『公研』2014年10月号 「対話」 池内恵 VS 山形浩生
山形:イスラーム国の人たちの言動や行動を見ると、ずいぶんと前近代的で昔に戻ったかのような印象を受けます。その一方で彼らの意識には、中東の民主化への動きとも言える「アラブの春」が大きく関係しているのだと思います。池内さんは今回のイスラーム国の登場と「アラブの春」の関係をどのように捉えていらっしゃいますか。
池内:「アラブの春」が一回りしたことで中東地域に生まれた環境は、イスラーム国にとって非常に都合の良いものになりました。その環境と言うのは、中央政府の揺らぎ、弱体化であり周辺領域の統治の弛緩です。そこに、元来イスラーム国が依拠するイスラーム過激派の戦略論がぴたりと合わさった。9・11テロに対して、アメリカは大規模な対テロ戦争を展開し、イスラーム過激派は軍事的にも情報的にも経済的にも追い詰められました。それで二〇〇四、五年の頃に彼らは組織論を変更します。脱集権化を進め、世界中に分散したわけです。より小規模な組織で活動し、極端なことを言えば個人で活動するケースもありました。
ただし、それは一時的な姿であって、いずれは大規模に再組織化し武装化を進め、領域を支配する機会を伺っていたわけです。彼らはイスラーム諸国の政権は腐敗している、アメリカに支えられているだけで民衆の支持があるわけではないと見ていました。やがて国際社会やアメリカの支えが何らかの形で緩む機会を伺っていたわけです。そうなれば政権が揺らぎ、そこにかつてのアフガニスタンのような聖域が生まれると。彼らはその聖域を「開かれた戦線」と呼んでいたんです。二〇〇九年ぐらいまでは単なる妄想だと思われていましたが、「アラブの春」が三年ぐらいかけて進む中で実際に彼らが望む状況が生じて、そこに入っていったわけです。
「アラブの春」のもう一つ影響は、政治参加が可能になったことです。いくつかの国では自由に選挙をやりましたから、政党の組織化が可能になった。それでいわゆる穏健なイスラーム主義の制度内政治参加派ーー私はあまり穏健、過激という基準で分別したくないので普段は「制度内政治参加派」という言葉を使っていますーーが一度は多数派を占め権力を握ったわけです。
制度外にいる勢力は、かつては民主主義の制度があってもなくても、いずれにせよ政治には自由に参加させてもらえなかった。そもそも刑務所に入っていたり、国内にいられないこともあった。それが「アラブの春」以降は参加が許されるようになったので、制度の中できちんと活動し多数派を占めることで権力を握る勢力も出てきました。代表的なのがムスリム同胞団です。
欧米では選挙に参加させれば、イスラーム主義者はいずれ穏健化するのだという主張がよく見られました。そして、実際にイスラーム主義政党が勝利することが許され、かつ政権をとってしまった。ただ、その政権に対しては官僚や軍が邪魔をして、極端なやり方ではクーデターを起こして追い出してしまう。エジプトでは統治をする時間を一年しか与えなかった。
もちろん、その一年間で十分な統治能力を示せなかったという意味では、内在的な能力不足を露呈した面があると言えるし、実際に勝つことを外部からは結局は許してもらえなかったとも言える。内在的な失敗と外在的な制約、その障害の両方が「アラブの春」以後には顕在化してしまった。
制度内参加派による改革がうまくいかないのであれば、今度は制度外で制度そのものを壊して新たなイスラーム的な体制をつくると主張する勢力が強くなる。彼らは、今の制度さえなければそれをつくることができるのだと考えます。こうした対立はかつてからイスラーム主義の潮流のなかであったものです。
彼らは制度外での活動あるいは制度を壊す活動のことを多くの場合「ジハード」と呼んでいますが、ジハード主義者のほうが選択肢として残ってしまった。いわゆる穏健派は、排除されたり、機会を与えられたが、結局、統治はさせてもらえないなどで正統性を失った。あるいはそもそも存在自体がなくなったわけです。
山形:選択肢がないという状況はわかりますが、一方で疑問に思うのはイスラーム国は人々に選択されていると言えるのかということです。アル・カーイダにしても小集団で活動しているだけであって、体制的に支持されているわけではないという気がします。
池内:多数派の支持を得ているわけはありませんが、黙認しやむを得ないというかたちで受け入れている状況があります。そういう国は今のところイラクとシリアあるいはナイジェリアの辺境地域くらいですが、それらの地域では中央政府との関係が非常に悪い。シリアであれば中央政府が空爆してくるわけですから、政府の権威や管轄権を認めようがないエリアがあって、彼らはそこに入ってくる。そうなると彼らは政府軍から自分たちを守ってくれる存在でもあります。彼らが本当に守ってくれるかどうか定かではないし、イスラーム国のほうが実際の統治において抑圧的である可能性もあります。ただし、内戦のような状況下ではある種の用心棒は重宝されます。アフガニスタンの内戦の時はターリバーンが実質的な支配権を掌握して一部は平和になりました。ただし、自由は非常に制限された。今は局地的に当時のアフガンと似た状況が見られます。
山形:イスラーム国とアル・カーイダは、決定的に対立しているとは言えないようですが、両者に考え方の違いはあるのでしょうか。
池内:ほとんど同じです。イスラーム国の残虐性を強調するために、アル・カーイダよりも酷いとか、アル・カーイダを破門された連中が組織されているといった言い方が英語圏であれ日本であれ安易に使われています。確かにイスラーム国は、手段がより残酷な面はあると思います。ただし、それが両者のイデオロギーの違いによるものかと言うとそれは違って、基本的にイデオロギーは同じなんです。イスラーム国は本来イラク国内を拠点に活動できたわけですが、その際に宗派主義をかなり強調しました。サダム・フセイン政権崩壊後に中央政府を牛耳っているシーア派は異端であり、間違ったことを信じていると。しかし、実際には対立は政治的なものです。 二〇〇〇年代半ば頃までアル・カーイダの中枢は逃げ隠れしているだけですから実力はない。しかし知名度があり、本家の正統性があるので口先介入をしたわけです。その時にイラクのアル・カーイダを名乗っていたイスラーム国に対して、仲間であると一応は認めています。ただし、アル・カーイダの幹部ザワーヒリーは、宗派主義を強調すると分裂してムスリム同士が殺し合うことになるから止めたほうがいいと手紙で忠告するなど、今のイスラーム国のやり方に関して疑問を持っていました。シーア派対スンナ派の宗教戦争にしてしまえば自分たちが自滅するだけです。シーア派の人たちの支持を得られないわけですからね。ただし、それが絶対にダメだということではなく、アル・カーイダも原則としてはシーア派を認めません。あくまでも戦略的に不都合であり、あまり賢いやり方ではないという批判をしてきたわけです。
