日経 IT Plus ウェブページで、まわりもち連載コラムをやることになった。他の執筆者は、ひろゆき(イェー)、こばへん(イェー)、東浩樹(つかえねー)、その他。なお、このウェブページの欠点は、アップされた日付が出ないことだなあ。いつの記事だっけ、という感じ。以下の日付は url からの推測。といってもあまりはずれていないはず。送ると、ほぼその日のうちにアップされる。頻度はほぼ隔月。
なんか終わることになった。どうもぼくが最後だった模様。何かまずいこと書いたのかなあ。でも、全体としてこういうネットの意義とかについての総論じみたコラムについての関心は薄れてきて、完全な実用段階に入ったということだろうとは思う。
山形浩生 (2005/07)
国立国会図書館はalexaやarchive.orgのように、インターネットのウェブページを随時収集して、それを時系列的に保存公開する事業を2006年から始める予定だったのだが、それが大幅に縮小されることになってしまった。もともと、jpドメインのページについて、すべて集めてすべて公開するのを基本方針としていたのに、公開コメントを求めた結果、プライバシーがとか著作権侵害のものもあるとかエロサイトがあるとか集めるなら許諾を求めるべきだといったくだらないコメントがたくさんきたために、go, lg, ac, ed, orのセカンドレベルドメインを持つサイトのみを対象とする方針とし、さらにorドメインでも、個人サービスを多く含むものは除外する、という方針になってしまったのだ。これにより、日本のウェブページの8割を占める個人ページはまったく収集対象にならなくなってしまったという。
これは国立国会図書館自身にとっても残念なことだろうし、文化の保存と活用というお題目一般にとっても大きな損害だ。
この新しい方針は、要するに公共機関が公開するウェブページは集めましょう、という話でしかない。これは紙ベースの本で行われている納本制度にすら劣るものだ。あまり知られていないけれど、日本で出る各種刊行物はおおむね、国立国会図書館に納本しなければならないことになっている。一般の書籍や新聞も含め。でも今回の収集範囲は、企業系のウェブサイトすら保存活用できない。それに何の意味があるの? 日本のウェブ文化は公共機関の発信する情報だけ抑えておけば把握できるものではないはずだ。ビジネスで起きていることを記録しないでいいわけがない。そしてそれよりも、個人のページを収集しないでいいわけがないじゃないか。
インターネットの価値は、個人の情報発信能力を高めたことだと言われる。ぼくはこれについてちょいと懐疑的な意見を持つものではあるが、それはおいておこう。もしインターネットの価値がそういうところにあるなら、当然ながらインターネットのスナップショットを意味ある形で保存するには、個人の作っている(くだらない)ウェブサイトも、いやそういうものこそ保存しなきゃいけない。政府や教育機関が出しいまはブログブームだと言われる。ぼくはこいつが大騒ぎするほどのもんだとは思っていないけれど、でもそういうブームが起きているのは、まあ事実だし、総務省ですら、なにやらそれがご大層なものでITリテラシー育成に重要とかのたまっている(ピントはずれな意見だとは思うが)。それならそれを保存できないインターネットの記録に何の意味がありましょうか。
国立国会図書館に寄せられた各種意見を見て、ぼくは結構暗澹たる気分になった。「国がコストをかけて保存する価値のある「文化財」がどの程度存在するか必ずしも明らかでない」なんて意見が出ている。もちろん明らかではないけれど、でも過去の「文化」の出自を見てごらん。文化というのは、何か固定した基準があるものじゃない。むしろ文化というのは、それまで価値がなかったところに価値を見いだすプロセスなのだ。千利休がとと屋の茶碗を「発見」したとき、それまでは無価値だったところに新しい美と文化的価値が生まれた。下品な通俗大衆娯楽だった浮世絵は、明治になって異人さんたちに発見してもらってやっと価値が生まれた。女子供の低級なお遊びだったはずのかな文字が、やがて日本文化の屋台骨となる。それはもう、ジャズでもロックでも映画でもアニメでも同じだ。将来どういう価値が出るかわからないからこそ、保存しておこう。ましていまや保存コストなんかどんどん下がっているんだから。すでに『電車男』をはじめ、ネットから出た文化が少しずつ芽生えはじめているじゃないか。
