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毎日新聞ネット時評 2009-2011

山形浩生

 2009 年 5 月から、毎日新聞に毎月ネット時評が掲載されるようになった。山形、稲葉振一郎、宇野ジョーカンが回り持ちで書くことになっている。正直言って、この三人でいいのかという気がしなくもないが。
 なお、文中でぼくがいきなり天気の話をしているところは、検閲を受けた部分。

 当初は、ぼくや稲葉大人がよくやっていた、ネット掲示板やブログにおける論争を採り上げてあれこれ論じるようなことを意図していた模様。でもこの連載開始の半年後くらいから、ブログコメントでの論争はだんだん下火になり、ウィキリークスやツイッター,フェイスブックといった場がネット上の活発な議論の場になっていった。その意味で、少し欄としてはあてがはずれたんじゃないかな。

 ただ連載の三人の中で、ぼくはタイミング的に運がよかった。特に後記は尖閣ビデオやウィキリークス、北アフリカ動乱に震災と、ネットや既存報道の問題を描き出す事件がなぜかたまたまぼくの担当の月に起こっていたからだ。もっともアフリカ動乱とか、他の人でも十分扱えたと思うんだが、なんかマイナーな内輪話をしたりしていたのは、ライターとしての質の差かもしれないけれど。

 一応、二年続いたので交替、とのこと。後任がだれなのかは知らない。

目次

2011

2011.3 北アフリカ動乱と震災報道におけるネットと既存メディア
要約:2010末-2011初頭の北アフリカ動乱では、ネットは既存メディアと連携することで大きな役割を果たした。だが東北大震災報道で、外国メディアは(当初は)それができていたのに、日本メディアの惨状は目を覆うばかり。今後役割分担が見直されるはずだ。

2010

2010.12 既存メディアの信用:尖閣ビデオとウィキリークス
要約:尖閣ビデオが既存メディアに提供されなかったのは、既存メディアが信用できないから。ネットがジャーナリズムの最先端に立つ状況は、ウィキリークスなどでも見られている。

2010.09 ネットの議論はツイッターに移行
要約:この連載当初はブログなどで活発だった議論が、いまやツイッターに移行しつつある。140字しか書けないことが、逆に簡潔さをもたらし、議論しやすくしている面もある。

2010.06 ブロガーはジャーナリストか?
要約:酒場に忘れられたプロトタイプのiPhoneを入手して記事にしたギズモードの記者がガサ入れをくらった。ジャーナリストはカリフォルニアではガサ入れされないはずなのに。ブロガーはジャーナリストといえるのだろうか。

2010.03 ネットと経済学者たち
要約:アメリカの経済学者は、リーマンショックもあって日々変わる理論構築や紹介にネット上の議論を活用している。日本でも少しそうした気運が見られて、ネット上の活動がリアルに影響するといいのだが。

2009

2009.11 ネット発のデフレ議論
要約:日本のデフレと、それに対処するための調整インフレ論は、クルーグマンのネット論文から始まったようなもの。その後もネット上で議論が多く展開されている。いずれはこれが実際にデフレ脱却につながってくれればよいのだが。

2009.08 ネットの過度のデータコントロールと自由
要約:アマゾンのキンドルで、オーウェルの1984年がいきなり削除されるという事態。またニワンゴは、ニコニコ動画上の初音ミク画像を削除。ネット上は規制のなさが問題とされがちだが、実はこうしたデータの規制ができすぎてしまうことのほうが問題なのだ。

2009.05 豚インフル騒ぎに見る、ネット優位の限界
要約:豚インフルの情報が日本を震撼させたとき、同じ情報源しかなかったために、メディアもネットも似たようなパニックをあおることしかできなかった。ネットだから既存メディアより優勢と思ってはいけない。

連載 8 回 (最終回)

北アフリカ動乱と震災報道におけるネットと既存メディア

(毎日新聞 2011/3/22 掲載、pdf 版

 もともと今回は,北アフリカ情勢についての話を書く予定だったが、ご承知の通り状況がまったく変わってしまった。今日は震災後四日目、まだ原発危機が終わっていない状況だし、まだ何も落ち着いたとは言えない状況なのだが、本稿が出る頃にはそろそろ落ち着いて、復興に向けての動きが始まっているだろうか。  が、北アフリカの場合と今回の震災とで共通して、一つ思うことはあった。それはインターネットの役割だ。

