「市場」の比喩としての映画『ブラック・スワン』

(『経済セミナー』2011/09号?)

山形浩生

要約: 映画『ブラック・スワン』は、規制の厳しい市場の、こぎれいながらダイナミズムを欠く停滞と、規制緩和によるダイナミズムと自己崩壊のリスクとの対立を描いた映画としても観賞可能だ。



先の号で映画『ヤバイ経済学』のレビューを執筆させていただいた際に、最近は経済学がらみの映画がいくつか出てきていることに触れて、その中に『ブラックスワン』を挙げた。

 むろん、これは冗談のつもりだった。タレブ『ブラックスワン』は、株式市場などにおいて、だれも存在すら予想していなかった超低確率事象が、実際には正規分布で予想されるよりも高い頻度で起こり、人間の本性に起因するため理論的対応が困難であることを(必要以上のこけおどしめいた饒舌さで)述べてた本だ。

 これに対して映画『ブラックスワン』は、ナタリー・ポートマンが演じるバレリーナのニナが、「白鳥の湖」主役に抜擢されたことを中心に起こる悲劇を描く。まったくちがう話で、両者には何の関係もない……と思っていたのだが、実際に見ると、これはあながち冗談ではないかもしれない。

 ニナ(ポートマン)は、市場の比喩として見ることができるのだ。市場(ニナ)の均衡は、それまで厳しい公的規制(過保護な母親)によって清廉に維持されていたが、市場参加者(舞台監督)はそれを「不感症」と批判し、強い自由化要求をつきつける。そしてミラ・クニスに表象される自由=悪徳(タバコ、酒、ドラッグ、セックス)がやってくるとニナもそれに惹かれ、母親の力が弱まって規制緩和が導入されるが……

 そしてそれを引き起こしたのは超低確率事象(白鳥の女王役への抜擢)に伴う「ブラック・スワン」だという、あまりにできすぎな設定。

 むろんこの議論はかなりこじつけもある。だが、どうだろう。本作監督ダーレン・アロノフスキーの出世作『π』は、世界のあらゆる物に数学的パターンを見いだす主人公が、株のテクニカル分析に没入する話だった。かれは経済ネタもわかっている。話題作だったタレブ『ブラックスワン』くらい当然読んでいるだろう。

 そしてこのように見たとき、映画『ブラックスワン』は自由化に対する批評にもなっている。一九七〇年代にケインズ主義の優位が崩れ、規制緩和と自由化が怒濤のように進んだ。それは一部で華々しい成功をもたらしたものの、現在進行形の世界金融危機を筆頭に、かえって世界経済を混乱に陥れたとも言われる。その対応としては、かつての強い公的規制に戻れ、との声もある。  その主張はもっともながら、どうなのだろう。この映画の比喩を真に受けるなら、ニナは過保護な(そして明らかに変な)母親の規制の下に戻れば幸せなのだろうか。おそらく映画を見た人の多くは、そう思えないだろう。そして、それをふまえたとき、ニナの最後のせりふ「わたしは完璧だった」はどうとらえるべきか?

 むろん実際には「市場」とか「規制」とか「自由」がデジタルに存在するわけではない。現実には、市場の規制や自由のあり方も様々だ。だが映画にそこまで要求するのも酷だ。映画『ブラックスワン』は、ある意味で市場や我々が抱えるのと同じ問題——規制と自由のバランスの困難——を見事に描いたからこそ、大ヒットたりえた、と見るのはいささかうがちすぎだろうか。


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