Mag X 連載「山形浩生の世界を読み解く叡智:結局、そういうことだ」 (2010年)

2010年1月号 連載第9回:衣服と文化——スーツのお値段について

 人が自分の所属する文化と関わる方法は無数にある。人間として生きる行為のすべてが、そうした営みの一部だともいえる。人はあらゆることに、単なる実用性を超えた意味づけを行うし、そのためには追加のコストを大量に支払うことも厭わない。

 先日他界したレヴィ=ストロースの大作『神話論理』は、食べ物とその料理についての本だった。食べ物は、そこらの草や木の実を生でかじるだけでも本来はかまわないはずだ。でも、人間はそれを敢えて料理するし、それは人間にとっては自然と文化、野蛮と人間とを区別する大きな意味を持つ行為となる。だからこそ、物の食べ方や調理方法には、実に多くのタブーや、意味がなさそうなルールがあれこれついてまわるのだ。

 服もそうだ。衣服は単に保温や保護といった実用的な機能だけではない。そこには機能的にいえば必ずしも本質的ではない、各種のルールがある。どんな服装をしているかは、人間を文化の中に位置づける。

 なぜそんなことを考えているかというと、先日仕事をいっしょにしているイギリス人と、酒を飲みながら話が服に及んだからだ。かれは、日本人の服装——特にビジネスマンのスーツ——が安っちいのはなぜだ、という話をしていた。

 人は見かけじゃないというのはよくきく話だが、そうではない、というのがかれの議論だ。自分の社会的な立場——地位、肩書き、稼ぎを含め——に見合った服装をするのは、自分がその地位や肩書きに見合った存在として自分を認識しているという証拠であり、つまりはそこで発生する責任を自分で引き受ける覚悟があるという決7意表明でもあるんだ、と。安いスーツを着ているのは、「自分は肩書きほどの人物ではないからヘマをしても許して」という逃げ腰の表現なんだ、と。日本的な謙遜は美徳かもしれない。でもそれは往々にして、単なる責任逃れの言い訳に堕しているんじゃないか、と。

 これはある意味で、まさに衣服が人をどうやって文化や社会の中に位置づけるかという話だ。もちろん、この人が言っていた話に対する反例を挙げるのは簡単なことだ。だれそれは、質素は服装でも立派な人物だとか、逆に(このほうが多いが)身なりだけ立派な中身のない人物とかは、いくらでも挙げられる。でもかれの言うことにも、一理はあるとぼくは思うのだ。

 ではきくが、とぼくは訊いてみた。どのくらいのスーツを着ていればおまえは満足なんだ? その人の立場にふさわしい身なりとは?

 それは簡単だ。あくまで目安だが、おれはその人の一週間分の収入に相当するくらいの値段の服を着るべきだと思っている。

 うーん。もちろん、一週間分であるべき確固たる理由はない。が、ぼくはそれが結構いい指標だな、という気がしたのだった。一年は五十二週間ほどなので、年収の五十分の一くらい、月収の四分の一くらい。

 もちろん文化によってもこれは左右される。衣服を購入するのではなく、自分で作る人もいる。でも、その労働力を考えると、ぼくはだいたいこのくらいがあらゆる文化で衣服に対する支出の目安になっているんじゃないかとさえ思う。

 ちなみにぼくがそのとき着ていたのは、週の稼ぎの半分くらいしかしない安物のスーツではあったんだが……さて、あなたが着ている服は、いくらくらいだろう。そしてあなたにとって、自分の社会文化的な位置づけで一週間分の支出というのは、高いだろうか、安いだろうか? そしてぼくは、車などの移動手段についても、ある程度はそうした考え方があり得るんじゃないかとは思う。もちろん車の場合、実用的な意味のしめる比率はずっと大きい。でも、それ以外の部分もある。そして近年の、モーターショー不振や新車販売台数の不振の要因も、それ以外の部分での車の位置づけに最近は失敗していることにあるんじゃないかとは思うのだ。


2010年2月号 連載第10回:ドバイのバブル惨状

 ご存じの通り、ドバイが借金返済の繰り延べを融資団に申し出た。日本的に言えば、不渡りを出したというに等しい。厳密に言えば、ドバイという首長国が不渡りを出したわけじゃなくて、そこの不動産会社が不渡りを出しただけ、ではあって、当人たちもそういう言い訳をしている。でも実際には、その不動産開発は何かというと首長様が出てきて、あれやこれやと自慢して見せていたし、「XX首長閣下のビジョンがいまのドバイを作り云々」といった提灯番組はナショナルジオグラフィックチャンネルなどで腐るほど流れていて、融資団も当然これは国の裏付けがあるものという暗黙の理解でいた。それが今更「知りません」ではすまされない。

 だいたい、これは初めての話じゃない。今年の春にもやはり返済危機に襲われていて、そのときはお隣のアブダビが支援に乗り出し、いっぱいお金を出してなんとか乗り切った。でもそのときは「これでもう大丈夫、リストラもするし資金計画もしっかりたてたし、あとは安心」と言っていた。が、それから一年もたたないうちにでこのざまですもの。あんたの言ってた資金計画ってどうなったの?

