(『文学界』(2005 年 2 月頃)
山形浩生
かつて、稗田阿礼は古事記を丸ごと暗記していた。それを太安万侶が書き取ることで現在のような『古事記』が一応できあがったわけだ。そしてそれは、『古事記』の享受者を大幅に拡大した。かつては稗田阿礼のような人が、何かの行事の折りに(たぶん即興も交えながら)せいぜい数十人、数百人に伝えられただけの文化が、一挙に時間と空間を超えて多数の人に共有されるようになった。でもその一方で、それは稗田阿礼のような人――そしてその人々が作ってきた口承文化――の終焉を意味した。その後、人はもう『古事記』を暗記したりできなくなった。これは多くの文化で報告されていることだ。文字が入り、記録がとれるようになると、豊かな口承文化の世界は急速に失われる。音楽でもそうだ。文化人類学者はよく、滅び行く民族の文化を記録して残さなければ、といってテープレコーダーを持ち込むけれど、その行為自体が即興性を殺し、文化の崩壊をはやめたりするそうだ。
もちろんバカな文士はこういう話をきいて、ラッダイトじみた妄想にふけるのが好きだったりする。文明と称する横暴によって文化の多様性が失われるのがどうしたこうしたとか。これは要するに、自分は便利な文明の恩恵を受けつつ、ドジンどもは動物園に隔離して未開のままにして、末永く見物できるようにしましょう、と言っているに等しい。そういうやつらが、自分では文字を捨てて稗田阿礼式の暗記世界に戻る覚悟があるか、といえば絶対にない。あたりまえだろう。現代の常識からすればすごい記憶力を失っても、文字というものがもたらした便益の大きさは否定しようがないからだ。稗田阿礼は太安万侶を見て言っただろう。「やれやれ、最近の若い連中はこの程度のものすら覚えきれず、あんな変な紙だの筆だのに頼り切っちゃってるよ。もう日本文化もおしまいだね」と。でも、その物覚えの悪い太安万侶たちは、文字を使った新しい文化世界を創りだし……それが現在に至っている。
ハンフリー『喪失と獲得』(紀伊國屋書店)という本は、進化論の観点からそうしたテーマを論じている。たとえばラスコーやアルタミラの洞窟壁画。躍動感あふれる動物たちの絵は、高度な文化の存在を示唆していると一般に理解されている。でもハンフリーは、その絵の特徴――複数の構図が無造作に重なっている点、線の描き方、ウシや馬と比べて人間の描き方が異様に稚拙であること――がことばのしゃべれない自閉症児の絵とそっくりだと指摘する。そうした自閉症児は、言語能力を発達させるにつれて、その驚異的な絵画能力を失う。だったら、あの壁画を描いた古代人たちも、実は言語を持っていなかったんじゃないか。だからあんな絵が描けたんじゃないか。そして人類はその後、言語を得るかわりに、驚異的な画力を失う。だが、その画力を犠牲にして得た言語は、人間を飛躍的に進歩させた。人は何かを犠牲にして一歩後退することで、飛躍的に前進するための能力を獲得してきた。千五百年前の日本人が記憶力を犠牲にして文字文化を獲得したように。
それだけじゃない。人は知性を得たから他の動物より進歩できたとされる。ならば、どうして世の中バカばっかりなの? どうして進化はもっともっと超天才たちを創りださないの? あるいは、美男美女は相手を見つけやすくて得だ。なら、どうしてわれわれみんな、美男美女になってないの? ハンフリーの仮説はやはり、喪失と獲得だ。頭のいい人は、自分でなんでもできてしまうので、他人とあまり交流する必要性がない。頭の悪いやつは、群れて相談し合わないと何もできないけれど、でもそれ故に群れるから、頭のいいやつより社会を創りやすい。人は知性を犠牲にして社会を手に入れているのだ、と(アメリカのある州の警察では、IQがある程度以上の人物は警官に採用しない。チーム行動がしにくいからなのだそうだ)。美男美女は、努力しなくても相手を手に入れられる。でも、社会の進歩のためには、相手を獲得しようというブスや醜男たちが努力をしてくれたほうがいい。美を犠牲にして、人は努力と進歩を手に入れているのだ。
