Valid XHTML 1.0!

十一月の春秋誌


山形浩生

 いや、なんかいきなり電話がかかってきてだね、文藝春秋に書評を書いてくれ、とゆーんだよ。天下の文春がこのオレに? ブツは瀬名秀明の新作「八月の博物館」。いずれ読もうと思っていた本ではある。それに、昔書いた「Brain Valley」書評を読んで、是非にと思ったんだって。おおおお、これはいろんなことができそうだ。というわけで、即オッケー。で、本を買って読み始めました。

が。

一読してぼくはすっごく腹がたったのだった。だれだ、瀬名にポモを教えたのは。二読して、いくつかいいところはなんとなくあった。ああ、ここをもうちょっとのばしてくれれば……それにこの物語ってものの認識は、なんかちがうよぅ。

 どうしようかな、と思った。締め切りは11/24だけど、迷って24日までとりあえずほうっておいたら、電話があって、この締め切りはサバ読みなしだから急げ、と言う。うーむ、しょうがない。というわけで、とりあえず思った通りにざっと書いてみたのだ。それが以下の代物:


物語って、そうじゃないんだよ。(Ver 1.)



 『八月の博物誌』は、あの『パラサイト・イブ』の瀬名秀明の長編第三作だ。これまでの科学ホラー的な作品とはうって変わった作風。小学生がふとまよいこんだ博物館と、そこから広がるエジプトへの情熱と世界――それだけ書かれていればすばらしい作品になれただろう。その部分についてはまったく不満はない。上野や九段の博物館やニューヨークの自然史博物館やメトロポリタンを、ぼくは昔ドキドキしながらみた。この本を読みながらそのドキドキやおもしろさがよみがえってくるのをぼくは確かに感じた。フーコーの振り子も好きだった。それが本当に回転しているかどうか、とうとう見きわめられなかったっけ。その前にたって、ぼくはいろんなことを想像した。その博物館が、本当にいろんな世界への出入り口になっている――いいな。すてきだな。

 それを瀬名秀明は無惨にぶちこわす。自分をモデルにした作者というのが出てきて、創作上のいきづまりについてグチをたれるんだ。物語とはなにかわからない。純粋な感動が得られなくなった云々。

 そして情けないことに、この作者は作中人物とおはなししちゃって、さらに自分の作者に話しかけたりする。一方で「私たち自身が物語になるんだ」と言いつつ。あなたは自分の作者に話しかけたりする? 生きることの切実さ、リアルさってそういうものじゃない。それに自分たちが一つの物語を生きていると信じ、その作者と話をしようとしてきたユダヤキリスト教の伝統がどれほど困難で血塗られ報われない作業だったことか。

 そう、これは本当にすてきな小説になれたかもしれないんだ。ぼくは亨の持っていた夢や苦しみを知っている。かれの物語は、ぼくの物語でもある。でもこの作者の物語は、瀬名以外のだれにも切実さを持たない。その無切実な人のおかげで、ぼくの物語でもあったはずのものが、急につくりものに変えられてしまう。

 いつもの瀬名秀明の欠点はこの作品でも健在。最終的に失敗し、倒される側がいつも、あまりに薄いんだ。本書では、古代エジプトの聖なる牛アピスっていうのが出てきて、それが復活しようとする。……なぜ? 亨くんや作者に負けず劣らず、ミトコンドリアも、神さまも、アピスも物語を生きている。アピスの無念、アピスの復活への思い――それを瀬名はぜんぜん書いてくれない。アピスは本当に亨くんに「作家になってキミの話を書く」なんて言われて納得してくれるの?

 物語ってそうじゃない。アピスの復活への思いと、謎の博物館の揺らぎと、そして作者自身の迷い。それが一つの媒介を通じて結びついたとき、それが物語なのに。なにかが起こったとき、それは必然だったのか偶然だったのかだれにもわからない。異様な偶然の積み重なりで、株式市場は崩壊し、戦争が起きて宇宙と生命が誕生する。そこに人は物語を読んでしまう。偶然と必然のはざまにうまれ、その両者を結ぶのが物語だ。そしてそれは、あなた一人の物語じゃない。それを読むぼくたちが現実に生きる物語でもある。その物語はほかの物語たちとからみ、衝突してわかれゆく。それはお手軽な消費、卑しい感情移入とはまったく無縁の物語だ。

