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『NewWords』2006年夏号

『ロリータ』は二十世紀的に不健全な変態の書である。

(月刊New Type 別冊「『NewWords』2006年夏号 pp. 128-9)

山形浩生

要約: ナボコフは二重の意味で変態の書である。それはそこに描かれた醜悪きわまるロリコン行為(およびその美文による正当化)と、電波すれすれの深読み志向の両方からくる。この不健全さこそが二十世紀的なブンガクの一つの典型である。




 『ロリータ』は不健全な変態の書だ。それはこれが、ロリコンの語源となったというだけのせいじゃない。本書は嫌な後味を残す。主人公がロリータに寄せる欲望は徹頭徹尾下劣きわまりない最低の意味での劣情だというのもある。主人公の殺人の理由が何度考えても全然ピンとこないというのもある。だが何より本書を構成する文のよじれ方が、その嫌な後味の最大の原因だ。

 本書は新訳だ。既訳は丸谷才一らにボロクソに言われており、その意味では待望の新訳だった。ところが本書の訳者解説によれば、既訳は文庫化の段階で大幅に改訂されており、かなり出来がよかったという。ただ本書の価値はことば遊びの部分にある。語呂合わせ、文学的な引用、修飾節がたくさんぶら下がっただらだらした文。それが今述べた、文のよじれと嫌な味わいを生み出している。既訳はそれを表現しきれていないかった。新訳はその部分で差をつけようとした、という。はい、確かに既訳よりそうした部分は六割くらい改善されているのだが、でもぼくに言わせれば中途半端。丸谷才一が毎日新聞の書評で述べたほどの絶賛すべき名訳とは(残念ながら)思わない。特にその遊びを最も露骨に出した冒頭部分の遊びが完全に放棄されているのにはがっかりだ。ナボコフ自身が本書のロシア語訳で無視した、という言い訳もきいたけれど、でもナボコフはかなり変な翻訳観を持っていた人なので、それをそのまま採用するのは変だ、とぼくは思う。さらに旧訳のいかにも翻訳調は大きく改良された一方で、日本語としての論理構造が犠牲になっているところも多い。

 だが困ったことに、この訳で引っかかる部分に遭遇するたびに、人は悩むことになる。これは翻訳が変なのか、それとも何かのことば遊びや他の文学作品への言及なのか? 実は二割くらい前者だが、ほとんどの読者は、ぼくみたいに原文を参照できない。そしてやろうと思えば、どの部分も文学的な仕掛けだと深読みできなくもない。いまの文学理論では、そうした深読みこそが文学の正しい享受方法だということになっている。二十世紀文学の一つの方向性は、深読みを可能にすることば遊びや既存作品引用の多用であり、「ロリータ」はそうした仕掛けの多さ故に評価されているのだ。

 だが一方で、そうした既存作品引用を発見する楽しみは、単なるうんちくひけらかしに即座に堕す。そしてことば遊びの多くは、電波な人がテレビや広告から隠されたメッセージを読み取る行為と大差ないのだ。「ロリータ」の文章のよじれは、まさに人の持つそうした電波な部分に訴えかけてくるようにできている。その意味で、「ロリータ」は犯罪的な幼児性愛者の書でもあると同時に、電波なキXXイの素養を持つ人ほど楽しめる(いやそういう人しか享受できない)、二重の意味での変態のバイブルとなっている。冒頭で本書を「変態の書」と呼んだ所以だ。そしてそれが二十世紀文学の金字塔とされているという事実は、文学、少なくとも二十世紀の文学が抱えている(いた)本質的な不健康さをはっきり表している。

 そうした不健康さにどう対峙するか? それは二十一世紀にも意味を持ち続けるだろうか? 健全なあなたが本書を二十一世紀の現在に読む意義は、そこにある。そこにしかない。

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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