著作権への配慮は重要だ、と一応言っておこう(実はぼくはこれについても懐疑的ではあるのだが)。が、著作権はいつまでも続くものじゃない。したがって、著作権侵害を理由に保存すらすべきじゃないというのは、著作権そのものの発想からしてもおかしい。名誉毀損だってエロ画像だって、雑誌なんかは平気でそのまま図書館に残っている。なぜウェブだけ特別視する必要がある? 著作権侵害ページでも何でも、保存だけは徹底してやるべきだ。そしてネットでそのまま公開するかどうかはさておき、何らかの閉じた環境――たとえば一部の公共図書館の専用端末とか――だけで見られるようにするとかでもいいから、何らかの利用は可能な環境を作ることは可能なはずだ。そうしておけば、有料ウェブページの問題もクリアできるだろう。図書館で有料の本が無料で読めるように、有料ウェブページも図書館では無料で見られる、という具合。そしていつか――そうだな、ウェブページは公開から50年たったら著作権が切れるような規定にしておけばいい――それを完全に公開できるようにしておくべきだ。これができたら、たぶん二十一世紀における図書館の役割というのが再確立されるんじゃないか。ネットに対応した文化拠点という図書館の役割を生み出せるんじゃないだろうか。
だからガンバレ国会図書館! あなたたちの二十一世紀における存在意義がいま問われようとしているんだから。
が……実はそれは、国会図書館が自分で収集から保管からすべてやらなくてもいいんじゃないか、という気はする。そもそもarchive.orgなどは民間の試みだし。それ以上に、手法的にももう少しやりようがあるんじゃないか。archive.orgでは、ロボットがネットを巡回してページをとってきて、archive.orgのサーバに保管する。でも、それこそ分散方式でできないものか。ボランティアをつのって、定期的にブラウザのキャッシュをかためて保存しといてもらうといった手もあるだろう。それこそいろんな人々のブラウザキャッシュをP2Pのような形で共有する仕組みを、どっかが率先して作れないものか。最近はあまりやらなくなったけれど、まだブロードバンドが普及せずダイヤルアップが一般的だった時代は、プロバイダが自前のプロキシを持って利用者に提供していた。そのキャッシュが定期的にもらえれば、それでかなりのスナップショットになったはず。保存して意味のあるウェブページは、おそらくは人々がある程度アクセスしているはずなんだし。今もそれに類するものができないか? たとえば「はてな」のアンテナサービスは、人々が更新をウォッチしているウェブページの一覧を持っている。それらのページを集中的に更新のたびにストックしておけば、ウェブの重要な部分の記録はかなり実現できるんじゃないか。国立国会図書館は、お役所としての立場上、いろいろ体面やしがらみがあって、なかなか思い通りに動けないかもしれない。ならうまく民間と手を結ぶ仕組みを考えるのも手じゃないかとは思う。が、この手の話はまた別の機会に。
山形浩生 (2005/09)
