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J・G・バラードの技術風景 (2016.06)

映画「ハイ・ライズ」(日本公開2016年8月)のパンフ用説明

山形浩生

 この映画の原作『ハイライズ』は、イギリスのSF作家JGバラードの中期の作品となる。1996年にクローネンバーグが映画化した『クラッシュ』、『コンクリートの島』と並んで、テクノロジー三部作と呼ばれることが多い。

  バラードは、一貫して科学技術が人間――それも人間心理――に与える影響を描き続けてきたSF作家だ。SFなんてすべて、科学技術が人間に与える影響の話だと思う人もいるだろう。でも実際には、多くのSFで科学技術は人々に何の影響も与えていない。宇宙にでかけても怪獣と戦い、ライバルと果たし合いをして、銀河帝国を作って陣取り合戦をする、というのがほとんどのSFだ。そこに描かれた人々の心性も行動も、今と変わらない――いや、今より退行した18世紀の冒険小説やら騎士道小説やらに近いとすらいえる。

  でも……そんなはずがあるだろうか?自動車を持ち、携帯電話を持ち、インターネットを持ったことで、ぼくたちの心理も行動も大きく変わっている。SFに登場するような宇宙旅行や時間旅行や科学技術の未来世界だって、人々の心――そして行動――を変えるはずかないか?バラードの問題意識はそこにあった。

  かれの1956年のデビュー作は、深紅の砂丘に暮らす未来の人々を描いた『ヴァーミリオン・サンズ』の連作だ。人の心に反応する建築や遺伝子改良植物、そしてそれが逆に人間の心に潜む欲望――特に性的な欲望――を歪め、暴走させ、狂気と破滅をもたらす。そしてそれに続く1960年代の破滅三部作『狂風世界』『溺れた世界』『結晶世界』は世界的、宇宙的な災厄がもたらす破滅と主人公の心理的な世界との関わりを、象徴的に――そして従来のSFには見られない、高度な表現力で――描きだした傑作群とされる。この頃にバラードが行ったSFのあるべき姿は「SFは外宇宙ではなく内宇宙を目指すべきだ」というものだった。

  でもこうした作品は、技術やSF的な設定が人間心理に与える影響というよりは、そうした設定が人間の心理変化を比喩的・象徴的に表現するというものとなっている。バラードは、それでは不十分だと思ったようだ。そして70年代の初頭には、「テクノロジカル・ランドスケープ」という実験的な方向性に向かう。

  これは、ぼくたちが技術とその結果にさらされる様子を忠実に再現しようとするものだ。いまのぼくたちは、車に乗り、急速に窓の外を通り過ぎる巨大広告を見ると同時に、片目でツイッターをチェックし、耳からは脱線事故のニュースが入ってきて、という具合に、様々な情報を断片的に摂取している。しかも都市に住む人々が増えるにつれて、もはや人々は「自然」に触れたりしない。身の回りのあらゆるものが、技術の産物だ。技術こそが人間にとって新しい自然となっている! そしてその中で、メディア環境を通じて死、セックス、セレブ、事故、災害などが大きく増幅されるようになる。そうした技術の有無イメージを羅列した『残虐行為展覧会』(1970)は、あまりに実験的ながらもその後の方向性を位置づけるものとなる。

  そして、それをもっと普通の小説に引き戻す形で書かれたのが、この『ハイライズ』を含むテクノロジー三部作だ。 ここでの人々は、完全に人工的な環境――『コンクリートの島』では高速道路に囲まれた分離帯、『ハイライズ』では高層ビル、『クラッシュ』では自動車――に置かれる。そして人々はそれを新しい自然として、むしろ自分自身の原始的な心性を次第に開放するに至る。『クラッシュ』で、人々は自動車事故とセレブというメディア現象に性欲と死の欲望を抱くようになる。『コンクリートの島』では、主人公が文明の成果の中にいることで、原初的な人間関係をへと退行する。そしてこの『ハイライズ』は、高層ビルが人々をかつての部族社会へと退行させる。

  これらは、比喩として読んでもいいだろう。でも……バラードはおそらくこれを本気で信じている。テクノロジーが、本当に人々の原初的な心性を拓き、その嗜好を変えると思っている。

  その後のバラードは、80年代にはスピルバーグが映画化した『太陽の帝国』をはじめとする自伝的な作品と、そして90年代から2000年代には管理社会や高度管理空間における人間の暴力衝動噴出を描く作品群を書いている。そして2009年に他界。

  そんなバラードは、1930年に上海のイギリス租界で生まれ育っている。そして『太陽の帝国』で描かれたように大日本帝国軍の捕虜収容所で窮乏生活を送る中で終戦を迎え、イギリスに戻る。かれの技術と、その技術で改変された世界へのこだわりは、この上海の捕虜収容所時代の記憶――大量破壊技術による荒廃と死の風景――を原風景として生まれたものだという。

  その一方で、かれはまた、郊外住宅地の均質性と退屈ぶりにも注目している。「未来は退屈なものになる」というのがバラードの有名な指摘でもある。その退屈が、逆に人々の原初的な衝動の噴出をもたらしている。

  こうしたバラード作品の映画化は、必ずしも容易ではない。技術が人々の心に与える影響を、どこまで映像的に表現できるだろうか。ぼくはある意味で、最もバラード的な雰囲気をうまく出せているのは、ある意味でミケランジェロ・アントニオーニの全盛期の作品なんじゃないかと思っている。現代の工業化された世界が生み出す環境が、人々の心を荒涼とさせる――ただ、バラードの世界はそれだけには終わらない。倒錯的ではあるけれど、バラードは技術の解き放つ人々の野生や原初の衝動を悪いものと思っていないふしがある。かれは、それにむしろ魅了されている。この『ハイライズ』も、技術が人々の心を荒廃させるという現代世界批判として描くのは簡単だ。でも、それが一方で魅力的なことでもあり、人間世界の未来への可能性を示唆するものでもあるという――バラード自身もときにうまく描ききれなかった――見方をどこまで映像で表現しおおせているかがポイントとなる。さて、この映画がどこまでそれに成功できているだろうか。

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