 ドバイは、派手な不動産開発で知られている。海の中に包丁が生えてるみたいなブルジュ・アル・アラブホテルとか、世界地図形の埋立地リゾートとか、世界一高いビルとか。そして、ぼくの知り合いの中であの街が好きだという人は一人もいない。金持ちには徹底的にごまをするけれど、そうでない人はクズみたいな扱いをうける。ぼくだって決して貧乏というわけじゃないが、ドバイでは実につれない扱いを受ける。ブルジュ・アル・アラブホテルは、中に入れてさえもらえなかったんだぞ! そして一般市民向けの都市サービスは劣悪きわまりない。成金趣味の開発ばかりに血道をあげ、それがすべてバブル。開発業者は建てる前から物件を売りさばき、買ったやつは頭金だけ払って転売を繰り返す——そして当人たちは、「いやうちはバブルじゃない」と言い張っていたんだが、ついに現実が追いついたようで。そして多くの人(ぼくも含め)は実は「ざまみろ」と思っているのだ。

 とはいえドバイも、完全に無内容なわけじゃない。さすがにまったくないところに成金建築は立たない。かれらはすごいインフラ投資をして、ものすごいコンテナ港を作り、経済特区を作って産業誘致にも精を出している。最近の不動産投資は、その基盤があってこそのものだ。でも、地道に築いた産業基盤に対し、バブルはありもしない金をどんどん作り出せる。要は、いま言った頭金だけ払って転売する仕組みがミソだ。一億円持っていたとしよう。ふつうならそれで一億円のマンションを買っておしまいだ。でも、そのお金で五軒のマンションの頭金だけ払ったら? 五軒のマンションが持てる。紙のうえでは五億円の資産が! それを転売したり、担保に銀行で金を借りたりして、また次のマンションの頭金を入れて紙の上では十倍、百倍のマンションが持てる……

 でも実際のお金を見ると、その転売したマンションも、実は頭金しか入ってこない。そして結局、だれがそのマンションに住んで家賃を払うのかというと、実はだれもいない。物件おかげで物件転がしが滞ると、一気に十軒分のローンが支払えなくなり、するとそれが雪崩式に拡大して、バブルは一気にはじける。今回のドバイは、古典的な不動産バブルのパターンをなぞったにすぎない。

 前回は助けてくれたアブダビも今回は助けてくれないかもしれない。だって、どう考えてもまちがいなく次があるもの。基本的な環境は何も変わっていない。ドバイはリストラしますと言うんだけれど、あの開発が埋まるわけないのがもう見えてしまった以上、どうリストラしたところで当分は回復しようがない。世界的に見ても、バブルの後遺症は長く続くのだ。

 そして世界地図リゾートも中断らしいし、各種の派手な開発は死屍累々。なんだか来年あたり、ドバイの一部にはすごい廃墟が広がっていそうでこわいんだが、それはそれでおもしろい……かなあ。

近況:マレーシアも金融危機のせいで今年はマイナス成長。バブリーな大規模商業開発がガラガラで不気味です。


2010年3月号 連載第11回:若者の車離れって本当?

 最近メディアでは、日本の若者がいろんなものに関心を失っていて、車にも家にも旅行にも服にも恋愛にも何も関心を示さず、何も消費せずに日々とを送っていることについて、あれやこれやと聞いた風な議論が喧しい。草食系ナントカとか、嫌消費とか。そして、それがいまの不景気の一因だとされることも多い。そして、なぜそういう消費をしないかということについて、いろいろともっともらしい理由づけも展開される。車なら、日本は交通事情が悪いし保有コストも高いし、車を買うのが不合理であることに人々は目覚めたのだ、という具合。女の子ももはや、高い車に感心してくれない等々。

 が、それがどこまで本当かぼくは疑問に思っている。女の子に対する車の効果については、フェルディナント山口氏の連載で詳細に議論されるだろうとは思う。そしてそれ以外の部分でも、ぼくは因果関係が逆なんじゃないかと思う。不景気だからこそ、車保有についてのリスクが上がり、それを合理化しようとしていろいろみんな口実を考えているだけなのだ。

 いまぼくはラオスにいるのだけれど、ここだと車の魅力がまだ衰えていないことは如実にわかる。人は、中流の生活を得たら必ず車を手に入れようとする。道路事情はよくないし、そろそろ首都では渋滞が深刻な問題になりつつある。アジアで急激な経済発展と共に起こる渋滞のすさまじさは、ここ数十年のバンコクや台北やマニラ(そして今のモスクワ)を訪れた人ならご存じだろう。みんなそれはわかっている。でも、車をほしがる。そして若者は、車はさておきバイクがないと女の子に見向きもしてもらえないという。夕方になると、バイクのうしろに女の子をのせたバイクがたくさん、メコン川のほとりに集う。ラオスは慎ましいところなので、寄り添う以上の愛情表現に進むカップルはあまり見られないのだけれど。

 交通事情は悪い。またラオスの経済水準からすれば、車もバイクも決して安いものではないし、保有コストだってかかる。この点は日本と何ら変わらない。それでも日本人は車を買わず、ラオス人はそれをほしがる。それは男女を問わず魅力を持つアイテムとなっている。

 何がちがうだろう? もちろんベースとなる経済水準はちがうし、車を持っている人が相対的に少ない社会と、ほとんどの世帯がすでに車を持っている社会とでは、新しく車を持つことの意味合いもちがうとは言えるだろう。だがぼくは、最も重要なちがいは将来への希望だと思う。

 いまのラオスの人々は、自分の生活がこれから向上することを確信している。それは経済成長の数字を見てもわかるし、そんなものを見なくても、まわりで起こっている各種の変化を見ると、どこかに自分が活躍できる場所があることくらいはすぐに見当がつく。中国のように、自分が世界の中心になれるとはさすがに思っていないけれど、でも未来がいまよりも豊かであることに、人々は(正当にも)まったく疑問を抱いていない。日本人の若者は、たぶん疑問を抱いているだろう。それどころか、むしろ貧しくなるものと覚悟している人のほうが多いだろう。

