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「われわれ」の勝利と敗北

MacPress 「暴力」特集)

山形浩生



 結局、今にして思えば簡単なことだったのだ。コンピュータや、ネットワークを手にして、われわれは何かまったく新しい世界が開けたと思った。これまでの慣習やしがらみにとらわれない、自分たちだけの世界が出現したと思った。「われわれ」というのがだれかは、ここでは詮索せずにおこう。

 ネットの上にも暴力はあり、差別があり、階級があり、非寛容もあり、犯罪もある。金に汚いやつもいれば、他人にたかって平気なやつもいっぱいいる。権利主張だけいっちょ前で、何も貢献しないやつも無数にいる――考えてみればあたりまえのことなのだ。ましてインターネットの商業利用なんて、ネットワークを(そしてわれわれを)、好むと好まざるとに関わらず、支え/縛ってきた世界が、ツケの取り立てにやってきただけのこと。これまで「われわれ」は、自分たちがそうした外の世界とは独立したエリート社会に生きていると思っていた(「われわれ」はみんな、自分がだれでも参加できる健全な理想的平等民主社会の支持者だと思っている。が、その細部をよく聞いてみれば、極度の豊かさ((財産的および時間的))を暗黙の前提としたエリート社会を信奉しているだけなのだ)。が、そんなエリート意識には何の根拠もなかった。コンピュータ使えるくらいで何様のつもり? コンピュータなんてだれでも使えるよ――われわれはそう言い続けてきた。にも関わらず、実際はそうは思っていなかった。使えるけれど、でも馬鹿な「連中」は手を出そうとしまい。おれたちの世界は不滅だ。われわれはそう思っていた。

 そんなことはなかった。そういうことなのだ。

 『ソフトウェア・デザイン』誌に連載されている岩谷宏のコラムは、コンピュータとネットワークを一つの契機とした人間のコミュニケーションの改善に関する希望を、一種絶望的に語っている。確かその中で(それとも別の著書のなかでだっけ)、かれは金による取引が、コミュニケーションの拒絶だという鋭い指摘を行っている。金で片がついた瞬間、それ以上は取引の双方は何の関係もなくなってしまう。その意味で、金はきわめて暴力的な存在である。これ以上のコミュニケーションをする気はない、という表示である。

 それを否定して、みんなが相互にソフトを書きあい、意志疎通を行う世界を、というのが岩谷の主張である。もちろん、そんなことが起きるはずもない。クリス・マルケルは『サン・ソレイユ』の中で、すべての人が詩を書く世界を夢見た。「そのとき、詩はすべての人によって書かれ、ゾーンにはエミューがいるだろう」。が、それがどのように実現されるのかはだれも知らない。そういうことだ。

 致命的なことに、「われわれ」はまだ、金という暴力に対してどうふるまうべきかを決めかねている。それを拒絶するわけにいかない。でもどう対処すべきか。数少ない抵抗が、LinuxやGNUなど各種のフリーソフト運動である。が、その影響力は徹底的に限られている。

 にも関わらず、われわれはまだ期待を持っている。全体的には常に後退しつつ、われわれは常に新しい領域を発見し、局所戦で短期的には勝てる希望を持っている。ごらん。一時的とはいえ、われわれは示したではないか。世界の人がすべてホームページをつくり、個人と大企業の差がなく、だれも何の対価も要求することなく、それでもなお拡大する世界の夢を。

 次はどこだ。あるいは、あともう十年しないと次の機会はやってこないかもしれない。そしてそこでも「われわれ」は同じ戦績を繰り返すだろう。一瞬の勝利の後、社会と金の暴力に膝を屈することになるだろう。それでも「われわれ」が諦めることはない。

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