 北アフリカにおいては、ツイッターやフェイスブックが人々の結びつきを作り、それによりデモが拡大したと言われる。ただ、これだけでは話が不十分だ。そもそも人々が結びつく原因となる不満というのが何だったのか、というのは未だにはっきりしない。独裁政権への不満というのは、事前にはそんなに強くなかったし、貧困者の不満という話も、今回騒動のあった国ではそんなに大きくない。大卒者の失業問題と、食料価格の高騰くらいが現在の説得力ある仮説だが、それについては今後こうしたデモの発生過程についての細かい分析が必要だろう。

 とはいうものの、いったんデモが起こり始めたときにネットがその拡散ツールとして大きな役割を果たしたことはまちがいない。そしてまた既存のメディア、特にアル・ジャジーラも非常に優れた報道を行い、必ずしもネット利用者ばかりではなかったデモの形成に貢献した。ネットと既存メディアとの絡み方が、一連のデモとその国際的な伝搬を過去にあまり例のないものにしていたとぼくは思う。

 一方で、日本の震災においてもネットの果たした役割は大きかった。一瞬でダウンした電話やケータイメールに対し、インターネットだけは異様な堅牢性を示し、東京においてすら地震当日の夜はツイッターなどが唯一あてになるメディアだった。そしてその後、原発事故の展開においても、デマやパニックなどは流れたものの、だんだん信頼できる情報源が特定されるにつれて(たとえば東大物理学科長の早野龍五教授など)、人々の安心を維持するのにいちばん有効なツールとして機能したように思う。

 これに対し日本の既存メディアの機能は、よく言っても疑問符。一部、津波の映像や福島第一原発の外構爆発の映像などでは手柄があった。またラジオも威力を発揮したと思う。だがそれ以外の報道は、悲惨な映像を撮ろうと被災者をいたずらに怯えさせ、各種の記者会見では明らかに無知で不勉強な記者が、えらそうな態度で口汚い取材を展開し、記事や報道も明らかに自分でも理解していない話をひたすらショッキングに描いて不安をあおるものが多数見られた。

 そして事態の急激な変化に対し、特に新聞の対応はきわめて不満なものだった。原発の爆発でも、事態が一応沈静化した翌日になってでかでかと「原発爆発」などと見出しを掲げて話を蒸し返すのみ。そして紙面や放送時間を埋めようとして、ショッキングな映像を繰り返し流し続けて不安と絶望を拡散させるだけ。

 おそらく、リアルタイムで事態の進行を追っていた人々は、こうしたインターネットと既存メディアとの落差を如実に感じたことだろう。それは事態が落ち着いたあとに、メディアの役割の見直しを迫ることになるんじゃないだろうか。同時に、外国メディアは情報をうまく整理して提供するというメディアに本来要求される機能を、ネットを縦横に活用して実現した。どうして日本であれができないの?

 いまこれを書きながらも、東北地方の復興はすでに始まりつつあるようだけれど、たぶんそれと並行しておそらく、メディアって何するものなのか、という見直しもすすむんじゃないか。その中で、ネットと既存メディアの望ましい(と思うかどうかは人によるかもしれないのだけれど)コラボの方向性がだんだんできてくるんじゃないかと思うんだが。

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連載 7 回

既存メディアの信用:尖閣ビデオとウィキリークス

(毎日新聞 2010/12/24? 掲載、pdf 版

 前回のこの欄からの間で、ネットにおける情報公開の威力をまざまざと見せつけられる事件が起きた。むろん、それは国内では尖閣ビデオ、そして世界的にはウィキリークスをめぐる騒ぎだ。