 その環境で、車を持とうと思うはずもない。そして人々は、それを合理化するための酸っぱいブドウ的な口実を考えつく。自分は車なんかほしくないのだ、と。ついでに、エコだなんだというお題目がうまい具合に沸いてきたことでその口実がさらにもっともらしくなった。自分は環境に配慮しているから車を買おうなどとは思わないのだ、車をほしがらないことは自分の道徳的な優越性の証明なのだ、というわけ。

 いずれ、それが改まればとぼくは願っている。景気が戻り、将来への希望が戻れば、ぼくは人々は車を再びほしがるようになると思うのだ。が、そこにどうやって到達するべきか……

近況:というわけでラオス、それも地方巡業です。ラオスの人々は歓待好きで、しかもかれらの歓待とはひたすら飲み食いを続けることなので、胃腸と肝臓が死にそうです。


2010年4月号 連載第12回:(原稿紛失)


2010年5月号 連載第13回:集団訴訟なんて卑しい銭ゲバがほとんど

 いま、アメリカでのトヨタ叩きはそろそろ落ち着きを見せてきて、むしろトヨタの反撃と揺り戻しが始まっている感じだ。プリウスがいきなり急加速した、強欲トヨタは恥をしれ、とアメリカ議会でわけのわからないことをわめいていたおばさんも、単にブレーキとアクセル踏みまちがえただけじゃないの、という至極当然のつっこみがきているし、危険だと思ったのになぜそれを平気で転売したのよ、という批判も出てきた。尻馬に乗って急加速を申し出た人物も、主張の信憑性がどうも怪しいという調査結果も出てきた。まだまだ先はわからないし、この先、百億回に一度の確率で生じるような特異な現象が見つからないとも限らない。でも、たぶんじきに話は下火になり、みんなすぐ忘れてしまうだろう。トヨタの販売も、この一件が原因で大きく下がることはないんじゃないか、というのが三月半ば時点での雰囲気だ、というよりぼくの印象だ。

 という話を同僚としていたら、「でもあちこちで何万人もの集団訴訟が起きてるっていうし、いろんな人が問題に直面してるのは事実なんじゃないの? それ、何とかしないとやばくね?」という人がいた。

 かれのイメージだと、その何万人という人はみんな、トヨタ車で何かしらの問題に直面して、これまでは我慢してきたのに今回の騒動を期にそれが爆発した、ということのようだ。何やら怒りに満ちた消費者たちがいっせいに蜂起し、どこかにプラカードを持って集まって「よし、ここは一つ、トヨタを訴えてやる!」と行動を起こした、という具合。

 でも、集団訴訟というのは、実は全然そんなのではない。あれは、そういう卑しい恫喝商法を専門にしている弁護士事務所が、みんなを焚きつけてやらせるものなんだもの。あの訴訟に参加している何万人のうち、99.99パーセント、いやおそらく百パーセントは、トヨタ車で通常の自動車オーナーが直面する程度の、ごく一般的な問題にしか直面したことはないだろう。いや、それすらないかもしれない。

 実は昔、ぼくのところにも集団訴訟のお誘いが来たことがある。それはもちろんトヨタの話ではなかったけれど。ある日、どこぞの弁護士事務所からお手紙が届くのだ。ぼくが口座を持っていたボストンの銀行が別の銀行に買収されるときに、なにやらの外貨建て資産についての情報ディスクロージャーが不十分だった、これは一部の預金者に損害を与える「恐れがあった」、ついては集団訴訟をしよう、仕事は全部うちがやって、うまくいけばあなたも何百ドル手に入る! この書類にサインして返送するだけ!

 当然のことながら、ぼくはそんな外貨建て資産に一切影響を受けていないし、一文たりとも損をしたこともない。たぶんぼく以外でも、実際にその情報開示ミスで損をした人は実際にはいなかったはずだ。それでも、集団訴訟はできちゃうのだ。トヨタの集団訴訟も、まちがいなくこんな代物だ。むろん、たいがいの人はこんな強請たかりみたいな卑しい話にはのらないが、母数がおおければ遊び半分で応じる人も出てくるのだ。

 そしてもちろん、この手の訴訟ビジネスは、相手に要求する損害賠償の額を、相手の裁判費用より少し低く設定しておくのがコツ。向こうは、裁判で争うより、相手のいうことをきいて言われる金額を支払っておいたほうが安上がり。だから大人しく要求に従う(こともある)。そうなったら、訴訟の紙一枚で大儲けだ。

 ところが今回は風向きも変わってきた。それにこうしてあれこれ出てきたら、トヨタも簡単に和解するわけにはいかないだろう。だからトヨタを訴えた人たちは、実はいまちょっと困ってるんじゃないかな。

 むろん、トヨタ車についての苦情が増えていたという話はあるので、トヨタも完全に無問題ではないんだろう。でもその程度のことは、トヨタだって何とかするだろうし、それはぼくに限らずみんな思っていることだろう。リコールをいっぱいやったのは痛かっただろうが、年末にはこんな話はすっかり収まって、むしろトヨタはかえって同情票さえ集めるんじゃないかな。


2010年6月号 連載第14回:地域別にちがう休日をつくるのは無謀で逆効果

 いま仕事でベトナムにきているのだけれど、やはり外国での仕事でいつも悩まされるのは、現地の祝日だ。この四月、ベトナムは4/23と4/30の二回も祝日があって、後者は統一記念日かなにかで、前者は昔のナントカ王の記念日だ。どっちも金曜日だし、多くの人は連休にしようとして、それにくっつけて休みを取る。だからあちこちで担当者がなかなかつかまらず、出張の効率がずいぶん低くなってしまう。でも、こっちの国が休日だからぼくも休みます、とは言えない。資料整理、データ集計、その他仕事はせざるを得ない。そんなこんなで、今年もゴールデンウィークの前半は働かざるを得ないようだ。