 瀬名はたぶん、苦しんでこの世を呪いながら死んでゆく存在の話を書かなきゃいけない。この世を破壊しても自分の想いをとげたい存在の話を悪役側からかかなきゃいけない。本書のラストで、作者たち、キャラクターたちは一見ふっきれたように読める。でもその実、物語についての話は終わっても、肝心の物語自体は忘れられている。読者のみなさんは、本書を手にとって、亨と美宇とマリエットの物語だけを読むといい。そこには、それはそれはすばらしい物語の可能性がある。その材料はほとんど無限につまっているのに。それを読者のあなたが見つけて、あなた自身で構築し直して、続きをつくりあげなきゃいけない。それだけの価値のある物語が、ここにはまだ眠り続けている。


 これに対してすぐに電話があった。「弊誌では、とりあげるからにはみんなにその本を買いたいと思って欲しいのである。したがって、こういう批判的なのはちょっとその、なんとか」とのこと。なんだー、昔書いた「Brain Valley」書評を見て書かせようと思ったんなら、ぼくが罵倒レビューもいっぱい書くのは承知のうえじゃないのか。そういう本質に関わるようなことは先に言っておいてくれー!!

 とにかく、この時点でワタクシ、かなり頭にはきたが、まあしょうがない。何回かこういう目にはあっているので、一時は必ずほめなきゃいけない書評かどうかはきくようにしてたんだけれど、それをわすれたこっちも悪い。しょうがない、というわけでいいところを中心に全面改訂。ぼくは編集者の要求にはおおむね応えるのである。


ある夏の博物館の物語(Ver 2)



 『八月の博物誌』は、あの『パラサイト・イブ』の瀬名秀明の長編第三作だ。これまでの科学ホラー的な作品とはうって変わった作風。小学生がふとまよいこんだ博物館と、そこから広がるエジプトへの情熱と世界――もう三〇年以上の思い出がよみがえってくる。上野や九段の博物館やニューヨークの自然史博物館やメトロポリタン美術館を、ぼくは昔ドキドキしながらみた。この本を読みながらそのドキドキやおもしろさがよみがえってくるのをぼくは確かに感じた。フーコーの振り子は、上野と、あとどこで見たんだっけ。その回転はとってもゆっくりで、だからぼくの見たところでは下のところにぐるっと棒がたててあって、それが順番に倒れることで回転を示すようになっていた。ぼくはその棒が倒れるところが見たくて、ずっとずっと(親がしびれを切らすまで)その前で見ていたのだけれど、一度もぼくの目の前では倒れてくれなくて、いつもがっかりさせられたものだった。ぼくの知っているフーコーの振り子は、何の音もたてずに静かに静かにふれていたけれど、瀬名秀明はブーンと音をたてて振れるやつを見たのかな。いいな。その前にたって、ぼくはいろんなことを想像した。

 あるいはここで話題になっているエジプト。メトロポリタンで、エジプトのミイラと副葬品がいっぱいおいてあるところは広くて、ミイラだらけで、とってもこわかった。本当にこのミイラたちがよみがえってきたらどうしよう。ミイラののろいがぼくにかかったらどうしよう。本書では、そのミイラが本当によみがえり、博物館が本当にいろんな世界への出入り口になる――いいな。すてきだな。博物館にいった子供で、それを考えない子がいるだろうか。この本はそのアイデアをベースに展開される。

 瀬名のいつもの欠点は、残念ながらこの小説でも健在だ。最終的に失敗し、倒される側がいつも、あまりに薄いんだ。本書では、古代エジプトの聖なる牛アピスっていうのが出てきて、それが復活しようとする。……なぜ?  アピスの無念、アピスの復活への思い――それを瀬名はぜんぜん書いてくれない。アピスは本当に亨くんに「作家になってキミの話を書く」なんて言われて納得してくれるの?

 そしてもう一つ、この本当にすてきな可能性を秘めた物語を、ほとんど台無しにしかねない仕掛けを瀬名は安易に使ってくれる。物語とは何かをウジウジ考える作家! そして……いや、これについては言いたいことがいろいろあるんだが、ここでは言えない。ただこの「作者」が出てくる部分のページは破りすてたほうがいい。

 そこさえ破り捨てれば、あとはもう展開されるのは、小学生の男の子の、本当に不思議な(でも平凡な)一夏の物語だ。発見。友情とけんか。はじめて好きになった女の子。急にみえてくる自分の知らない広い世界。そしてそれに仮託して、瀬名は(決して流麗ではなく、むしろぎこちなく、でも誠実に)考えてゆく。おもしろいってなんだろう。感動するってどういうことだろう。博物館の中でそれを知り始めた子供と、そして今世紀初頭にエジプトに魅入られ、そのおもしろさと感動に殉じたオーギュスト・マリエットの話が交錯し、それがもう一つの問いへとなだれこむ:物語ってなんだろう。

