「クリエイティブ・コモンズ」解説

(「Web2.0キーワードブック」(翔泳社))

山形浩生

要約: クリエイティブコモンズは、しめつけが厳しくなる著作権規制に対して、自分でその規制の度合いを選び、自由に使える素材を増やそうという意図で生まれた。著作権否定ではない。作品数も増えているし、現状の著作権の変な状況を変えようという利用者の側からの試みだ。



  クリエイティブコモンズとは、自分の各種作品や創作物に対して付与できるライセンス群、そして/あるいはそれによって構築される作品のプールのことだ。

 現状では何か作品を作ったら、黙っていれば自動的にかなり強い知的財産保護がもらえる。自分の作品は他人が勝手に見たり読んだり使ったりしちゃいけないし、許可なしに作り替えたり改ざんしたりするのも禁止。ましてそれを使って商売するなんてもってのほか。あなたの作品をどんな形で利用するにも、まずはあなたの許諾が必要になる。

 クリエイティブコモンズのライセンスは、この権利を自主的に制限したり放棄したりしやすくするためのものだ。自分の作品を、断りなしに使ってもいいとか、勝手に改変してもいいとか、あげくにはそれを使って勝手に商売してもいいよ、といったライセンスを、とても簡単に付与できるようにしてくれる。

  が……自分の権利を制限したり放棄したりする、だって? 自分の権利はめいっぱい大きい方がいいのに、何が悲しくてそんなバカなことをしたがるね? そしてなぜそんなバカなことをする人々が世界中に増えているのか? そしてそれがどんな意味合いをWeb2.0にとって持つんだろうか?

クリエイティブコモンズの背景

 見方によっては、こんなバカな発想はない。権利は多ければ多いほどいい。種類も量もどんどん増やそう。それが人権国家の誇りだ! というわけ。著作人格権のないアメリカ法は、人権意識が遅れている、なんてことを言う人もいる。

 が、権利なんてのは、しょせん社会のお約束ごとだ。バカみたいに増やせばいいってもんじゃない。ここでの問題になっている、知的財産に関する権利だって、それを増やしてなんか役に立つのか? それを考えなきゃいけない。

 で、役に立つ、というのが一般の見方だ。だってそうやって権利をあれこれ増やしてあげると、知的財産を作った人が、それを使ってお金儲けをしやすくなるじゃないか。そうすればみんな、お金ほしさにせっせと創造活動に精を出してくれるだろう! これぞ知財立国! マイクロソフトを見よ! ハリウッドを見よ! 海賊利用に目を光らせ、見つけたら即座に金をむしりとるのだ!

 そこで登場したのがネットだ。何と、ネットではみんな勝手に音楽ファイルを交換したり、アイドル写真をばらまいたり、違法ソフトを流通させたり、やりたい放題ではないか! どうりで最近CDが売れなかったり本の売れ行きが落ちたりしているわけだ、こういう不埒な連中を取り締まるためにも、知的財産権の強化は必須である、というのが一般の理屈で、官民一体でこれがどんどん推進されてきた。

 しかし……なんか変だ。知的財産権が強化され、それが特にネットを標的にするようになってくると、現実世界での規制と妙に齟齬が目立つようになってきた。

 現実世界では、ぼくが買った本を人に見せるのは、ぼくの勝手だ。ぼくが好きなバンドのロゴ入りTシャツを来たり、好きなキャラの人形を持ち歩いて見せびらかしても、何も問題はない。これは別にそのメーカーがお目こぼしをしてくれているから、ではない。「山形は当方の知的財産を無断で公開している、けしからん」とその権利者がぼくを訴えても、絶対負ける。山形がそれを買ったときに当然ついてくる権利として認められているからだ。

 ところが、それをだれかがビデオに取ったら? ぼくの鼻歌を録音してラジオで流したら? とたんに著作権だ知的財産権だという話になる。特に欧米のテレビでは、商品名、ブランド名の入った部分はすぐにモザイクがかけられてしまう。あるいは、窓に好きなポスターを貼って、通行人がだれでも見られるようにしても問題はないけれど、ネットにそれをアップロードしてだれでも見られるようにすると、とたんに著作権侵害だと言われる。

 そして検索エンジンの発達により、そういう「侵害」を発見するのはどんどん簡単になっているのだ。つまりインターネットは、一部では著作権無法地帯と思われているけれど、実は現実の世界より厳しい規制が行われていたりする。これは変じゃないか? 現実世界で認められていることは、ネット上でも認めた方が一貫性があるのでは?

