Valid XHTML 1.0!

都市はくつろがない:都市とメディアと郊外化

(『ハイライフ』創刊号1996年初頭? 特集「都市とくつろぎ」原稿)

山形浩生

 友だちがビデオに撮ってくれたMTV。三倍速の、ハイファイ録音ですらない、音の狭い雑音まみれのテープ。その雑音の中からいきなり這い出るようにして曲があふれた。おまえを切り刻みにきた。縛り上げ、殴り倒し、刺し殺しに。おまえのちっぽけな世界を引き裂きにやってきた。そして、おまえの魂までも粉々に。背筋が痺れて、それまで適当に曲にあわせて「イエーイ」とわめきながら打っていた原稿が、とても続けられなくなって、思わずテレビの前に正座した。ガーベジ。初めて聞くバンドだ。曲の終わりですぐに巻き戻して聞き直し、三回目で、最初の印象が平板化していくのがもったいなくて、ビデオを切った。もう今日はほかの音楽を聴けない(どうせ夜中の一時だったし)。神経がたかぶって寝付かれず、しばらく放ってあった村上龍『エクスタシー』を読み始める。

 それは麻薬とSMと暴力にまみれ、憑かれたようにぶちまけられる言葉の群でできた小説だった。くつろぎとは無縁の、自堕落にくつろいで弛緩しきった日常を卑しみ、踏みにじることから始まる小説。おまえを切り刻みにきた。縛り上げ、殴り倒し、刺し殺しに。おまえのちっぽけな世界を引き裂きにやってきた。そして、おまえの魂までも粉々に。その世界で人々は、金や物欲や合理性などはるかに超えた力/意志に操られて栄え、落ちぶれ、死んでいった。

 その力が、その意志が、都市だった。同じことだが、それは人間に都市をつくらせた意志であり、力だった。都市はくつろがない。


くつろぎ

 くつろぎとはしょせん、情報処理の一つの結果である。情報が自分の処理能力を超えているとくつろげない。一方で、自分のポジションを確認できるだけの入力を下回ると、これまた不安でくつろげない。それだけのことだ。車の運転を考えてほしい。免許取り立ての頃は、車内や路上のすべてが次々に情報として目に飛び込む。ミラーを見なきゃ、メーターを見なきゃ、信号だ標識だ、この交差点まっすぐでいいの、え、右折? と気がつくとウィンカーを出し忘れてクラクションを鳴らされる。

 しかし、しばらくすれば、乗り慣れてくるし土地勘もできてくる。何をいつ見て、どれを解釈して、どれを無視すればいいか、わかってくる。日常的に車に乗っている状況で起こりうるイベントの幅が、ほぼ把握できてしまう。そして自分でも、把握できていると確信が持てる。こうなったとき、くつろいだ運転ができるようになる。

 これは、客観的な運転の上手下手とはまったく関係ない、きわめて主観的な状態だ。へたくそな運転手の助手席に座らされて、こっちは冷や汗だらけなのに、当の運転手はまるで気がついた様子もなく、妙にくつろいだ様子で上機嫌でしゃべりまくり、こちらは生きた心地がせず、ただもうこいつの気を散らしたらおしまいだと思って相槌ばかりを繰り返す、という体験をお持ちの方は多いだろう。くつろぎとは要するに、どんなものがやってくるか、ほぼ把握したつもりになっている、そしてそれに対応しきれるつもりでいる状態である。

 体験上のあらゆるくつろぎは、これで説明しきれる。自分の家に帰るとほっとしてくつろげるのは、自分の家の中はすみずみまで既知であるからだ。風呂に入るとくつろげるのは、血のめぐりがよくなるという肉体的な要因もさることながら、入ってくる情報がきわめて限られていることが大きい。知らない人がまわりにいるとくつろげないのは、他人の行動が予想つかないからだ。

 したがって、くつろぎを実現するのはある意味で簡単なことなのだ。どんな状況でもいい。自分に対応可能だと思えるレベルまで、入ってくる情報を制限すればよい。もっとも、あんまり制限しすぎると、こんどは情報飢餓におちいってパニックしたり幻覚を見始めたりするので、不安にならない程度の情報量は必要なのだろう。


メディア

 情報をのせて運んでくるのはメディアである。したがって、くつろぎが情報処理の結果であるなら、くつろぎを考えることはメディア環境を考えることだと言っていいだろう。

 ラジオや新聞、テレビ、雑誌といったメディアについてはすでに多くの議論がなされている。こういうメディアを育ててきたのは、広告業界との幸せな協調関係である。一方、インターネットは、人によってはこれまでの社会やメディアのあり方を完全に変貌させる革命的なメディアであるということになっている。これまでの一対多のマスメディアに対し、ついに多対多のメディアが誕生した! 一方通行の情報ではなく、受け手側の意志を反映されられるインタラクティブなメディアだ!