なんでも日本では今度選挙をやるそうで、今頃(というのは執筆時点の八月末)の日本はさぞかし騒々しいことであろう、とぼくは日本の皆様に同情を禁じ得ない。おそらく今頃は、街宣車がラウドスピーカーでがなりたてているんだろう。「あと一歩です、頑張っております、ご声援ありがとうございます、XX党のだれぞたろべえでございます、よろしくお願いします」。毎度選挙のたびに思うことだが、ああやって何の情報量もない騒音をまき散らすことで、集票に貢献するんだろうか。あの何一つ役にたつことが書いていない、人の審美眼を愚弄する醜悪な選挙ポスターは何か意味があるんだろうか。
さてこちらは現在、ガーナにきて一ヶ月。選挙が急に決まったのもこちらにきてからのこと。雑誌や新聞では日本の情報なんか入ってこない。もちろん、今回の選挙が郵政民営化議論のからみで云々という程度の話は知っているし、各政党その他の大ざっぱな方向性はきいてはいるけれど、でももう少ししっかりした話をふまえて投票したいものだ、と思うのが民主主義における責任ある有権者の勤めであろう。しかし帰ってその日に選挙だから、投票先について帰ってから調べていたのでは間に合わない。というわけで、ネットであれこれ情報を集めようかと思ってみたんだが……ほとんど何もわからん。だれがどんな主張をしているのか、どの政党が何を言ってるのか。そしてそうした主張が、状況の変化のなかでどう進展しているのか。一部のウェブサイトはあれこれ書いてはいるが、まああてにはならないし、だいたいここではネットはダイヤルアップしかないし(14.4kbpsが、堂々と「ブロードバンド!」と宣伝されております)電話代も馬鹿にならないし、あまりあちこちのニュースサイトを見て歩くわけにもいかないのである。
ネット上である程度の選挙運動を認めてくれれば、ずいぶんと話は変わるんだが。
ご存じの通り、いまはネット上の選挙運動は禁止されている。公選法で、絵や文字による選挙運動に使える媒体がきわめて限定されているからだ。なぜそうなっているかといえば、公平性を担保するためだろう、と推測される。かつては、ポスターを刷ったり等、印刷媒体に頼った広報活動をするしかなくて、しかもそれには金がかかった。お金があれば、派手な目立つ媒体戦術も打てるし、ばらまく数だって増加し、確実に露出を増すことができる。したがって金を持っている候補者ほど有利になる。それでは貧乏な候補者にとっては圧倒的に不利になってしまう。だからこそ、媒体を制限することで候補者たちの露出を均質化することが正当化される。
でも、すぐにわかる通り、ネットにはこの制限はない。ウェブページを作ってどこかにアップロードするのに、ほとんど金はかからない。さらに、お金をかけてウェブページを作ればそれで露出が増えるというものではない。変に金をかけてフラッシュ動画などを使いまくった企業ページは、かえって馬鹿にされるくらいだ。さらにもちろん、ウェブページの場合には従来認められてきた媒体のように、勝手に送りつけられてくるものとはちがう。人が積極的に見に行くものだ。見られるためにはちゃんとした中身が必要になる。いくら金をかけたって、いまの選挙ポスターみたいな無内容なウェブページを作ってごらん。物笑いの種になる以上の効果はまったくないだろう。金がなくても中身のあるサイトを作ってくれれば、それなりに読んでももらえるだろう。
するとネット上での選挙活動を規制すべき正当な理由はまったくない。ネットでこそ選挙活動を積極的にやらせればいいのに。候補者どもは、選挙期間中に無意味ではた迷惑な拡声器合戦をやめて、候補者の質問に応えたり、対立候補たちの議論についてあれこれ論じてみたりして主張すればいい。
それは、選挙という制度の背景になっている民主主義の理念に合致するものでもある。選挙は(建前上は)人気投票じゃない。候補者の議論や主張に基づいて、自分の利害を代弁してくれるとおぼしき人物を見つけて投票するというのが、教科書的な選挙の理念だ。だったら、候補者の主張をきちんと正確に伝えてくれる手段があるのなら、それをどんどん活用することこそが選挙という制度を有効に機能させるための前提となる。その意味で今の公選法は、かえって選挙の本来の姿を歪めているとすら言える。昔のメディア環境を前提に作られた規制が、現状にまったくあわなくなっている。