 そしてもちろん、ベトナムの人は日本の休みなんかまったく関係ない。そうなるともちろん、こちらはベトナムの人たちの事情にあわせて、休日でも働くことになる。とはいえ、日本との連絡や調整はできないので、これまた効率は落ちる。

 ということは結局のところ、ぼくのような仕事に就いている人は、相手の国の休日も、こちらの国の休日も、効率の悪い形で働かなくてはならないということだ。特にイスラム圏はこの点で非常に頭がいたい。普通、かれらは日曜ではなく金曜日が休みだ。すると、週七日のうち金土日の三日にわたりフル稼働できないことになる。これはあまりに効率が悪い。だからイスラム国でも、チュニジアやモロッコなど西側諸国との仕事を重視するところでは、金曜にはみんな働いて、土日に休むようにしてくれる。それでも決してものごとはスムーズに進まない。

 というわけで、ぼくは地域別の休日といういま検討されているアイデアを聞くたびに、この状況が頭に浮かぶ。たぶん、その地域内で閉じている仕事なら、別個にやってくれてもいいんだが、たぶん複数の地域にまたがる仕事をしている人は、いまのぼくたちと同じように、どっちの休日もとれずに終わることになるんじゃないか。すると、本当に政府の願っているような経済活性化とか、地域の状況にあわせて休暇がとりやすくなるとか、あるいはピーク分散といった結果がもたらされるんだろうか。

 一方でぼくは、以前に比べれば休暇はかなり柔軟に取れるようになってきたと思う。これはうちの会社だけでなく、取引相手でもそうだ。監督省庁の監視も厳しくなってきたし、いい加減に紙の上だけでつじつまをあわせるわけにもいかない。むろん現場はいつも「一方では仕事を増やせといい、一方で休みを増やせといい、そんな矛盾する要求には応じきれない」と文句を言う。でもそうはいいつつも、ぼくが入社した当時——バブルの頂点を少し過ぎたあたり——に比べれば休日出勤も減り、休みも(無理矢理でも)取るようになった。国が——あるいは政府が——休日をあれこれ操作するまでもなく、みんな都合に応じてそれなりに休みは取れるようになっている。

 こう書くと「いやうちはちがう」という人もいるだろう。もちろん、すべての人が同じ環境にあるとは思わない。でも、そうは言いつつも日本の一人当たり総労働時間は減ってきている。全体としてみれば、昔よりは休みは取りやすいはずなのだ。すると、そこで公共が休日を操作することでその取り方をあれこれいじる必要はあるんだろうか? むろん、なかなか自発的には休みが取りにくく、公共的に休みを決めてもらったほうが休みを取りやすい人々も多いんだろう。でも、それをずらすことが何かいい結果になるとは、ぼくはとても信じられない。

 とはいえその一方で、ずらしたことでそんなに大きな害があるとも思わない。地域にまたがる仕事の人々が苦労するくらいか。だから、やるだけやってみてもいいかな、とは思う。でも、正直いっていまの日本の社会経済的な状況では、ほかにもっと優先すべき政策課題はいくらでもあるような気はするんだが。

近況:難産の末に、都市計画の古典と呼ばれるジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』を脱稿。書店に並ぶのを見届けてベトナムにきております。暑くて雨続き。


2010年7月号 連載第15回:電子書籍は紙の出版を変えるか?

 どんなメディアも、過渡期は行方がよくわからない。既存のもので十分に用が足りるところで、なぜ移行しなくてはならないのか、というのを説得するのはとてもむずかしいことだ。

 かつてLPレコードを扱ったことのある人なら、CDの優位性はすぐわかるし、ましてそれがタワーレコードなどによる輸入CD廉価販売と合わさればCDが(フォーマットさえ決まれば)普及したのは無理のないことだ。さらにそれが自動でMP3化されるようになれば、MP3プレーヤーにだって移行する。DVDの普及だって、かつてのビデオテープやレーザーディスクと比べればサイズ的にも頭出しや扱いの容易さも圧倒的に優れているし、普及するのも当然だったろう。これらは、移行のメリットがすぐに提示できた。

 で、電子書籍というのも、昔から何度も挑戦されてきて、こんどこそ紙の本や雑誌を駆逐すると言われつつ、未だに成功した試しがない代物だ。機器の普及の低さとコンテンツ不足との負のスパイラルを打ち破るのは大変だ。それが最近ではアマゾンのKindleの成功、そして最近ではアップルのiPadが出てきたことで、この分野はにわかにいろめきたっている。ついでにグーグルが大量の書籍の電子化を実現し、コンテンツ方面も充実しそうだ。さて、今度こそ電子書籍はモノになるだろうか?

 電子書籍のメリットはわからないでもない。本は重いしかさばる。出張先での翻訳や書評書きのとき、大量の本を抱えていくのはかなりの重労働になる。それが電子ファイルでもらえると、どんなにありがたいことか。それに電子ファイルがあれば自動翻訳にかけることもできるし(といってもぼくはほとんどやらないが)翻訳の能率は圧倒的にちがう。その意味では、電子書籍もいいかもしれない。

 ただ……そのためには、そのファイルを直接加工できないとだめだ。コピーできるとか、そのままググれるとか。また書評は複数の本を比べながら読むことも多いんだけれど、電子書籍はそれもやりにくい。検索はやりやすいけれど、漠然とした記憶で記述を探るのは不可能だ。「確か本の後半三分の一に、なんかの車の話が出ていたんだけど……」