現在アル・カーイダ中枢は、イスラーム国はかつての自分たちと同じ過ちを犯そうしていると懸念している人もいます。彼らはまだ9・11の総括をしているわけではありませんが、あれは誤りだったと言う理論家もいるんです。9・11はPR的にはものすごくヒットしましたが、それによって全世界から敵だと見なされ、アメリカは全力で掃討作戦に乗り出した。結果的にみんな散り散りに逃げることになったわけです。結局、両者の違いは戦略的、戦術的な差にすぎません。
それから、どこからが残虐で、どこまでが残虐でないかは理論的には区別できません。七世紀のテキストである『コーラン』にもムハンマドの言行録である『ハディース』にも敵を倒す時は首を撃ち落とせという表現があります。穏健な人たちはなかったふりをしますが、それを否定することはできません。アル・カーイダの人たちは「本当の敵がいれば、残酷であれ何であれ全力で戦うべきだ」とよく言っています。『コーラン』の表現をきちんと受けとめているとも言えるし、それを否定するという発想もないわけです。
山形:『ジェーンズ』などのヨーロッパの軍事雑誌によると、アル・カーイダとイスラーム国の間には亀裂が見られるから、ここから内戦に突入すれば勝手に自ら壊れていくのではないかという期待もあるようです。どう思いますか。
池内:すでに争っている面があるので、下手に介入するよりも彼ら同士が争えば力が弱まり、場合によってはやがて共倒れになる。この議論自体は、シリアの内戦一般についても言われてきました。アル・カーイダ系のヌスラ戦線とイスラーム国が、シリアでしばしば露骨に勢力争いをして戦闘をしています。イスラーム国は捕虜にしたヌスラ戦線の人物を殺害している映像を出したりもしている。こうしたことが続けば当然、極端に関係が悪くなります。それならば、彼ら同士で争ってもらえばいいという議論が出るのは自然だと思います。
ただし、きれいに共倒れになることはないと思います。混乱状態がさらに広まって、より一層義勇兵などが入りやすい環境になる可能性も同じぐらいある。そもそもお互いを徹底的に打ちのめすとは思えないんですよね。明らかに不利だなとなったら、たぶんまた一体化してしまうでしょう。むしろ「争いを助長するようなことをやれ」と言うのならまだわかります。ただ、それを具体的にどうやったらいいのかわかりませんけど。そうした議論はあまり関与したくないという立場からの希望的観測なのかなと思います。
山形:それをやれと言う人は「メディア戦を仕掛ければいい」とか、ああだこうだとアイデアを持ち出してきては人ごとのようなことを言いますが、そもそもそれができるのかと疑問に思いますね。やれるものならやってほしいわけですよ。
池内:アラブ世界には陰謀論が非常に多くて、「イスラーム国はアメリカがつくったんだ」という説がアラブ世界に蔓延しています。だから、疑心暗鬼にさせるようなネタは現地にもいくらでも転がっていますから、情報操作を仕掛けることは可能かもしれない。ただし、「政策担当者としてあなたが実行しなさい」と言われても、実際には誰もできないと思いますね。
山形:先ほどの軍事雑誌には、アル・カーイダとイスラーム国の対立の核は、アル・カーイダが反米ばかりに注力していることにあるとあります。イスラーム国からすれば、アル・カーイダは本土にイスラームの世界をつくり出すという本分を忘れていると。ただ、今の池内さんの話だと、アル・カーイダも一時的には分散して存在しているが、どこかの段階ではきちんとしたイスラーム国をつくるという道筋を考えていたと。そうすると両者は対立しているように見えても、それはイスラーム国をつくるタイミングの差でしかないということになるのですか。
池内:アル・カーイダのメンバーは追い詰められ、多くの場合先進国に隠れていましたが、機会ができたら中東にカリフ国をつくるという道筋は共通認識としてあると思います。けれども、そのタイミングをいつだと考えるのかは、自分が今どこにいるのかによって規定されていると思います。シリアやイラクにいるのならば「そのタイミングは今だ」と考えるでしょうが、まだ欧米にいる人はここであまり大っぴらなことをやると自分が顕在化して追い詰められますから、なるべくやりたくないでしょう。ただ、そうして逃げ隠れしているとアル・カーイダの中枢の権威が喪失していきます。単にメディア上で口先介入をしているだけではないかという印象が強くなる。イスラーム国は曲がりなりにも領域を支配していますから、威信がどんどん高まる。むしろアル・カーイダ中枢がイスラーム国への忠誠を示せば巨大なイスラーム国が誕生するという議論もネット上では流れています。
山形:イスラーム国は、親分のバグダーディーという人物をカリフに仕立てたましたが、そもそもイスラームにおけるカリフとはどういう存在なのでしょうか? カリフはイマーム(宗教指導者)を継ぐものとも、法学者の親玉ともまた違った存在なのでしょうか。
池内:カリフは、人物としてはイマームと同じなんです。ただ、イマームという言葉はシーア派では独自の使われ方をしていて、例えば「イマーム・ホメイニ」という言い方がされます。つまり、とても偉い法学者のことをイマームと呼んでしまっているだけでーー法的に言うとイマームではなかったりもしますがーー本来はカリフとイマームは同じものです。それに対してカリフは「後継者」という意味にすぎません。つまりムハンマドの後継者であることを意味します。カリフは宗教的な後継者ではなく、共同体を指導する政治的な指導者の地位を後継したことを意味します。あるいは預言者としての地位ではないが、預言はされていて、その預言に従って宗教的にも政治的にもイスラーム共同体を運営していくのがカリフです。その役割を最初に担ったのがムハンマドだとされていて、それを後継者として受け継いでいるのがカリフであると。それに対して、イマームは信徒の代表者のような意味です。