もしネットでの選挙運動が実現してくれれば、ぼくのように日本にいない人間にとってもどんなにありがたいことか。選挙について、在外投票が少ないといった愚痴がよく聞かれる。それは一つには、投票そのものがやりにくいという問題もある。でもそれと同時に、外国にいるとだれが何を言っているかわからず、したがってだれに投票したものやらそもそも判断がつかないのだ。その情報がネットで入手できるようになれば、多少は投票したがる人も増えるだろうに。
これに対して、デジタルデバイドが問題だ、という世迷いごとを述べる向きもある。選挙運動の主流がネットに移ったら、ネットにアクセスできない人が情報を得られずに不公平だ、と。でも、だれもネットでしか選挙活動をやっちゃいけないとは言ってない。従来の紙媒体は紙媒体でやればいい。現状だって、はがきによる選挙運動はやってもかまわないけれど、あまり使われていないようだし(少なくともぼくの日本での居住地周辺では)、だからといってはがき以外の情報アクセスがない人に不公平だということにはならない。だいたいどんな媒体を使ってどう情報を出すかも、候補者がどういう層に訴えかけたいかという戦略の一部だ。
というわけで、ネットによる選挙活動ははやめに許すべきだ。利点はすでに述べた通り。欠点は特に見あたらない。選挙管理委員会の仕事だって特に増えない。そうだな、変な迷惑メールによる宣伝くらいは規制すべきかな? でもそれすらいらないかも。迷惑メールがいかに嫌われているかを知れば、そんな手を使おうとする人はいないだろうから。だれも損はしない。みんな得をする。大した定見を持っていないとしか思えない一部の候補は、お題目を連呼するだけでなくちゃんと主張をわかりやすく出さなきゃいけないから苦労するかもしれないけど、それはむしろ民主主義にとってよいことだ。いいことずくめじゃないか。ぼくがアフリカから帰る頃には(そしてもちろんみなさんがこれをお読みになる頃には)もう今回の選挙活動はケリがついている。でも、次回くらいには何とかなってほしいもんだ。そしてその時には、あの迷惑な街宣車のラウドスピーカーは消え失せ、選挙ポスターには各候補のURLやQコードが印刷され、もっと情報に基づいた選挙が可能になっていることを願いたい。
山形浩生 (2005/11)
久々に長期の日本出張で、あれこれ雑用を片付けてガーナに戻る途中の電車の中で(というのは日本で成田空港に向かうまでの間の電車で、という意味だ)ふと見ると、日経新聞の一面に、なにやら電子政府がいまいちうまく進んでいない、という記事が出ていた。うん、そりゃしょうがないんじゃないかな。自業自得だよ、とぼくは思うのだ。だって、進展して欲しい様子がちっとも見られないんだもの。
そう思ったのは、出張中にアマチュア無線の試験を受けたからだ。いや、そろそろ人生も折り返し点近くで、やり残したことを片付けたいな、と思っていたせいもある。小学生時代に『子供の科学』を見てアマチュア無線にはすごくあこがれていたのだけれど、受験料などが目が飛び出るほど高くて(さらには無線機なんか、雲の上の世界だった)、さらにしょせんは飽きっぽい小学生。結局はちゃんと勉強するだけの根気がなく、やがて忘れてしまったっけ。一時的とはいえやりたかったことをやらずに死ぬのも無念じゃないか。
ちなみにアマチュア無線を知らない人のために説明しておくと、無線で世界の人々と交信しましょう、という趣味だ。ひょっとしたら、近所になにやらでかいアンテナを立てた家があったかもしれない。一時は電話ごっこと蔑まれつつ爆発的に人口が増えたけれど、携帯電話やインターネットの普及でおしゃべりだけにしか関心のなかった人々は去り、いまはかなり衰退気味だ。無線への技術的な興味でやる趣味という本来の趣旨に戻っているともいえるのだけれど。