 ぼくも含め、多くの人は尖閣ビデオの公開には大喝采した。政府が明らかに普通でないことをしているのに、国民は何が起こったかも報されず、そして政府は露骨に介入しているのにそれを認めず「検察の判断に任せた」などと意志決定の責任すら取らない——それがビデオの公開で、何が起きたかある程度はわかったし、政府の対応(またはその不在)を評価する一定の基盤ができたことは、多くの人にとって十分な価値のあることだった。だからこそ、ビデオを公開した海上保安官には同情論が高い。そしてまた、かれが公開の場として既存のメディアに頼らず、インターネットに頼ったということは、ネットの発信力を如実に示すとともに、既存メディアに対する不信を示すものでもある。ぼくだってそうしただろう。いまの日本のメディアは、政府や中国ともめるのを恐れ、あのビデオを持ち込まれてもたぶん握りつぶしただろうから。

 そしてそれと同じ状況が、内部告発サイトの先駆であるウィキリークスでも見られた。ここからアメリカの外交文書が大量に公開されたことで、日本が歌舞伎役者のけんかなんぞにうつつを抜かしている頃、世界中は騒然となっていた。情報そのものは、欧州の有力新聞がチェックをかけており、信憑性は保証付きだ。とはいっても、公開された情報の中身自体は、さほど衝撃的なものは少ない。アメリカと中国が北朝鮮に愛想をつかしているとか、サウジの王族が酒池肉林の乱痴気パーティにふけっているとか、日本の政治が世界的にバカにされているとか。外交的な面子はあるだろうが、常識のある人ならまあそんなものだろうとしか思わない話だ。

 でもむしろ衝撃的だったのは、同サイトに対するすさまじい弾圧だった。クレジットカードやネット送金サービスが一斉に取引停止、サーバを提供していたアマゾンもサービス停止、そして主催者アサンジは、コンドームがどうしたとかいう死ぬほどくだらない口実で国際指名手配。ここまで露骨な言論弾圧が展開されるとはだれもが驚き、国連はおろかロシアのプーチンすら懸念と嫌みを述べたほどだ。

 さてネット初期、ネットでジャーナリズムが変わるといえば、市民記者なる連中がブログで感想文を書き散らすようになるとかいう話だった。でもいつのまにか、現実はそれをはるかに超えていた。政府が隠そうとする情報が、既存のメディアを無視してそのままネット上で万人に公開されてしまうとは。

 でも、ジャーナリズムの相当部分は、取材を通じて記者たちが、政府などの必ずしも公開して欲しくない情報を人々に知らせる活動だ。そしてネットはいまや、それをずっと直接的な形で実現してしまっている。ネットはジャーナリズムを変えるどころではない。最も本質的な形のジャーナリズムの実践が、いまやインターネットに担われているのだ。それに対する弾圧は、ジャーナリズムそのものへの弾圧なのだということに、既存メディアの人々こそもっと声をあげるべきはずだ。

 そしてそれは多くの「識者」や政府関係者たちの秘密性の根拠にも疑問をつきつけている。「こんなものを見せたら政府の信用が失墜する」「国民が感情的に反応する」とかれらは懸念するけれど、本当に公開してみるとそんな様子もない。政府が秘密にすべきだと思っていることは、本当に秘密にする必要があったのか? 一連のネット情報公開事件は、こうしたいまの政治の基本的な前提すら揺るがすものだということを、もっと多くの人が認識すべきだと思うのだが。

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連載 6 回

ネットの議論はツイッターに移行

(毎日新聞 2010/09/30 掲載、pdf 版

 インターネットという技術は世の中の言論に大きな変化をもたらしたことはまちがいない。二〇〇〇年代の半ばくらいまでは、そうした議論が展開する重要な場は、多くの人々が自前で用意していたネット掲示板だった。だがそれが、掲示板管理の手間に多くの人が疲れてきた段階で停滞を見せ、主要な議論の場はブログに移った。

 そしてこの欄が始まったのとほぼ同時期に、ネット上の主要な言論の場は急激にツイッターに移行してきた。これまではブログで精力的に情報発信を行い、議論を展開していた人々が、次々と発言の主要な場をツイッター上に移して、ブログのほうの更新が大幅に減っている。結果として、ブログ上での論争などはもはやほとんど見られなくなりつつあるのだ。

 ツイッターは、そろそろ知らない人も少なくなりつつあるだろうが、百四十字以内の短いつぶやきを発信するインターネット上のサービスだ。パソコンでも携帯電話でもアクセスできる手軽さが受けて、すさまじく普及しているが、中でも日本での普及はめざましい。そしてその理由の一つは、おそらく百四十字という字数の制限にある。

