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はだかの王様の経済学

『商人道ノススメ』はおすすめできません:枝葉の批判

(2009/08/06, 8/11追記)

山形浩生

要約:松尾『商人道ノススメ』は、まず商人道なるものがあまりに一般的すぎ、実はそれと対比される武士道と具体的な中身は似たり寄ったり。目新しいところがまったくない。そして批判の対象となる身内主義や「大義名分/逸脱の仕組み」は、多くの事例でうまく機能して成功してきた。それをまったく無視して、「ある制度はだめ! これからはこっちの制度!」とやるのは、構造改革論者やグローバルスタンダード崇拝者やその否定論者と同じでは? そしてその論証の薄さは、本書が実は商人道の主張よりはプロパガンダを重視している本だということを示している。


目次

  1. 「商人道」と「武士道」の中身とは?
  2. 「ナントカ主義と経済発展」みたいな議論の危うさ
  3. 身内主義って本当にダメですか?
  4. いまの社会がすでに開放個人主義って本当?
  5. 「大義名分/逸脱手段」って本当にダメですか?
  6. まとめ
  7. 本書の枝葉と本論とは
  8. 追記

1. 序

 松尾『商人道ノススメ』について本質的な批判は、すでに「最近の噂」に書いたのだけれど、少し言い残したところがあるので、枝葉の部分について軽くまとめておきましょう。かれの言う商人道が結構な代物であることは、特に否定するものじゃない。ただそれが松尾のいうほど新しいか? こうなると話はまったく別だ。そして全体を通してみると、その論証や考察の浅さ、あるいはゆがみ具合から、ぼくはこの本を反面教師としてもすすめられないと思うのだ。

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2. 「商人道」と「武士道」の中身とは?

 本書の基本的な主張は、いま世の中がこれまでの身内主義から開放個人主義なるものに移行している、ということだ。でも、人々の意識はまだそこまで変わっていない。反動的な連中は、むかしの武士道を復活させよなんてことを言う。そんなのはダメで、新しい開放個人主義にふさわしい道徳理念が必要で、それが江戸時代(かなんか)以来の商人道というやつだ、とのこと。

  で、その商人道って何するの? 理屈はいろいろあるが、実際にやる行動を見ると、以下のようになる。

 みんながこれを行動原理として活動すれば、新しい開放的個人主義にふさわしい社会になります! と松尾は本書で主張する。

  すばらしい。ぼくもこの原理そのものは結構な代物だとは思う。が、上の一覧を見てどう思うだろう。これを見て何か商人道というものが新時代の新しい原理だ、という気がするだろうか。どっかで見たようなお題目ばかりだな、と思わないだろうか。情けは人のためならず。天知る地知る。泣いて馬謖を斬る。これのどこが新しい時代にふさわしいの? みんな今までだってこうした考え方が(建前にしても)よいものだと教わってこなかっただろうか?

  そしてそれは当然のことなのだ。だってこれは、ありとあらゆる社会や集団の存在原理そのものなんだもの。あらゆる社会や集団は、人々がある程度自分の利益や自由を犠牲にして、力をあわせることで、烏合の衆では実現できない大きな利益を獲得するために存在している。そのかわりに、集団はそれに属するメリットを提供する。それこそまさに社会や集団の定義だ。

  だからあらゆる社会や集団は、自分のことばかり考えるな、他人にも配慮しろ、自己犠牲はすばらしい、力をあわせて大きな目標を実現、共存共栄、といった規範を持っている。例外はない。そういう規範がなければそれは社会ではないし、集団でもない。また、仲間にメリットを与えるために集団ができた本来の目的が犠牲になることの危険もみんな知っているので、過度の身内主義や情実人事はよくないとされる。ついでに、あらゆる人間社会は歴史のほとんどの期間はとても貧しかったから、ものを無駄にするなとか倹約しろとか努力しろといった規範も例外なく発達させている。

  つまり松尾は「商人道」なるものを、何か特殊で他に類を見ないすばらしい思想で、繁栄確実の特効薬であるかのごとく描くけれど、でもその内実はどこにでもある代物でしかない。少なくとも本書に描かれた粒度では、「商人道」なるものはあらゆる社会に普遍的に存在する規範を述べ直したものにすぎない。

