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ユニクロの挑戦からタタの衝撃へ

山形浩生

『エコノミスト』増刊号 2009/8/10 pp.114-16 (pdf版)

要約:途上国は、すでに先進国の安かろう悪かろうの劣化バージョンにとどまらない新しいカテゴリーの製品を生み出しつつある。ネットブックの台頭、タタ自動車のナノなどはその代表格だ。いまはそれを嘲笑する日本メーカーは、いずれいまのGMと同じ命運をたどるかもしれない。


 ユニクロが我々の買い物行動の中で市民権を得て、すでにかなりたつ。そこそこの品質で、そこそこよいデザインのものをそこそこ安く売るという戦略が、日本でも十分に受け入れられるようになってきたということではある。だが、それが当初かなり大きな衝撃だったことは、まだ多くの方が記憶しているのではないか。

 当初は確かにユニクロに対して多くの人はアンビバレントな感情を抱いていた。二年ほど前に、「ユニばれ」なる表現がはやっていると一部で報道されたことがあった。学校でユニクロをきているのがばれると、ちょっと恥ずかしい。それをユニばれと言うのだという。アメリカでも、かつてはギャップがそのような印象を持たれてはいた。みんな着てはいるし、安いのでありがたいが、あまり公言したくはないという感じだ。

 だが最近、そのような感覚は薄れつつあるのではないか。いまユニクロ製品(あるいはギャップ)を着ているといったところで、別にそれがどうということもない。今年になって、低価格ブランドH&Mが日本上陸を果たしたときには行列までできていた。最低限のラインをクリアしていれば、チープブランドでもぜんぜんかまわない。ボタンの付け方が甘かったり、布地が多少安手だったりはするかもしれない。でもどのみち、十年着るわけじゃない。多くの人はファッション性なども過剰には追求しない。恥ずかしくない程度であればいい。それで安ければ何の文句もない。  同時にユニクロ現象は、中国製の安さを印象づけるとともに、中国製がかならずしも安かろう悪かろうではないことを多くの人に示したものでもあった。

 そしていま、似たような動きが製造業の他の分野でも生じつつある。これまで途上国とされてきた新興国が、これまでの常識を大きく打ち破る、桁違いの低価格製品を打ち出してくる。それらは低品質とか、安かろう悪かろうとか言われる。が、実際に見てみると、安いけれどそんなに悪いわけではない。それは市場を次第に浸食し、日本企業をはじめ先進国企業も対応せざるを得なくなる。一見すると、これはまったく新しい動きのように思える。が、一歩引いて考えてみると、これはいままで何度も繰り返し起こってきたことだ。ただ、かつて日本は追いかける側だった。それがいまや、追われる側になっているので目新しく見えるだけなのかもしれない。そして、単純にそれが低賃金とコピーに頼った価格破壊ではないことにも注意が必要だ。そこには安くするための努力がある。

 もちろんそうした動きの急先鋒は中国だ。たとえばいまいるラオスでは、ここ数年で中国製バイクがものすごい勢いで増えている。公共事業交通省によれば、日本製のスーパーカブ系のバイクは二千ドルほどしていたが、いまの中国のバイクは品質はどうあれ四百ドルもしない。おかげでみんながバイクを持つようになり、交通計画なども見直しを迫られている、と。

 さて中国の安さについてはいろいろ言われている。設計がコピーで、さらに人件費の安さや、安全性も含めた品質を落とすことで安くなっているだけの、安かろう悪かろうの代物でしかない、と。そういう面もないわけではない。  だがそれだけではない。バイクなどの場合、人件費や設計の占める割合はそんなに多くない。人件費等が安ければ一割くらいのコストダウンは稼げるかもしれない。だがこのバイクの例にあるような、値段五分の一を単純なコスト削減だけで実現するのは不可能だ。

 タプスコット&ウィリアムズ『ウィキノミクス』などによれば、中国のバイク業界は確かに日本の設計のコピーから始めた。でも、まず重慶と浙江の協力会社たちが、密接なネットワークの中で情報を共有して協力すると同時に、設計もモジュラー化を進めた。これにより各部分で独立したイノベーションが可能となる。たとえばエンジンとフレームを別々に検討できる。これにより、企業間の競争も保たれている。おかげで中国の輸出用バイクの価格は、十年ほどで三分の一以下に下がったという。まだまだ品質的に劣るとはいえ、低価格を実現できていること自体が、継続的なイノベーションによるものであり、そしてイノベーションを可能にする仕組みの結果だ。