 英語での百四十字は、きわめて短い。どこにいる、何をたべた、おもしろいものを見た——そのくらい書いたらもうおしまいだ。まともな主張や議論をするのは無理だ。でも、それは一方で長所でもあった。長々とした文章は読むのも書くのも面倒な人々にとって、知り合いがどこで何をしているかが時々わかれば、それで充分だった。発信する方から見ても、ブログですら何か書こうと思えば少しは気の利いたせりふも考えねばならず、敷居が高い。何も考えず「成田空港なう」と書くだけですむツイッターのほうが圧倒的に気楽だ。無内容でしかあり得ないことが、初期のツイッター人気の要因だったとぼくは考えている。

 でもおもしろいことだが、日本語での百四十字は、工夫すればギリギリ理屈のある主張ができてしまう。たぶんこれが百字だったら、事態はかなり変わっていただろう。でもこのため、ツイッターも日本語では英語とは少しちがう発達をとげている。英語のツイッターが時事問題に関わる場合は、多くの人がこのテーマを話題にしている、といった多数決的な形になる場合が多い。でも日本語だと、尖閣諸島への中国侵入問題などもそうだが、そこそこおもしろい議論が展開される例も少しずつ見られるようになってきたのだ。

 そして字数の短さは、そうした議論でも有益にはたらく場合もある。ブログや掲示板の議論の多くがこじれる原因の一つは、多くのブログ論者が気が利いたつもりで、下手なあてこすりやピント外れなたとえ話を多用して話をややこしくすることだ。また、いくつもの論点を行ったり来たりすることで、議論の流れが見えなくなることも多い。でもツイッターでは、そんな字数の余裕はない。一度に一つの話題をストレートに語るしかない。それに世の議論の多くは、「それはちがう、証拠としてはこのサイトを見よ」くらいの記述で事が足りる。ツイッターの字数制限は、実は意外によいほうに働くことも多いのだ。

 むろん、欠点はある。複雑な考えを充分に展開することはできないし、議論の流れがはやくて重要な論点がおいてけぼりになる場合も多い。いまをときめくサンデル教授の主張する「熟議」は困難かもしれない。だが、そうした欠点を補うだけの利点もこのメディアにはある。まだ草創期だが、今後ツイッター上で見るべき議論が展開されるようになるのではないか……むろん、それまでにまた次の新しいメディアが登場しない限りではあるのだが。

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連載 5 回

ブロガーはジャーナリストか?

(毎日新聞 2010/06/24 掲載、pdf 版

 ネットの書き込み、特にブログはジャーナリズムか、という議論は、昔から繰り返し展開されてきた。インターネットによって取材や分析が民主化し、それにより特権的なジャーナリズムは脅かされるという主張はネット草創期から繰り返し登場する。

 だが実際には、その期待に応えるようなネットニュースサイトはほとんど登場していない。韓国で成功したオーマイニュースも、日本では低迷と撤退を強いられた。ある報道についてコメントを加えるなら、市井の個人にも可能だ。でも元の情報を現場で継続的に取材するには、コストも労力も時間もかかる。それを個人の片手間で負担するのは困難だ。

 だが、それが比較的容易な分野がある。特定分野の新製品紹介などの分野では、フォローすべき情報源は限られている。このため特にアメリカなどでは、コンピュータや携帯電話などを主に扱うIT系のブログがいくつか確立している。だが、それはジャーナリズムと言えるのだろうか?

 こうしたIT系のブログでは、この四月から五月にかけて、アップル社の新製品が大きな話題となっていた。さらにいつもきわめてガードのかたいアップル社としては異例のことだが、その一部が正式発表前に次々に流出し、これらブログがそれをいちはやく報道したことも大きな話題を呼んだ。

 その流出の一つは、シリコンバレーのあるバーに、アップルの新製品開発チームの一員が、新型iPhoneのプロトタイプを置き忘れてしまうという事件だった。そして紆余曲折を経て、IT系のブログとして有名なギズモードのブログライターがそれを入手し、詳細な記事を発表した。そして実際の製品発表で、それが確かに本物だったことも確認された。

