Mag X 連載「山形浩生の世界を読み解く叡智:結局、そういうことだ」 (2009年)

2009年5月号 連載第1回:タタの格安車ナノへの期待

 先日、ワシントンDCに出かけてちょいとFRBにあいさつしてきたんだが(と書くと真に受ける人がいるのでアレだが、前通って拝んだだけよ)、かれらのがんばりもあって、一時はどうなるかと思えた世界経済危機も、まあなんとかおさまりそうな気配ではある。そんなことを去年も言っていたような気もするから油断は禁物ではあるのだけれど。

 ただアメリカで現時点でまだ話が片付いていない問題として、ビッグ3救済問題がある。本誌の読者のみなさんにも多少は関心がある話かもしれない。アメリカ三大自動車メーカーが破綻寸前で、なんとかしてくれと政府に泣きついている話だ。

 オバマ大統領も、かれらの扱いには苦慮している。金融機関は経済の中で果たす役割が重要だから、なんのかの言っても救済の理屈はたつ。が、ビッグ3はでかいにはでかいが民間企業。破綻理由の相当部分は、自分たちの経営のまずさが原因だし、ここで助ければ持ち直すようなものでもなさそうだ。でかいからってだけで救うとつけあがるだけだが、一方でここで破綻を認めると何十万、何百万人規模で路頭に迷う。さてどうしたもんか?

 それに対する答は知らない。でも一方でアメリカに限らず先進国における世界的な車の不振というのは必ずしも車メーカーの努力不足というだけではすまないんじゃないか、という気が最近している。車が実用性だけで売れているのではないことはみなさんご承知の通り。もちろん、多くの人はそう何台も車を買える身分ではないから、実用性を完全に無視するわけにはいかない。でも多くの人は、それ以外の何かを求めている。かつて、それはアメリカ的な——あるいはヨーロッパ的な——ライフスタイルの一つの象徴でもあった。それに伴う自由、自分の能力の拡張、まわりの世界からの隔絶——車が与えてくれる「それ以外の何か」というものについて、いろんな人がいろんなことを考えた。衣服のようなファッション性、肉体の延長としての車。人間の死へのあこがれと暴力とセックスを妄想する人さえいる。

 だがいま、そういう「それ以外の何か」を車に見いだすことがどんどんむずかしくなりつつある。

 単純に、みんな車くらい持っているというのも一つの理由だろう。そしてまた各種の点で自動車が煮詰まりすぎて、いま日米欧韓が作っている車がある程度のレベルを突破してしまい。「それ以外の何か」の面ですら五十歩百歩になってしまったというのもある。「それ以外の何か」を突出させるためには、実用性を犠牲にできるくらいの潔さ——たとえばフェラーリのような——がないとつらくなりつつある。いまだと、かろうじて「エコ」が実用性以外の売りとしてプリウスなんかが少し売れてはいるけれど、それもどこまで持続可能なんだろうか。

 そして結局それは、車だけの問題ではないのかもしれない。先進国全体で全体に、希望や夢が描きにくくなっているというこことも関係しているんだろう。車が持っていた「それ以外の何か」は、文明全体の夢の一部を担うものでもあったんだから。

 でも、ぼくはまだ車がそうした役割を担うことはあると思っている。それは必ずしも、先進国で起こるとは限らない。インドのタタ自動車が発表した、世界で最も安価な自家用車ナノ(執筆時点では3/23が正式発売予定日)は、おそらくそうした文明の夢を担う役割を果たすだろう。あの車は、先進国のぼくたちから見れば、いろいろケチはつけられる。でもあれが途上国、特に未来は自分たちのものだと信じているインドのような国でどんな意味をもつか考えてみるといい。数十年、数百年の停滞のあとに手に入るかもしれない豊かさの夢と希望が、手の届く形でそこにある——それはかつて高度成長期に、ぼくたちの両親(または祖父母)が抱いていた希望と同じだ。いやそれ以上かも知れない。

 ぼくはかれらがナノに投影するであろう夢と希望が、車に付随していた「それ以上の何か」を再びぼくたちにも思い出させてくれるんじゃないか、と思っているんだが。たぶんそれがすぐには世界不景気脱出の起爆剤にはなるまい。でも少なくとも、長期的には車というのが何だったのかをもう一度考え直させてくれる材料くらいにはなるはずなのだ。