クリエイティブ・コモンズ

  だが……それでもなぜいけないの、という疑問は残るだろう。それは現実世界のほうが変なんじゃないか? 権利を大幅に拡大してクリエーターたちがやる気を出してくれるなら、そのほうがいいのでは?

  だが実際には、クリエーターたちはますます窮屈な状況に追い込まれていった。映画やビデオの作家は、街角の風景を写すたびに各種商標やロゴを避けなきゃならない。昔のビデオを使うには許諾が必要だが、権利保持者と連絡の取りようもなかったりするし、連絡がとれても目玉の飛び出るような大金を請求されるし、見落としがあればあとからすさまじい損害賠償を要求されるようになってきた。こんなんじゃまともな作品は作れない。

  音楽でも、サンプリングやリミックスが非常に重要な技法となっているのに、ヘタに権利が拡大されたために、それがどんどん困難になっている。これはかえって創造をつぶしてないか? また本だってCDだって、売れ行きが低下したのは単によい作品が出てないからでは? ネットで見つけた曲でも本当にいいものはみんな買ってる。いやむしろ、最近の「恋のマイアヒ」みたいにネットの違法流通がきっかけでヒットしたりする曲もあるじゃないか。

   そして今は「オリジナルな創造物です! 無断利用は許しません!」といきまいているミッキーマウスのようなものですら、実はもともと各種のネタを無断利用したことで誕生している。

   さらには、フリーソフトが急激に復活がある。ソフトウェアの世界で知的財産権を声高に主張した企業たちは、むしろお互いにつまらない言いがかりのような訴訟合戦にあけくれ、有益なものを生み出すどころか滅亡寸前となってしまった分野もあった。そこへ共有も改変も自由に認める常識はずれなライセンスのLinuxが登場し、あれよあれよの大躍進をとげた。その後も知的財産のしばりがきわめて緩く、商業利用さえOKというフリーソフトの仕組みは、多くの人の創造力を結集させてすごいソフトウェアを生み出した。インターネット周辺の人たちはそれをまのあたりにした。知的財産権を厳しくしてチマチマお金を取れるようにしたら創造性が高まるとは限らないんじゃないか? みんなが自由に使える材料があったほうが新しいものは生まれやすいんじゃないか?

 ウェブの発達も、その一つの裏付けだった。自分のウェブページを作った人の多くは、他人のウェブページのソースを見て、それを真似することで勉強し、自分なりの新しいページを創造していった。

 そしてデジカメ普及やらブログの流行なんかもある。別にみんな、知的財産権で保護されて儲けのチャンスだと思ったからブログを書いたりデジカメで写真をとったりするわけじゃない。

 もう大体言いたいことはわかったはずだ。多くの創造行為は、他人の創造物を下敷きや材料にして、その上に構築されている。そして最近のデジタル化は、ますますその傾向を強めている。過度の権利主張は、下敷き利用や材料利用を禁止し、新しい創造を不可能にしてしまうので、かえって有害かもしれない。それなのに、著作権団体はそんなことをお構いなしに既得権だけ守ろうとして権利を強化したがり、政府や法律もそれに追随して、新しい文化の創造はますます危機にさらされている可能性が高い。

  この事態を憂慮したのが、スタンフォード大の法学教授ローレンス・レッシグだった。ネットにおける過度の規制や権利拡大の危険を訴えて、不完全な規制の重要性を一貫して主張してきたかれは、アメリカでの野放図な著作権期限延長に対する違憲裁判の弁護を買って出た。そしてその一方で、いちいち許可なく自由に合法的に使える作品群を生み出すために、法律研究者として新しいライセンスを作ることにした。人々がそれを自主的に採用することで、法制度の改正を待たなくても、創造の材料として使える作品のプールが形成される。だれでも使える、創造のための共有地(コモンズ)を作るんだ!