それはいずれも、個人レベルで見れば一歩後退だ。ぼくたちは嘆く。なぜあたしはもっと頭がよくないのか。なぜおれはこんなに貧相な面構えなのか。どうしてこんなに物覚えが悪いのか。でも、その欠点とその克服手段が、長期的には集団全体にとって大きな進歩をもたらす。すると世の人が退化だと思っているもの――最近のやつらはケータイを持ったサルだとか、あいさつできない、学力低下、恥がない、すぐキレる等々いろいろ言われる――だって、ひょっとしたら人間全体がさらに大きく前進するためのプロセスなのではないか。
おそらくいろいろある中で、たぶん最も本誌の読者(そして著者)に関係するのは、文字文化だろう。読解力が落ちている、子供も大人も本を読まない等々、という話はいろいろ言われる。文字を読むという習慣はだんだん衰退しつつある。それは日本だけじゃない。世界中で言われてることだ。その原因の一つは、テレビや音声の通信で、文字なしでもコミュニケーションができるようになってきているからだ。ミハウ・ナディンは『文盲の文明』(未訳)で、そうした文字に頼らない新しい文明の、現在進行形の可能性について述べている。ぼくはかれの説の細部にはいろいろ文句もあるけれど、でもそのビジョンがハンフリーの進化的な考え方と異様にかっちり対応することは否定しがたい。文字は情報の伝搬を飛躍的に容易にした。その一方で、読むのは孤独な体験だ。高すぎる知性がコミュニケーションを低下させるのが問題であるなら、過度に「読む」のもまたコミュニケーションの敵だ。一日中本ばっかり読んでいるような人々(本誌の読者など)は、実は引きこもりのネット中毒にも劣るコミュニケーション敗者だったりする。情報を使い、共有するためにはあまり読み過ぎないほうがいいはずだ、ということは容易に想像できる。もちろん文字には文字の優位性はある。何よりも、それは情報伝達手段として異様に効率がいい。でも……ブロードバンドと大容量記憶装置は、その効率性が持つ優位性をどんどん下げつつある。本で読むのと同じ内容を映像と音で伝えられれば、本なんか読む意義はなくなる。今すでに、映像と音のほうが本より効率が高い状況は生じつつある。読むのに何日もかかるハリポタ最新刊だって、映画なら二時間半ですむじゃないか。そして同時に、読めるようになるための訓練の時間と労力はバカにならない。ホントにそんなコストを全員が負担する必要があるんだろうか。
すると……文字の(当然それに付随するブンガクとか評論とかその手の代物も含む)未来、というのがだんだん見えてくるんじゃないか。社会全員ががんばって読み方を勉強し、それぞれ個別にハリポタだの『戦争と平和』だの『裸のランチ』だのを読むよりも、みんなが手抜きでしか読み方なんか勉強せず、結果として湧いてきたこらえ性のない文盲寸前の連中が、まあ四、五ページずつ読んでそれをネットやらケータイやらでやりとりして、群盲がゾウをなでるようにしてある作品の全貌を描き出す――今後の文字、そして小説その他のあり方は(もちろんそれが生き残るとしての話だが:あなた、なぜ小説だのブンガクだの読みたいね。それが人類進歩の何の役にたつね)、そんな感じになるんじゃないか。そして、そのほうが人間のコミュニケーション的にはいい、というのは言うまでもない。ケータイやネットが社会の崩壊につながるといった議論はあるけれど、たぶんそれはウソだ。むしろケータイでの愚にもつかない会話によって成立する社会とはどういうものかを考えたほうがいいのだ。
もちろん、文字が滅びることはない。文字ができたって人はある程度の記憶力は残したし、世の中完全にブス醜男や、どうしようもないバカばかりじゃない。言語ができたって、みんな多少の絵はかけている。そんな感じで、文字文化だって多少は残るだろう。これまで、テレビで本が滅びるとか、写真週刊誌で文字文化が滅びるとか、ネットが本を殺すとか、その手の話はたくさんされてきたけれど、たぶんそれはウソだ。ただ、その残り方というのはみんなが思っているようなものじゃないだろう。そして、文字文化を脱した新しい社会への移行はどのくらいで起こるのか? 文字やテープレコーダーを持ち込まれた土着文化が崩壊するのには、ものの数世代しかかからないという。その変化は、予想外にはやく、そう、ぼくたちの存命中に確実にやってくるはずだ。
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