 で、これが掲載される頃には、すでにナノは発売されているはずだ。どんな騒ぎになっていますことやら……


2009年6月号 連載第2回:ナノ/ネットブックへのお門違いな反応

 前回、インドのタタ自動車の発表した超低価格車ナノについて触れた。その後、実際の発表があり、試乗レポートなどもあちこちに出回るようになっている。

 全般に既存自動車系メディアの反応は冷ややかで、あれがない、これが駄目、安全性に不安、環境への影響が、目新しいものがない、エアコンつけたらかえって割高云々とケチをつけるのが流行のようだ。ぼくが見たところ、その多くはほとんど揚げ足取りか印象批評だ。安全性はかなり考えられているし、エンジンも結構クリーンだし、安く抑えるための工夫も様々だし、エアコンがほしい人が買うことを想定した車じゃない。こんな低価格ではとても利益が出ないから自動車業界としてうれしくないというような変なコメントも見かけた。唯一、好意的だったのはイギリスの『エコノミスト』で、ちゃんとこの車がどういう層を狙ったものかを理解したうえで、高い評価を与えているのは立派。この自動車のいろんな工夫もきちんと評価したうえ、さらにもっと広く、今後の世界のイノベーションが先進国よりむしろ新興国から出てくる動きの先鞭として位置づけていてとても感心。儲けが出ないかどうかは、タタ自動車が心配すればいいことで他の人がとやかく言うことでもないけれど、これが新しい車のジャンルを作りだしたということ自体は文句なしにタタ自動車の手柄だ。

 そして一方で、ナノの人気は上々。予約いっぱいで抽選でしか買えず、しかも本体価格の八割近い申込金がいるという高いハードルなのに、行列状態。まだ目新しさと話題性だけで売れているのかもしれないけれど、ぼくは実際のニーズもあると思う。貧乏世帯はもとより、二十万くらいの車なら、金持ちが二、三台ほど遊びで買っていじりまわしたり実験に使ったりという需要だってかなりあるはず。ばらしてエンジンや車体だけ別のものに使う利用もやがて顕在化してくるはず。車の使い方自体変わるかもしれない。それは既存の自動車業界や自動車メディアがまったく考えていない部分だ。

 それが本当にうまくいくかはわからない。が、実は最近ぼくたちは、このナノやそれに対する既存業界とメディアの反応とまったく同じパターンを目撃したばかりではある。それは、いまやパソコン業界の大きな波となりつつあるネットブックだ。

 機能限定、画面も小さく、動画やゲームをバリバリ処理するようなものではとてもないけれど、携帯性に富み、メールとウェブ閲覧くらいこなせればいいや、という発想でアスースを初めとする台湾メーカーがどっと発表した各種のネットブックは、お値段ほんの三万円かそこらという超低価格で人々を驚かせたし、いまや一大潮流となって各社が次々にバリエーションを出して落としどころを模索している状況だ。

 そしてそのときも、多くのメーカーやメディアはあまり色よい反応を見せなかった。あれができない、これが駄目、画面が小さい、処理能力に限界、安っぽい云々。大手メーカーは「あれはウチが出す水準のものではない」と一蹴してみせたりもしたし、利ざやが薄くて他のメーカーは手を出さないキワモノ、ニーズは限定的だとかニッチやマニア向けとかくさしてみせる評論家も出た。

 でもネットブックは大きく売れた。すでに景気後退が見え始めていたところで、目新しいおもちゃがほしいけれどあまりお大尽な買い物はできない層がとびついたし、限定的な利用しかしない利用者はたくさんいた。残念ながら、まだそれがいままでとはちがうパソコン利用形態を提案するまでには至っていない。でももう少し練れてきたとき、新しい使い方も出てくる可能性はかなりある。これまでどうも鳴かず飛ばずだったタブレット式のpcなんかがネットブックと交配させると以外にいいものになるかもしれない。

 ぼくは、このナノが作り出す新しい車のジャンルも、このネットブックみたいなものになるんじゃないかと思っている。ほぼまちがいなく、中国の自動車メーカーがナノもどきの人民自動車を出してくるでしょう。先進国は、しばらくは各種規制で数十万の安手自動車の上陸を阻止するかもしれないけれど、でもやがてパソコンメーカーのように、自分たちも何らかの対応を余儀なくされるんじゃないかと思う。