  その結果として2002年に登場したのがクリエイティブコモンズだった。自分はこの作品について、ここまでしか権利を主張しません、こういう条件さえ守れば好きに使ってもらってかまいません、というライセンス群だ。

クリエイティブコモンズのえらいところ

 さて、似たような問題意識に基づく試みは他にもいくつかあった。が、みんな鳴かず飛ばずの中、クリエイティブコモンズだけがどんどん普及を見せている。それはクリエイティブコモンズがちゃんと組織的に普及活動を行ったというオルグ力もある。でもそれと同時に、クリエイティブコモンズは他と比べて実用性やネット環境の未来を圧倒的によく考えてあったのだ。

まず、クリエイティブコモンズのライセンスには三つの顔がある。

 一つは、普通に人間が読めるライセンス。他人が使うときに、帰属(著作権者名)を出すべきか? 商業利用していいか? 派生利用(改変したり形式を買えたり)していいか? 概ねこのくらいの条件が選択できるようになっている。普通の人が自分の作品の利用を考えるなら、だいたいこのくらいの精度で考えるだろうというのを普通の文にしてある。

 二番目は、実際に法的に意味を持つようなライセンスの条文、かれらの言う「弁護士向け」のライセンスだ。法律は、単に人の意図(名前さえ出せば自由に使えるとか、派生利用は同じ条件でとか、商業利用はダメとか)を書くだけではダメだ。名前を出すのでも、見えないくらいの大きさで誰にも読めないように書いたからいいだろ、とか派生ではなくインスパイアされたんです、とかくだらない言い逃れをして居直るやつがたくさん出てくるし、商業利用となると本当にどこまで商業なのかわからない事態もたくさんある。ソフトウェアを買うと、細かいだれも読まないライセンス規定がついてきて、封を開けたらそれに賛成したことにする、ということになっているけれど、そこに何が書いてあるかほとんどの人は見てもいない。

 クリエイティブコモンズは、それをきちんと定めて裏付けてある。はやい話が、このライセンス違反に遭遇したら、裁判を起こして(おそらくは)勝てる、ということだ。ただし、まだ実際にそうした裁判は起きたことがないので、本当に勝てるかどうかはまだ未知数ではある。でも、そこまで考えてあるのは、ライセンスとしては強い。そして、人間が読めるライセンスの部分でどういう選び方をしたかに応じ、この部分も変わる。

 そして三番目の最も大きな特徴が、マシンで読める部分。今すでに、多くのサイトや情報の認知度は、それが検索にちゃんと引っかかるかどうかで決まってくる。ググって(グーグルで検索して)ヒットしないような情報は、実質的には存在しないに等しい。クリエイティブコモンズも、機械にちゃんと認識してもらえるようでないと話にならない。

 クリエイティブコモンズ・ライセンスはそうした機能も確保した。ウェブページであれば、そのフッタ部分にライセンスをRSSで埋め込む。pdf であればメタデータに埋め込む。これにより、ネットで検索をかけるときも「フリーで使える素材だけ」といったような検索ができる。将来、Web2.0の進展の中で自動的に各種の素材を拾って組み合わせるような動的な利用も増大するだろう。そのとき、クリエイティブコモンズのライセンスを機械に判断させれば、自動的に権利上の問題がクリアされるようになる。この三つをきれいに連動させたことで、クリエイティブコモンズは、わかりやすさと厳密さ、そして自動化対応をすべて満たしている。