 あるいは最近はやりのネットブック。もともと組み込み用だった低価格の非力なCPUを使い、小さめの液晶画面機能を限定しつつ携帯性を重視したパソコンだ。出先でメールをチェックしてウェブが閲覧できればそれでいい、という割り切った発想で、しかも五万円以下の低価格。これを発表したのは台湾メーカーだった。

 最初に発表されたときには、多くの国産メーカーは「うちはあんなのに興味はない」と一蹴した。だが、不況の影響もあったし、またユーザーの多くは、特に出先でさほど複雑な作業などしないという現実もあって、ネットブックは大人気となり、これまでにはない新しいカテゴリーを作り出した。そしてそれは頭打ちのパソコン市場の中で、数少ない急成長分野だ。結果として、当初はせせら笑っていた既存企業がいまや次々に、ネットブックかそれに類するものを出し始めている。パソコンが無意味に高スペック化していることはずいぶん前から指摘されていたが、それでも従来の企業はスペック競争で差別化して売るというモデルから抜けられなかった。ネットブックを発表した台湾企業は、抜け出せた。思い切った低スペック、思い切った低価格。それを企画して実現するだけの見識がかれらにはあり、そしていまや先進国の企業がそれを摸倣にまわっている。

 そしてもちろん、こうした例として最近大きく注目されたのは、今年インドで正式発表された、タタ自動車のナノだ。二千ドルの車。急成長するインドの国民向けに開発された車。ミラーも片方しかないし、ハッチバックのように見えて剛性確保のためにバックは開かない。一見すると、とにかく引き算で削りに削って作った車のようにも思える。だが、中国のバイクの例でも見たように、それだけではこの水準の低価格は無理だ。二千ドルの車は、インド人たちによるかなりのイノベーションの成果なのだ。

 それにより、従来は考えられなかった低価格が実現した。そしてまだ量産はされていないものの、人気は一応あるようだ。予約は一瞬で埋まったというし。しょせん二千ドルだし、たぶん物珍しさも多いに関係しているのだろう。でも多くのインド国民は、インドの国民車という愛国的な位置づけを割り引いても、この車の到来を心待ちにしているようだ。

 この量産が軌道にのって、そして下馬評通り売れれば(売れるだろう)、ナノは世界的な注目度からいっても、まったく新しい乗用車のカテゴリーを作り出したことになる。常用車の歴史の大きな流れの一つは、まさにこうした低価格量産車の歴史でもある。アメリカ消費者文化と現代モータリゼーションの基盤を創ったT型フォード、ナチスの肝いりフォルクスワーゲンビートル、VW対抗の農民車として開発されたシトロエン2CV、各種の日本車――いずれも自動車誌史上に残る画期的なものだった。ナノもこの範疇に確実に入る。

 むろん日本企業はナノが自分たちの脅威だなどとは公言していない。日本のある自動車メーカーの人と個人的に話したところでは、ナノなんか脅威どころか、迷惑だ、とのこと。そろそろハイブリッドや電気自動車に移行しようという時期なのに、ナノのようなものが出てきても内燃機関が延命するだけだ、と。

 が……その一方で、その人は語る。コスト引き下げを考えなくてはならなくなった、と。百万円台で考えていた車の製造コストを、急に二十万円を視野に入れて考えなくては、と。もちろんこれは、日本メーカーが超低価格車を作るということではない(だろう)。でも、それを考えないわけにはいかない状況になったということでもある。

 今後、自動車の成長市場がいまの途上国(ひいては明日の中進国)になるのは目に見えている。中流階級入りした世帯が真っ先のほしがるのは、どの国でも自家用車だ。一方、先進国の買い換え需要がそんなに急増することは期待できない。どのメーカーも、途上国市場を考えないわけにはいかないし、そこで二十万円の車が売りに出されるのなら、それを無視するわけにはいかない。ルノーはこのご時世でありながら、いまモロッコに年産四〇万台の大工場を建てており(日産も出すはずだがこの不況で一時中断)、ヨーロッパ向けにひたすら安価なルーマニアのダチアの車を生産するらしい。

 そして、ハイブリッドや電気自動車は、果たして日本企業にとってプラスとなる、高くても買ってもらえるような商品になり得るのか? もちろん、ハイブリッドは日本がいま技術的優位を主張できる分野ではある。でもそれは、下手をすると電気自動車への過渡的な製品ではないか? いつまで続くのだろう。そして電気自動車となると、日本企業にそんなに優位はあるか?