 もちろん、われわれはまだインターネットに初めて触れたときの感動を覚えている。世界に直轄されたようなあの壮快感と興奮を、われわれは決して忘れることはないだろう。だからこうした議論が出てくる気持ちは痛いほどわかる。にもかかわらず、こうした無邪気な議論を共有するわけにはいかない。こうした議論の多くは、既存のメディアに対しても語られ、その都度もろくも崩れさっていったからだ。永瀬唯は『疾走のメトロポリス』で、多対多のメディアと考えられていた無線が、最終的にはラジオという形で一対多のマスメディアとして圧倒的に普及したことを語っている。そしてその課程で電波のハッカー的いたずら利用を糾弾することで個人の場が削られていった課程を、インターネットの現状と暗に(だが強力に)対比させつつ語っている。

 インターネットの爆発的な普及の一翼を担ったWWWを見たとき、それは決して多対多のコミュニケーションを実現させてはいない。今の個人ページの爆発的な増加は、かつての自由FM放送局と同じで、局所的な盛り上がりにとどまるだろう。やがて淘汰がすすみ、資本をつぎ込める企業でないと、声の大きいページをつくって更新しつづけられない。無線で起きた現象が、ここでも繰り返されているのだ。
 また、商業利用に関する様々な実験を経て、現在ではおしつけがましくない形での広告もかなり見かけられるようになってきている。広告業界もノウハウをつけ、インターネットの活用方法を学びつつあるのだ。とすると、インターネットもこれまでのマスメディアと同じ形でわれわれのメディア環境の中に組み込まれていくのではないか。そこに見えつつあるのは、決して目新しくない、ほとんど旧態然とした昔ながらのメディア像である。

 ところで、ここでのメディアの扱いは、単に情報を乗せてくる媒体という水準にとどめてある。通常はメディアの話をする場合、「メディアはメッセージである」と言ってマクルーハンの話をせずにはすまされない。が、ぼくはかれの議論を現実的に適用するのは無理だと考えている。少なくとも今の水準では。


マクルーハン

 「メディアはメッセージである」。メディアの形態にも注意を払うべきである。もちろんこの指摘は一理あるのだけれど、しかしその「理論」と称するものはむしろマクルーハンの直観から成るアフォリズムであり、現実に応用できるような厳密性を持っていない。

 たとえば、かれの話の中心となる「ホットなメディア」「クールなメディア」という概念である。メディアの与える影響は、それが伝える中身にあるのではない、同じニュースを伝えても、そのメディア自体の性質によって社会に与える影響はまったく異なる、とかれは言う。その影響を左右するのが、そのメディアはホットかクールか、という区別なのだ、と。ホットなメディアは情報密度が高く、受け手が入り込む余地のないメディアであり、クールなメディアは情報密度が低く、受け手がいろいろ補ってやる必要のあるメディアとされている。

 なるほど、ここまではまあわからないでもない。だが、それを実際のメディアに適用するあたりで、話はまるでわけがわからなくなってくる。われわれはラジオ(ホットなメディア)とテレビ(クールなメディア)のどちらの対しても、つけっぱなしにしながら飯を喰ったり仕事をしたりしゃべったりできる。クールなメディアは情報量が少ないからこちらで補わなくてはならなず、こちらの参加を要求する、というのがマクルーハンの主張だった。テレビを見るのにそんな複雑な作業が必要なら、なぜわれわれは同時によけいなことができるのか。

 あるいは飯を喰ったりしゃべったりという作業こそがその「こちらの参加」に該当する行為だと言うかもしれない。マクルーハンはこの種の逃げ口上をよく使う。でもそれなら、なぜホットなメディア(つまり、情報密度が高くてこちらで補う必要がなく、ひたすら受け身にまわるしかないメディア)であるはずのラジオで同じことができてしまうのか。
 一方で、映画もまたホットなメディアだとされているが、映画はどんなくだらない代物でも、ある程度の注視を要求される。映画を見ながらしゃべることは、ふつうは許されない。でもホットなメディアはこちらの参加を要求しないのだから、見ながらしゃべったっていいではないか。