  そしてその商人道をかかげる開放個人主義に対比されるのが、身内主義だ。それはこんな発想に基づくらしい。

  その身内主義の道徳として、かれは武士道を挙げる。最近の反サヨク的なネトウヨやタカ派の連中は、武士道を懐かしがって武士道が復活すれば日本がよくなるなんていうけど、そんなのはウソだ、と松尾は主張する。

  それがウソなのはもちろん同意、ではあるんだが……はて、武士道って見知らぬ他人を陥れることを正当化したり、自分や身内のためならほかはどうなってもいいとか、そんなことを主張してましたっけ? いや、ぼくが文楽を見過ぎてるせいかもしれないけど、ぼくは武士道といえば質素倹約、努力、自分を犠牲にしてでも他人の利益に尽くす、自分は飢えても不正に与しない、大きな大儀のためには小さな身内の利益を犠牲にする、それどころか身内には他人よりなおさら厳しい規範を求める、他人には寛容(武士の情け)、といった行動原理のことだと思っている。世の武士道をありがたがっている人たちだって、別に他人の足を引っ張れという意味で武士道をありがたがっているわけじゃないでしょうに。

  そしていまぼくが挙げた武士道というものの一般理解は、ほとんど松尾の挙げた、商人道なるものといっしょだ。身内主義でなあなあでなのは、普通は「越後屋、おまえもワルじゃのう」「いやいやお代官様こそ」という具合に、悪徳商人とつるんだ堕落した武士でしょ。それは通常は武士道にもとる存在で、桃太郎侍に退治されちゃうんだぞ。そしてこの観点からすると、商業こそは目先の利益に踊って道徳も倫理も見失ってしまう卑しい原理、ということになる。

  このどっちが正しいか、なんてことを議論するのは無意味だ、ということくらいわかるだろう。どっちも類型であり、理念でしかないんだから。いや武士道は実はどうだとか、でも実際の商人はこうで、とか言ったところで、決着がつく話でもない。ただ、重要なのはどちらの議論においても、よいとされている行動原理が似たり寄ったりだ、ということだ。

  松尾は、武士道をふりかざす一部のウヨな方々をくさす。そんなものは役にたたない、かれらがバカにする商人の行動原理こそ重視すべきだ、と。一方、そのウヨな方々は、越後屋的悪徳商人の道徳なんか駄目で、高潔な武士の道徳を復活させろ、という。両者は一見反対のことを言っているようだ。でもレッテルをはずしてその中身を見ると、実は両者の言ってることって同じじゃないの? 質素倹約、努力、他人の利益の尊重、社会への奉仕、明確な原理の重視はすばらしい。一方、目先の金銭的利益ばかりを追いかけるのは卑しく、ましてそのために他人を傷つけたりだましたりするのはもってのほか。名前はどうあれ、その中身を見れば同じでしょ? 松尾は本書で新しいことを言っているようで、実は批判している相手と同じことしか言っていないのだ。そして、それは当然のことだ。社会や集団を社会や集団として成立させる原理というのは、必然的に同じなんだから。

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3. 「ナントカ主義と経済発展」みたいな議論の危うさ

  さらに、何か繁栄を見て、後付で説明をつけるのは簡単だ。プロテスタンティズムが資本主義を生んだ、という議論で有名になった人もいる。切磋琢磨、簡素、努力、といった要因を武士道に見いだして、それが日本発展の原動力だ、なんてこともいえるだろう。中世スコラ哲学が、後の制度文書化に必要な重箱の隅つつきの基盤をつくって資本主義発展を招いた、なんて議論もあるそうだ。すでに述べたように、あらゆる集団規範は、ある程度の自己犠牲による共存共栄という発想を含んでいる。だから、どんな発展地域を例にどんな思想を使っても、「商人道ノススメ」みたいな議論はできてしまう。だからこそ、そうした議論は茶飲み話的な放談としては楽しくても、きちんとやろうと思えばかなりの慎重さが要求される。マイケル・マンは『ソーシャルパワー』で、そうしたお気楽な後付説明に陥る危険について自戒をこめて指摘している。

  でも、松尾はそうした落とし穴を避けるための周到さを一切欠いている。第二次大戦の日本軍部や近年の企業の偽装事件などは、外に対する謝罪より身内保護を優先し、社会の利益を捨ててまで自分の体面や私利私欲を重視した。ほらごらん、身内主義なんかろくでもないでしょ、だから開放的個人主義に基づいた商人道ですよ、という理論。でも、いつの時代も完璧じゃない。そうした事件は、本当に身内主義の典型なの、それともどこでも確率的に出てくる膿なの? 数多い身内主義の組織の中でどのくらいが腐るの?