それ以外にも例えば「アミール」という言葉もあって、これは軍事的な指導者を意味します。イスラーム教団は初期の頃は軍事的な組織でもありましたから、初期段階におけるイスラーム世界の指導者は、カリフであり、イマームであり、戦っている時はアミールでもあったわけです。つまり一人の人間が、その時に帯びている職制に応じて呼び方が変わる。
シーア派は、自分たちは別の系統のきちんとしたイマームを戴いてきたのだと主張したせいで、イマームという言葉がやや一人歩きしています。スンナ派のほうもカリフのことをイマームと理論的には呼んでいるんですが、一般的にはだんだんイマームと呼ばなくなって、「カリフだ」と言っている状況です。
山形:うーん。ややこしい話ですね。
池内:カリフは十三世紀のアッバース朝が滅亡するまではあったとされていますが、アッバース朝の後半にはスルターンが実権を握った権力者があちこちにいましたからカリフは籠の鳥のような存在になっていました。十三世紀にモンゴル帝国に徹底的に潰されたせいで、その籠の鳥もどこかに飛んでいってしまいます。ただ、オスマン帝国は「カリフの末裔を見つけた」と言って、また籠の鳥にしたんです。オスマン帝国の末期には権力者が「自分がカリフだ」と名乗るようになります。イスラーム法のやり方でカリフとして指名させ、「自分がカリフだ」と認めさせたわけです。さすがにそれは正統性があるとは誰も思わなかった。ただし、十八世紀頃はオスマン帝国はイスラーム世界最強の帝国でしたから、それでもある程度は通用したんです。その後オスマン帝国が崩壊したので、カリフもなくなってしまった。それからもアラビア半島を支配している権力者やエジプトの王様などが自分はムハンマドの血筋であると名乗り「カリフを継ぐ」と宣言することがありましたが、あまり相手にしなかったので立ち消えになっていたんです。
カリフにはこうした歴史的経緯があるわけですが、今のイスラーム国の指導者であるバグダーディーという人物がカリフと名乗り出したことにはどのぐらい意味があるのか。あまりにも長い期間カリフが存在していませんでしたが、カリフはいるべきだと教えられてきたわけです。にも関わらずいないのが当たり前という状況になっていました。それが、突然カリフを名乗る人が出てくるとやや唐突に感じます。
バグダーディーがカリフであることを宣言した日は、ちょうどラマダーン(イスラーム暦の第九月。断食が行われる)の初日でした。彼の登場の仕方、纏った衣装、喋り方などとてもドラマティックで歴史ドラマを演出したわけです。つくり物めいた感じがあって、現実味があまりない。ただ、現に彼らがイラクとシリアの辺境とは言え、そこを実際に支配している最高権力者がカリフを名乗ったことは、なかなか否定できない。つまり、バカバカしいとは言い切れないところがある。ですから、バーチャルなところと微妙にリアルになりかけているところのすれすれぐらいのところに彼はいるのではないかと思います。
山形:イスラーム法学者の親玉になるには、例えば進学校に通ってコツコツ勉強して大学院で博士号を取る必要があるといったプロセスがあるわけではないのですね。チベット仏教の世界の高僧とは違うのですか。
池内:違います。イスラームの法学書には要件としてはまず血筋が必要だと書いてあります。スンナ派にしてもシーア派にしても、いずれにせよある時期まではムハンマドの血縁にあたる人物が指導者でした。同時にある程度イスラーム法の判断能力がないといけないとあります。ただし、それは最高の判断能力でなくてもいい。シーア派は、イスラーム法学者の階梯制度をつくっていますから、その上で最高の判断能力のある人を決める仕組みがあります。まず宗教的なヒエラルキーがあって、その頂点が政治の上に立つという理論をつくっていったのがシーア派です。
それに対してスンナ派にはヒエラルキーがありません。今回の問題ではサウジアラビアやエジプトのアズハル(スンニ派最古の教育機関)の高位のウラマーに「イスラーム国はイスラームに反している」などと言わせていましたが、彼らは特に権限を持っているわけではありません。彼らの力の源泉は、彼らが国家権力者に近くに位置していることが明白である点にあります。つまり、彼らの主張は権力者が取り入れるであろうから、彼らの言うことは割に現実化するといった意味でしかないんです。スンナ派にはアズハルの人たちの見解にみんなが従わなければならないという根拠は全くありません。見解の相違は無限にあって、免状をいっぱい持っているアズハルの偉いウラマーの人は、「俺のほうが正しい」とは言えますが、その見解に従わないからといって地獄に落ちるとも言えないし、破門にする仕組みもありません。
仮にある国の地下組織が「現状の国家はだめだ。テロをやる」と言った時に、例えばアズハルやサウジの有力なイマームや高位の聖職者が「それは反イスラーム的だ」と糾弾したとすると、少なくともそれらの国においては明らかに有効です。彼らの発言力は権力者が裏打ちしていますから。
ところが、今イスラーム国が曲がりなりにも領域支配をしていて、そこで彼が「自分はカリフだ。この国は間違っている」と言っているとなると、これは正にどっちもどっちという世界になってしまう。もしイスラーム国が広がってエジプトを支配したら、アズハルのウラマーは「イスラーム国は正しい」と言うはずです。スンニ派の人々は宗教指導者の権威をその程度だと知っているんです。宗教指導者は実際の政治権力を持っている人を承認することが大前提で、そのことを人々も知っています。
もちろん、日常生活における宗教儀礼には人々は従います。お坊さんはそれを細かく知っていますし、「きちんと守っていれば、おまえは天国に行ける」と言われれば、みんな喜ぶわけです。
山形:なるほど。それは面倒くさいですね。
池内:ですから、アズハルの権威の主張を参照して、「やつらが異端であることは明白である」といった主張を日本でもよく見かけますがーー英語でそういうことを言う人はほとんど見かけませんーーそれは権威主義というか体制順応主義が徹底していて、慣れきっているのだなと思います。宗教者は、テキストを単に解釈する人間にすぎない。そうすると解釈の多元性が出るから、政治権力が裏打ちしたほうが勝つというのがスンナ派の考え方です。リアリズムが徹底していて、ある意味身も蓋もない理論です。