 さらに、電話はクールなメディアだということになっている。むろん電話はこちらがしゃべらないと成立しない。しかし、同じクールなメディアであるはずのテレビとちがい、電話をかけながら他のことをするのは難しい(不可能ではないけれど)。このように、具体的なメディアをとってその性質(ホット/クール)を自分で見極めようとすると、即座に収集がつかなくなってしまう。マクルーハンが熟知していたはずのメディアにしてこのザマだ。ましてこれで、インターネットやWWWがホットかクールか判断をつけようとしてみるがいい。不可能である。

 メディアそのものの形態に注目すべきだ、という指摘はたぶん正しいのだけれど、マクルーハン以降、それを実際に検討した例はきわめて少ない。テレビや電話について、多少注目すべき研究があるくらいだろうか。


21世紀都市の情報環境

 さて、近い将来のメディア環境が、その内実においてあまり変わらないなら、それが置かれる21世紀の都市はどのようなものになるのであろうか。こう問題をたてた瞬間に、われわれは途方にくれてしまう。

 われわれは21世紀の都市の姿を知らない。それどころか、世紀末も近いというのに、20世紀の都市のありようすら知らないというのが実態である。はやいはなしが、われわれは未だになぜ都市に機能が集積するのかという明確な理論を持っていないのである。

 定性的な話はいろいろある。フェイス・トゥ・フェイス・コミュニケーションの重要性とか、都市の情報密度であるとか、あるいは立地ブランドイメージだとかリクルートだとか。だが、それが説得力ある形で定量的に証明された例は皆無である。通信コストや輸送コストの低下にともなって都市は分散するはずだった。が、現実にはここ数十年、それが集積を加速する結果になっている。世界のあらゆる場所でそうなっている。これに対し、いずれ集中のデメリットが大きくなってくるから、そうすれば都市は分散に向かう、というのが一貫して唱えられ続けてきた理論であり、一貫して裏切られ続けてきた理論でもある。

 したがって、電子メディアの発達でテレコミューティングが進み、みんな在宅勤務して、物理的な都市の意義がなくなってくる、という論者もいるが、こうした論調をまともに信じる気にはとてもなれない。新しいメディアが決定的に何かを変えたという議論には、必ずしも説得力がないわけではないのだけれど、有史以来存在し続けてきた都市という現象を無化するほどのインパクトが本当にあるとは思えない。

 だが、こうした都市におけるメディアのあり方は、ある程度の変化を遂げつつあるのは事実だ。

 たとえばニューヨーク。かつて市民ケーンの時代、この都市には都市新聞が十三紙あったという。現在は二、三紙しかない。つい先だっても一紙つぶれたばかりだ。その最大の理由はいわゆるインナーシティ問題である。金を持った中産階級はほとんどが郊外に脱出してしまっており、都心部に残っているのは高齢者や低所得者ばかり。広告主にとってはまったく魅力のない市場であり、広告収入でなりたっている新聞は、きわめて成立しづらくなってきたということだ。逆に言えば、その可処分所得の多い中産階級の住む郊外部は魅力的な市場となっており、しかもその嗜好はきわめて均質なものとなっている。だからこそUSA Todayのような、全国紙に近い存在が成立しうる。かつてのアメリカでは考えられなかったことだ。

 都市の情報メディアの空洞化と郊外化。これは新聞に限った話ではない。インターネットのアクセスプロバイダーやケーブルテレビなどの敷設状況を見ても、これはきわめて露骨にあらわれている現象である。そして、インターネットやパソコン通信などの趨勢を見ても、展開されているのは主にそうした中流階級の郊外的均質性をよりどころとした、似たもの同士の越境的なつるみあいなのである。

 この傾向がこのまま続いた時、あるいは都市におけるメディア環境・情報環境は決定的に変わることがあり得るかもしれない。一番極端なシナリオとしては都心にメディアの真空地帯が形成され、飛び交うのは企業の公開されないデータ・ストリームばかり。そのビルの足下で、人々に見えるような形でのメディアはなにもない、という事態が生じるかもしれない。均質化された郊外部で、均質化されたメディア上を均質化された情報だけがやりとりされるという状況である。

 これもまた、くつろぎの実現の一形態ではあるだろう。既知の環境で既知の情報が、既知の(または既知と大差ない)人々の間で消費されてゆく――イギリスの天才SF作家J・G・バラードは20年も前にこうした状況を予見し「未来は退屈なものとなるであろう」と看過していた。