 すると本の優位性はなかなか揺るがない。現在、KindleでもiPadでも、せいぜいが紙と同じ視認性が実現できました、程度の話だ。でもそれだけじゃダメだ。いまの本のいいところは、記憶を外部化して空間化できることだ。あの本の、あそこらへんにあった情報が欲しい、というもの。それができないと……

 たぶん、もっと検索技術が発達すると、それも解決できるのかもしれない。たとえば、本を読んでいるときに読んでいるはやさを記録して、何かじっくり読んでいるとおぼしきところを後から拾い出せるとか。あるいは物理的な優位性がもっと圧倒的になれば、話は変わってくる。いまうちにある本棚が半分ですむレベルまで各種本の電子化が進めば、六畳の部屋が一つ空く。そうなったら一斉に乗り換える意味もあるだろう。でもそこまでは当分いかない。

 むろん、多くの人はそんなマニアックな本の読み方もしないし、山のような蔵書もない。新刊を買って、ざっと流して読んだらそれで終わりだ。部屋を大量の本が占拠していることもない。でも逆に、そういう人はもともと本とのつきあいが薄いから、それが電子化したところであまりインパクトもない。

 すると……ぼくは別にiPadで出版がどうなるという状況が考えにくいと思う。電子書籍も物珍しさ以上の段階に進めるかどうか。

 それも変わるのかもしれない。今後、たとえば紙の本なんかほとんど見たことがなく、本といえばiPad上でしか読んだことがありません、という人たちが出てきたら、話は変わるかもしれない。それに電子書籍は、ネットとの連携も含めて、おもしろい可能性を持っている。従来の本とはちがう概念が出てくれば、状況は一変するかもしれない。

 でもそれがないなら——いまの本をなんとか真似ようとしている状況では、ぼくは電子書籍の大きなメリットはないように思うんだが。


2010年8月号 連載第16回:ギリシャ危機とユーロの未来

 執筆時点ではギリシャの財政危機に端を発するユーロ危機がやっと消火……はできておらず、次に似たようなところが出てくるのではとみんな戦々恐々。これが出ることには、何かめどがついていると願いたい……がむずかしそうだ。

 さて、そもそもなぜギリシャが、という話はローカルな問題だからどうでもいい。でも、その後の騒動はユーロという仕組みの根幹に関わる、とても大事な事件だから、理解していて損はない。それは、未だに時々顔を出す「アジア共通通貨」などのまぬけな思いつきのまぬけさ加減を理解する役にも立つからだ。

 むろん、通貨を統一にはそれなりのメリットがある。外国出張をした人ならご存じの通り、外貨両替は面倒だし、いまの変動相場ではレートはすぐに変わる。すると契約時点ではお得に見えた取引が、一転して大損になりかねない。そうなると、人々は取引を尻込みする。域内の企業が、為替変動リスクなしで取引ができれば取引は活発化するだろう。貿易が増え、経済は活性化するはずだ。

 これは理屈としては正しい。が、研究によれば、通貨統合の恩恵はかなり小さいようだ。ユーロに入れるほどの国は、もともと通貨がかなり安定して為替リスクが小さい。というかそういう国しかユーロに加盟させないことになっているのだ。統一通貨の恩恵がないところしか統一通貨に参加できない!

 また参加にあたっては通関制度や国内認証の仕組みなどをEUの標準に合わせるために、かなりの制度改革が必要になる。ユーロの成功とされるものは、共通通貨のメリットよりも、そうした制度改革の影響がずっと大きいことが示されている。ついでに、EUはその制度改革用にいろんな資金援助までしてくれるので、これもオイシイ。

 だいたい、もし通貨統合がそんなにメリットがあるなら、なぜ他の地域は次々にそれをやらないの?

 それはもちろん、不具合が生じるからだ。通貨を統合すると、その各国は独立したマクロ経済政策をほとんど持てなくなってしまう。不景気になっても、打つ手がなくなってしまうのだ。

 ギリシャの状況がまさにそれだ。ギリシャは財政赤字が問題視されている。昔なら、中央銀行がお金を刷ってそれを穴埋めすることも一応はできた。税収をふやすために景気をよくしようとすれば、金利を下げて景気を刺激しただろう。また為替レートも変わってギリシャが輸出しやすくなり、自動的に調整が行われた。

 ところが、うっかりユーロに参加してしまったギリシャは、そういう手立てを一切持っていない。ユーロの金利はギリシャだけの都合では決められない。為替レートはない。自分でお金を刷ることもできない。何もできない。だれか——たとえばドイツ——に、屈辱的な土下座をして身請けしてもらうしかない。

 これは、ユーロという仕組みの持つ宿命的な欠陥だ。そしていま、まさにその欠陥が露呈している。

 考えてみれば簡単な話で、仕組みを大きくしたら小回りがきかなくなる——要はそれだけのこと。ユーロ圏が全体として成長していたときには、どの国もまあまあ好況で、税収も増えて財政もなんとかなりそうだし、小回りがきかなくても大きな問題にはならなかった。が、それが崩れて地域ごとの小回りが重要になった現在、以前ならギリシャだけの問題ですんだはずのものが、ユーロ圏全体にまで累を及ぼしているのだ。

 そしてこれは、ときどき賢しらな評論家や政治家が持ち出す、アジア共通通貨といった話でもまったく同じ。かれらはこういうリスクを理解しているだろうか?