 物語とは何か。ぼくはたまたまその答を知っている。異様な偶然の積み重なりで、株式市場は崩壊し、戦争が起きて宇宙と生命が誕生する。でも起きてしまえば、それは必然としか思えない。その偶然と必然のはざまにうまれ、その両者を結ぶのが物語だ。瀬名秀明は、一方ではそれがまったくわかっていない。でももう一方では、それをかなりわかっている。この本は、そういう奇妙な二重性を持っていて、それが本書の致命的な欠陥であると同時に、おもしろさの一つの源にもなっている。本書を見る限り、かれがその両者を統合できるまでには、もうしばらくかかることになるだろう。

 でもそれは、また別の物語だ。


 これに対しては、ファックスでなおしがきた。とりあえず、こちらの意をくんでくれてありがとう。でもまず、「物語とは何かをウジウジ考える作家!」の段落が、ダメな印象をあたえるのでやめたほうがいいってこと。それと、「ぼくはたまたまその答を知っている」のところは、なぜ知っているのかわかりにくいから説明しろ、そして「一方ではそれがまったくわかっていない。でももう一方では、それをかなりわかっている」という部分が矛盾しているから修正しろ、そして最後の一行をとれ、という話。

 うーむ、どうしようか。矛盾してるって言われても、それがこっちの議論のポイントではないか。でもこの時点でかなりもうとにかく時間がない。でもまん中の段落をなくすとかなり書き換えが必要になるし……ええい、しょうがない。というわけで書き直したのがこれ。前半の思い出話を引き延ばしてなんとか帳尻を……


ある夏の博物館の物語(Ver 2.4)



 『八月の博物誌』は、あの『パラサイト・イブ』の瀬名秀明の長編第三作だ。これまでの科学ホラー的な作品とはうって変わった作風。小学生がふとまよいこんだ博物館と、そこから広がるエジプトへの情熱と世界――もう三〇年以上の思い出をよみがえってくる。上野や九段の博物館やニューヨークの自然史博物館やメトロポリタン美術館を、ぼくは昔ドキドキしながらみた。この本を読みながらそのドキドキやおもしろさがよみがえってくるのをぼくは確かに感じた。フーコーの振り子は、上野と、あとどこで見たんだっけ。その回転はとってもゆっくりで、だから下のところにぐるっと棒がたててあって、それが順番に倒れて回転を示すようになっていた。ぼくはその棒が倒れるところが見たくて、ずっとずっとその前で見ていたのだけれど、一度もぼくの目の前では倒れてくれなくて、いつもがっかりさせられたものだった。ぼくの知っているフーコーの振り子は、何の音もたてずに静かに静かにふれていたけれど、瀬名秀明はブーンと音をたてて振れるやつを見たのかな。その前にたって、ぼくはいろんなことを想像した。

 あるいはここで話題になっているエジプト。メトロポリタンで、エジプトのミイラと副葬品がいっぱいおいてあるところは広くて、ミイラだらけで、とってもこわかった。本当にこのミイラたちがよみがえってきたらどうしよう。ミイラののろいがぼくにかかったらどうしよう。本書では、そのミイラが本当によみがえり、博物館が本当にいろんな世界への出入り口になる――いいな。すてきだな。博物館にいった子供で、それを考えない子がいるだろうか。この本はそのアイデアをベースに展開される。

 瀬名の欠点は、残念ながらこの小説でも健在だ。最終的に失敗し、倒される側がいつも、あまりに薄いんだ。本書では、古代エジプトの聖なる牛アピスっていうのが出てきて、それが復活しようとする。……なぜ?  アピスの無念、アピスの復活への思い――それを瀬名は書いてくれない。アピスは本当に亨くんに「作家になってキミの話を書く」なんて言われて納得したの?

