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Art IT 16

YouTube 時代の映像表現:個の喪失と群衆による創造の可能性

山形浩生

(『Art IT』16号 2007年夏/秋号 2007/08)

要約:マクラーレンのアニメはつまらないけれど、新メディアへの新しいアプローチと同時に、カメラの買えない一般人にもできる民主的アート、という点で価値があった。それは個の表現のはずだったが、YouTubeは民主的アートであるとともに、群衆による共同製作としての側面も持ち、個性の表現とされることの多いアートを群衆的な変な代物に仕立て上げる先鞭にもなっている。


 ノーマン・マクラーレンは、実験アニメの先駆者として知られるカナダの映像作家だ。かれが活躍したのは 1950 年代あたりだったっけ。その作品はいろいろあるけれど、かれの名声は「スターズ&ストライプス」を初めとして、何かを撮影するのではなくて、フィルムそのものに傷をつけたりしてアニメを作る各種の短編作品だった。いまでも短編映画の回顧や実験アニメの回顧展などでは必ず上映される、歴史的な作品群となっている。ちなみにカナダ大使館で貸してくれるはずだ。ビデオ化もされているけれど、それではあまり意味がない。ある映像を運ぶ乗り物でしかなかったフィルムという媒体そのものが作品と化しているところに、その作品の価値があったんだから。

 さて、その作品がおもしろかったかというと……正直いってつまらなかった。この作品群がどれも2-3分と短かったのはありがたいことだった。最初は「なるほど!」というコロンブスの卵めいた楽しみがあったんだが、そこからできる映像そのものは、小学生のパラパラアニメにも劣る程度の代物でしかなかった。フィルムを手で削ってできるギザギザした絵は稚拙だし、それが持ってたヘタウマ的な魅力も10秒で飽きる。だがそれはアニメというアートの一分野における古典され続けてきた。なぜだろうか?

 一つにはそれが、新しいテクノロジー、新しいメディアに関する新しいアプローチだったということがある。クマが踊るのをみんなが金を払って見に行くのは、別にクマの踊りが上手だからではない。クマが踊ること自体が珍しいからだ。アート世界の一部は、くだらないこと、どうでもいいことをだれが最初にやるかという競争みたいになっている部分もある(最近はありがたいことに減ってきたが)。

 そしてそれは、アートが依存してきた創造性の神話――ある種の天才や超人的な努力を行った人が何か霊感を得て、これまでなかったまったく新しいものをゼロから作り出す、という図式とも関連している。最初に何かをやった人は、とにかくそうした霊感と出会いに恵まれ、何かを創造した。その創造性をあがめるのがアートなのである、という話だ。だからこそぼくたちは、審美的にも技術的にも(特に現在の基準からすれば)大したものではない作品ではあっても、初めてその霊感の祝福を受けた一種の呪物としてそれを崇めることが求められる。

 さらにもう一つ。確かにフィルムに傷をつけるのは、理屈の上ではだれにでもできることではある。だが、おそらくノーマン・マクラーレンが作品を作っていた当時、フィルムもそのための機材もそれなりに値段の張るものだった。高いフィルムをそんな使い方をするのは、明らかに無駄なことだ。そして一秒二十四コマなり十六コマなりにちまちま傷をつけるのは、それなりに手間も時間もかかる。それは大いなる無駄の産物だ。だれにでもできると言いつつ、経済的にはごく限られた人にしかできない。特に人々が貧しかった時代には、そもそも無駄遣いができること自体が少数派の証しだった。選ばれた少数派、またはそのために生活のその他の部分を犠牲にする覚悟のある人による、独創的な無駄遣い――これもまた、「ある種の天才や超人的な努力」というテーマとも関連していることは明らかだろう。

 映像表現の多くは、こうした図式の延長線上にある。だが、テクノロジーの進歩はこうした状況を変えつつあるし、いま述べたアートの図式とはちがった代物を作り出しつつある。YouTubeにはその一つの典型がある。

 かつてJ・G・バラードは、未来は退屈なものになると述べた。退屈で平凡で広大な郊外住宅地で、無数の家庭がまったく無価値で二度と顧みられることのない無数のホームビデオを撮っている。それを延々と見せ続けることにこそ、バラードの考える未来の一つの本質がある、はずだった。そしてYouTubeはまさにその退屈でどうしようもないホームビデオの集まりというバラードの「理想」通りのものとなっている。YouTubeのそもそもの出発が、簡単にみんながホームビデオをアップロードして見せ合えるような場を作りたいという創設者たちのホームパーティーでの思いつきだったことはよく知られている。

 バラードはその退屈を執拗に描きつつ、それを明らかによくないものだと考えている。才能や努力といったもののない、文明に甘やかされた弛緩した生のあり方だ、と。バラードは、そうした文明に甘やかされた状態を嫌っており、それが現代人の心理的な歪みをもたらして崩壊に至る様を、特に近作では執拗に描いている。