 最後に、ユーロの話をしようとすると、必ず出てくるのが歴史だの文化だの宗教だのうんちく話だ。数世紀前からのハプスブルグの野望がとか、キリスト教文化圏が、とか。でもそういう話は一切無視してかまわない。現実世界は、そんなバカな浪花節では動かない。塩野七生や司馬遼太郎を読んで世の中がわかった気分にはならないでくださいな。ではまた。


2010年9月号 連載第17回:日本モンゴルFTAから見る自由貿易

 自由貿易は、基本的にはとてもよいものだ。取引が何の障害もなく自由にできるようになれば、お互いに自分のほしいものを手に入れる機会も増える。それだけお互いの可能性も増える。もちろん関税もなくなるのでコストも下がる。

 で、こんど日本とモンゴルが自由貿易協定(FTA) を結ぶのだという。それ自体は大変結構。ちなみに、今年四月からモンゴルに行くのに査証が不要になった。モンゴルの査証は手続きが面倒で不便で、手数料は高くて、しかもやたらに時間がかかった。それがいまは、思い立ったらすぐ行ける。貿易だって同じだ。手続きが減って関税や手数料がないなら、自由度はずっと高くなる。だから、みんなどんどんモンゴルでビジネスチャンスを探そう。ヒツジやラクダの織物とか、天然資源とかもある。人口が少ないし道路や鉄道は考える必要があるけれど、でも生産拠点だって不可能ではないんじゃないか。おしまい。

 いやホント、FTAの話ってこれくらいなのだ。むろん、日本の基準に合格しないようなものがドカドカ入ってこられては困るし、表示とかもちゃんと考えてもらわないと。迂回貿易なんかに使われると困るので、それはきちんと見張って欲しい。でもそれはある程度は流通でなんとかなる(部分もある)。

 でも、FTAがそんなにいいなら、世界中がみんなすぐ自由貿易にならないのはなぜ? それはもちろん、世界のどの国にも、関税によって保護されている国内産業の利権があるからだ。特に農業。コメは絶対入れるなとか牛肉は絶対入れるなとか、中国の繊維が勝手に入ってきたら我が国の繊維産業はあがったりだとか。だから競争力がつくまでは、輸入品に関税をかけて、国内産業を守れ、というわけだ。実は関税によって産業が育ったところなんか世界的に見てもほぼなくて、逆に保護に安住して腐った産業はいたるところにあるんだけれど。そういう産業が必死で自分の利権を守ろうとする。

 でも、本当に自由貿易化して意味があるのは、まさにそういう保護で腐った産業のあるところだ。そして当然、そういう部分ほど逆に自由化反対の声は強くなる。ここが貿易自由化のむずかしいところでもある。二国間FTAの進展を世界的に見ても、「なぜこんな大したメリットもなさそうな国同士がFTAなんか結ぶんだろう」と不思議に思うことがある。でもそれは、まさに大したメリットがなくて、どうでもいいからこそ話がまとまりやすいせいだ。

 日本とモンゴルの自由貿易協定も、そんなところがある。両国のFTAはかなり急ピッチで進んだ。それが可能なのは、まさにモンゴルからの輸入品で脅かされるような国内産業があまりないからだ。むろん、ゼロではないだろう。モンゴル産羊毛やカシミアに脅威を感じている日本の羊毛業者もいるのかもしれない。でも、いままで必ずしも貿易が多くはなかったし、小国なので、今後も大勢には影響なかろう。工業製品でバッティングする部分も少ない。

 だからモンゴルFTAは、進歩ではあるしよいことなんだけれど、でもある意味、どうでもいいのだ。むろん今後何が出るかはわからない。これをきっかけにモンゴルが急成長をとげ、日本と一大経済圏を、という可能性だってゼロではない。でもいまの感じだと、当分ないなあ。

 いまこれを書いているのは、ちょうどモンゴル最大のお祭り、ナーダムの時期だ。モンゴルは風景がちがう。古いお祭りがある一方で、社会主義時代の名残がいたるところに見られておもしろい。いますでにウランバートルは建築ブームで、急速に変わり初めてはいる。たぶんこのFTAをきっかけに、実際に仕事ででかける人も増えるだろうし、いままでよりもっと急激に変化するとは思う。その意味で、今度のFTAは日本よりモンゴルにとって意味が大きいとぼくは思っているんだが。

近況:でもモンゴル飯はヒツジづくしの激マズで、しかも冬はシベリアよりひどい極寒の地です。ところで毛沢東伝の翻訳がついに刊行。


2010年10月号 連載第18回:民主党の脱官僚のダメさ加減

 民主党の政権は、脱官僚をうたい続けてきたけれど、それがうまく行っているようには思えない。民主党は、自分たちが方針を決めると言いつつ、実現性のある方針をまったくたてられない。理論も実務も知らないので、国会の答弁すらまともにできない。

 口蹄疫問題でもわかるように、現場の情報を集める手段もない。官僚を悪者にして人気取りをしたはいいけれど、その官僚に頼らなくては何もできないことがわかり、身動きとれずに困っている。その様子は、最近の報道を少しでも見ればすぐにわかるだろう。

 実は官僚たちも困っていて、政府主導だから官僚は勝手に動くなと言われているのに、何も指示がこないからまったく動けない。かれらは能力もあるし、頭も良いし、国のためを思ってはいる。ただ、もちろん人間だから保身は考えるし、組織防衛にも走る。

 そして優秀であるからこそ、なるべく自分の裁量の余地を増やしたいと思ってしまう。それは結果的には利権拡張となる。でもかれらとしては、放置するより自分のほうがよい判断ができると思っている。そして国民も、ちょっと病気がはやったり自然災害が起きたりしたら、政府は何やってる、ちゃんと管理しろとわめきたてる。つまり官僚の権限を増やせということね。

