面白すぎて先生の腕が問われ『クルーグマンミクロ経済学』

(『経済セミナー』2011/09号?)

山形浩生

要約: 邦訳の出た『クルーグマンミクロ経済学』は読み物としての楽しさを追求したミクロ経済学入門だし、翻訳もとても優秀。これを活用してうまい講義をするのは教師の腕が問われますぞ!



アメリカの経済学教科書の優秀さは今更言うべきにも非ず。一線級の学者がそ れぞれ独自のコンセプトを明確に打ち出し、競争で相互に磨きをかける。新古典 派総合の原点たるサミュエルソン、それに続く標準教科書を目指して新概念を詰 め込んだスティグリッツ、数式をひたすら避けたマンキュー。その最後発として 登場した本書クルーグマン/ウェルスが採用したコンセプトは、読み物としての おもしろさ追求だった。

 結果は大成功。著者は各種通俗書やコラムニストとして活躍し、明快で楽しい 経済解説では右に出る者がない。その強みが遺憾なく発揮されている。経済学の 概念を説明したら、それが現実世界の理解にどう適用できるかいちいち小話で示 され、時事ネタが多くて興味も中だるみしない。教科書にありがちな、そつがな いだけの無愛想さは皆無だ。原著のカラー写真やマンガがないのは残念だが、コ ストの都合もあったんだろう。笑える小ネタも多い(その意味でp.485の「ベー ツモーテル」は「ベイツモーテル」に直してくださいな)。

 書き方だけじゃない。似たり寄ったりの内容になりがちな初級ミクロだが、本 書は扱うテーマでも特色を出している。税に貧困の話や他教科書ではあまり扱わ れない情報財やなどは、現在の素人が経済学に関心を持つ際の大きな分野だし目 配りが光る。またリスクや不確実性についての一章は、通常は中級以降か補遺に まわされる中身だが、実務畑では仕事の相当部分が割引率や現在価値の計算だ し、時事的な経済問題を理解する上でも重要だ。制度的な解説も充実している し、クルーグマンの十八番ともいうべき収穫逓増の貿易理論も扱われ、初級なの にかなり高度な内容までカバーしている。

 強いコンセプトにがっちり応えた著者、そして内容も楽しく充実とくれば、教 科書として文句なし……と言いたいところだが、これを大学の講義で使うべきかは 悩むところ。いまの大学教員のほとんどは、本書とタメを張れる講義なんか無理 だからだ。学生は眠い講義を聴くよりも、自分で本書を読んだほうがずっと楽し いし勉強になるので、下手すりゃ教室は閑古鳥。本書を上回る魅力を出せるか、 講師の実力が問われる諸刃の剣。素人にはお勧めできない。

 が、評者のような我流学徒の独習書としては無敵。二十年前にこの本があれ ば、ぼくもあれこれいらぬ回り道が避けられただろうに。しかも金釘訳で死屍累 々の教科書翻訳の中、本書は実に生き生きとした読みやすい訳文で、読み物性重 視という原著のコンセプトを裏切らない。純現在価値(NPV)など略称使用の多い 用語は併記しておいていただければもっと嬉しいが、そのくらいは読者自身でな んとかなる。

 しかも安い! 最近話題になったレヴィット&ダブナー『ヤバイ経済学』に比 べ、読み物として充実度は7倍(当社測定)、理論的な裏付けまで提供されて内 容的には三〇倍以上なのに、お値段はわずか二倍強。消費者余剰出まくりの価格 設定だ。経済読み物を何冊も買うくらいなら、本書をあれこれ拾い読みすれば、 時事ネタも仕込めるし理論も学べるし、暇つぶしにも好適。これ以上何をか望ま ん! 初学者はもとより、今やすれっからしとなった学者や実務屋諸賢もどう ぞ。献辞に曰く「みんな初心者だった時期がある」。本書の内容程度は寝言です ら言える方でも、小話にニヤリとするうちに経済学を学び始めた初心がふと思い 出され、いまの自分の仕事も新しい目で見直せるようになる……かもしれませんぞ。

  クルーグマン、ウェルス著『クルーグマン ミクロ経済学』(東洋経済新報社)


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