If This is Media Theory, Then There's Nothing Here but Ignorance and Empty Talk.
Valid XHTML 1.0! 月刊 論座 2000/06 月号。

なんかえらく古くさいハイパーメディア万歳論なんですけど。

(『月刊 論座』2000 年 06 月)

山形浩生



ノルベルト・ボルツ『グーテンベルグ銀河系の終焉』(法政大学出版局)書評

 この本の不幸は、これが原著刊行から七年もたって翻訳出版されたことだ。が、読者にとってはありがたい遅れだった。原著刊行時には目新しくて、挙げてあるだけで格好がついた名前や概念が、この間に陳腐化してご威光を失い、ボルツの議論の価値(あるいはその不在)が見きわめやすくなったからだ。

 本書を(帯につられて)読む人の期待は、コンピュータや電子メディアと書物についてのメディア論的な分析だろう。ついでに題名から見てマクルーハンにも言及がありそ。わくわく。

 ……と、期待に胸おどらせてページをめくる読者の前に展開するのは:

 最初の百ページ以上は、ルーマンとハーバマス理論のおさらい。ん、話がちがう……その後、百ページほど続く散漫なメディア史もどきは、訳者にも「目新しさはない」と書かれる程度のもの。「日本語版への序文」のユーザインターフェースの歴史はデタラメよ。

 そして最後で、やっとお待ちかねのコンピュータの話が登場。が、実にトホホな代物。テッド・ネルソンにヴァネバー・ブッシュにマイロン・クルーガーと、懐かしい名前はいっぱい出てきて、うわっつらの相似にはいちいち騒ぎ立てつつ、新しい知見は皆無。ほんっとに古くさいハイパーテキスト礼賛だけ。「これからはカット&ペーストとリンクだ! グーテンベルグ時代の本はもう終わりだ!」 で、最後の一文:「コンピュータが各種メディアを統合するメディアであることを示す理論は始まったばかりだ」。

 ……そんなの理論なんかで示してもらうまでもなく、ぼくのコンピュータは現実にそうなっとるよ。問題は、それがどう人の意識やコミュニケーションにかかわってくるか、という話でしょうが。

 実はこの本「グーテンベルグ銀河系の終焉」と言いつつ「終焉」の議論がまったくない。各種情報が、ハイパーテキストのマルチメディアになって切って貼ってつないで、すごいぞぅ、というだけ。で、その優位性は? なぜグーテンベルグ銀河系(つまり本)はそこで消えるの? その議論は一切なし。訳者によるとこの本の意義は、ドイツで「あんたに映画やテレビゲームがわかるか!」とハーバマスにたてついたことだそうだけれど、そのあんたは電子メディアもコンピュータもわかっとらんわい。こんななまくらなシロモノでたてつかれても、ハーバマスは痛くもかゆくもなかっただろう。

 いちばんつまらないのが、この人にとってネットやコンピュータってのがすべて、空から勝手にふってくる代物でしかないってこと。理論的な位置づけ云々とか。いま、自分たちがその変化にいやおうなく荷担しているという意識(危機意識にせよ幸福感にせよ)は皆無で、第三者ぶった無意味なおしゃべりが得意げに展開されるだけ。自分がメディアや情報のありかたを変えられる可能性、その方法論なんか何も考えてない。

 でもこれは最近出た「メディア論」と称する本すべてに共通する話だ。ケルコフ『ポストメディア論』、レヴィンソン『デジタル・マクルーハン』(ともにNTT出版)。どっちもマクルーハンをネット環境にひきつけて論じようという試みだが、実に無惨。

 マクルーハンはあいまいなたとえ話しかしなかった。深読みはいくらでもできる。でもその基本的な概念分類は役にたたないのよ。たとえば有名なメディアのホット/クール談義。高解像度のモニタで、DVD映画を観つつ粗いCuSeeMeと文字でチャットをする。これはなんなの? ホットとクールなメディアが混合したぬるま湯メディアなの?

 でもこの論者たちは、マクルーハン概念(または比喩)の有効・無効部分をきちんと区別する作業もせず、もっともらしい部分だけつまみ食い。「こう解釈すれば現代的な意義が」とか、まるでノストラダムスの大予言のこじつけだ。画面の解像度や情報量の話とその背後の情報生産体制の話を仕分けせず、表面的な相似をあげつらうだけの与太話が展開される。レヴィンソンは、テレビと映画の受容の差は、テレビが家にあって無料なのに対して映画が映画館で有料なせいだ! と大得意。バーカ。そんなことをいまさら何さわいでやがる。

 そしてどっちも自分の目利きぶりをひけらかしたいので、先端(とかれらが思ってる)技術に媚びを売ってみせる。ウェアラブル・コンピュータ。これで人はネットワークに常時接続だ! 人とネットの融合だ!

 へえ、それで? そういうのは確かに開発途上だけど、それがどうしたの?

 というところで、話はボルツの本に戻ってくる。ボルツも七年前、当時は最先端(とかれらの思っていた)のハイパーメディア翼賛の旗をふるのがかっこいいと思ったのだろう。その結果がこの見る影もなく古びた『グーテンベルグ銀河系の終焉』だ。他の本も同じ運命をたどる。この手のメディア論者のだれ一人、何にも影響を与えることなく、いずれただのポストモダンチックな饒舌として忘れさられる。メディア話なら宮台真司や金原克範のほうがずっとためになるよ。

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