マクロード『表現の自由 VS 知的財産権:著作権は自由を殺すか』書評

(月刊『文學界』文藝春秋社, 2005年9月発売号)

山形浩生

要約:ケンブリュー・マクロード『表現の自由 VS 知的財産権』は、決してまちがってはいないが、社会正義をふりかざしてその自由の真の担い手を否定するようなエリート意識は鼻持ちならず、最終的には民衆蜂起を呼びかけるだけという点で限られた意義しか持たない。



 本書は、題名――少なくとも副題まで――だけ読めば知っている人は中身がすべてわかってしまう本だ。著作権が自由を殺す? というのが副題だけれど、書いてあることには疑問符は何もない。著作権は自由を殺す。各種の著作権規制が、新しい創造や工夫を殺してしまう。そして、その規制や制約は、われわれが常識的に考えてとてもあり得ないと思うような部分にまで及ぶ。本書は、そうした近年の事例をひたすら列挙する。

 たとえばウディ・ガスリーが既存の歌を活用して作った名曲が、いまや(おそらくガスリーが健在なら決して認めなかったような形で)大きく利用を制約されているとか、人間や動植物の遺伝子といった、自然に存在するものにまで知的財産権が設定されてしまっているとか。あるいは、著作権やその隣接権の拡大解釈によって、サンプリングなどの新しい音楽ジャンルが大きな不自由にさらされたり、一部アーティストの創作活動が大幅に制約されたりしている。さらには、公共性を持った空間であるはずのショッピングモールや学校などが企業スポンサーシップなどを通じて私有化され、規制を受けないはずの言論活動などが制約されてしまうことも指摘される。これまで、そうしたものは制約を受けなかった。制約する側は、そうしないとレコード産業なり映画産業、あるいは研究や企業活動が破壊されるというけれど、過去に行われたその手の主張はどれ一つとしてあたっていない。

 なるほど。本書はこうした各種事例について、実に活き活きとした筆致で説得力のある議論を展開する。そうした規制がいかにばかげているかについて、多くのエピソードを交えつつ楽しく教えてくれる。こうした問題についての入門としては実に好適だ。

 で、問題はわかった。それに対してどうすればいいのかというと……それが本書の記述でちょっと弱いところだ。それが本書のちょっと残念なところではある。

 本書の著者ケンブリュー・マクロードは、アイオワ大学の教授だという。ぼくはこれを見て驚いた。本書はむしろジャーナリスティックな状況報告にとどまっており、アカデミックな部分はあまりないからだ。これはぼくがローレンス・レッシグの訳者として、著作権の学問的な解釈議論に慣れすぎているかもしれない。著作権の本来の趣旨とはどんなものか、そしてそれがどんな歴史的経緯で現状に到ったのか? そうした分析はまったくない。まあ一応、著者はもとジャーナリストなので、そういう面が強く出た結果ということか。だが、単に「これまでできたことができなくなりました」というだけでは、それが問題であることをきちんと述べたことにはならない。財産管理のあり方として、所有と責任をはっきりさせることで適切な保全が行われるようにする、というのは一つのやり方だ。その便益と比べてマクロードの述べている害はどの程度問題なのか? たとえば、著者はショッピングモールでアメリカ憲法を書いただけのビラを配ろうとしたら、つまみ出されたという。それを称して企業による公共空間の私有化だ、企業の横暴だ、と著者は騒ぎ立てる。でもこの手の人たちは、そのビラまきをきっかけに何か騒動が起こって誰かがけがをしたら、ショッピングモール所有者の管理責任が果たされない云々と騒ぐ人々でもある。それを考えたとき、著者の騒ぐ空間の私有化などは本当に「問題」なんだろうか? これはかなり面倒な話なので、入門書ということで見通しをよくするため、著者がその議論を意図的に落とした可能性はある。それはそれで正しい判断だろう。が、ぼくにはむしろ、著者がそもそもそういうことを考えていないんじゃないか、という気がしてならない。

 そして、そういう状況についてどうすればいいのか? もちろん、クリエイティブ・コモンズをはじめとする各種の対抗運動についてのかなり手際のいい紹介はある。あるんだが、その紹介を見るとぼくは不安になる。結局のところ、かれの主張はすべて道徳とか社会正義にみんなが目覚めるべきだ、という押しつけがましい議論でしかない。フリーソフトについても、技術的なあれこれより社会正義に重点を置くべし、なんてことを言う。リナックスの成功はそれを意図的に避けたからこそ実現されたという歴史的経緯はまるで無視。お題目だけじゃ人は動かないし、お題目を過度に強調するのは硬直した教条主義に陥って見放されるだけなのに。だが340ページあたりに見られる、楽しい技術追求を重視するプログラマに対する妙な敵意は、マクロードがすでに「アクティビスト」を名乗る連中にありがちな、鼻持ちならないエリート意識に染まりつつあることを物語ってはいる。かれ自身がいくつか小さな反抗をして見せて、レコード会社の脅しにも屈しませんでした、といった武勇伝はある。だからみんなも立ち上がらなければ、というわけ。それは確かに立派な行動ではあるんだけれど、でもそれが長期的な問題解決になるのかははっきりしない。裁判になっても負けない場合だって多いから萎縮するな、という激励もあるが……負けたり、裁判費用が重すぎたりして困る人が増えているから本書が書かれたんじゃないの?

 翻訳は、十分に読みやすいものだし特に問題になるようなところは見あたらなかった。ぼくが見た範囲で唯一揚げ足をとれるのは、p. 254 に出てくる「ゲリラの少女」というのは、1980-90年代の有名なアート集団ゲリラガールズのことだというくらいの話(まあさらにembraceを抱きしめると直訳するのは芸がないとか、ブリュースター・カールという表記が妙に一般化しているけれど実際はケールが正しい(本人に確認済み)とか、言い出せばきりはないけれど)。

 というわけでまとめだ。読者は、本書を読むことで知的財産権の問題がいかに広範な領域で問題となりつつあるかについて、とても要領のよい見取り図を得ることができるだろう。多くの領域で、ぼくたちの常識やこれまでの慣行に明らかに反するようなことが、著作権や知的財産権の名のもとに横行している。その実態をかなりビビッドに理解することができるだろう。この問題についてすでに関心のある人々なら、紹介されている事例の多くはすでにご存じだろうけれど、楽しく読めるのでおさらいにも好適。さて、それについてどうすればいいか? 本書には、先駆的な試みについての大まかな紹介もある。それを見てどうするか、その先は読者のみなさんに与えられた課題だ。



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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