そうすると、イスラーム国の指導者のように権力を実際に握ったという人が出てくると、かなり話はややこしくなります。これまでも国同士の小競り合いの際には、それぞれ国の宗教者が出て来て相手を非難することはよくありました。しかし、根本的に二つの国があることは認めているわけです。ところがイスラーム国は、今の国境や政府、権力のあり方や理念などを全部無視して勝手に新しい国家を作った。これは宗教的な議論として本当に噛み合わなくなる。つまり、寄って立つものが全く違うわけです。個々の政策について、間違っていると主張することは、これまでの宗教者同士が政治的な争いの中に加担させられてやっていましたが、今回はその次元ではありません。そもそもイスラーム国の主張によれば、エジプトやサウジアラビアの政権はあってはならないわけです。
山形:今の国境は、第一次世界大戦中に西側諸国が決めたサイクス・ピコ条約体制による中東の分断だと。
池内:そうです。そもそも存在してはならない国がそれぞれの国で持っている宗教機構は全く意味がないことになってしまう。そういう意味では、宗教者にとってもイスラーム国の存在は脅威です。
しかも、世界全体が一つのイスラーム国をめざすという彼らの理屈はイスラーム的に見ると正しいわけです。彼らが考えるところの誤った統治、アメリカのような異教徒の同盟者をそれぞれの国が持っている今の中東はおかしい、なくしたほうがいいという議論にはイスラーム的にはなかなか反論できない。
山形:それは国家とは何かという根本的な議論とほとんど同じような話になりますね。
池内:その通りです。イスラーム国に参加している末端の人たちは、当然かなり頭の軽い人たちです。中東を専門とするわけでもない日本のある論客が今回のイスラーム国の事象を、「自分探しである」と述べていましたが、そう突っ込みを入れられてもおかしくないような人たちだと思います。
それでは中枢にいる人たちが高度なのかどうかは別ですが、幹部連中はアンチ近代思想に明らかに影響を受けていると思います。格好よく言えば、アンチ・システム思想の片鱗を一応見せています。ただ、アラブ民族主義の文脈で言われてきたサイクス・ピコ条約体制を否定する議論を都合よく引っ張ってきているだけとも言える。実際サイクス・ピコで引かれた国境を全部なくせばーー当時はトルコ人が支配していたわけですがーー本来のアラブ人が支配するカリフの国ができるという議論をしていた人は、過去にもいなかったわけではありません。アラブの民族主義の歴史の中では、カリフ制の再興を主張したシリアのカワーキビーは偉大な人物であると学校でも教えられています。だから、「学校で習った通りのことを言っているだけだ」というのが彼らの主張なんです。
山形:なるほど。はあー面倒くせえ。
池内:真面目に考えると彼らの論理にのみ込まれてしまうような説得力を持っているんですよ。でも、現実に彼らがやっていることを見たら、しょうもない集団だと思うわけです。
山形:そうは言ってもイスラーム国は一応、国の運営みたいなことを始めてしまっている。大したものだと言ってしまうのは気が引けるけど、大したものだという感じではありますね。
少しイスラーム国から外れて、話題を移したいと思います。冒頭のお話で「アラブの春」以後、彼らの思惑に合うような「権力の空白地帯」ができたということですが、権力の空白が生じた際のその地域の埋め方には、世界的に三つのパターンがあるように見ています。一つはギャング支配です。もう一つが独裁者による支配。中央アジアなどが典型的ですが、独裁者が登場してきて支配してしまう。そして、もう一つのパターンがその地域がイスラーム化することです。
提示されるオプションがこの三つしかないのなら、イスラーム化してくれたほうが少しはましなのかなという感じにもなります。僕はイスラームが広がっている北アフリカやガーナの北部で長いこと仕事をしていますが、そうした地域でイスラームの青年団が道端で礼拝している姿を見ると、組織立っていて非常に頼りになりそうだという感じがします。だからイスラーム側に引かれる気分は何となくわかるんですね。
イスラームは世界で急激に広がっている宗教ですが、なぜ彼らはこうした空白地帯を埋めることができるのか。これが昔からよくわからない。彼らが強そうに見えるのは実際よくわかるのですが、何か特別な組織力を持っているのでしょうか。どうお考えになっていますか。
池内:世界地図上のある地域に権力の空白が生じることは、過去の時代にも周期的にあったと思います。そこを誰がどう埋めるのか。今その埋め方として三つの固有の傾向を挙げられました。イスラームがそうした地域を埋めたケースとしては、近代ではアフガニスタンがわかりやすい事例でした。内戦である地域が無秩序化すると、例えば娘が学校に行こうにもすぐに誘拐されてしまうようなあまりにも酷い状態になってしまう。イスラームの場合は、我々は正しい法を持っていて、その実効性があるとやって来て、結果的にその地域にイスラーム法を適用する。嫌がるやつは棒で叩けば、みんな黙ると。反抗すれば棒で叩かれますから、叩かれるのが嫌で従っているのか正しいから従っているのかわからなくなる。そして、反論する人もいなくなります。イスラーム的な秩序ができ、イスラーム法とそれを施行する棒を持った人たちが統治すれば、結果的に娘はベールを被れば安心して表を歩けるようになる。
イスラームという絶対的な基準を持ってきて、その基準を無理やり施行する人たちを連れてくるやり方は独裁とはまた違う別の規範ですね。権力の空白地域では、イスラームというのはある種の初期化が機能すると言えるかもしれません。パソコンをセーフモードで立ち上げ直すような感じですね。
もともとイスラーム法は、国家の最低限の機能だけを規定し、福祉などは喜捨でやればいいというものです。喜捨の配分機能は権威的に存在する必要がありますが、それだっていろいろな人が担えばいいよねという考え方です。夜警国家的ですね。内戦状態にあったり、実質的に国家が崩壊しているような地域では、最低限の秩序を守らせる実力と基準があるイスラームはずっと魅力的なのだと思います。 この話をもっと広げて今の世界地図を眺めると周辺的な領域をイスラームが埋めるという動きが各地に見られます。辺境地域だけではなく、その兆しは先進国の都市郊外に見られます。パリ郊外が典型ですが、大都市郊外ではなぜ若者がラディカル化するのか。イスラーム教徒であれ、そうでない人たちであれ、そうした地域ではほっておいたらギャング化する傾向が見られます。秩序が存在していることになっているが、実際にはなくなりかけているわけです。違法だとわかっていても悪いことをやって、お互いに抗争して死ぬ者が出て来たりする。それから麻薬がはびこる。いわゆる麻薬と暴力です。