 だが、そのブログ、ギズモードにそのプロトタイプの分析記事が発表されて数日後、そのブロガー記者の自宅に警察のガサ入れが入り、パソコン数台その他が押収されてしまったのだった。

 なぜか? 明確な理由は不明だ。ただしカリフォルニア州の法律では、正当な持ち主でない相手から物品を買うのは刑事犯罪だ。だからかれらが拾い主からこのプロトタイプを入手した方法が問題視されている可能性が高い。

 が、この州ではまた、ジャーナリストにはこうした(取材内容に関わる)ガサ入れをしてはいけないことになっているし、また取材関連の資料を押収するのも許されていない。このブロガーは、フルタイムで技術製品についての取材執筆を行い、ブログにそれをアップし、給料をもらっている。発表媒体を考えなければ、これは立派なジャーナリストと言えるはずだ。だが、アメリカの警察は、この人がジャーナリストだとは判断しなかったことになる。

 これについて、ネット人権団体やこのブロガーの雇い主から抗議は出されている。ただしこれは単に証拠品の押収であり、このブロガー/ジャーナリストが逮捕されたり拘留されたりしたものではないので、話はあまり大きくなってはいない。

 だがそれでも本件は、昔ながらの問題を再びクローズアップするものではある。ブログは、あるいはネットは、ジャーナリズムたり得るのか? そしてそれ以上に、そもそもジャーナリストであるとはどういうことなのか? それは発表する媒体で判断されるべきものなのか、それとも雇用形態で判断されるものなのか、あるいはネットの草創期に何度も言われたように、だれでも情報を集めて評価・公開できればジャーナリストと言えるのか? 筆者は、最後の考え方に傾いている。だがこれはつまり、ジャーナリストだから、というだけで何にせよ特権を与えるべきだという発想を否定するものでもあるのだが。

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連載 4 回

ネットと経済学者たち

(毎日新聞 2010/03/24 掲載

 なぜかネットは、少なくともアメリカでは経済学と親和性が高かった。『ヤバい経済学』ブログは大人気だし、またノーベル経済学賞受賞のクルーグマンのコラムやスティグリッツらのメルマガ、グレッグ・マンキューのブログなどはもともと人気もあった。解説コラムではなく、かれらのまだアイデア段階や思いつき段階の荒削りな議論(でもだからこそエッセンスのわかる議論)がそのままの形で展開されるのは大きな魅力だった。

 さてここ一年半ほどは、ご存じの通り世界経済が大きく揺れ動いたし、経済学も見直しを余儀なくされた。といってもそれは、拝金主義の経済学はもうダメだ、といった結論ありきのお説教のことではない。経済学は、危機ごとに成長する。今回の危機もまた、経済学(そして人間の社会運営)の進歩の機会なのだ。  だから心(と能力)のある学者たちは、これを新しい発展のチャンスだとも思っている。過去一年の出来事をどう説明すべきか? そしてまた、過去一年は状況が毎週のように動いた。それに対応する理論構築と政策対応には、従来の専門誌論文ではまったく遅すぎる。

 だからこの一年は、各種経済学者のブログやネット活動は実に大きな意義を持っていた。急変する状況下では、荒削りのアイデアの段階でも大いに求められていた。そしてかれらが相互に(実に大人げなく)批判しあう様子は、それ自体がおもしろいし、そこでの議論がすぐに具体的な政策に反映されるので、実に勉強になる。

 さて残念ながら、日本ではそうした動きはまだ薄い。学問の最先端や経済政策に直結しそうな議論がネット上で、当事者たちによって丁々発止と展開されるというほどではない。しかしそこは翻訳文化日本。そうした海外での議論が、最近では即座に翻訳され、それをもとに国内でも一部では有意義な議論が展開されるようになっている。そしてそこに、気鋭の学者たちも少しずつ参加するようになっている。