商品としてのくつろぎ

 こうした形での郊外型均質情報的なくつろぎが望ましいかどうかは議論がわかれる。上のような書き方をすれば、あてがいぶちの情報環境の中で飼い慣らされているような印象で、きわめてネガティブな響きがあるが、しかし現実に人々が、そういう環境を望んで金を出しているのはまぎれもない事実である。これはアメリカだけの話ではなく、世界的な先進国・中進国で大なり小なり見られる現象なのである。
 ただ、こうしたかたちでの「くつろぎ」は、「リラクセーション」とか「リゾート」とか、あるいはたばこや酒のような感覚を鈍化させて情報を遮断する商品でもいいのだけれど、いわばくつろぎをエサに使った商品やくつろぎ情報をつっこむことに貢献しているように思われる。冒頭で、「くつろぎとは要するに入ってくる情報を制限すればよいのだ」と述べたが、それと逆行するような形での擬似的なくつろぎにすぎないのではないか、という危惧はある。
 もっともこれは、今に始まった現象ではない。大室幹雄は名著『園林都市』において、古代中国を舞台に展開された隠者の生態学を緻密に分析している。かれの発見の一つは、文化現象としての隠者は決して都市の情報環境から切り放されてはいないということだった。むしろ隠者の多くはファッションとしての隠者であり、隠者化することで都市の話題となり、いずれ都市に復帰したときの自分の価値を高めるのが主な目的であった。こうした隠者たちが語るのは、もちろん都市の情報文化の浅はかさに対する批判であったり、星月を愛で、草木や自然と戯れる「くつろぎ」の魅力についてだったりするのだが、その語りは常に都市の情報網に向けられているのだった。
 メディアを遮断することで獲得されるはずのくつろぎが、そのまま気ぜわしい情報/商品と化して、メディアに再環流されてゆく――これが現代特有の病理でも何でもない、千五百年も昔から続いてきた都市のありようだったことに、われわれはがっかりもするし、一方で安心もする。マクルーハンがなんと言おうと、インターネット論者が何と言おうと、目新しいメディアがちょっと出現したくらいでは人間のやることは変わらず、われわれは過去の人々の行動を、新しげな意匠でちょっとぶざまに変奏しているだけなのだ、という気はしないでもない。


終章:都市をつくる力

 繰り返すが、くつろぎは情報処理であり、情報の遮断である。だが、あらゆるメディアを断ち、あらゆる外からの情報を排除しても、最後に一つだけ遮断できないメディアがある。それは自分自身だ。

 あらゆる世界には、必ずそういう人々が生まれる。頭の中で常に何かがうごめいている人々。肉体的に、精神的に、何か疼きを抱え込んでしまった人々。かれらにとって、通常の意味でのくつろぎは存在しない。唯一可能なのは、内部からの情報を上回る音や情報に身をさらすことだけである。これはもちろん、郊外的なくつろぎや均質性とは相いれないものだ。

 都市は、そういう人々の場でもある。どうしようもない過剰の発散と、それをおさえこもうとする郊外的な生への反抗。それはティム・バートンやマイケル・レーマンやデビッド・リンチの映画、先にあげたJ・G・バラードや村上龍の小説、そしてパンクやグランジロックなどに強烈に現れている。おまえを切り刻みにきた。縛り上げ、殴り倒し、刺し殺しに。おまえのちっぽけな世界を引き裂きにやってきた。そして、おまえの魂までも粉々に。ノイズと絶叫にまみれた不協和音が、神経の隅々までも逆なでる。

 だが、これこそが都市の本質である。都市をつくりあげざるを得なかった人類の意志である。落ちつきを求めているのであれば、人は決して自然と決別することはなかっただろうし、文明をつくりあげることもなかった。歴史のどこかで人類はそういう過剰とともに生きることを選んだ。なぜかはわからない。だが、その力が、今も確実に都市には息づいているのだ。

 だから、都市はくつろがない。限られた状況で、限られた個人がニッチ的に息をつくことはあっても。都市はくつろげない。くつろぎを完全に受け入れるとき、都市は活力を失って滅びるだろう。今、世界の都市を覆う郊外化の現象がその端緒であるのか、あるいはいずれ都市が、それに拮抗しうる新しい興隆を見せてくれるのか――ほどなくわれわれは、その答えを知ることになるだろう。

その他雑文インデックス  YAMAGATA Hiroo 日本語トップ


Valid XHTML 1.0! YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>