先進国の文脈で言うと、イスラームはそうなってはいけないと諭す。放っておかないわけです。麻薬をやったり抗争して死ぬことに何の意味があるんだと。それに対してイスーラムには規範があり、正しいもののために戦うジハードをやる。素晴らしいじゃないかと。
それから刑務所でイスラーム教に目覚める人、改宗する人が結構います。改宗し服役した後には、単に宗教儀礼をきちんと行うだけではなくジハードをやるともっといいと教え込む。ほっておいたら麻薬や暴力に走るような子が、そうした犯罪から足を洗ってジハードをやる。そういう流れなんですね。このパターンはアメリカでも見られます。特に黒人社会は失業率も高く、犯罪に走る率が異常に高い。普通ならばどんどん悪くなってしまうところをイスラームに入ることで回生をすると。ミクロなレベルではそういう流れがあったわけですが、それが国際情勢の中にも出てきてしまっています。
山形:正しい道に行くには、別にムスリムにならなくてもいいのではないかという疑問があります。他の選択肢もいろいろあるはずなのに、なぜイスラームだけが魅力的な選択肢として出てくるのか。僕にはよくわからないところがあります。ムスリムになったら、結婚式がいいわけでもなければ、正月が楽しいわけでもない。食事も制限されるし、酒も飲めなくなる。全然いいことないじゃんかと。よく冗談でそういう言い方をされますね。それでも生活を規定してくれるほうが、場合によっては完全な無秩序よりは魅力的だという話になるのか、それとも彼らの組織力やリクルート力が非常に優れているためと考えるべきなのか。
池内:数は少ないですが、先進国の中でもイスラームに改宗し、さらにはシリアやイラクに行ってしまう動きがあります。先進国は秩序が乱れているわけではないし、飢え死にするような状況にあるわけでもない。先進国には自由があり、一応機会もあるはずですが、満たされていない人たちがいて、そうした人たちがなぜイスラームを選ぶのか。一つはイスラームが不自由だからということがあると思います。先進国では選択肢が無数にあることになっていますが、実際にはそれはまやかしだ。自分は何も得られていないではないかと。それに対してイスラームは「正しい道はこれだけだ。選択肢はこれしかない」と方向づけてくれる。選択肢を狭めてくれないリベラルな社会に対する反逆、不適合の表れが自由からの逃走を引き起こす背景になっているのではないか。
山形:権力の空白地帯の埋め方に話を戻しますが、アメリカあるいは国連的な国際秩序が提供できるものは、今だと平和維持軍を送り込み治安を安定させ、選挙をさせると。実質それだけなんですね。しかし、選挙をさせるだけでは秩序はできません。誰かが「俺が統治する」という意思を持つことが程度必要になってくるし、そのための仕組みもどうしても必要になってくる。そうすると意思と力を持った人を当てにせざるを得ない。民主主義はそういう人がたくさんいるものだという前提があります。たとえその人たちが喧嘩したとしても選挙を行うことで大体納得してくれるものだと。けれども、そうした前提がない社会においては、どのようにそうした秩序を作り上げるかというモデルがまだできていないことを痛感しますね。
ただ、その前提ができていないと認めてしまうと、「君たちは民主主義の準備が足りていないから、独裁制なり何なりでもうしばらく修行を積みなさい」と言わざるを得なくなる。しかし、今は先進国側は立場上そんなことはとても言えない。その点イスラームは、曲がりなりにも意思と道具立てを持った人がやってくる。その辺がイスラームの強みなのかもしれない。
それを認めてしまうと、今やっている開発援助などの仕事があまり成り立たなくなってしまうので、つらいところがあります。我々がガーナやエジプトやチュニジアで開発援助の仕事をやっていたのも、基本的には豊かになれば自分なりの意見を持って、一部の人は公共的なサービスなり何なりを自ら行うようになると期待していたからです。ところが、それがうまくいかないとなると根本的に開発援助のあり方も見直す必要があるかもしれません。今のイラクでもフセインを追い出したのはまずかったなという話も出ていますね。そういうことを言わざるを得ないのが非常に難しいところです。
池内:おそらく二十年前ならば、このオプションで国家を再建すればいいのだと言えたのでしょうが、今は物をわかっている人であればあるほどそれはちょっと言えないなという状況がある。よくわかっていない人のほうが「こんなものは前近代だ」とか言えちゃって気分がいいだろうなと思えますね。
山形:我々は、ひょっとしたら国の発達段階に応じた政治体制のひな形みたいなものをつくる必要があるのかもしれませんね。ただ、選挙をするだけではダメなのかもしれない。
最初はとても制約的だが、これだけは機能させるというような枠組みのある国を作る。そして、あるハードルを超えたら次の段階ではさらに制度を発展させていくようなイメージです。昔は自動的にそうした階段を上がっていくのだと思っていましたが、ひょっとしたら人工的につくってあげなければならないのかもしれない。しかもそれをイスラーム的な価値観に対峙するものとして拵えてあげなければならない。
ただその場合、「おまえの国はまだ発展段階が一だ」といった認定を誰が決めるのだとなると、誰もやりたがらないでしょうね。しかも、こうした制度設計を認めてしまうと「土人はこの程度の体制しかできねえよ」ということをはっきり認めるしかない世界に入ってくるし、実際はそれほど単純ではないというのが難しいですね。
池内:そうなんですね。つまり、サイクス・ピコがダメだった、要するに民族単位に領域を切り分けて主権を与えることが、結局、無理な部分がものすごく多いとか、切り分けようとすると住民交換しなければならないとか、とんでもないことになる。
『オニオン』という新聞で、中東では一人一国つくることにしましたと言って、膨大な点を点描している風刺画がありました。もちろんこれは冗談ですが、それ以外の選択肢を考えることも困難です。トルコ人が支配していたオスマン帝国が戻ってくるのは嫌だし、それならばイスラーム国でアラブ人でムハンマドの血筋を名乗るバグダーディーが支配するというのもやっぱり嫌なわけです。