 そしてもう一つ、この本当にすてきな可能性を秘めた物語を、台無しにしかねない仕掛けを瀬名は安易に使ってくれる。物語とは何か悩む作家! そして……いや、これについては、ここでは言えない。ただ「作家」のページはとばしたほうがいい。

 それを除けば、あとはもう展開されるのは、小学生の亨の、本当に不思議な(でも平凡な)一夏の物語だ。発見。友情とけんか。はじめて好きになった女の子。急にみえてくる自分の知らない広い世界。そしてそれに仮託して、瀬名は(ぎこちなく、でも誠実に)考えてゆく。おもしろいってなんだろう。感動するってどういうことだろう。博物館の中でそれを知り始めた子供と、そして今世紀初頭にエジプトに魅入られ、そのおもしろさと感動に殉じたオーギュスト・マリエットの話が交錯し、それがもう一つの問いへとなだれこむ:物語ってなんだろう。

 物語とは何か。瀬名秀明は、(かなりまわり道のあげくに)物語とは生きることだと結論していて、それはいい。ただ一方で前作『ブレイン・ヴァレー』で神を脳の一機能としてとらえた見方はこの「物語」にもあてはまって、実は話はもっとややこしいのだけれど。物語というのは、「ある」ものではなくて、人が偶然の混沌の中からつくりあげる、つくらずにはいられないものでもあるのね。でも本作でそこまで要求するのは欲張りすぎだろう。それに瀬名もそれに気がついてはいるようだし。その多少のふっきれなさを宿題として残しつつも(それが瀬名の誠実なところではある)『八月の博物誌』は最終的に、その物語の進行と亨の活躍が融合し、物語と生が瀬名の結論通りに重なり合って、ともに未来へと――そして次の物語へと――と解き放たれる。それは確かに、ある種の爽快さをわれわれ読者に残してくれている。


 もうこれ以上は無理。これでダメならもうボツにしやがれ。あるいはもう好きになおしてくれていい、とコメントつきで送る。すると「いやぁ、われわれの意を汲んでなんどもなおしていただきどうも。だいたいあの感じでいきますが、ちょっと書き直させていただきます」という連絡があって、ぼくはまあ時間がないならもうアレでいくしかないだろう、直しってったって、語尾とか一部表現のなおしくらいだろうと思っていた。で、そのくらいはお任せ、とそのままモンゴルに向かった。が……トランジットの北京のホテルにおっかけてきた最終稿は、なんか似てもにつかない代物に書き換えられていたのである。


八月の博物館――謎の博物館の向こうは十九世紀エジプトだった

「文藝春秋」2001年1月号



 『八月の博物館』は、あの『パラサイト・イブ』の瀬名秀明の長編第三作。これまでの科学ホラー的な作品とはうって変わった作風で、小学生のタイムトラベル小説だ。地方都市の町はずれにある謎の博物館。これが一種のタイムマシーンとなって小学六年生の主人公、亨が十九世紀のエジプトやパリ、さらには古代エジプトで冒険を繰り広げる。どこか「ドラえもん」を彷彿とさせるのも当然で、これは藤子・F・不二雄に捧げられた小説なのだ。

 これを読んで私も、もう三十年以上も前の小学校時代の思い出がよみがえってきた。上野や九段の博物館やニューヨークの自然史博物館、メトロポリタン美術館を、ドキドキしながら見た記憶がある。この本を読みながらそのドキドキやおもしろさがよみがえってくるのを私は感じた。

 謎の博物館で最初に亨を迎えるのはフーコーの振り子だ。ぼくも博物館で、地球の自転を証明したフーコーの振り子を見たことがある。博物館の高い天井から吊るされた鉄球が往復運動をしてゆっくり揺れながら、円周運動をしていた。私が見た振り子は何の音もたてず、静かに静かに触れていたけれど、この物語の主人公の亨が見た振り子は「ぶううんん」と音をたてて触れる。これはかっこいい。

 この小説には、どこか懐かしいような装置がまだ用意されている。それは博物館が亨を連れていってくれる古代エジプトの世界。私が子供の頃にいったメトロポリタン美術館では、エジプトのミイラと副葬品が飾ってあるところはとても広くて、ミイラだらけだった。本当にこのミイラたちがよみがえってきたらどうしようと思って、私も亨と同じように怖かった。

 この小説は博物館がいろんな世界への出入り口になる素敵な装置だ。博物館にいった子供で、それを考えない子がいるだろうか。この物語は、こういった子供の頃の夢を叶えてくれるアイデアがいっぱいに詰まっている。

 しかし瀬名の作品に見受けられる欠点は、残念ながらこの作品にもある。主人公と対決して最終的には敗北してしまう適役の動機づけがどうしても弱いのだ。本書では、古代エジプトの聖なる牛「アピス」が亨の前に現れて、数千年の時を超えて復活しようとする。でもそれはなぜなのか。それがわからない。アピスの無念、復活への思いを書いてくれないと、読者には復活の理由がわからない。亨くんに「きみのことは僕が書く!」と言われてアピスは本当に引き下がるものだろうか。