(pdfのゲラバージョン)


2009年7月号 連載第3回:豚インフルエンザ騒動と日本の煽動報道

 もう豚インフルエンザとは言わなくなったけれど、便利なので使わせてもらおう。これを書いている時点で、日本での豚インフエンザ報道&騒動は二度ほどの波を経ている。

 最初のものは、四月末あたり。豚インフルエンザが最初に報道されたときだった。メキシコで感染者千五百人、死者百五十人ですさまじい勢いで拡大しているという報道がなされたときだった。映画『バイオハザード』みたいな状態をだれもが連想して、みんなふるえあがったし、スペイン風邪の再来だ、このままだと何百万人死ぬ云々といった脅し報道がそこらじゅうにあふれていた。豚を全部殺せとかメキシコ便は全部止めろとかいうむちゃくちゃな話が平気で言われ、日本以外の一部の国ではそれを実際にやったところまであった。

 ところが実際には、その時点ですらメキシコの死者はそれらしいものだと20人、実際にきちんと調べると九人。他の人は、普通のインフルエンザだったり別の肺炎だったり。感染者数も増えてはいったけれどメキシコ以外ではほとんど死者も出ず、用心にこしたことはないけれどそこまで騒がなくていいか、という感じだった。

 ところが、日本人で感染者が出たという話になって、にわかにまたこの手の報道が活気づいている。いまや空港のアメリカ帰国便は阿鼻叫喚。数時間の監禁状態で、手間ばかりかかるものすごい検疫消毒措置。飛行機から出てきた検疫官が防護スーツを完全消毒される映像とかも報道されて、ひたすら危機感が煽られている。

 さて、これがいかにまぬけな事態か、というのは言うまでもない……と思うんだが、そういう報道が実際にされているということは、多くの人はそのまぬけさに気がついていないんだろう。そんなことをやったところで、完全に進入阻止なんかできやしないんだから。

 だってアメリカ便の機内だって、あやしい人の周辺の人は隔離されるけれど、そのあやしい人たちだってずっと機内をうろうろして便所にいったりしている。いやそれどころか、現在はアメリカ便となると完全にアウトブレイク状態で隔離監禁消毒と、ひどいめにあわされる。ところがアメリカから第三国(特にソウル)経由で乗り継いで帰国する人はフリーパスなのだ。「調子悪かったら連絡してね」という黄色い紙をもらうだけなんだよ。

 だからたぶんすでに豚インフルはある程度は当然国内に入っていると考えるべきなのだ。そして日本の保健担当者だってバカじゃない。そんなことくらい百も承知のはずだし、これで国内への進入阻止が本当にできるなんて本気で思っているはずはないのだ。まったく意味がないわけじゃない。ある程度入り口を絞ることで、拡大を遅らせることはできるんだから。だから、対策をやめちまえ、と言うんじゃない。でも、遅かれ早かれ入ってくることは当然考えているだろう。そしてそれにあわせた対策を考えているはずだ(と思いたい)。

 それなのにそこで、上陸阻止とか水際ナントカとかまことしやかな話をするから(あるいは何を想定しているかきちんと教えてくれないものだから)、国内発生したとかしないとかで大騒ぎする。「月に三〇人くらい感染者が出るのは想定内です」というくらいの見込みを出すと、みんな今ほどは焦らずにすむと思うんだが。

 そういう基本的な想定が見えないところで、報道は煽る方向ばかりに動く。五月頭、感染疑いの人が何人か出ていた頃、新聞は「疑い例十五人に」という見出しを出した。でもその時点で、そのうち十四人はすでに疑いが晴れていたことはわかっていた(その記事にも書いてあった)。だったら数を水増しするような報道は避けるべきじゃないの? そして当局も、まだわからない部分はあるし、これから突然変異するかもしれないし、万が一に備えてやばめに言っておけば安心と思って、そういう煽りを抑えようともしない。