そうすると別の理念で帝国をやればいいというわけでもない。そうした特定の民族が帝国のトップに立つのではなくて、かつての冷戦時代のようにイデオロギーで二つに分けて二極覇権構造にしたほうがよほど安定するのかという話になってしまう。
山形:そうですよね。結局、今は選択の余地が本当にあるのかという話にまたなってしまう。
池内:イスラーム国の人たちは「選択の余地はないんだ」と言っていますね。これしかないんだと。しかし、イスラーム国も現実に統治できているわけではないし、内戦の状況下を少し安定させるぐらいのことしかやっていないわけで、その先は当然行き詰まることになると考えられる。
本来先進国はもっと自由で可能性があり、安定して、繁栄する世界が広がっていくという未来を提示できたはずなのに、なぜか急激にそれが閉じてしまった。偽物の選択肢とされてしまうものと、イスラーム国が突きつけるとても認めがたい強制に満ちた選択肢しかない。実際の世の中はそんなに単純ではありませんが、今そういう選択肢を突きつけられてしまっていて、それはどこにも辿り着かない。
山形:昔、大学生の頃ある教授が、「イスラームにおけるジハードは、異教徒もお金さえ払えば保護してやるという意味で、これは宗教的寛容性の現れなのである」と教わったことがあります。当時から何か違うような気がしていました。
池内:私が反論する必要もなく、イスラーム国がやっていることを見れば全く寛容ではないことがわかるはずですね。
山形:今の世界を見ると、各地の紛争なりでイスラーム集団が関わっている例がどうしても目立ちます。それはイスラームという宗教的がそうした好戦的な特徴を持っているためなのか、あるいはイスラームはそれなりの試練を経ていないがために今の状況があるのか。つまりイスラームの今は、穏健化していく過程の中でいろいろなものがぶつかっている段階なのでしょうか。キリスト教にしてもかつては、プロテスタントとカソリックで殺し合っていた時代があったわけです。イスラーム教は今それに近いところにあり、将来的にはもう少し話し合いで物事を解決するような穏健な存在になっていくのでしょうか。ここにはいろいろなことを言う人がいますが、池内さんはどのようにお考えでしょうか。
池内:イスラームが好戦的なのか否かという議論は昔はよくされていました。その中で常にイスラーム擁護論があります。本来イスラームは本来好戦的ではないと。しかし、パレスチナにはアラブ人のイスラーム教徒とキリスト教徒がいますが、自爆テロを行ったキリスト教徒は一人もいません。もちろん、ムスリムとキリスト教徒は同じパレスチナであっても社会的にも経済的にも扱いが違うのだから、こうした比較は意味がないという人もいます。
それでもやはり、クリスチャンを自爆テロに誘導することはできませんが、イスラーム教徒にはイスラーム教の理屈で誘導することが一定数はできている。そういう意味でイスラームは「好戦的だ」という言い方をするとネガティブになりますが、闘争に人々を組織化して動員する力があることは明らかであると言わざるを得ない。
それに対してイスラエルが存在しなければ、イスラーム教は好戦的である必要がないという根本的な原因を持ち出して反論する人もいます。確かにイスラーム教を用いて人々を暴力的な行為に動員する必要がない状況にするべきだという議論は常に正しいんです。けれども、何か不都合な状況や問題が生じた時に、イスラーム教は今の教義と解釈では、暴力的な運動に人を導く力があることもまた経験的な事実です。だから、イスラームが悪いということではなく、それが今の現実であり、国際紛争の一つの要因にはなっていることは認めざるを得ない状況であると。
その上でどうしたらいいのかを考えるわけですが、一つの方法は、根本原因を解決するという議論にまた戻ってしまいますが、イスラームにもうちょっと変わってくれないかなと。みんなが不満を持っているのだから、イスラーム教徒だけがテロをやると、対テロ戦争をずっとやっていないといけない。教義を変えてくれよという話になるわけです。ただ、教義を変えることは現実的には大変難しくて、アズハル機構のような権威が言えば変わるわけではありません。教義まで変えるとなると、これはかなり根本的に変えないといけないので、いわゆる宗教改革的なものを経ない限りムリだなと言うのがおそらく共通認識ですね。
山形:えー、宗教改革ですか。
池内:イスラームで宗教改革ができるのか。基本的にそれはムリだというのがこれまでの経験です。西洋化、近代化、世俗化の圧力に彼らは耐えてきたわけです。イスラーム教をある種近代のキリスト教に似せたものに変えようという動きが外からもあり中からもありましたが、それを二十世紀初頭に潰してしまったわけです。もう一度それをやろうというモメンタムはそう簡単には生まれないでしょう。
でも、我々は「変わってくれ」と言い続けるしかないと思います。もちろん、十年くらいで変わることはないと思います。それから彼らに「相対主義でいいんだ」と言っても、たぶん解決しないと思います。我々は近代主義的なものを掲げて、その基準に合うかたちで社会制度を作り替える努力をしてきた。しかし、イスラーム教徒はそうした努力を怠った。イスラームはそうした近代主義の圧力がのしかかって来た時に、「いや、イスラームこそ近代だ」と開き直ってしまった。「宗教的寛容が重要だ」と西洋の近代主義が言うっても、「イスラームこそが寛容だ」と払いのけてしまったわけです。
近代の初期において、西洋からの圧力に対しては何でもかんでもイスラームは近代的な規範を先に実現していた。だから、近代的な規範とはぶつからないという議論をしたわけです。特にジハードに関しては、「全部防衛だ」と理屈を付けました。イスラーム側がやったジハードは100%防衛だと。歴史を見てみろと。我々は被害者で異教徒が攻めてきたから戦ったんだ。その時に首を切ったり、捕虜にしたりしたことも、『コーラン』や『ハディース』に則ったものであり、近代国際法の規範から言っても自衛権の発動だと主張しました。
さらには議論を次のように発展させます。隣の国が攻めてきたから自衛するなんていうのはイスラーム的には意味がないことである。本来やるべきことはイスラームの正しい教えを広めることなのだと。その先に抵抗するものがあったら、それは取り除かないといけない。武力でしか取り除けないのなら、それを武力で取り除く。そして、それが自衛であると。