  あるいは松尾は、商人道でいろんな社会貢献をやって栄えた商人を挙げる。でもその人たちは、みんなその社会貢献のために栄えたの? それとも栄えていたから社会貢献するだけの余力があっただけ? これはCSRでは定石の議論だ(ちなみにぼくは後者だと思っている)。社会貢献やりすぎてつぶれた商人だっているんじゃない? そして社会貢献しないで栄えた商人たちと比べてかれらのパフォーマンスはどうだったの? 松尾は一切そんな視点を持たない。いくつか事件をネタに、ほら商人道だ、ほら身内原理だ、だから身内原理はだめ、商人道スゲー、と騒ぐだけ。ぼくみたいな雑文書きならそれでもいいかもしれない。でも、あんた一応学者でしょ?

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4. 身内主義って本当にダメですか?

  実は身内主義なるものを完全に否定することなんかできない。集団の中と外を完全に平等に扱うなら、その集団は「集団」ではない。集団はその集団内部である程度の共通性をベースにコミュニケーションコストが低くできるとか、相互扶助のメリットがあるからこそ成立する。その集団に所属することが何らかのメリットをもたらさない限り、人は組織や集団になんかリソースを割こうとはしない。だから、身内主義は崩壊しているから身内主義の思想はなくすべきだ、という松尾の主張はそもそもナンセンスではある。昔よりは、各種組織の結束は薄れたかもしれない。でもそれが完全に既存の原理を変えるほど薄れたか? それはない。身内主義は集団の定義そのものだから、その原理がなくなることはない。例外はない

  そして組織の集団性/身内性はある程度は人工的に作り出せるし、その努力がよい結果をもたらすと思われる例は山ほどある。

  アメリカは本書によればあんまり身内主義じゃないことになっているんだけど、そんなことはない。ぼくはMIT卒なので、MITの完全な身内だ。MITは身内のために寄付しろ、卒業生に便宜をはかれ(つまり川上の連中とかは落とせ)、とやたらに要求してくる。そして、それが悪い訳じゃないのだ。それはMITの評判をあげ、お互いに利益をもたらす。そしてMITというブランド価値を維持しようという意識さえあれば、MITならネコでも雇うようななれ合いには陥らずにすむ。

 シリコンバレーの成功も、大いなる身内主義の成功として捉えられる部分もある。弱肉強食のハイテクベンチャーひしめくあの地域、一部の金持ちは使い切れないほどの金を稼いでそれを誇示し、残り多くの人々は次々に会社がつぶれ、路頭に迷う――そんなシリコンバレーは、逆に行きすぎた個人主義の強欲利己主義の権化と思われるかもしれない。  でもその一方で、シリコンバレーの企業はフェアチャイルド社の末裔やザイログ社卒業生といった強烈な身内意識を持ち、それを軸にライバル同士も協力し、ライバル企業が技術や設備やノウハウを融通しあうというおもしろい風土を持っていた。それがかれらの成功の秘訣だった、とアナリー・サクセニアンは主張している。そしてシリコンバレーの成功者はフェラーリをのりまわして愛人を囲ったりして私利私欲の金持ちぶりを誇示したんだけれど、その身内意識のおかげで一人の成功はシリコンバレー全体の成功と解釈され、むしろ見上げるべきお手本として機能し、シリコンバレーの成長に貢献した。

  それ以外にも、身内意識がプラスに働いたコミュニティの例なんて腐るほどある。ニューヨークの韓国人コミュニティの結束。世界の華僑や印僑の相互扶助。むしろ組織の成功例はほとんどが身内意識の強さの例だ。世の中にこれだけ組織があれば、身内意識が悪い方に動くことは当然ある。でもそれをもとに身内意識はいけません、身内意識は時代遅れです、なんていうことはできない。