 もったいない話ではある。政府は官僚の協力を得られずに右往左往して、いずれ泣きつくしかなくなり、官僚から反感に加えて蔑視まで受けるしかない。官僚も、悪者役ばかり押しつけられて、バカらしくてやっていられないと思う一方で、能力を十分に活かせずにフラストレーションもたまる。間で一番割を喰っているのは、国民となる。

 実は、こんなことになる必要はなかった。菅首相は、かつてはちゃんと官僚の使い方を知っていたはずなのだ。

 それはテリー伊藤が、大蔵省(当時)の官僚を集めて放談をさせたおもしろい本(「お笑い大蔵省」)に出てくる。そこに登場する匿名官僚たちは実に傲慢きわまりなく、大臣も議員も無知蒙昧だから好きなように操れると豪語していた。まあ脚色もあるだろう。でもその中で官僚たちがちょっと危機感を表明していたのは、当時厚生大臣だったいまの菅首相についてだったのだ。

 菅大臣は、官僚がひたかくしにしていた薬害エイズ問題の報告書を見つけ出して、事態の解決に大きく貢献した。そのときの手法は、独立した官僚のチームを作らせてその任にあたらせたことだった。官僚は、明確な目的が与えられたらそれに邁進する。それが他の官僚に都合が悪いことであっても。官僚を官僚にぶつけるというあの手法を政治家がおぼえたら怖いな、と大蔵官僚たちは軽口っぽく語っていた。でもこれは官僚たちの本音だ。

 官僚VS官僚。実はこれは、ずっと政治で機能してきたチェック機構でもある。官僚たちは他の役所が自分の縄張りに入ってくることを恐れる一方で、他の役所の縄張りにも自分が口出しできないかと虎視眈々と狙っている。民主党政権は、無駄遣いをなくすという。でもだれの目にも明らかな無駄は、役所同士の縄張り争いで必ず潰されるし、財務省の官僚だってそんなのをホイホイ見逃すほど甘くはない。

 ぼくも本業で、各種お役所事業の説明資料を作る仕事をやったけれど、きっちりしたロジックと定量化を厳しく要求されるハードな仕事だ。事業仕分けの素人たちに見つかるような無駄なんか、あらかじめ作ってある糊しろみたいなもんだ。あんなパフォーマンスよりも、官僚同士のライバル関係や競争関係をうまく使えば、もっとずっといろんなことができたはずなんだが。

 だが、菅首相が薬害エイズのときに見せた官僚活用手腕は、今にして思えばまぐれだったようだ。いまの菅首相は、官僚をいじめてそっぽを向かれ、あちこちで恥をかいた結果としてか、増税すれば景気が回復する、財政再建を、といった財務官僚の作文通りのことを何も考えずに言うようになってしまった。残念なことではある。

近況:またハノイです。官僚はベトナムでも行動様式は同じ、というより日本もベトナムも、昔から中国文化の官僚制を受け継いできた文化なのです。


2010年11月号 連載第19回:不景気には金融と財政の両方を動員すべし

 今回のお題、デフレ不況については、田中秀臣と高橋洋一も本誌に登場するそうで、理論や政策面でぼくがこの二人につけ加えられることなんか、ホントはない。が、そもそもこれは、実に単純な話なのだ。

 不況や不景気というのは、みんながものを買わないので、いろんなものが余って在庫がだぶついている状態だ。みんながモノを買ってくれないから、それを作っている人は自分もなるべくコスト削減し、利益を確保しようとする。でもみんながそれをやると、ますますものが売れなくなる。

 だから不景気を直すには、だれか(普通は政府)がドーンと、借金してもいいからみんなの在庫が一気に捌けるくらいのでかい買い物をすればいい。すると、モノを作る人も無理なコスト削減をやめる。すると他の人にもお金がまわりはじめ、不景気がなおる。

 あるいは別の見方をしよう。モノを買わないというのは、モノよりお金が魅力的なわけだ。じゃあ、お金の魅力を下げればいい。利息を下げればいい。そしてもう一つ、将来モノの値段が上がるぞ、と思わせればいい。モノの値段が来年倍になると思ったら、みんな今のうちに買っておこうとする。つまりインフレが続くと思えば(一瞬だけでなく、続くことが重要だ)、人はモノを買うようになり、不景気はなおる。

 ところがデフレでは、モノの値段が下がり続ける。ちょっと待てば安く買えるのに、いま高値でモノを買おうとするやつはいない。さらに不景気が続いて余るのは、商品だけじゃない。労働力も余る。いつリストラされるかもわからない。するとみんな不安になってなおさらお金をためこみ、なおさら不景気は続く。

 これがデフレ不況だ。

 だったら……これを解消するのは、そんなにむずかしいことじゃない。政府にはドーンと公共投資をしてもらおう。利息はゼロ近いので、これ以上下げられないけれど、お金を発行するのが仕事の日本銀行にお金を力いっぱい刷り続けてもらって、インフレが続きそうだとみんなに思ってもらおう。そうだ、その日銀が刷ったお金を政府の公共投資の財源にしたらいかが? あるいは日銀が自分で刷ったお金で、余ってるものをたくさん買えばいい。

 さてリーマンショックのとき、世界の多くの政府はこれをやった。アメリカ政府は大金をつっこんで自動車会社を支援し、金融機関を救済し、そしてアメリカの中央銀行のバーナンキはものすごくお金を増やした。いきなり世に出回っているドルを数倍にするくらいの勢いで。イギリスだってそうだ。中国だって、マレーシアだって。そしてそれですら足りなかったとけなされている。でもいまの日本,特に民主党政権になってからの日本は、弱腰どころのさわぎじゃない。政府は、財政赤字が心配とか無駄遣いをなくすとか言って、ろくな公共投資もしない。子ども手当をばらまいても、その分ほかの控除を減らすからばらまきにもなっていない。