 おかげで海外旅行取りやめとか、アメリカメキシコに限らず海外出張全面禁止とか、ヒステリーとしか思えない対応がやまほど見られ、高校生がカナダでマスクしなかったとかでいじめられて……もう少し現実的に考えて、現実的な対応しようよ、と思うんだが。

(pdfのゲラバージョン)


2009年8月号 連載第4回:裁判員制度と民主主義のあり方

 なんだかんだ言いつつ、裁判員制度が日本でも動くようだ。そして、いまさらながらに反対論もちらほら見かけるようになっている。

 正直いって、いまやろうとしている裁判員制度が本当にいいのか、本当に機能するのかについては疑問がないわけじゃない。でも、これに対する反対論の多くは、ぼくは浅はかきわまるものだと思うのだ。そして、民主主義社会における個人の責任というものをまったくはきちがえていると思うのだ。

 たとえばアマゾンで見ると、裁判員制度に反対しているある本の内容紹介は、こんなふうに書かれている。「ある日、突然、我々にやってくる『裁判員を命ず』という恐怖の召集令状。嫌々参加させられたら最後、一般市民が凄惨な現場写真を見せられ、被告人に睨まれ、死刑判決にまで関与しなくてはならない。」一般市民がいやなことをさせられている、だから裁判員制度はよろしくない、というわけ。

 が……この主張は基本的に、社会というものの成り立ちを大きく誤解しているとしか思えない。社会ってのは、みんなが好きなことをやっていればすむ仲良しクラブじゃない。みんなが少しずつ自分の自由や財産を公共のために犠牲にすることで、一人では実現できない大きなことを実現する仕組みが社会だ。ある日突然やってくる、「税金払え」という恐怖の課税通知。でも、それは社会の維持のために必須だ。裁判員だって、同じ発想だと思うんだが。

 多くの反対論は、一般市民が犯罪者に死刑判決を出す羽目になるとかわいそうだ、という。でも、ぼくたちは民主主義下の日本社会として、犯罪者に死刑を宣告している。どこかの裁判官が死刑判決を出し、どこかの刑務官が死刑を実際に執行し、ぼくたちはそれを主権者として容認している。死刑でなくても、だれかの自由を奪え、拘束しろと命じる。かれらは何ら特別な人々じゃない。ぼくやあなたと同じ、日本の一般市民だ。ぼくたちは社会として、かれらに人を殺せ、自由を奪えと命じる。そしてそうすることが、社会を円滑に動かすために必要なことだと思っている。

 つまりぼくたちはいまでも、死刑判決に関与している。単にその事実を見ないですんでいただけだ。それをちゃんと直視させる制度が、そんなに悪いだろうか。自分は手を汚していないつもりで、汚い仕事を他人に押しつけている状況がそんなによいことだろうか。社会として一部の犯罪者を処罰するという責任から目を背けているのは、決してほめられたことじゃない。それにそして、裁判員になったからといって、別に死刑を無理に宣告させられるわけじゃない。いやなら無期懲役にすれば?

 ぼくは一般市民が社会の代表としてそれを実際に行うという発想自体は、まちがっていないと思う。それは、ワイドショーを見て無責任な感想を述べたり、2ちゃんねるなどで勇ましげな妄言を書き連ねたりするのとはちがう。サヨクな方々は、「権力」批判がお好きだ。では、こうやって人々が実際に生殺与奪の権力を手に入れたときにかれらはどうするだろうか。

 ぼくは一般人に死刑判決させるだけでは生ぬるいと思う。実際に人々の手を下させるべきだと思う。絞首台の落とし戸のボタンを、一般市民に押させるべきだ。受刑者の監獄の鍵を、一般人が自らかけるべきだと思う。実はアメリカの一部では、これをすでに行っている。かれらは死刑執行のボタンを一般人に押させる。実際には数人が同時に複数のボタンを押し、回路をランダムにつなぐことで、だれのボタンが実際に手を下したのかわからないようにはしている。でも、だれかはやっている。それは自分かもしれないと人々が思い、そしてそれがどうしても必要なことなのだと無理にでも納得する——ぼくはそれが社会的に重要なことだと思う。

 で、本誌読者の中にも、いずれ裁判員として招集される人が出るだろう。あなたたちは、どういう判断を下すのだろうか。


2009年9月号 連載第5回:(原稿紛失)