  松尾は日本の企業がいかに身内主義だったかを主張し、それがよくなかったとにおわせる。でもその身内主義は、日本の高度成長を支えたではありませんか。つまり、身内主義はよいところが確実にある。そしてシリコンバレーの例を知らなくても、少なくとも日本で数十年にわたり続いて世界的に大成功をおさめたということは、そこに何かいいことがあったんじゃないか、局所的にせよみんなにメリットがあったんじゃないか、ということを考える必要がある。でしょ? 学者であればなおさら。日本の系列システムが、系列内では身内保護として機能してよそ者を排除するシステムである一方で、系列に入れてもらうためのハードルの高さからくる品質向上や、系列同士の競争を通じた発展をもたらしたというのは常識でしょうに。「身内だから甘く見て」というのも身内意識だけれど、「身内なんだからもっとがんばれ」というのも身内意識の発露だ。身内意識がそれ自体として悪いんじゃない。それがどういう形であらわれるか、というのが重要なんでしょ。

  じゃあどんなときに身内主義が有効なのか? 実は簡単な話で、パイが広がる環境であれば、身内意識は強い結束と協力を生み出し、組織全体の成功に資する。そしてそれぞれの身内間の強いライバル意識を作りだして競争が起こり、社会全体としても発展をとげる。「身内」もレベルはいろいろだ。家族、親族、学校、会社、業界、職能、世代……そのいろんなレベルの「身内」の相互関係がダイナミズムをもたらす。ところが、パイが広がらないゼロサム状況では、身内意識からくる強い競争は足の引っ張り合いと保身に堕し、社会全体が内ゲバにエネルギーを無駄遣いすることになる。松尾の挙げている身内主義の不祥事は全部その社会や経済の閉塞期や下降期に起きてるでしょ?

 つまり、社会全体のパイが成長していれば、メンバーの利益と組織の利益、社会の利益が相反する状況は非常に少ない。だから自分が儲かれば組織も儲かり、社会全体も成長するという仕組みができて、非常によい循環が生じる。でもパイが育たないとき、はじめて社会と組織、組織と自分との間で利益背反の状況が生じる。身内意識は、そのときには社会より組織を優先したりする結果をもたらしやすい。でも、それに対して松尾のように「だから身内意識はよくない、身内意識をつぶせ」というだけが答えじゃないだろう。パイが拡大していれば、そもそもそういう問題自体が発生しにくいんだし、強い結束を持つ集団にはいいところもあるんだから。

  だから重要なのは、いかにパイが広がる環境を作るかということだ。松尾は、吉田茂の政策が商人道に基づいたものだったような我田引水の議論をする。でもぼくが見る限り、それはまさにパイを広げることに腐心した政策だったと思う。そしてその下にいる日本企業は身内主義だったけれど、でも日本は発展した。つまりパイさえ広がればその中で身内主義だろうと商人道だろうと開放的個人主義だろうと、実はどうでもいいのかもしれない。でも松尾はそういう視点をまったく持たない。学者なんだから、一応考えるくらいすればいいのに。

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5. いまの社会がすでに開放個人主義って本当?

  そうそう、松尾の議論は、よく読むと実は身内集団原理そのものが悪いとは言っていないような部分もあるのだ。身内集団原理が崩れているのに、身内集団の道徳観が残っているのがダメなのだという。かれは、いまの社会がすでに開放個人主義化しているのだ、という。系列システムなどの身内集団原理が崩れているのに武士道なんか主張してもダメ、と言いたいらしい。

 でも、それはずるい言い方だ。武士道をほめる人は別に理念だけ武士道しろと言ってるわけじゃない。系列システムは勝手に崩れた面もあるけれど、不公正貿易だという外圧の結果として解体させられた面もある(という見方もある)。理念とともにかれらはそういう実際の仕組みも戻したいんでしょ? 松尾としては、身内主義の実態が戻れば、身内主義が続いてもかまわないわけ? ぼくにはそうは読めない。

 そして松尾が挙げるいろんな例は、身内主義それ自体の駄目な例ばかり。実際は開放個人主義なのに理念が伴わなかったために生じた事件の例なんかない。食品偽装は、企業が本当に身内主義だったら起きなかった事件ですか?