さて、試験そのものは腐っても理系の大卒としては勉強するまでもない程度のもの。モールス信号の実技で一度は失敗したものの、この秋からモールス実技の試験はなくなって、それもパス。で、実際の開局できるまでには二つの段階が要る。まずは免許証(これは人間にそれ相応の資格があることを証明するもの)の申請。そして次が、無線局の開局申請だ。これは無線設備と人間のセットだと思えばいい。この二本立てシステムについても不満はあるけれど、それはここでは触れない。
そして後者の開局申請は電子申請ができる。すばらしい。これも電子政府化の一環で、詳細は以下のページにある。
http://www.denpa.soumu.go.jp/public/index.html
申請の前段階として、証明書をとってきたりプラグインをインストールしたりユーザ登録をしたり、といろいろ手続きをする必要はある。これは面倒ではある。そんなにたくさん申請の機会があるようなものではなさそうだし、年に一回限りあるかないかの手続きのために、ずいぶんな手間だ。が、それはいいとしよう。問題はその次だ。申請のためのアプリケーションをダウンロードして、それをインストールしてから申請することになるんだが……
インストールしても起動できないのだ。
なぜかといえば、このアプリケーションが特定のJavaのバージョンを必要としているからだ。SunのJava VMのバージョンが、1.4.1_04 でなくてはならない。1.4.1「以上」ではない。ずばりこのバージョンでなきゃいけないのだ。現在の最新版は1.5.0 だ。しかも最近は、Javaも自動的にアップグレードされる。だからたいがいの人は、すでにもうこの電子申請を使えない状態になっているわけだ。
なーんだ。さんざん手間をかけてあれこれやったのに。もちろん、いまのJavaを抜いて古いやつに入れ替えれば、使えないことはないんだが、これだけのためにわざわざJavaをダウングレードするやつはいないだろう。他に動かなくなるアプリケーション等があるといやだもの。
惜しいなあ。ちなみに、こうして電子申請すると、申請料が100円安くなる。さらに、紙の申請書は簡易書留で送るのでお金が430円ほどかかるけれど、電子申請ならそれが不要だ。ついでに、申請用紙は800円で市販されているけれど、それも買わずに済む(実際にはネット上で申請用紙セットが出回っているので、買う必要はないんだが、多くの人はそうとは知らずにおとなしく買ってしまう)。だから電子申請で、なんだかんだで1400円かそこらはお得だ。電子申請を使うインセンティブはかなりある。それでもシステムの状態をわざわざ古くするほどの手間はかける気がしない。
さらにアマチュア無線の開局申請は、もう一つまぬけなことがある。申請は電子的にできるのだけれど、それが無事通ったときに発行される免許状は紙だ。その紙を送ってもらうために、あらかじめ自分の住所を書いた返信用封筒を、総務省に送っておく必要があるのだ。
……せっかく電子申請してるんだから、そこで入力した住所のデータをコピーして、そのまま封筒に印刷すればすむ話ではありませんかぁ。切手代だって、申請料といっしょに徴収しておけばいいじゃあないですかあ。こっちが封筒を送るのだって、送り状もいるしかなりの手間だ。さらに、申請書とまったく別ルートで封筒を送って、ちゃんとマッチングできるんだろうか。なんかまちがえそうな気がするんだけれど。ぼくだけかもしれないんだが、せっかく電子的に構築されてきたシステムの最後に、こういうどう考えても意味のない紙のプロセスがあるだけで、このシステム全体があまりきちんと考えて作られていないような印象を受けてしまう。余談ながら電子納税も、領収書その他の証明書は後から別送するというのが個人的にはネックだ。領収書の束を実際の書類と別に送って、ホントに大丈夫かな? 対応関係をまちがえたりしないだろうか?