 それを除けば、この小説は小学校六年生の亨が体験する、本当に不思議な(平凡だけれど魅力的な)夏休みの物語だ。林に隠れた謎の博物館の発見。小説をいっしょに書いていた親友との友情とけんか。初めて好きになった女の子。博物館に足を踏み入れて急に見えてくる未知の世界。十九世紀半ばのエジプトにタイムトラベルした亨はフランス人考古学者、オーギュスト・マリエットという魅力的な人物に出会う。ルーブルの所蔵品を集めた人物で歌劇「アイーダ」の台本作者だ。それはそれは魅力的な世界であり、ここには素晴らしい物語の可能性がある。

 しかしここに未来の亨である作家が登場する。この作家はホラー小説を書いており、作家としての行き詰まりを感じている。この作家は現実の瀬名と重なり合う。彼は小学生の亨やマリエットが生きている世界に仮託して、物語を共に生きながら、ぎこちなく、だが誠実に考えてゆく。おもしろいってなんだろう。感動するってどういうことだろう。それがもう一つの本書の大きなテーマへとなだれこむ。それは「物語ってなんだろう?」という問いだ。

 しかし物語とは何だろうか。現実世界では、宇宙と生命は誕生し、株式市場は崩壊し、戦争が起きている。それは煎じ詰めれば異様な偶然の積み重なりだ。しかしこれらのことも起きてしまえば、人間には必然としか思えない。この偶然と必然とのはざまに生まれ、両者を結ぶのが物語というものだ。アピスの復活への思いと謎の博物館の揺らぎと作家の迷いが一つの小説として結びついているだろうか。正直に言うと私は疑問を感じた。瀬名もこの点は気づいているようだ。この多少のふっきれなさを宿題として残しつつも(それが瀬名の誠実なところではある)『八月の博物館』は最終的に、その亨の活躍する物語と作家の世界が融合して、ともに未来へと――そして次の物語へと――と解き放たれる。それは確かに、ある種の爽快さをわれわれ読者に残してくれている。


 掲載文(の最終校)を見てわかること。ドラえもんとかアイーダとかなんかみんなが知ってそうな符丁をちりばめないと、なんか安心しないみたいだ。ぼくはそういうのがなんかいやなのね。それとぼくの論旨はかなり狭く理解されているんだなぁ。フーコーの振り子は円周運動がわかんなかった、と言ってるのになぁ。つなぎも苦しいところが多いし。最後から二段落めの「しかし」は、意味がないのだ。それにそれに……うーむ、どうしようか。一瞬、こんなのやだから前のやつに戻せ、と言おうかと思ったけれど、こちらとしてもあとは好きになおせと言った手前もある。それに、とにかくもうぼくも相手も時間がないし、それ以上にあたしゃ徹夜明けで飛行機に乗ったのでもうへろへろじゃ。いいや。はい。もういいです。なんかぼくが書いたものとぜんぜん関係ないけど、これでいいんならこれで行きましょう。ただ、「私」になっているのを「ぼく」に変えてくれ、ぼくは「私」で書いたことはないから、と頼んだら、それだけはなおしてくれた(が、一箇所直し忘れている)。

 そして二週間後に帰ってみたら、もう掲載号が出ていたのでびっくり。ホントにもうギリギリだったんだね。それと、掲載誌を見ているうちに気がついたこと。え、あの本って、「八月の博物誌」じゃないの? 「八月の博物」だったのぉ? うーむ、恥ずかしい。いったん書くことが決まると、もう表紙なんかぜんぜん見ないからなぁ。まあいいや。というわけで、余った書評はそのまま CUT に流用したのである。が、一方の CUT のほうは、「博物館/博物誌」のまちがいに気がつかないんじゃないかなぁ。それはそれでまた……というわけで、編集者の仕事もむずかしい。単に原稿の運びやではアレだし、だからなんでも一発通しでオッケーではあまり編集者としての意味がない。かといって全部自分で書き直すというのはこれまた行き過ぎ、かな。そこらへんのバランスはかなりむずかしいなぁ。ぼくもどこらへんまでしてほしいか、実はよくわからない。

その他雑文インデックス  YAMAGATA Hirooトップに戻る


YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML 1.1! cc-by-sa-licese
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。