2009年10月号 連載第6回:(原稿紛失)


2009年11月号 連載第7回:若者の車離れと車のしぶとさ

 前にフェルディナント山口氏と対談して(というよりいつもやってる雑談を少し車寄りにしたくらいの代物ではあったが)、最近の子供は車に全然興味を示さないのだ、という話をきいて、ぼくは少し複雑な気分になったものだった。

 子供がいつ車とかに興味を持ち始めるのか、戦闘機とか電車とか、メカメカしいもの一般に興味を持ち始める頃と一致するんだろう。そしてぼくのガキの頃には、もう本誌の読者ほとんどは知らないであろうスーパーカーブームというのがあった。小学生が、フェラーリだランボルギーニだマセラッティだと目の色を変えていたのは、今にして思えばスゲー話ではある。が、一方でそれは子供がある年代に発達させる嗜好を見事に捉えたから流行したんだと思う。

 そしてその後十数年してやってきたバブル期は、ぼくは当時の子供たちが持っていたあこがれの記憶にフィットして栄えた面も大きいと思う。いま、大の大人がガンダムだのと騒いでいるように。

 一方で、昔から車の終焉は言われ続けてきた。公害問題が顕在化したときには、車は公害を出すし渋滞はそろそろ限界だし、もう車の時代は終わりだと言われた(ぼくは大人の顔色に敏感な賢いガキだったので、そんな読書感想文で賞をもらったりもした)。その後のオイルショックのときは、みんなこれで車は終わりだと思ったし、もはや車がこれ以上進歩するなどあり得ないと思った時代もあった。あらゆる車にコンピュータ制御のフュエルインジェクションだのエアバッグだのなんかつけられるわけがない、とかなんとか。エンジンの構造の話もあった。いまのエンジンのように内部で爆発が続くような無茶な代物はすでに限界で、スターリングエンジンのような安定した燃焼で動く外燃機関の時代がくるのだ、とか。音も立てずに動くスターリングエンジンは確かに不思議な魅力があって、ぼくは大好きだったんだが。復活しないかなあ。

 でも結局のところ、終わる終わると言われ続けていた車は終わらない。いずれ限界が来ると言われつついっこうに限界にならない半導体の集積度と同様、内燃機関も地道な発達をとげて、考えてみればとんでもないところにきてしまった。なくなると言われていた石油も、まったく枯渇しそうにない。くるくると言われつつ一向に動き出さなかった電気自動車が本格的に稼働しはじめたのは大きな変化だけれど(ハイブリッド? あんなのはつなぎです)、それ以外の環境は、実はそんなに変わっていないような。

 となると、ぼくは今のままの車があと二〇年続くんじゃないかという気がする。この一年ほどアメリカの自動車会社が総崩れになったところで、またぞろ自動車の終焉論が取りざたされているけれど、その中心が今の先進国ではないにしても。そしてその先進国でも、子供への洗脳、いやちょっとした刺戟を加えるだけで、たぶん将来の車需要をかなり着実に確保できるんじゃないか。あのスーパーカーブームよもう一度、というわけ。

 実はポルシェのCMにもそういうのがあって、小学生が窓の外を見ていると911新モデルが走ってくるのだ。それを追ってそのガキが放課後にショールームに行くと、営業マンがシートに座らせてくれる。小学生は営業マンに「名刺をください、二〇年後にまたくる」と言って、営業マンはおもしろがりつつ名刺を渡し、ガキを見送る。そして「ポルシェを買おうと思ってから実際に買うまでには、何十年もかかることがあります」と宣伝文句が流れる。これはポルシェ911がいかに長寿命モデルかを誇示するCMなんだけれど、将来の需要創出という点でかなり鋭いところに着目しているんじゃないか。これは車に限った話ではないのだけれど。ちなみに冒頭のフェル山氏は現在ポルシェ911に乗っているけれど、かれが買おうと決めたのはいつ頃だったのかな。

近況:民主党が政権をとったが予想をはるかに超えてひどいので、いろいろコンティンジェンシープランを考えなくてはならない今日この頃。


2009年12月号 連載第8回:民主党政権の無策

 いまこれを書いているインドネシアに、ちょうど岡田外務大臣がきている。が、残念ながら、まったく何一つ話題になっていない。そして、それはいまの民主党政権の状況の見事な縮図となっているように思う。