これだけマイナス材料やハードルがあると、それを乗り越えてまで敢えて電子申請したい、という気にはならない。惜しいなあ。アマチュア無線系の人々なんて、こういう電子申請なんていうおもちゃじみたものにはすぐにとびつきそうな連中なんだけれど(このぼくを含め)それでも手を出す気にはなれない。というより、手を出しても途中で萎えてしまうようにわざわざ作られている。こんな一番やりやすいところでも利用を喚起できないんなら、そりゃあ電子政府化なんて進みようがないわな。
他にもある。先日あるネットオークションで詐欺にあって、内容証明郵便を出すことになった。さて、現在では内容証明郵便も電子的に出せるe-電子証明便というのがある。内容証明は同じものを二通作ってそれを証明してもらうんだから、電子的にやればたいへんに楽だ。きわめて理にかなったシステムだ。
http://www3.hybridmail.jp/mpt/
これも電子内容証明のサイトからユーザ登録して、アプリケーションをダウンロードしてインストールすればいいんだが……これもWindowsXP のサービスパック2には対応していない! 実際にやってみると、最後に文書を画像化するドライバをインストールするところでエラーが起きてインストールできない。SP2に対応していないというアナウンスがあったのは一年以上前。でもその後、何の対応もとられていないようだ。うーん、これでは使われないし、また使おうと思った人も二度と見向きもしないだろう。
さらにアマチュア無線の電子申請については、そもそも電子申請ができるということ自体、ほとんどアナウンスがない。試験会場でアピールするなりすれば、利用してみようという人も増えるかもしれないのに。これについて口さがない人は、市販の申請書を作っているところや手続きを代行している団体が、仕事を温存するために敢えて知らせないようにしているのだ、とまで言う。それはどうだかわからないけれど、でも確かに全般に広報は薄い。税務署は電子納税等を進めようとしているのが多少はわかるけれど、他のところはそれがほとんど見えない。
たぶんこれは、アマチュア無線や内容証明に限った話じゃないだろう。本当にやる気があるのかなあ。大元ではやる気があっても、現場レベルでそれをきちんと詰める気がないんじゃないか。なんかそんな気がしてならないんだが。もう一つ、必要以上のセキュリティを形式的に導入しようとするために、利用者の手間が大幅に増えているというのもあるが、これについてはまた別の機会に。電子政府化を進めたいんなら、必要なのは技術でもないし、全国的なブロードバンドの普及でもない。結局のところ、ちゃんとその制度の存在をアピールして、なるべく多くの人が使えるようにして、メンテナンスも欠かさない、というだけの当たり前の話なんだけれどなあ。ここでぼくがあげつらったような点の改善なんか、その気になれば一瞬でできるはずだし、それをやれば電子政府の利用はかなりの増加を見るはずなんだけれどな。
山形浩生 (2006/02)
今回の話はネットとはあまり関係ない。いやあるかな。少し沈静化はしたけれど相変わらず人気の高い、あのライブドアの話だ。
ここ数週間で、ライブドアの悪口はさんざん書かれている。そして無節操なマスコミは例によって、重箱の隅めいた話をあれこれほじくっては喜んでいる。でも、結局のところライブドアの何がいけなかったの? ライブドア自体の事業内容がよくわからないのと同様に、いったい彼らのやったことのどこがいけないのか、結構漠然としていて実はよくわからない。
いろいろ問題になるのは、粉飾会計をしていたとか、風説の流布とか、あるいは株式分割で株価をつり上げたという話だ。さて粉飾会計がよくないのはわかる。風説の流布もよろしくないだろう。でも株式分割って何がいけないの? 特にこの株式分割への風当たりは、不可解なのによく見かけるし、かなりきつい言われようだ。たとえばSBI北尾吉孝はこんなことを述べている:
「私はずっと以前から1対100の株式分割等については非常識極まりないと申し上げてきた。株式 分割後、株不足の需給要因によって一時的に株価が急騰しても、当然その後は暴落する。株式分割 は本来企業価値には影響がなく、1対100の株式分割は証券界の精励を汚すと非難してきた [Yahoo ニュース/ラジオNIKKEI 2006年1月26日] 」
精励を汚す、ですか。こりゃまたずいぶん手厳しい。でもこれを読んでも、この人が何を憤っているのかはさっぱりわからない。企業価値が変わらない――はい、その通り。なら、分割なんて形式上のことでしかない。そんなに目くじらたてるようなことじゃないだろう。なぜこんなボロクソに言われなきゃいけないの? さらに価値が変わらないなら(そしてあとで下がるのが判ってるなら)、なぜ分割をすると株価が一時的にでも上がるの?