 そして日銀は……何一つしないのだ。おそらく読者のみなさんも、日銀の白川総裁はどんな状況でも「注視する」「見守る」しか言わないのにお気づきだろう。かの2ちゃんねるでも「日銀総裁:見守るだけのかんたんなお仕事です」とバカにされる有様。昔はインフレは、物価高だと言われて嫌われていたし、それをどう抑えるかが世界経済の大きな課題だった。日本銀行はそれを優等生的に生真面目にやりすぎて、状況が変わってもそこから抜け出せずにいる。いまや世界のマクロ経済政策担当者の合い言葉は「どうすれば日本の惨状を避けられるか」だ。

 原稿執筆時点で、やっと日銀は遅ればせながら円高介入をはじめた。円によって、外貨というモノを買い始めたという意味でこれは第一歩だ。でも、日銀はこれまでも、第一歩をちょこっと踏み出しては、すぐにまた引っ込めるのを繰り返している。今度の対応は、少しは長続きするんだろうか?

近況:ベトナムのプロジェクトが終わって帰国したらぼくも失業状態。うちも不景気で困ってるんです。日銀さん、なんとかしてください。


2010年12月号 連載第20回:人口動態から見る中国対応の未来

 先日、上下巻のえらく分厚い毛沢東の伝記を訳したのがやっと刊行された。今のところなかなか評判もよいし意外に売れていて、訳者としてはホッとしているところ。

 いまの中国の話をするのに、毛沢東の話は欠かせない。毛沢東のやったことは、良かれ悪しかれ、いろんな意味で現代中国の基盤となった。その一方で、あらゆることについて毛沢東だけで話ができると思ってはいけない。毛沢東がXXだったから今の中国もXXだとか、毛沢東がYYと言ったから今の中国はこんなことをするのだ、といった説明は、そのまま鵜呑みにしてはいけない。

 もちろん、いまの中国政府は毛沢東を錦の御旗にすることで国民誘導をしようとしている。だから、そうした物言いは結構中国の公式見解ともマッチしたりするのでおさまりはいい。でも、伝記を読めばわかることだけれど、毛沢東はいつだって、言うことがコロコロ変わる。なんかあいまいなことを言って、何も起きなければ努力不足と言って手下を粛清し、行きすぎればこれまた、そこまでやれとは言わなかった、と責任を手下に押しつけて粛清する。つまみ食いすれば、何だって毛沢東の発言のおかげにしてしまえるのだ。

 いまの中国の開放経済政策は、毛沢東による度重なる粛清に耐え抜いた鄧小平が、毛沢東の方針を断固として踏みにじった結果のものだけれど、中国準公式版の毛沢東伝の訳者は、いまの開放経済政策すら実は若い頃の毛沢東の思想を実践したものだと強弁するケツなめぶり。ありえん。

 いまの尖閣をめぐる騒動も、毛沢東以来の何とか、という話に帰着させようとする話も少し見かける。でもそれはちょっと強引すぎると思う。鄧小平がこの問題について懸念していたのは事実だけれど、それで何か説明がつくわけじゃない。中国の拡張主義はもうちょっと簡単な理由で、単なる人口増加の反映にすぎないと思う。領土問題はかなりのところ、人口問題でもある。人口の増大期には、どこも領土拡張を狙う。全盛期に世界の列強が植民地作りに精を出していたのも、まさに余った人口を「植民」させるための手段だ。ナチスが「レーベンスラウム(生活圏)」構想というのも、文字通り増えた国民の生活の場を確保する、という話だ。

 中国の人口は、大躍進や文化大革命の大失敗で数千万を死亡させつつも、過去半世紀で三倍近くにのびている。だからこそ、インドや日本をはじめ世界各国と小競り合いを展開し、チベットやウイグル系自治区に移住を進め、東南アジアやアフリカ諸国にまで人々を大量に送り出さざるを得ない。たぶんいまがそういう拡張圧力のピークだ。でも、今後半世紀では、中国の人口は一割も増えない。今後十年くらいで、中国も強引な拡張を展開するどころか、いま外に出ている人々を呼び戻すことも考えざるを得なくなるんじゃないか。すると状況はかなり変わるだろう。

 実は中国の各地の民族弾圧も、たぶんこれと関係しているのではないか。かつてソ連も、支配層ロシア人とその他民族との人口増加の差のために崩壊に瀕するだろう、とカレル=ダンコースがかつて予言したら、まさにその通りになった。いまの中国は、たぶんそれを知っていて、だから民族問題にかなり神経質になっているのだ。

 たぶん毛沢東は、自分こそが世界の共産主義の最先端であると最後まで思い続けていたし、それをいずれは世界に広げられると思っていた。だから大躍進なんていうでたらめな経済拡大政策を採り、自分の国内ですら共産主義を徹底できないのに怒って文化大革命をやってみたりした。いまの中国の拡張主義は、そういう毛沢東の野望の復活に見えないこともない。でも、たぶんその背景にある考えはまったくちがうだろう。いまの中国は世界どころか自国内に共産主義を広めるつもりもないだろうから。

 そして、もし中国をめぐる環境が今後十年で変わるのであれば、日本は——そしてその他の国々は——いましばらく中国に押し切られないように踏ん張れば、その後はかなり楽になるとぼくは思っているのだ。その頃には、インドの人口増が圧倒的になって、カシミールあたりの国境争いがまたぞろ再燃するような気もするし。それだけに、いまの民主党政権の場当たり的な弱腰ぶりは……

近況:香港にいったら、ティーン向けカルチャーファッション誌でまで尖閣問題が扱われていてびっくりしました。

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