 だいたいいますでに身内集団原理が崩れて、社会システムの実態が本当に開放個人主義に基づくものに変わっているなら、松尾がこんな本書かなくても意識だってすぐついてくると思うぞ。下部構造は上部構造を規定するんでしょ? これは、前の文で指摘した、制度と人々の意識をまったく独立したものと考えてしまう松尾の欠点の反映でもある。松尾は、社会は開放的個人主義に基づくものになっているんだけれど、でも人々はこれまでの慣習や思想の縛りがあるから開放的個人主義に基づいて行動できない、という。でも――人々がそう行動していないのなら、何を根拠に松尾は開放個人主義がすでに社会に根付いていると言えるのか? ぼくはここのところで松尾はまったく説得的な議論をしていないと思うのだ。

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6. 「大義名分/逸脱手段」って本当にダメですか?

  あと、本書の中でいきなり小林よしのり批判が延々と展開されるへんな部分がある。松尾によれば、身内主義では組織が大義名分をかかげつつ、下々の者にさりげないほのめかしを通じてそこから「自主的」に逸脱させて、結果オーライならおとがめなしだけれど、失敗したらトカゲのしっぽ切りで責任を全部下々の者に押しつけるという。こうしたやり方で上の連中が下を弾圧する、けしからんとのこと。でも小林よしのりはそうしたやりかたを一貫して肯定する、許せん、というわけ。

  さて……「大義名分/逸脱手段」というのがホントにこんなものなら、それは許し難いしろものだ。だが……これも実際はそんなものじゃない。まず、下々の者だって無茶なほのめかしを一つ残らず律儀に読み取っていちいち自爆したりはしない。そんなヤツは単にバカだというだけだ。自分にとって都合悪いときには、とぼけてほのめかしが理解できないふりをするのが賢い人のやり方だ(これは対役所の処世術として真っ先に教わることだ)。これは「こっちの意図を汲んでくれなかった」と心証が下がることはあっても、決定的なマイナスポイントにはなりにくい(担当者次第の面もあるけれど)。そしてまた、それが成功したらどうだろう。親分の意向で鉄砲玉をやって、失敗したら死ぬかもしれない。でも、成功して一〇年後にシャバに戻ったら金バッジ。そういう大きなメリットが暗黙に保証されているのがこの仕組みでもある。つまり「大義名分/逸脱手段」は、ハイリスクハイリターンのやり方でもある。そしてそれは上が下を一方的に弾圧する手ではない。下も上が悪いようにはしないことを信頼しているからこそ、そうしたシステムが成り立つ。それは「商人道」の取引と同じく、その合意の中にいる両者に相互のメリットがあるからこそ成立する。

  そしてこれまた、そういうやり方が合理性を持つ条件というのがちゃんとあるのだ。これまた、パイが拡大し、環境が変わり易くて不確定要素があまりに多く、ルールを事前にきちんと決められない場合だ。その場合には原則を決めつつ、そこからの逸脱を容認するのは、状況変化に柔軟に対応するための非常に有効な戦略だ。実は「大義名分/逸脱手段」に類するものはハッカーの行動原理にもある。かれらはrough concensus and working codeということを言う。だいたいの方向は決めるけど、細かいところは実際にプログラムを書いて、動けば勝ちだ。たぶん、制度変更のコストとかもあるんだろうね。実績を作らないと、なかなか制度は動かない。その実績づくりをどう担保しようか? この方式はそれを実現する一つの方法だ。

  それがよいかどうかは、その人の価値観にもよる。でもそれが一方的にダメな制度ではなかったこと、状況に応じてそれなりの合理性があったことは認識する必要がある。そのおかげで身内意識充満の日本企業が、驚異の高度成長をとげたことは、多少なりとも認める必要があるんじゃないのかな。