 ライセンスの選択プロセスも実に簡単。ウェブでいくつか条件を指定すれば、この三種類のライセンス形式がワンセットですぐに提供される。そのインターフェースはこちら:

http://creativecommons.jp/apply/index.html

 さらにおもしろい点。最初にアメリカで成立して以降、クリエイティブコモンズは各国の法事情にあわせたローカライズを展開している。英米に比べ、欧州や日本の著作権法には、著作人格権なるものがついてくる。その具体的な中身はここでは触れないが、これがあるおかげで法的に意味のあるクリエイティブコモンズ・ライセンスを日本で作ろうとすると、多少文面が変わってくる。利用者にとっての意味は大差ないけれど、特に弁護士向けの文面はかなりちがう。

 これはある意味で、まったく新しい国際法の形成だとも言える。法律というのは、どっかの偉い人が決めてみんなに押しつけるものだ、と思っている人が多いけれど、そうじゃない。本来であれば、社会的な合意がまずあり、その一部(ごく一部!)を条文化したのが法律だ。国際法なんていうのは特に慣習の集まりだったりする部分も多い。ただ、これまでは国際的な合意形成の場はどこか雲の上で行われており、下々の民意が国際的に反映されることなんかあり得なかった。

 ところが、このクリエイティブコモンズは、このライセンス自体が各国の法制度的な差異を吸収して、ライセンス利用者のレベルではほぼ同じような条件群を自分の作品に付与できるようになっている。そしてそのライセンスの利用者が増えれば、将来的には各国が著作権法や知的財産権の見直しをする中で、このライセンスの実現しようとする規制運用のあり方を無視できなくなる可能性もある。グローバル化、ボーダーレス化の時代と言われ、世界共通の合意をどのように形成するかは現在大きな問題となっている。ネットを通じた世界市民の対話や地球的意識というお題目はよくきくものの、その具体的な手法については未だに何もないも同然だ。クリエイティブコモンズは、そうした新しい国際的な法制度構築手法の一つのヒントとなっている。いわば個別の国の法体系にアブストラクションレイヤーを設け、本当に人々が求めるものを自分で選びとれるようにする手段を提供することで、実質的に世界共通の制度構築を実現できるわけだ。

クリエイティブコモンズへの批判

クリエイティブコモンズに対する批判は当然ある。一部はまったくの無知の告白でしかないが、中にはそれなりに妥当性を持つものもある。

  まったくの無知蒙昧な批判としては、これが著作権を否定する共産主義者の陰謀だというもの。もちろん、これは悪質なデマゴーグだ。行使しないのも権利のうち。人は自分の作品をどんな条件で公開するかを決める権利は当然ある。それは権利という概念そのもので認められていることだ。それを行使しやすくしたからといって著作権を否定したことにはならない。むしろ著作権があるから可能になっている仕組みだ。

  次に聞く批判は、クリエイティブコモンズを利用した作品が出てきていないというもの。自由に使える素材をたくさん提供すれば、みんな当然のように創作力を発揮して新しい作品がたくさん湧いてくるはずじゃなかったの? ところが現状では、多くの作品がクリエイティブコモンズのライセンスを使ってはいるものの、それを利用した目立つ作品は見あたらないじゃないか?

 この批判は一理ある。「クリエイティブコモンズを使ってこんなすばらしい作品ができました」といった紹介もたまにあるが、往々にしてCC関係者によるためにするヨイショだったりして、実態はかなりショボい。しかしその一方で、高度な最先端のものだけが作品ではない。著作権侵害におびえずに、他人の作品を安心して自分のブログや論文に使えるというメリットは非常に大きい。そうした意味でのクリエイティブコモンズを利用した「作品」は大量に生まれている。

