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「みんなの意見」は案外正しい

みんなの意見の意義と限界:『「みんなの意見」は案外正しい』解説

山形浩生

スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』(角川文庫) 解説)

要約:みんなの意見は案外正しいが、まちがっていることもあるうえ、だれも責任をとれないし、またそれが計算のやり方次第で構築されるものだという認識も必要。でもそれさえわきまえれば、新時代の新しい常識生産の可能性がここにはある。ついでに、これが普及すればこれまでの常識の担い手である年寄りの地位は低下することになり、別の含意が出てくるが……


 この本は、「みんなの意見」つまりいわゆる集合知についての本だ。傑出した(とされる)専門家の見解よりも、ふつうの人々の意見や感覚をまとめたほうが、予測精度の高さや適応力の高さを示すことがある。そしていまや、それを積極的に活用しようという試みがいろいろ見られるようになった。なぜそれが可能なのか? その可能性と留意点はどこにあるのか?

 さて本書のテーマは、最近ではかなりあちこちで話題になっており、似たような内容の本も増えてきた。たとえば拙訳のレッドビーター『ぼくたちが考えるに、』は、事例だけ見ればその種類も幅もずっと豊富だ。だが、原著刊行から五年たった二〇〇九年現在でも、本書の価値は下がっていない。本書は、初期に出てきたために、議論にある程度の慎重さがある。そこにこの本の価値がある。

 類書はどんな具合だろうか? もちろんこの数年で、新しい事例は出てきている。その筆頭はウィキペディアだろう。Twitter や YouTube の話もある。類書のスタンダードな構成としては、まずウィキペディアとグーグルの話をし、アマゾンやイーベイでの集合的相互評価システムの話をする。リナックスを例に集団的創造の話題に触れ、Twitter や YouTube とブログを組み合わせて新しいジャーナリズムのあり方や、それを通じた市民社会ガバナンス再建の話をし、現在の沈滞した代議制民主主義の限界をひとしきりくさしてから、ネットが可能にする新たな直接民主主義社会の夢をうたいあげる――そんな感じになるだろう。

 でも本書はそれほどお気楽な代物ではない。本書は、集合知が絶対によいとは言わない。集合知が見事に機能した例と同時に、集合知が大失敗を冒した例を大量に載せる。そしてそこから、集合知が機能するために必要な条件をていねいに説明する。また、それを歪めかねない要因についての行動経済学的な記述も詳しい。事例だけを知りたければもっと新しい本を読むほうがいい。でも、もう少し深い理解がほしい人には、本書の慎重さはきわめて役に立つ。

 ちなみに、その意味で本書の邦題は、原題『群衆の叡智』より優れている。『「みんなの意見」は案外正しい』。この「案外」の部分が、本書の長所をうまく言い当てている。集合知は絶対ではない。みんなが思っているよりは正しい。でも、それをうまく引き出して活用するにはそれなりのコツがいるのだ。

 さて、集合知そのものは、実は新しい発見ではない。これを活用したデルファイ法などの予測手法は六〇年代から存在していた。でも、いまなぜこの発想が注目されているのかといえば、それはもちろんインターネットとコンピュータの発達のせいだ。多くの意見を集め、集約する手法が大きく発展したからだ。そして実はその手法こそが本当のキモだ。だからこそ、グーグルがあれほど評価されるのだ。

 そしてそこに実は気をつけるべき点がある。集合知とか「みんなの意見」というと、何かそういう意見や知識が自然に実体的に存在するような印象を持ちやすい。でも実は「みんなの意見」は、かなり高度な手法でだれかが作り上げるものだ。自然に生まれる合意のようなものではない。その意味で、個人的にはこの種の集合知を民主主義とつなげて論じるありがちな議論に、少し疑問を抱いている。

 たとえば「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意や妥協から生まれるのではない」(p.18)と本書は言う。意見集約には投票すべきなのだそうだ。でも、何でも投票で片付けて少数意見を切り捨てるのが民主主義ではないのも当然だろう。妥協と合意のない政治などあり得ない。その意味で著者の言う集合知や「みんなの意見」は、実は究極のところで民主主義とは似て非なるものなのかもしれない。その「意見」が集約され、作り上げられるプロセスには、ものすごく警戒が必要なはずなのだ。

