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無関心の王者バロウズじいさまの冥福を祈りつつ

(『ユリイカ』1997年9月号 特集:児童文学 pp.46-47)

山形浩生

 ウィリアム・バロウズが死んだ。ついにと言うべきか、やっとと言うべきか。すでにネットワーク上には無数の追悼文が飛び交っている。曰く、ビート・ジェネレーション四天王の一人。カットアップなどの技法で文学の概念を根底から覆した人物。ゲイのくせに二回も結婚し、そして女房を射殺してしまったすごいヤツ。ありとあらゆるドラッグを試し、ぼろぼろになりつつも常に生還し、同志たちが次々に死んでいくなかで一向に衰えをみせなかった不死身のジジイ。アンダーグラウンド文化の帝王。齢七十を過ぎてなお次々と作品を発表し、ショットガン・ペインティングなる絵にも手をそめ、映画出演やコマーシャル出演など次々に新分野に手を出し続けた永遠の冒険者。ローリー・アンダーソンやREMのマイケル・スタイプ、クローネンバーグやルー・リードやカート・コバーンなど、現代文化の最先端からあがめ奉られる現代のカルト・アイコン。

 もちろん、これはすべて本当なのだけれど、でも……でも、バロウズは決してそういうものになろうとしてなったわけではなかった。アンダーグラウンド文化の帝王と称されても、何か積極的な行動でその座にたどりついたわけでもない。そして帝王と称されてからもそこで何をしたわけでもない。単にいただけ。ギンズバーグは、ビート的な文学運動をかなり意識的に主導していたが、バロウズはちがう。なんとなくビートと称される人々のまわりにいた、というのが実態に近い。そしてそれは、バロウズの一生を通じての態度でもあった。かれは常に、何に対しても積極的にコミットせず、ひたすら無関心だっただけなのだ。

 代表作『裸のランチ』や『ソフトマシーン』『ノヴァ急報』は、今世紀の文学史上に確実にその名を残すだろう。一方では手法への極端な耽溺、そして一方ではそのブラックでシニカルなユーモアと、冷酷なほど客観的でグロテスクな描写のために。このいずれも、かれを特徴づけていた無関心さから派生する。無関心だからこそ、つきはなした観察と描写ができる。対象に無関心だから、手法にばかりこだわる。ある意味で、かれの文章は無関心と無関与の文なのだ。そしてそれが、バロウズをきわめて二十世紀的な作家にしている。

 だが、バロウズの無関心と冷淡さは、決して本人にとって幸せなものではなかった。それはいつもまわりの人間を巻き込んで不幸な事態を招いてしまうのだ。息子を愛することができず、恨まれつつ先立たれたこと、両親のすねをかじりたおしたまま、臨終すらみとれなかったこと。その両親とも兄ともついに和解する機会がなかったこと。そしてもちろん何よりも、妻を射殺してしまったこと。バロウズはこれを深く後悔していた。でも最後の最後まで、自分がその手で彼女を殺したという事実を認めようとはしなかった。事故だった、悪い霊に憑かれた――かれが妻の射殺について述べるのは、こんな逃げ口上ばかり。

 バロウズの晩年はとても静かだった。後ろめたさの裏返しのペシミズムと人間嫌いをますます強め、ネコやメガネザルたちだけに心を開き、カンサスに引っ込んで暮らしていた。小動物の話を書くときだけ、かれの文には変な生々しさが現れる。動物たちを媒介に、過去のさまざまな人々やできごとが夢のように目の前を通りすぎる。みんな行ってしまった。寂しい寂しい寂しい寂しい……作品も動物たちへの思いを語り、混沌とした夢や過去の中に安らぎを見いだそうとする、やさしくて切ない(だがかつてのバロウズからは考えられないほど後ろ向きでセンチメンタルな)ものへと変わっていった。

 そしてここ数年、かれはもはやものを書いても発表を考えなくなっていた。

 かつてかれは、近所の子供たちに「透明人間」と呼ばれていたという。存在感がなく、いるのかいないのかわからない――バロウズは常にそういう人間だった。心不全でぽっくりと逝ってしまったのだという。享年八十三歳。大往生だが、どうだろう。いま、かれの晩年の作品を訳していて思うのだが、かれはもうこの世にも関心を失っていたようだ。人間関係を修復すべき相手もすべてこの世を去り、もはややりなおす道を失ってしまったかれは、実はやっと死ねてほっとしているのではないだろうか。そう思えてならない。かわいそうに。本当にかわいそうなウィリアム・バロウズ。せめて無事に成仏なさりますように、合掌。

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