 お忘れだろうが、十月一日にスマトラ沖地震が起きて大被害が生じた。オバマ大統領はすかさず哀悼の意と強力な支援を約束。ところが日本は閣僚級からは何のレスポンスもなし。それでも自衛隊や海上保安庁などから緊急支援部隊が(官僚たちの判断で)送られた。でも、一次的な救出作業はもう終わってしまい、これからは長く緩慢な復興支援をするしかない状況。日本の支援部隊はほとんど引き揚げてしまっている。

 そうやって当初のクリティカルな部分がすべて終わってしまった二週間後に、岡田大臣がやってきて、これから被災地に入って、これから何ができるか考える、とのたまっている。緊急対応なら、大臣が視察して、まだ足りないからすぐ追加部隊を、といった判断が意味を持つ。でも復興支援は時間がかかるから、大臣が見てすぐにどうこうという話ではないんだよね。

 今さらのように、大臣は被災者にお悔やみをとかなんとか言っている。でも、かれが現地状況を本気で心配なんかいないのはみーんな知っている。だって、今まで何もこれについて発言しなかったでしょ。今回インドネシアに来たのだって、アフガニスタンとパキスタンで、米軍への給油打ち切りの弁解をしに行ったついででしょ。それだってせっかく来るなら事前に支援策を考えておいて、現場でその支援策をバーンと発表しないと。「今から考えます」では腰砕けもいいところだ。どうせ何もしないし、何かしてもその頃にはもうすべて終わっているだろう。

 民主党政権はすべてこんな感じ。すべてが後手後手にまわり、ポーズだけはあれこれするけど、その中身はすべて「これから考えます」だ。二酸化炭素の排出削減も、宣言だけして、やり方は後から考えます。補正予算カットで児童手当用の三兆円捻出も、宣言だけしてやってみたらできませんでした。ついでに、憲法で決まっている期日内の国会召集すらできない。

 車関係でいえば、前号の本誌には、民主党の高速道路無料化がいかにすばらしいかという記事が出ていた。でも、実は首都高は別とか儲かるところは当分見送りとか、選挙時の説明とあの記事などで出てきている実態とはかなりちがう。ついでに、東京の外郭環状の完成も見送り。あれができれば、都心の通過交通は減って、首都高の慢性渋滞はかなり解消するはずなんだけど、そういうことは何も考えていないらしい。エコカー減税は、結局廃止するらしいけれど、じゃあ車とエコという場面で何をするのかという方策もない。

 いや、政権交代したばかりで慣れないから、という言い訳はわからなくもない。でもそれなら、とにかくこれだけは死守という大きなテーマを掲げて、それを真っ先にやらないと。オバマ大統領は、グアンタナモ監獄の閉鎖がそれで、就任初日にそれを命令した(そしてその後それがうまく行っていないのがかれの大きなミソだ)。でも鳩山政権は、何一つできていない。予定の半分くらい苦労してます、というなら初心者マークに免じて許そう。でも、選挙で勝ってから二月たって、何一つできてないってどういうことよ。

 ちなみに、インドネシアで今朝の新聞に出ていた日本ネタのニュースには、岡田外相の訪問のことなんか一言たりとも出ていない。ユドヨノ大統領と会談したはいいけど、中身のある話が一切なく、何一つ決めたわけでもないので、報道しようがないんだろう。かわりに出ているのは、AV女優小澤マリアのコメディ映画出演問題と、そして「鳩山は亀井をだまらせろ」という記事。亀井のモラトリアム法案がいかに荒唐無稽で前近代的かを指摘し、古くさい経済ナショナリズムと糾弾したうえ、それを抑えられない鳩山政権の無力を批判するという立派なもの。やれやれ。政権交代そのものは対外的に評価されたけれど、でもその後の政治の中身は、すでにインドネシア人にさえバカにされてますぜ。

近況:そんなこんなで、インドネシアでのたくっております。日本ではそろそろ、新しい役所と久々の単行本が出ているはずなので、見かけたらよろしく。

前へ 次へ 『CarX』/『MagX』山形浩生連載トップ YAMAGATA Hiroo 日本語トップ


Valid HTML 5! YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)