要約: 多くの人はアレクサンドリア四重奏のこの最初の巻しか読んでいない。そしてこれは実に見事に感傷的に書かれていて、そこにある欺瞞を見破れる人は少ない。それは「都市がぼくたちにそうさせた」という全編にわたる記述が、実は不倫カップルの自己正当化の弁明でしかないということだ。それがわからないと、かれが『バルタザール』『マウントオリーブ』を書いた必然性は理解できない。さてあなたはそれを見破れるか。
ページを開いた瞬間にあたりの空気まで一変する――そんな小説があり得るのだ、というのをぼくに教えてくれたのがロレンス・ダレルだった。それは本当の意味での「風景」というものを考えるきっかけともなってくれた。物理的な刺激――映像、音、匂い、空気の温度や湿度から成る触感――にとどまるものではない、人の経験や思い出、記憶とからみあった、人の心の中にしかない「場」としての風景。それが紙のページから立ち上ってくる様子は、他の作家にはほとんど例がない。
このアレクサンドリア四重奏は、そのダレルの代表作であり、真の意味での風景を具現化した希有な小説となる。 とはいっても、全四巻に及ぶアレクサンドリア四重奏――『ジュスティーヌ』『マウントオリーブ』『バルタザール』『クレア』は長い。一巻進むごとに読み終えた人間は半減する(特に『マウントオリーブ』はハードルが高い)。多くの人にとって、アレクサンドリア四重奏といえばこの『ジュスティーヌ』の印象に規定されている。
この『ジュスティーヌ』は、四巻の中でもっともナルシズムに満ちた感傷的な小説ではある。客観的に見ればこれは、金持ち有閑マダムの火遊び相手としてふりまわされた貧乏三文作家の自己憐憫にまみれた回想記でしかない。恋人がいながらその人妻に走ってしまう自分の下半身のだらしなさを、語り手は都市のせいだといいつのる(相手の人妻も共謀して、その情事が自分たちの意志とは無関係なのだと強弁する)。それを取り巻く風景描写の過剰な華やかさのおかげで、それは実にもっともらしく聞こえる。その風景の中に置かれた人々は、一様に悲しく、惨めで、自分より大きな力に突き動かされ、心ならずも何らかの役割を演じさせられているかのように見える。そしてそれこそまさに本書の魅力なのだけれど、でももちろんその相当部分は不倫カップルの弁明にすぎない。
そして語り手もそれに気がついているからこそ、アレクサンドリアからの脱出にあこがれるのだし、だからこそダレルもこの四重奏はほとんど同じテーマをまったく別の角度から次の二巻かけて語り直さなくてはならないのだ。(そして四巻目『クレア』で展開されるいささかご都合主義な、強引なドラマづくりは……)
だが、それはずいぶん先の話だ。初めて本書を読む人は(よほど非情な人でない限り)、たぶんそこでなぜダレルが次の二巻を必要としたか、さっぱり理解できないだろう。本書の華麗さ、美しさは、その自己憐憫的な感傷と見事に調和して、これ一冊でほぼ完璧な世界を作り上げている。会話だけで話が進む最近のラノベ読者ごときでは、この世界の歪みを見つけ出すことはほぼ不可能と言っていい(もちろんかれらがそもそもこれだけ密な世界に耐えられればの話ではあるが)。
その意味で、本書はあなたが四重奏の先へ進めるかどうかのふるいでもある。繰り返し読んで、この世界をソロで味わいつくしてほしい。本書はそれに十分応えてくれる一大傑作だ。だがいつか、その世界の虚構性に気がついたとき、あなたは真の四重奏へと向かう準備ができたことになるのだ。
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