つまり、イスラームは自衛権の発動という議論が、領域国家間の自衛権だという議論を「その通りですよ」として受け入れた。その上で次の段階ではイスラームを広めるための活動を疎外するあらゆる障害は取り除かなければならない、それを取り除くことも自衛権であるという話になってしまった。そうなるともう誰も反論できません。
西洋もイスラームに対して圧力をかけるようなモメンタムは今はなくなっています。そうなると外からの圧力もなくなり、内側から宗教改革を言い出すことを待つしかなくなる。もちろんそれは簡単なことではないわけです。結局、どこにも辿りつかない。
山形:イスラーム圏でもインドネシアーー彼ら自身がどのように考えているのか知りませんがーーのように特に宗教改革をせずとも普通に世俗でも共存できているところもあります。面倒くさい宗教改革は触れずに、とりあえず共存していこうじゃないかと。『コーラン』の教えに反するような細かいところはいろいろあるかもしれない。しかし、そこは目をつぶってしまうというなあなあ主義的な展開が現実的ではないか。宗教改革を行うようなとてつもない選択肢以外にも、現実と折り合うようなイスラーム教徒のあり方もあるのではないか。けれども、それでは原理主義的なものが時々噴出してくることを食い止めることはできないでしょうが。
池内:イスラーム世界の中には宗教的な意味での中心と周縁があります。結構うまくいっているインドネシアやマレーシアは周縁に位置づけられています。マレーシアには、人口構成の中に一%程度アラブ人がいます。ムハンマドの血筋を名乗る怪しいアラブ人が常に渡ってきています。「俺はきちんとしたアラビア語を読める」と言って、教義を教えお金を取るわけです。そういうアラブ人のエスニシティができて現地化しているんです。逆のケースはありません。マレーシア人やインドネシア人がエジプトに行ったら、それは学びに来ているという関係になる。
ただ、現実にアジアのほうがうまくいっているわけですから、そのことを示す必要があると思いますが、過去数十年の流れは逆でした。原理主義的な解釈がアラブ世界の中心から東南アジアなどに輸出されることが多かった。東南アジアの政府は危機感を感じてそれを食いとめようとする関係にありました。アラブ人がやってきて強硬なことを言うと、ちょっと勘弁してくれと言って追い出すということを繰り返しています。あくまでもアジアは防戦しているわけです。経済的には伸びていますが、思想的には未だに周縁だという扱いを受けて、本人たちもそれをあまり問題だと思っていないようです。
それを逆転させて、逆に東南アジアのほうから民主化も結構うまくいっているし、宗教的にも寛容になっていると。テキスト的には彼らは何一つアラブ人に教えることはできませんが、実態として共存が成り立っているインドネシアの仕組みなどをアラブ世界の中心に広めていくことは一つの対処法としてあると思います。アラブ人は、「我々は教えられる立場ではない」と絶対に言うでしょうが…。
山形:なるほど。それができれば、みんなそうなってほしいと思ってはいるのですが。
池内:でも、水は上から下に流れるので、下から上に流すのはたいへんな作業ですよ。
山形:中央アジアのトルクメニスタンで初代大統領のサパルムラト・ ニヤゾフという人が『コーラン』と自分のつくったものを勝手に合体させて作った『ルーフマーナ』を国民の精神と位置づけて教育現場で使うことを強制していました。イスラーム的にはああいことは許されない世界のように思いますが、あまり騒がれることはないのですか。
池内:イスラームにはまさに宗教解釈の統一したヒエラルキーがありません。基本的には国単位で政治権力者に依存して宗教者が存在しているので、トルクメニスタンなどではそれが通用してしまうわけですね。理屈上では、これは人々に宗教を教えるための教本にすぎないと正当化していると思います。『コーラン』に変わるものだとは宗教者は絶対言わないわけです。同時に政治家が何をやっても、それは追認すると。結果的に『コーラン』の教えが広まるのならば、それはすばらしいことだと。
それを外に広めようとしたら反発が出ると思います。仮に広がるとしたら、その国が政治的にも軍事的にも拡大する時にしかあり得ないでしょうが、そういう場合は黙認すると思います。特にスンナ派の場合、政治権力と不即不離のものとして宗教権威が存在しているので、支配しているという実態があると言うことを聞いてしまうのが現実です。日常生活から信仰が根付いているので、それを教えてくれる宗教者が間違っていると人々はあまり言いたくないし、実際そういうふうには思っていない。そのほうがうまくいくと人々は思うし、社会が安定するからいいんだと何となく思っているわけです。そういう前提があるので、ある意味では権力にかかわるものに関するウラマーの判断はその程度のものだと思っている。それがゆえにイスラーム国家みたいなものが出てくると、それに対峙するウラマーたちの議論は極めて説得力が弱くなってしまう。
山形:難しいですねえと言ってため息をつく以外の結論が出ない感じですね。
池内:そうなんですよ。今現在はアメリカを中心に先進国、イスラーム国を少なくとも脅威と見なしています。この脅威が直接的な脅威なのかどうかは議論が分かれるところです。現地のイラクやシリアにいるアメリカ人やイギリス人に対する脅威であることは確かです。それから例えばバグダードやクルド人地域などアメリカにとって国益がある地域に対する脅威であれば、当然脅威と見なされる。しかし、その脅威がアメリカ本土に及ぶのか、今すぐ対処しなければならないのか、そもそも対処できるのかとなると判断は非常に難しいと思います。
山形:それでもアメリカは要衝を爆撃していますね。
池内:イスラーム国の組織のあり方は基本的にネットワーク的で勝手に参加する形ですから、爆撃したほうがアメリカ本土へのテロの脅威は増大すると理屈では考えられます。ただ、組織が壊滅させられると今度は先進国でやるかとか、あるいは報復へのモチベーションにもなってしまう。ただ、その場合はテロの規模は小さいと思います。今、イラクで組織化したものをそのままアメリカに持ってくることは物理的にあり得ないわけですからね。
ーーイスラームの中心、たとえばサウジアラビアなどには、中東の将来に対して何らかの理想への意思を持ち合わせているのでしょうか。