 なかでも近年では、デフレをめぐる経済政策議論がかなり盛んだ。これについては前回も少し触れた。その後もIMFのオリヴィエ・ブランシャールらが日本に対してインフレ目標をうながす報告を発表し、それに対してまちがった訳でゆがめた議論を展開したあるアルファブロガーに対して、飯田泰之ブログなどで急速に全文翻訳や関連のインタビューなどの翻訳が実施され、適切な補正が行われている。また翻訳にとどまらず、ハイパーインフレについて論じた東大の岩本康志論考について、ネット上で非常に深い検討が展開され、そこに当の岩本教授がコメントを寄せ、きちんとした議論の体をなすようになってきている。

 一方で、政治の場でも、民主党の中に金子洋一議員らを中心としてデフレ脱却議員連盟が立ち上がり、ネット上(そしてネット外でも)でデフレ対策の重要性を長年にわたり力説してきた田中秀臣が現状についてのレクチャーを実施したりしている。その様子もまた、ネットを通じてフィードバックされている。

 ネットでの主張、検証と議論、そしてその現実世界へのインパクトが、いまのこの分野に限っては非常によい形で動いているように思える。ネット出現の当初に一部の理想論者がのべていたような、政治と理論と人々の協働体制が、多少なりとも実現しているかのようだ。

 一時的な現象なのかもしれない。だが個人的には、これがもっと広がって欲しいと思う。もっと多くの学者や政治家にも参加して欲しいし、またもっと多くの分野で同様の動きが起きて欲しいと思うのだが。そしてぼくは、新聞とか雑誌の機能も、本来はそうした場の醸成だったはずだし、それはネットの時代にも活かすべきだと思っているのだがどうだろうか。

注: もともと2月の予定だったが、1月にいろいろ特集などで掲載が一ヶ月延びたとかで、その後一月ずつずれていった。

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連載 3 回

ネット発のデフレ議論

(毎日新聞 2009/11/26 掲載、pdf 版

 当然のことながら、ネットが普及するにつれて「ネット論壇」も変化する。このコラムも当初は、現実世界とは隔絶したネットの片隅で行われているおたくたちの風変わりな議論を、動物園の珍獣を見るように見物しようという意図があったように思う。だがいまやネットの議論はリアル世界と相互に影響しあうだけの力を持つに至っている。それを感じたのは、この十一月に急激に展開した、デフレ関連の動きを目の当たりにしたからだ。

 日本はかなりの長期にわたりデフレが続いていた。デフレとはインフレの逆で、物価が持続的に下がり続ける現象を指す。待っていれば物価が下がるので、人々は買い物をなるべく先送りしたがる。でも、みんなが買い物をを控えたら、経済全体では不景気が生じる。いまの経済停滞や失業率の上昇などは、ほとんどがこのデフレの副作用だといえる。それを解決するには、軽いインフレに戻すリフレ政策を採る必要がある。

 だがこれまでの日本政府や日本銀行はこのデフレの害をまったく顧みようとはせず、対策を怠ってきた。そしてマスコミも(残念ながらこの毎日新聞は特に)それを指摘しないどころか、逆にデフレは物価が下がるからよいことだなどとうそぶいて、問題を悪化させてきた。

 だがこの十一月に状況は一変した。その台風の目は、今人気の勝間和代だ。彼女がなぜ急にデフレに関心を持ち、それを何とかせねばと思うに至ったのかはまったくわからない。ぼくは勝間のよき読者ではないが、それまでの彼女はマクロ経済政策的な不景気対策よりも、個人の努力での景気回復をというナイーブな立場だったように思う。それがある日ネット上で突然、彼女はデフレの害を訴え始めた。そして、リアルタイムのつぶやきシステムとでも言うべきツイッターで、デフレ対策を求める署名運動を開始。その直後に勝間は、菅直人経済財政担当大臣に対してデフレの害を直訴し、リフレ的な対応による景気回復策を主張する。そしてその数日後には、その菅直人が月例経済報告で、日本がデフレ状況だと明言するに至る。

 そしてそれを受けて、ネット上でもデフレ議論が急激に活性化した。ネット上では以前から、反デフレ・リフレ支持論者と、それを否定する論者が小競り合いを続けてはいた。実はリフレによる景気回復論の発端となったポール・クルーグマンの一九九八年論文も、まずネット上で発表された(ちなみにそれをいち早く訳して日本に紹介できたのは、ぼくの数少ない自慢の一つだ)。初出が査読誌ではなくネットだったことは、この理論に対する中傷の材料になったのだが。だがその後の十年で、この理論は精緻さを増し、支持者も増えた。もはやその初出など気にする人はいない。そしてその間に行われた議論が、この一月ですべて蒸し返されて再整理されている。そして大手新聞にもようやく、デフレの害をきちんと述べた解説が載るようになった。

