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Uncentering the Earth

コペルニクスが永遠に奪い去ったもの:地動説がもたらした人間の地位の変化を悼む

William T. Vollmann, Uncentering the Earth: Copernicus And the Revolutions of the Heavenly Spheres (W.W.Norton, 2006)

(『一冊の本』2006 年 8 月号 pp.38-9)

山形浩生

要約: 本書はアメリカ現代文学の雄ヴォルマンが、『天体の回転について』を精読した変な本だ。コペルニクスの理論は、まだまだ現代的基準からすればどうしようもない代物であることが示されるが、それにもかかわらず、それはその後のケプラー、ニュートンにつながる基盤を提供した重要なものであること、さらに天動説が「パラダイム転換」などという恣意的なものではなく、段階的な改良によって地道に支持者を増やすプロセスであったことをきれいに示す。一方で、それにより地球が宇宙の中心という地位を失ったことをヴォルマンは本気で悲しんでみせ、それを自分の抱える喪失感とつなげてしまう。




 あなたは、地球が動くことについてどう思うだろうか? この本は、このバカげた質問を真面目に発するへーんな本だ。

 もちろんこの欄で紹介する本は大なり小なり変わった本ではある。でも本書は、その中でも群を抜いている。著者は『蝶の物語たち』『ライフルズ』など、ウジウジした心情吐露的マイナー自分語りが、長くてくだくだしい設定の下、壮大なスケールで展開される変な小説ばかりを量産しているあのウィリアム・T・ヴォルマン。それがあの地動説を唱えたコペルニクス『天体の回転について』を真面目に読む? まともな本なわけがない。

 さてもちろん、コペルニクス以来天文学も物理学も驚異的な進歩をとげている。だがコペルニクス的転換といった表現もある通り、コペルニクスは天動説から地動説への一大転換を即した科学革命の始祖だと思われている。ところが欧米では、コペルニクスって実はそんなにえらくないんじゃないか、という意見がかなり強くあるのだ。トーマス・クーンが唱えたパラダイム論というのをご存じの人もいるだろう。どんな理論が受け入れられるかは時代の雰囲気と思いこみによるもので、観察との一致や説明力によるのではない、という考え方だ。この理論でやり玉に挙がったのがコペルニクスだったのだ。コペルニクスの理論は、実は天動説に比べて精度はさほど改善されなかった。地動説が流行ったのはパラダイムのせいだ、と。この見方をしたがる人は、コペルニクスの理論なんて実はダメダメだ、と言いたがる。そうでないと、パラダイムなんていう変なものを持ち出す理由がなくなるものね。  そしてそれ以外でも、ケプラー好きとかガリレオ萌えとか論者ごとにお気に入りの学者がいる。かれらの活躍を強調するためにコペルニクスををおとしめるという手もしばしば使われる。あるいはケストラーは、コペルニクスなんかだれも読まなかった、と主張する。そんなものが科学革命のきっかけと言えるもんか、と(これに対する反論はギンガリッチ『誰も読まなかったコペルニクス』(早川書房)に詳しい)。

 で、実際のところどうよ。コペルニクスはえらかったの?

 ヴォルマンは、それをきちんと見極めようとする。いったいコペルニクスの時代の人々が信じていた世界とはいかなるものだったのか? それに対してコペルニクスは何をつきつけたのか?

 ヴォルマンの読みは非常に誠実だ。コペルニクスの理論は現代的基準からすればかなりひどい。天体の起動が楕円ではなく真円だと想定されたので、かなりひどいこじつけが行われている。また、『天球の回転』は実は第六巻まである長い本だが、月の動きや星の動きについてあれこれ論じた後半部は現代的意義はほとんどない。

 でもヴォルマンは、それをちゃんと読み、書かれていることを図や式で説明しつつ、こまめにその意義(あるいはその不在)を説明する。なぜコペルニクスがこんな記述をしなければならなかったか。かれは何と戦おうとしていたのか。そして現代的な理解ではどこがおかしいか。

 この作業の結果、かれは二つの結論に到達する。

 一つは、しごくまっとうなものだ。コペルニクスの地動説モデルは、プトレマイオスの天動説モデルより精度で劣る面もあった。でもその頃にはプトレマイオスの天体モデルは、つじつま合わせのための後付説明が泥縄に泥縄を重ねてひどいものになっていた。地動説モデルのほうが圧倒的に単純だったし、改善すればモノになりそうな余地があったのだ。だからこそ、地動説のほうが受け入れられた。

 そして実際にコペルニクス以後、地動説は少しずつ改善され、精度もあがり、天動説はジリジリと後塵を拝するようになる。だからこそ、それは支持者を獲得していった。パラダイムとやらのおかげで、観測結果に反するのに、ある日みんなが信じるようになった、なんてのはウソっぱちだ。一方で、天動説支持者たちだって、迷信にとらわれた頑迷なバカではなく、地動説の弱みを知って合理的な選択として天動説を選んでいた部分が大きい。だがやがてガリレオが木星の衛星を発見して天動説は決定的に揺らぎ、そしてケプラーが楕円軌道を提唱したとき、もはや天動説が優位を主張できる部分はまったく残っていなかった。

 だがもう一つ。ヴォルマンは(かれらしく)なぜ地動説があれほど厳しく排斥されたかを考察する。それはもちろん、人々の世界観に関わるものだ。天動説は人々の信じる世界秩序を反映したものだった。そこでは、人の世界と神の世界が宇宙の仕組みに反映され、地球はすべての中心に安定した存在となってどっしりすわっていた。コペルニクスは、その宇宙を破壊してしまったのだ、と。

 冒頭で、ヴォルマンは心情吐露的マイナー小説作家だと述べた。かれは基本的に根無し草で、報われぬことのない愛と孤独、どこにも居着けず放浪するしかない人々を執拗に描く。そして本書でかれは、明らかにコペルニクス以後の地球にそうした人々――ひいては自分――を重ねている。何もない虚空をひたすら動き続けるしかない、周縁的な存在としての地球。もう二度と世界の中心には戻れない、深い喪失感を抱えた存在としての地球。かれが描く天動説の地球は、戻りたくても決して手の届かない暖かい地球だ。それを本気で懐かしく振り返るヴォルマンの筆致は感傷に満ちているけれど、もちろんその感傷がアナクロであり無意味であることまでヴォルマンははっきり描き出す。本書を読むのは、科学的な進歩の歩みをたどる一方で、それが奪ってしまったものの悲しみを本気で追体験することだ――そしてその喪失を悲しみつつ、その悲しみについて後ろめたく思うところまで本書は面倒を見てくれるのだ。

 で、どうだろう。あなたは地球が動くことについてどう思うだろうか? そうきかれて、本書の読者はまさに天動説時代の人々のように、まじめに考えこんでしまうだろう。変な本だ。それに考えてどうなるわけでもない。だがある意味で、これぞ本当に科学解説書のめざすべきものではないだろうか?

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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