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7. まとめ

 いままでの議論をかんたんにまとめよう。

  1. まず、松尾がほめる「商人道」なるものの内実は、その仮想敵である人々のほめる「武士道」と中身は何らかわらない、ごく一般的な社会の成立原理。「商人道/武士道」という概念定義がまったくできていないので、話がわやくちゃです。
  2. いま社会は開放個人主義になっているのに、理念が古いままなので人は開放的個人主義的に行動できないんだそうな。でも、みんなが実際に行動していないなら、なぜ社会が開放個人主義になっていると言えるの? 社会が人々の実際の行動とは別個にあるって何ですの?
  3. ナントカ主義が資本主義を生んだ、という議論はいくらでも融通むげにできるので、学者がやるならもっと慎重さがいるでしょう。そういうの皆無。
  4. 身内主義や「大義名分/逸脱手段」が地域の経済発展をもたらしているような場面は多いし、またそれが有効になる条件も見当がつく。身内主義のよいところを活かして、その欠点を抑える(またはそれが表面化しない)ような環境を整えるというやり方もあるはず。でも松尾はそれを無視して、少数の事例から身内主義や「大義名分/逸脱手段」がすべて悪いかのような一方的議論を展開し、それを清算主義的に一掃しろという性急な議論をしている。

  いや、ぼくはこれが学者の書いた本とは思えない。ぼくはいまここで 30 分で思いついて2時間で書いたこの文のほうが、『商人道ノススメ』全体よりよっぽど洞察があると思う。まして、これ(の元論文)が河上肇賞を受賞した?! 審査員の人たち(稲葉大人とか原田泰もいるのか。げんなりするなあ)は本当にこれが重要な価値ある文だと思ったのかなあ。それともほかの応募作がよほどひどかったのかなあ。韓リフセンセイもこれをある程度は評価しているようだけれど、経済思想史研究やってる人間としてこういうのって腹がたたないのかなあ。それとも、応募論文はもっとましだったのかなあ。

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8. 本書の枝葉と本論とは

  さて、冒頭にぼくは、この文を「枝葉の批判」と述べた。人によってはこちらのほうが本質的な批判だと思うかもしれない。だって題名にもなっている「商人道」概念を批判しているわけだし。

  が、ぼくはこれが枝葉だと思う。というのもこの本――そして前著『はだかの王様』――は、学問的な意匠でありながら、実はそうではないからだ。松尾は、前にも書いたが決して頭の悪い人物ではない。ここで書いた程度の理論的な穴は、自分でもやろうと思えば思いつけるはずなのだ。が、かれはそれをしていない。それはこの2冊がプロパガンダだからだ。かれにはなにやら述べたい政治的な主張がある。学問っぽい理屈は、それを正当化できる程度であればいいのだ。

  たとえば上の「大義名分/逸脱手段」の部分はどうみても、小林よしのりを罵倒したかっただけだ。だから一方的に「大義名分/逸脱手段」なるやり方の悪いところをちょろっと述べたら、あとはそれを十分に考えることもなく小林よしのり批判に直結させて、それがすんだらそれ以上の検討はなし。

  本書全体では、かれは要するにさいごのいろんな人々への上から目線の呼びかけがしたかっただけなんじゃないか。そしてその中身は――労組は、「万国の労働者よ団結せよ」をやっていればいい。NGOはフェアトレードとかリサイクルとかやっておればよい。○系の活動家はアソシエーションでNAMしてればいい。つまりいまのサヨクが左翼的な活動を続けることがよいのだ、という議論を導きたいだけ。かれはそれが書きたかっただけで、そこにつながる程度の薄い理屈があればよかったんじゃないか。だからこそ、なんだかこんな変なバランスの悪い議論が並ぶことになったんじゃないか。

  あと、ぼくは「はだかの王様」批判で、ぼくは、かれがパイを広げる経済成長をありがたく思っていないようだ、と述べた。それに対して松尾は、そんなことはないと答えたんだけれど、ぼくは納得していない。そして今回、その思いをさらに強くした。経済成長してパイが拡大する世界は身内主義や「大義名分/逸脱手段」がかえってうまく機能してしまう可能性がある世界だ。松尾はそれを漠然と認識しているんじゃないかと思う。パイが拡大したら、本書で松尾が望ましいとしているものはすべて崩れる。かれはそれに内心気がついているんじゃないか。経済学者としてのかれは、自分の本当の気持ちに気がついておらず、理屈から経済成長は望ましいと言うべきなのを知っているのでそう言う。でも、本書でそれをまったく松尾が考えないのは、とても不自然だ。かれは経済成長やパイ全体の拡大を本当に内心は嫌っているんじゃないか。サヨクの人の多くがそうであるように。ぼくにはそう思えてならない。