  一般人はいちいちライセンスなんか気にしないし、それを作品につけるような手間もかけないのでは、という指摘もあった。これも一理ある。だが、一部の大手の写真サイト (flickrなど) や一部のブログサービス等、あるいはビデオサイトYouAre では、サインアップするときに選べるデフォルトのライセンスの一つとしてクリエイティブコモンズを含めている。いちいち作品に手作業でライセンスをつけなくても、これならサイトに文章や写真、動画をアップするだけで、クリエイティブコモンズを利用するものは増える。それで十分かというのはその人の見方次第ではあるが、ほとんど利用されないのではないかという初期の懸念は杞憂だったのではないか。

  そしてもう一つ。クリエイティブコモンズは、規制が強化され それは敗北主義的ではないか、という批判はある。著作権その他の知的財産権が強化されすぎているというのが当初の問題意識だった。かつてはデフォルトで認められていたものが、もはや許されなくなり、自由がどんどん浸食されてきた、というのが問題だった。これに対して、「ここだけは自由な領域」というのを明示的に作ることは、逆にその他の部分における制約を容認していることにならないだろうか? クリエイティブコモンズ以外の部分は自由度のない制約つきの作品でもいいのだ、と言っているに等しくないか? そんな敗北主義でいいのか?

 これも批判としてはあり得る。が、現状で自由の浸食はかなり進んでしまった、という認識がクリエイティブコモンズ創設の背景にはあった。確かに各種知的財産権の規程そのものを、創造性の活動余地のあるものに戻すのが最高ではある。だが、そんなのはいつになるやらわからない。次善の策としては、クリエイティブコモンズは十分に有効だし、それがあるから他の部分の規制が厳しくなるというのは話が逆だ。それに、こうしたゆるい著作権をみんなが積極的に容認し、選びとっていることが示せれば、将来的に知的財産権を見直すときにも大きな材料となるはずだ。

クリエイティブコモンズの未来

  以上で見た通り、クリエイティブコモンズに対する批判は、必ずしも妥当とは言えないか実態を反映していない。このライセンスを利用した作品も増えているし、またライセンスそのものも世界各国に広まりつつある。

 いつの日か、状況は変わるかもしれない。知的財産権保護の行きすぎにみんなが気がついて、もう少し緩めよう、自由な利用を許すようにしようという気運が高まり、それにあわせた法制度の改定が行われるかもしれない。わざわざクリエイティブコモンズのライセンスであれこれ指定しなくても、十分に創造性が発揮されるだけのコモンズが生み出されるかもしれない。そのとき、クリエイティブコモンズはその歴史的な役割を終えるかもしれない。が、その日はかなり遠そうだ。たとえば著作権の保護期間を野放図にのばしてしまったアメリカでは、今後10年以上にわたりパブリックドメインには一切作品が追加されない。その期間、知的コモンズに新しい材料を供給できるのは、CCライセンスによるクリエイティブコモンズなどの自発的試みだけだ。

それで?

それで、はない。そうした作品が増え、コモンズが豊かになる。それでおしまいだ。そこから新しいビジネスが生まれるかもしれない。新しい作品が生まれるかもしれない。新しいコミュニケーション形態が生まれる可能性だってある。だが、クリエイティブコモンズは、そこまでは面倒を見ない。それをやるのはそれぞれのユーザ/クリエーターのほうだ。クリエイティブコモンズは、別に結果を保証するものじゃない。それは単にいまの「かもしれない」の部分を担保するものでしかないんだから。

 でもそれこそが、Web2.0にとっての基盤だ。Web2.0だってまだ定義もさまざまで、いったい何なのかもよくわからない、「かもしれない」のかたまりなんだから。だが現時点ですら、Web2.0の必須条件としていくつか挙がるのは、ユーザ参加、動的な利用、相互の引用とインタラクションなんてものになるだろう。ちょっとした利用でも権利でガチガチにしばられていたら、これは実現不可能とはいわないまでも、非常に制約されたものになってしまうだろう。Web2.0の可能性は、クリエイティブコモンズ(あるいはそれに類するようなもの)の存在によって大きく広がる。その可能性を現実のものとしつつさらに拡大させられるかどうかは、コモンズ利用者たるわれわれの腕にかかっている。


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