 そしてそれに伴い、本書でボケ役の専門家の役割についても、必要以上に軽視すべきではないことも指摘しておこう。というのも本書には出てこないが、「みんなの意見」には大きな欠点がある。なぜそういう結論になったのか、さっぱりわからないのだ。本書冒頭の例だと、なぜウシの重さが一一九七ポンドだと思うんですか? 専門家なら、その根拠を(こじつけでも)説明できるし、その説明に対して(形式的にせよ)責任を持つ。でも「みんなの意見」の根拠なんかだれも説明できないし、だれも責任を持たない。あなたが五里霧中の状況にいたとき、根拠レスな「みんなの意見」に本当に命を賭けられる? ジャングルで迷ったとき、専門家はたとえば植生を根拠に西に向かおうといい、その判断に自分の名誉と命を託すという。ところが「みんなの意見」は、特に根拠はないけどなんとなく東だという。さて、あなたは「みんなの意見」に従う気になる? 従わない人は本当に不合理と言えるだろうか?

 また「みんなの意見」には、改善の余地もない。専門家なら、新しいやり方や工夫を導入できることもあるけど、「みんなの意見」はどうしようもない。さらに「みんなの意見」とされているグーグルの検索も、実は専門家の知見に大きく頼っている。だって、その検索結果が「正しい」という判断は何を基準に行われているのか考えてみよう。  たぶん本書などを通じて、「みんなの意見」の威力についてはだんだん認識が高まってきたとは思う。おそらく今後重要になるのは、その「みんなの意見」と専門家をどう使い分けるか、という話だろう。これは、まだ答えがない分野だ。

 最後に一つ、荒唐無稽な話を。本書は「みんなの意見」の結構古い例も挙げている。でも実はもっと古い、おそらく有史以前から活用されてきた「みんなの意見」がある。

 それは、常識というものだ。

 常識は多くの人々の、経験や試行錯誤に基づく知識を集約し、長年かけて蓄積したものだ。まさに「みんなの意見」。そして以前は、常識のほとんどは日常生活の知恵でしかなかった。日常を多く経てきた年寄りが、常識の担い手として敬意を集めた。が、いまや世界の変化は加速し、要求される常識の範囲もすさまじく拡大した。もはや日常の知恵などではすまない。料理や掃除のコツに加え、パソコンやケータイの使い方、金融政策に素粒子物理、環境問題からアフガン情勢。新規の知識生産が増え、それを前提に世界が大きく動くようになると、試行錯誤の結果が常識として蓄積されるのを悠長に待っていることなどできなくなってしまった。それでも社会に何らかの規範は必要だ。どうしよう?

 もしかすると、最近高まりつつある「みんなの意見」や集合知への関心と応用は、そうした中で新しい形の常識を再構築しようという人類の無意識の試みなのかもしれない。常識が、従来の蓄積型から計算型構築型へと変化し、分散式でリアルタイムに構築されるようになる――いま起きているのはそういう変化なのかもしれない。

 それ自体は、本書の説を信じる限り、そんなに悪いことではないのかもしれない。だがその副作用として、これまで年の功で常識を多く蓄えてきた(と建前上は思われている)年寄りの地位は確実に揺らぐはずだ。そのとき、何が起こるだろうか? しかもこれが世界的な高齢化社会の到来と同時に起こっているのはなかなか興味深い。ぼくはこの意味で「みんなの意見」重視で、予想のところに大きな(ヘタをするとエグい)影響が出る可能性があると思うのだけれど、どうだろう?

 が、ここまでひねくれたことを考える人は少ないにしても、本書が読む人に、いろんな新しい可能性や見通しに気がつかせてくれるのはまちがいない。そして何よりも重要なのが、別に傑出した天才や専門家でもない、つまらなくて平凡な自分であっても、ひょっとしたら人類全体としての叡智に貢献し、わずかなりとも世界の進歩と改善に役立っているのかもしれないということを教えてくれることだ。本書を読んでそれに気がついた読者諸賢が、いままで以上に人類全体の集合知に深く参加されんことを!。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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