろがれると想定している。解説しようという努力がある。こっちは、実はかなりバカにしている。適当に雰囲気さえ作っておけばごまかされるだろう、と思っている。で、みんな立派にごまかされているようだ。

 まあそういうものかもしれないね。書き手としては、あまり努力する甲斐がないなあとは思うけれど。でも実際に世の物書きと称する連中が書くものを見ると、ぼくが考えるような水準での努力というのは多くの人はしない、というかできないようだ。逆にできる人にとっては、いろいろ抜け道はないわけではないようだ、ということをよく示しているとはいえるのかな。

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