よく見かける説明は、ここでも言及されている「株不足の需給要因」というやつだ。なんでも、手続き上の問題から新株が出回るまでにちょっと時間がかかるんだって。するとまだ新株が出回らないうちに、買い手がたくさん手を挙げるので株が品薄になり、値段が高騰する、というもの。ほう、さようですか。
でも、これが説明になってないことはすぐにわからなきゃいけない(こんなもんが説明として上がること自体、ぼくはメディアに出てくる株屋だの経済ヒョーロンカだのがいかに浅はかかを示すものだと思う)。その連中は、株が分割されただけでなぜライブドアの株を買おうと殺到したりするの? その連中は、分割された株が上がると思っているから買う。でもすでに述べたように、分割そのものでは企業価値はまったく変わらない。したがって、株価が上がるはずはない。したがって、それを買おうとする人だってそんなにいないはずなんだ。だいたい、北尾だって上のコメントで述べている。「株不足の需給要因によって一時的に株価が急騰しても、当然その後は暴落する」。さて北尾がそれを知っているなら、そしてこのぼくですらそれを知っているなら、そもそもなぜみんな分割した株を買いたがったりするの? そして実際にデータを見てみると、分割した株はその後値段が上がっている。別にライブドアに限った話じゃないのだ。
これを理解するには、なぜそもそも株式分割なんかするのか、ということを考える必要がある。株式を発行するのは、内輪だけでは何か事業に必要な資金を捻出できないときに、多数の人からお金を集めるための手段だ。そして効率よくお金を集めるためには、なるべく多くの人がお金を出せるように(でもあまり煩雑にならないように)そこそこ小額に刻んであげるほうがいい。
でも、急成長する企業だと、最初は普通の値段だった株がどんどん値上がりする。それが行きすぎると、株価が上がりすぎて普通の人が買いにくくなってしまう。そうなると株式分割をして、株を小さく刻むことで一般投資家が買いやすくしてあげるのだ。
いま述べたことに株式分割と株価上昇の関係の本質がある。株式分割するから株価が上がるわけじゃない。株価が急激に上がっているような企業、そして今後も上がり続けると思われる企業が株式分割をするんだ。 さて、ここまでは教科書通りの話だ。でもここで変なことが起こる。この事実から逆に「この企業は株式分割をした → ではなんだかわからないけど、将来も株価上昇が期待されるにちがいない」と判断してしまう人たちが出てくるのだ。そしてその人たちがワッとむらがって株を買うことで、株価は本当につり上がってしまったりするのだ。
本来であれば、株式分割がアナウンスされても、投資家たちはその企業の中身を検討するはずだ。そして「あ、これは別に中身が伴っていないな」と思ったら、そこに敢えて投資しようとはしない。でも、中身を検討しないバカな人たちがたくさんいたら? そうしたらその時点で、株式分割を発表しただけで、中身が何も伴っていない将来性皆無の企業であっても、株価がつり上がってしまうケースが出てくることになってしまう。
買う株の中身を検討しない投資家なんているのかって? いる。かつては罫線師、今ならテクニカル「分析」と称するものをやっている連中だ。この人たちは株価の動きだけを見て株を買う。そして上がり調子のときには、それに便乗して買いあさることでさらに値上がりに拍車をかける。一方、下がりはじめると沈む舟から逃げ出すネズミのように投げ売りをかけ、暴落を招く。そしていま、そういう連中がうじゃうじゃ増えている。ネットトレーダーとかデイトレーダーとかいう連中の多くは、企業の中身なんか見ていない(見ても判断する能力がない)。「この株は勢いがあるから」とか、頭痛がするような理屈であれこれ買ったりする。