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9. 追記 (2009/8/11)

 松尾反論、および韓リフコメント

 おもしろいので、ぼくも加筆しておこう。ぼくは松尾の主張にえらく反発している。が、一方でぼくは商人道そのものは肯定している。一方松尾も「『ひたすら自分の利益追求、ただし短期的な目先の利益を捨てることで、長期的な利益を獲得できることがあることに注意』——ぼくはこれだけでよいと思う」というのに同意している。両者の最終的な主張は実はほぼ同じであることには注意

 が、ぼくはそれが、人の利益動機というミクロな欲望から導かれるものだと考える。松尾はそれに対して、商人道という道徳律を外部から押しつけるべきだとする。

 さて、ぼくもレッセフェールで何でもすむと思うほどおめでたくはない。経路依存とか制度ナントカとかは知っている。外部経済の内部化とかインセンティブづくりとかいう手法も、もちろん知っているし、そこで規範が果たす役割も知っている。でも松尾がそこで主張するのは、手段としての規範ではない。かれは規範と道徳の強制そのものがよいと考えている。

 そんなこと考えてない、と松尾は言うだろう。でも、考えてると思う。そしてそれは松尾の基本的な立場だ。かれは『商人道』の小林よしのり批判で、薬害エイズ被害者かわいそうという個人のミクロな感情から薬害エイズ抗議運動に乗り出した小林のスタンスを批判する。「人権」「平等」といったお題目が先にあって、それを実現するために人々が動くほうがよい、と松尾は主張する。松尾にとっては、個人の趣味嗜好や個別性からくる行動など顧みるに値しない。どこかのだれかが作って賜る大義やお題目に奉仕する行動のほうが大事なのだ。


続けて三回観ると飽きます。
 ぼくが松尾の議論に反発を感じる大きな理由の一つはそこにあるんだと思う。他にもある。「はだかの王様」批判で、ぼくはかれの「合意」なるもののとらえ方に反発した。みんなが話し合えばだれも反対しない「合意」ができると思うのはあまりにおめでたい、と。でもそういう「合意」が可能なケースがある。それはある大義にみんながひれふす、という意味での合意だ。「アソシエーション」とやらも、従来の組織と違うと松尾は言う。それはみんなが個人として(全面的な)合意のもとに協力するもの、らしい(既存組織だってすべて参加者はある程度の合意のもとに自主的に参加しているので、この「全面的な」というのがないと、ぼくはそれが普通の既存組織とどうちがうのかさっぱりわからん)。ぼくはそんなことは不可能だと思う……個人が大義に完全にひれふすのでない限り。そうそう、ついでにその合意や大義って、「空気」とかいうものと同じじゃないの?

 松尾はやはり「いやそんなことはない」というだろう。でも、そんなことあると思う。そして松尾は不満なんだろう。山形が自分の思ってもいない(と思っている)ことを勝手に松尾の意見だと決めつけて、印象操作をしている、と。このビデオのように、捕鯨の話なんかしてないのにモロッコペンギンとか言わせている、と。でもぼくは、人の書くものは著者の意識的な発言より雄弁だと考えている。作者自身が意識していなくても、そういう意識は著述の端々ににじみ出るものだし、それは読み取れると思っている。柳下毅一郎は、それが山形のよくないところで、おまえはそれをやるから角が立つんだ、という。それは事実なんだが、ぼくはそれが「読む」ことの本質だと思っているのだ。「デビッド・ボウイと十年連れ添った奥さんよりも、かれのアルバムを三十分聞き込んだオレのほうがかれのことがよくわかるのだ」という渋谷陽一の『メディアとしてのロックンロール』の主張をぼくは正しいと思っている。が、もちろんこの松尾についての読みが正しいと思うかどうかは、これを読む人次第ではある。松尾はひょっとしたら捕鯨柔和論ともモロッコペンギンとも言っていないのかもしれない。その点はご留意を。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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