 ネットでの動き、リアル世界での動き、政治の動き、そして既存マスコミの動き――それらがこの十一月には、デフレと日本経済をめぐってほぼ同時に動き、筆者をはじめとするリフレ支持者たちが十年がかりでもなかなか実現できなかった現実的な成果が生まれた。これは驚き以外の何物でもない。それがこれほど一斉に生じたのは、誰かの仕組んだシナリオでもあったのか、と勘ぐりたくもなるほどだ。もちろん今回は勝間和代という個人による戦略的なネット活用があったのも大きい。だがそれを差し引いても、ネットでの議論や動きはもはや現実世界にとって無視できないものとなりつつあるのだ。あとはこの勢いでリフレ政策が実現されて日本がデフレを脱してくれれば何も言うことはないんだが……

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連載 2 回

ネットの過度のデータコントロールと自由

(毎日新聞 2009/08/24 掲載、pdf 版

 ここ数年は、本や雑誌という媒体がインターネットが既存のメディアをどう変えるかは、ネット業界お気に入りの話題の一つだ。紙媒体の終焉は長く言われているが、それにかわるはずの電子ブックなどは前世紀末からなかなかモノになる気配を見せない。それを読むためのリーダー機器が未成熟なので、コンテンツの点数が乏しく、流通体勢も整わず、だから機器も売れないという悪循環が繰り返されている。

 だが昨年から今年にかけて、それが急変しつつある。グーグルが世界的にすさまじい量の書籍の電子化に乗り出し、日本では未発売だがアマゾン・コムがキンドルという電子ブックリーダーでかなりの成功を収めている。流通も、そのアマゾンや、アップルのiTunesストアなどが手法をほぼ確立しつつある。

 だがその一方で電子メディア特有の問題も次第にあらわになりつつあるようだ。

 アマゾン・コムのキンドルで、オーウェル「一九八四年」「動物農場」の電子ブックを買った人は、六月に驚かされることになった。版元に問題があったから、としてこれらの本が手元のキンドルから勝手に消し去られていたのだった。問題のある本が店頭から引き上げられるのはよくある話だ。だが、本や雑誌や通常のソフトなら、いったん買ったものを勝手に取り上げられることはありえない! アマゾンは、この対応のまずさについて謝罪し、二度とやらないと宣言した。が、そもそもそんなことができるということ、そしてそれが実際に行われたことには多くの人が戦慄した。しかもそれが皮肉なことに、まさにそうした情報統制社会の恐怖を描いた「一九八四年」で起きるとは。

 またiTunesストアも問題を起こしている。アップルはこのオンライン店で販売されるiPhone/iPod用のソフトの健全性に、きわめて神経を使っている。わいせつ語が入っているソフトは、軒並みアダルト指定を受ける。先日、なんと辞書がこれを理由にアダルト指定を受け、ストアへの出店を拒否された。アップルはこれについて、対応のまずさを認めてはいるが、でも方針には今のところ変化はない。

 我が国では、動画投稿サイトニコニコ動画が同様の問題を見せた。酒井ノリピーの昨今の騒動を受けて、彼女の歌の替え歌を歌唱ソフト『初音ミク』に歌わせた動画が投稿された。ところがそれに対し、なんとその歌唱ソフトのメーカーであるクリプトン・フューチャー・メディアが、そんなことに使われたら自社ソフトのイメージダウンだ、と称して削除を要求したのだ。

 当然ながらかれらは自社製品で作られたコンテンツに対して何の権利も持っていない。が、信じられないことに、ニコニコ動画を運営しているニワンゴはあっさりその抗議に応じて、問題の動画を削除してしまった。ニワンゴの経営陣でもある西村博之はこの対応に疑問を述べ、その後同社は、問題の動画を復活させた――投稿者に対する自主検閲を促すコメントつきで。