 これまでの内燃機関は、毎分何千回という爆発を封じ込めつつ、しかもピストンはなめらかに動く、というよく考えるとめまいがしそうな条件を余儀なくされている。それだけのストレスがかかるエンジンのヘッドやシリンダーに要求される精度と品質は並大抵のものではないし、日本の高度な技術が優位を持つという議論に説得力はある。それに、それを裏付けるだけの実績も十分に積んでいる。

 でも電気自動車はモーターだ。ものすごいストレスがかかるような箇所はない。途上国企業でもそんなに問題なく作れるかもしれない。自動車エンジンの生産ができる国は世界でも限られている。でもたとえばマブチモーターは世界中に進出して至る所で生産を行っている。もちろん電気自動車用のモーターは、もっと複雑だしいろいろノウハウも要る。でも内燃機関のエンジンを作るよりはハードルが低いのではないかともされる。日本企業のリードもまだまだ小さい。そこに力点を移したとき、日本企業の優位性は維持できるのか?

 消費者側も変わってきた。冒頭のユニクロの話でも述べたが、低価格ブランドにもう抵抗はない。価格・コムなどで、韓国製や中国製の液晶テレビへのコメントを見ると、居間の中心に安っちい中韓ブランドが居座っているのは許せないといった国粋主義的な書き込みがたくさん並んでいる。でも実際にはそんなことを気にする人はごく少数だ。他人の家に呼ばれたとき、そこにある液晶テレビやDVDプレーヤーのメーカーなどを気にしたことがあるだろうか? 高いものを買ったところで、数年すれば陳腐化してしまうのに。ソニーは超高級超価格ブランド「クオリア」なるシリーズをぶちあげて、ものすごい値段のデジカメや液晶テレビを売っては見たものの、鳴かず飛ばず。ほとんど発表と同時に、どの製品も基本性能で見劣りするようになり、二〇〇六年にこのシリーズは消滅している。ブランドのご威光で高値をつけられる商品はもちろんある。今後当分、フェラーリは安泰だろうし、ロレックスやパテクフィリプの腕時計を買う人もある程度は残る。だがそれ以外の部分では、商品のライフサイクルも短くなっているし、少なくともいまは消費者もお金がない。品質だって機能だって、最先端など追いかけずとも、自分の必要最低限の基準さえ満たせば、あとは値段しか見ない。高級路線とか、ハイエンドとか言っている間に、下手をすると日本の製造業はまったく居場所がなくなっているかもしれない。そして気がつくと、安かろう悪かろうだと思っていた新興国の製品があらゆる分野を席巻しているかもしれない。

 実はそれは、半世紀前の日本の姿でもある。初めてアメリカに日本車が輸出されるようになった頃、アメリカでは日本車を馬鹿にするジョークが大流行だったという。日本車は非力なので、高速のランプでいつまでも本線に合流できず立ち往生していました等々。今からはとうてい考えられないことだけれど、日本製品の評価とはそういうものだった。戦後、日本製品とは安かろう悪かろうの代名詞ともされていた。筆者大学時代の一九八〇年代までは、日本は摸倣やコピーばかりでオリジナリティがないというのはさんざん聞かされた話だった。  むろん、そうした悪口やジョークを楽しんでいたアメリカ人たちは、GMやクライスラーに乗っていたわけだ。どちらも倒産してしまったのはご存じの通り。われわれは、この両者の経営陣がいかに市場を読めず、経営者たちが硬直していて新しいトレンドについていけなかったかを指摘して、笑ってみせる。でも下手をすると、いますでに日本企業はかつてのGMやクライスラーの同じ轍を踏んでいるのかもしれない。下手をすると、今日見るかれらの末路は、日本の製造業の明日の姿になりかねない。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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