池内:ないんじゃないでしょうかね。主体がありませんからね。宗教者は政治権力に密着しているだけで、その政治権力のほうは国ごとの利益、自分たちの政権の生き残りばかりを考えているわけです。まさに「それではダメだ」とイスラーム国が言うと、「うん。その通りだ」と社会のレベルでは共感してしまうという現状がありますね。
山形:その一方で、我々日本人が未来に対する強いイメージを持っているのかと言われると、それもつらいところではありますね。
池内:そうなんですよ。だから、世界的にそれがないと言われた時に、これはある種のアンチ・システム運動になってしまっているのだと思うんです。要するに今の国際秩序も国内についてもルールをよく知らないのだけど、「現状はダメだ」と言ってしまう次元の反発です。単純にむしゃくしゃしたからやったみたいな話になっている。これは中東地域だけに条件があるのではなく普遍的な現象になっているのではないか。イスラーム教徒以外にもそういう現象が見られると思います。むしゃくしゃした人たちがネトウヨ、ネトサヨになって、それが実際にいろいろな現象となって現れているのだと思うんですね。ネトウヨは、しょせんそれぞれの国で「俺の国はすごい」とか言っているだけですが、それがイスラーム世界でそれが展開すると話が国を越えて、大問題になってしまうところがある。ですから、世界中のあらゆる社会において非常に浅いアンチ・システム運動がいろいろなかたちで表出しているのではないか。
山形:それもまた迷惑な話ですね。
池内:イスラームが絡む話が世界規模で大きくなってしまうところはありますね。ネットインフラが整っておかげで、ネット上の共通の概念をあらわすと、これが非常に容易に流れる。
山形:今の話は、パソコンの世界のフリーソフトの運動に通じるものがあります。オペレーティングシステム「Linux」などはフリーソフトとして公開されて、みんなが軽い気持ちで参加して、そのうちでかいものができてしまった。個人的にはそうした動きを一概には否定したくないし、そういう軽い乗りの動きがもっとがんがん出てきてほしいと思っています。一方で、そのあらわれ方を逆にコントロールできないとなると、どう歯止めを掛けるべきかを考える際にはいろいろな悩みが出てくる。
池内:アズハルやサウジの高位の聖職者などの権威のほうから方向づけようとしてもおそらく機能しないと思います。むしろ、この運動自体がまともなものになっていく、あるいは雲散霧消する、彼らが何となく解散してしまうような方向付けをすることが有効なのかもしれない。その手段はなかなか思い付きませんが、それしかないような気はしますね。
イスラーム国に参加している若者たちは、それを自分たちで勝手に格好いいものとして受けとめてしまっている。ですから、それを格悪いものと見せると、求心力が急になくなるかもしれません。要するに、表面的に格好いいから受け入れてしまっているのであって、理屈をきちんと筋道立てて考える気はないわけです。
山形:今のフリーソフトの例で言うと、そのプロジェクトが潰れるパターンがあって、ある程度その世界が大きくなってくると気軽に参加できなくなるんですね。イスラーム国は気楽にキャンプをしながら武装訓練を受けて、戦闘に参加する段階の時ならば上り坂でいられるかもしれない。そして、大きくなると目立つ。目立つとみんながさらに参加してまた大きくなる。今はそうしたプロセスの中にあるのだと思いますが、そこから大きくなって本当に国としての体制が整ってくると細かいところへの目配りができなくなる可能性があります。広く参加を募るプロジェクトは、そこで潰れてしまうのが大体のパターンです。しかしイスラーム国の場合、それがいつになるのかまだわからないし、そのパターンを辿るかどうかもよくわからないところですね。
池内:恐竜のように突然死に絶えるということですね。例えば日本のSNSのミクシィをみんなが突然使わなくなったように、ネットワーク的にやっていることは、どこかで何らかの限界に達した瞬間にパタッと途絶えることがあり得るのではないかと漠然とですが想像します。
山形:フリーソフトの発展段階で言われていたのは、途中で意見が分かれて、分岐すると小さくなって廃れていくという話でしたが、実はそうでもないようです。実際はミクシィのように、何だか知らないけど突然勢いが消えたという例が多いんです。
みんなに「なぜあなたは先週からミクシィを使わなくなったのですか」と聞いても理由はよくわからないんです。「何となく」とか「ほかの人も使わなくなったから」とか「ちょっと疲れたから」とか理由はそんな感じです。しかし、「疲れた」という人がたまたま十人くらい重なると、そのコミュニティが死に絶えてしまう。
コインを投げて表が五回続けて出るというくらいの確率である部分が死に絶えるとか、そんなことになるのかもしれない。この辺の力学については多くの人が研究していますが、まだはっきりとしたことはわかっていません。しかし、こうした例は、今後のイスラーム国の動きにも参考になる点はあるかもしれません。
池内:おそらくイスラーム国の力学もそういうものだと思うんです。9・11以降のイスラーム的な運動は、集権的でなくて自発的、個人の内側からの自発性を引き出そうとする特徴があります。それは上に誰かがいて引き出すのでなくて、テキストがあって、勝手に読みに行って引き出されてしまうものだと。結果的にみんな同じ方向を見ているから、現象として運動が起こっている組織に見える。でも、実際には全然組織立ったものではない。組織化はせずとも勝手に組織になってしまうんです。そういうメカニズムである以上、それを逆手に取ることで組織を死に絶えさせるような手段が内在的に存在しているのかもしれません。
山形:実は昔マイクロソフトはフリーソフトをどうやって潰すかという戦略を考えたことがあるんです。ひょっとしたら、そうした戦略を応用することで何かできるかもしれませんね。
池内:たぶんそういうやり方こそが効果的だと思います。オバマはイスラーム国をガンと見なして空爆を展開していますが、ガンを切っているだけでは明らかにまた広がります。外科手術ではなく、勝手にいなくなるような処置が必要です。ガンの場合は、取りついている個体を食い潰したところでガン自体も死ぬのかもしれませんが、そうした生物学的なアナロジーよりもっと情報学的なアナロジーで有効な策を考えられるのではないかと思います。(終)
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