 ネットは著作権無視でコントロールのきかない無法地帯とされる。でも実はデジタルコンテンツの真の問題は、コントロールができすぎてしまうことなのだ。今回とりあげたケースはいずれもそれを如実に示している。いま多くの日本のコンテンツ運営業者は、抗議があればそれが正当なものだろうと不当なものだろうと、人に不快感を与えてはいけません、といった低級なお題目の下に問題のコンテンツをとりあえず消してしまい、その場をおさめるというのがありがちな対応だ。ニワンゴの対応はその好例だろう。だがそれでいいのか? 目先の快・不快なんかより重要なことが世の中にはある。デジタルコンテンツも、そろそろそれを考えざるを得なくなりつつあるのではないか。

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連載 1 回

豚インフル騒ぎに見る、ネット優位の限界

(毎日新聞 2009/05/21 掲載、pdf 版

 ネット議論についてぼくや稲葉振一郎が書くのは、いささかマッチポンプ的な側面もある。というのもこの二人は、ネット上での多くの議論で、単なるウォッチャーどころか当事者であることも多いからだ。 今回の件も、多少そんなところがある。今回の件とは、新型インフルエンザに関するネットの反応だ。 

 インターネットに伴う自由な言論と民主主義の高まりについては、多くの人が期待と希望を表明している。多くの人がブログで意見をいいあい、独自の分析や情報を加えてマスコミ報道などを検証修正することで、もっと民主的な世論形成が可能ではないか、というわけだ。

 確かに、そうなることもある。窓の外はいい天気だ。だが新型インフルエンザでは、そうはならなかった。この件については既存マスコミとネット論者たちは、まったく同じことをやった。数少ない情報源であるWHOや保健当局の発表をもとに、話を誇張してあおったのだ。スペイン風では何百万人死んだ、今回もすごいことになりかねない、ほらパンデミック目前だ云々。

 確かに、当初のメキシコの状況に関する報道は、感染者がまたたくまに千数百人に達して死者も百人超というすさまじいものだった。過剰な反応もやむを得ない。でも四月末時点頃には、感染者も死者もそんなにいないことは明らかになっていた。それなのにネットでの論調は相変わらず。たとえば稲葉振一郎のブログなどは未だに新型インフル情報をトップにあげ、豚肉に対する風評被害を懸念する同じ記事で、豚肉にはよく火を通せなどと書いて自ら風評を悪化させている。一方のマスコミも当初の過大な死者数を掲載し続け、国内感染例が報告されてからはネットもマスコミも、スペイン風邪は数年たってから突然変異したから今回もヤバイかもしれないと楽しげに脅すばかり。

 なぜこの件では、ネットもマスコミも同じことしかできないのか? 理由は簡単。情報の出所がそもそも限られているからだ。別の視点や情報がない。結果として、両者は同じネタをもとに、自分の不安や聞きかじり情報を足すしかできなかったからだ。そしていちばん恐ろしげなことを言ったやつが目立ち、みんながお互いの不安を参照し合い、それが増幅する。

 これは一方で、舛添要一厚労相を筆頭に保健当局の情報伝達のまずさでもある。今、アメリカからの直行便は、すさまじい検疫体制だが、ソウル等などの経由便はほぼ完全にフリーパスだという。当局だって水も漏らさぬ検疫が狙いではなく、ある程度入り口をしぼって国内進入を多少遅らせればいいとしか思っていないはずなのだ。

 保健当局が多少用心気味の反応をするのは仕方ない。後々詰め腹切らされるのもいやだろうし。でもそれに対して、本当ならマスコミなりネットなりに期待されるのは「さはさりながら、多少は入ってくるのは仕方ないでしょ」と冷静に指摘することだったはずだ。国内感染者数をいくら騒いだところで、一般人にできるのはうがいと手洗い励行くらいなんだし。

 それができないのは、ネット論議の限界を示すものではある。一次情報源が限られているときにはネットには何の優位性もないのだ。ネット論壇の真価の一つは、その視点なり情報源なりの多様性だ。それが発揮できないときには、ネットも既存マスコミと何ら変わらないか、それ以下でしかないことも多い。受け手はそこまで考えて情報を咀嚼する必要がある。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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