 だが YouTube は滅法おもしろくて、いったん見始めると無限に時間がつぶれてしまうのはご存じの通り。それは別に著作権侵害の各種ビデオのおかげだけではない。無数の弛緩しきったホームビデオの中に、意外とおもしろい(こともある)ものが結構混じっているのだ。YouTube の少し前に、ジェダイの騎士になりきってホウキをふりまわすデブの映像が話題になった。メントス&コーラの噴出遊びやドライアイスによるペットボトル爆発映像など、映像のアイデアがヴァイラルな広がりを見せた例もある。ときには弛緩したホームビデオの、弛緩しきった部分自体がバラードのいうほど退屈ではなく、かえっておもしろかったりもする。

 そしてそうしたおもしろさは、何かの才能の結果ではない。ほとんどは単なる偶然の結果だ。だが100 万匹のサルにタイプライターをデタラメに叩かせたらいつかシェイクスピアを書き上げるという話がある。YouTube はまさに、サル 100 万匹を集めた。そしてそれはシェイクスピアかどうかはわからないが、確かにたまになんかおもしろい/ろくでもない代物を作り上げているのだ。

 そこにYouTube時代の映像や各種表現のおもしろさと新しさがある。傑出した才能や努力によるのではない、無数の人々が勝手にいろいろやる中で偶然に見いだされるもののおもしろさ、という新しい表現がそこにはある。もちろんこれまでだって、偶然に見つかった何か、偶然の積み重ねによって生まれてきた美や表現は当然あった。それはヴァナキュラーな工芸品や町並みといった、民芸の美の根底にあるようなものではある。だがその多くは、一回限りで注目されることもなく、消えていってしまったはずだ。それがここでは保存される可能性がある。能力的、経済的に傑出した人間による希少な無駄ではない。豊かな社会においてあらゆる人が安価に享受できる無駄。とぎすまされた審美眼や技能で作り出されるのではなく、弛緩した人々のいい加減で安易営為がもたらす偶然のおもしろさ。その安易さは、他の表現ではなかなか実現できない。文は、どんな駄文でも多少は努力がないと書けない。だがいまや、カメラを向けてシャッターを押し続けることには何の努力も能力もいらないのだ。だが、それが百万に一つくらい、おもしろい「作品」を生み出してしまうのだ。

 そしてそれだけにとどまらない。人々が見た回数やその採点によって、話題作は自然と浮かび上がってくる仕組みがある。またおもしろかった動画には、ビデオでの返信ができる。これにより投稿された動画同士の対話もある。その対話自体がつまらない動画に華を添えておもしろくしてしまったりもする。あるいは悪名高い反社会2ちゃんねるの派生物といってもよい、ニコニコ動画を見てみよう。YouTubeのビデオに対して、画面上でコメントをつけることができる、実におもしろいサービスだ。作者と観客が分離した従来の関係と全然ちがう、万人が創造者で万人が享受者であるような、「作品」というより作品のネットワークというような、変な代物が生まれつつある。それがアートか、というのは特におもしろい質問ではない。だが、それが創造の新しい形態であることはまちがいないことだ。その萌芽は、2ちゃんねるのフラッシュ動画や、モナーを始めとするアスキーアートの表現にもあったが、YouTubeなどはそうした「個」ではない群衆による創造の可能性をかいま見せてくれるものでもあるのだ。

 冒頭で触れたマクラーレンの、必ずしもそれ自体としてはおもしろくない実験アニメは、ある意味でその前段を予言するものではあった。さっき述べたことと矛盾するようではあるのだけれどマクラーレンのアニメの価値は、それ自体はある種の選ばれた人による無駄ではあるのだけれど、その一方でもっと大衆的な映像表現の可能性を問いかけたものでもある。高い映画用のカメラがなくても、フィルムだけがあれば動画作品表現ができるという、低コストな映像表現の可能性を提示したところにもその価値はある。そしてその稚拙な画面上の絵も、「絵の才能はなくても動画表現はできる」という主張のあらわれだとも言えるし、来るべきそうした万人による映像表現社会を予言しているともいえるのだ。安い家庭ビデオやデジカメ・ケータイの録画機能を使った稚拙な表現の集りである YouTube は、ある意味でまさにそれが(形はちがえ)実現されたものだ。だが、マクラーレンの考えていたのはあくまで「個」の新しい表現だった。いまやぼくたちはその次の段階に踏み込みつつある。

 そしてその集合体自体がまた、新しい社会の予感をもたらすものなのかもしれない。YouTube は動画投稿サイトだけれど、写真投稿サイト Flickr では、その映像がどこで(いつ)撮られたものかをGoogleMapなどの地図に落とすことができる。YouTube にそうした機能がつくのも時間の問題だ。やがて、地球上の人がいるあらゆる地点・時点の映像が何らかの形で記録される、そんな状況がくるのも遠いことではないかもしれない。それは言うなれば一種の監視社会ではある。しかもそれは何か中央集権的な意志によるものではなく、何となく自発的にもたらされているものだ。だが、それが集団や群衆による表現の台頭と、それに伴う「個」の表現の相対的な低下と同時に生じているのは、なかなか示唆的ではある。数十年後、ぼくたちはいまYouTubeなどで起きているこうした表現の変化が、実は人類全体の変化――人類の集合体化とそれに伴う個の喪失――の前兆だったことを(集団として)悟ることになるのかもしれない。

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