かれらにも、一分の理はある。数値予測をやったことがある人なら知っていることだけれど、ごく短期的には、中身をきちんと検討してあれこれ考えるよりも、単純になりゆきに任せてトレンドをのばすほうがよく当たる。なぜかというと、株価の動きには本質的ではない、あるいは意外なほうから効いてくる変わった要素がとてもたくさん入っている。それらをすべて捕らえきって分析するのは不可能か、あるいは時間がかかりすぎる。その意味で、中身をいちいち見ないことを正当化することも、できなくはない。でも、多くの投資家はそこまで考えてるわけはない。中身を考える能力が単純にないだけだったりする。
ライブドアの株式分割をめぐる話の基本は、おおむねこんなところだ。企業の中身も見ずに株を買う、バカな投資家がたくさんいる市場を前提にすれば、株式分割と言っただけでそいつらはアホのように群がり、結果的に株価をつり上げてくれるわけだ。ライブドアは株式分割で株価をつり上げてけしからん、と(いまになって)憤る人は多い。でも実際には、ライブドアが悪いというより、そんなものにだまされる連中がバカで、そんなもんにホイホイ釣られて損をした投資家/投機家連中は自業自得というだけの話だ。
でも、中身をきちんと見ていたって、粉飾会計とかやっていたらきちんと判断できなかった、という議論もあるだろう。確かにその通りではあるんだが……でもライブドアのこれまでの各種公表資料をもとに、その怪しさ、ちょっとやばい手口等々についてきちんと解説しているサイトはある。たとえば「ホリエモンの錬金術」(ミラーサイト:http://consul.mz-style.com/subcatid/10)なんかはとってもよく分析できていて、勉強になる。そう、確かにこのサイトの言うとおり、ライブドアにはアヤシイ部分はあった。それは事実。でも一方で、こういう人がきちんとした分析をもとに、ライブドアがいかに変で、いかに怪しげかということを指摘すればするほど、それはある意味で、ライブドアのやった不正だの悪事だのは大したことじゃなかったというのを示すことになる。要するに、かれらの怪しげな部分は公開情報をもとに十分に判断できた。ライブドア株に手を出して、その株価をつり上げた連中はそれができなかった。そいつらは、やっぱりバカだったのだ。
じゃあ、株式分割がなぜそんなに悪者扱いされるんだろうか? たぶん一般メディアの多くは、それがなんだかよくわかっていなくて、単にちょっとおどろおどろしい狡猾でいかがわしい手口のような印象だけでそれを悪者扱いしているんだと思う。でも、株式市場で、バカが金を吸い上げられるのは悪いことか? みんなそういうもんだという理解の上に参加してるんじゃないの? 何がいけないの?
これに答えるのは、意外とむずかしいのだけれど、いちばんわかりやすい説明としては、相手がバカだからといって別にだましていいわけじゃない、という社会的な理念があるからだ。市場にバカがたくさんいて、中身のない株式分割をするだけでそいつらが釣られると知っていても、それを積極的にやるのは社会的に美しくありません、という最近どっかできいたような議論だ。そして確かに、そういう議論はわからなくもない。が……そこまで保護してあげなきゃいけないの、という気も一方ではする。そして法的にはだましちゃいけないことになってはいても、社会規範的には、それで損した連中が同情してもらえると思ったらおおまちがいだ。
というわけで結論。いやー、いろいろ粉飾なんかをしたライブドア&ホリエモンはけしからんですなあ。でも、結局のところそれに釣られた連中がいちばんバカだ。山本一郎は、ライブドアに踊った連中はライブドアの光の部分しか見ようとしなかった、と論じる(http://www.sankei.co.jp/advertising/toshin/spe0602/livedoor-060203.html)。でもぼくに言わせれば、そこで踊った連中はその光すらろくに見ていなかったというだけのことなのだ。