十字の時:公共投資で日本は救えるか?

TIME ON THE CROSS: CAN FISCAL STIMULUS SAVE JAPAN?

Paul Krugman 著,1999 年 9 月

山形浩生 訳(hiyori13@alum.mit.edu



 日本は目下、平和時の財政による景気刺激策として、史上最大のものをやっていて、財政赤字は GDP の 10% に達している。そしてこの刺激策は、デフレスパイラルという目前の危機をとりあえずは抑えて、ちょっとばかり経済成長を生み出したという狭い意味では、うまくいっている。一方で、これだけの規模の財政赤字は、いつまでも続けるわけにはいかない。日本はいまや、国内債務がイタリア級(あるいはベルギー級)になっていて、さらにはその困った人口の年齢構成とからんで、実質的に巨額の支払い義務を抱えている。だから、いまの戦略が広い意味で成功するためには、それが経済をジャンプスタートさせられなくてはならないわけだ。つまり、いずれは自律的な回復を生み出して、刺激策をなくした後でもそれが続くようになる必要がある。

 これはもっともらしいだろうか。「自律的回復」ということばを、経済官僚たちは気楽に吐いてくれる。でも実は、これってとんでもなく珍妙なアイデアなんだ。この小文の目的は、この隠れた珍妙さを暴露することにある――一時的な財政出動で、持続的な回復が生み出されると信じている人は、実はかなり変な経済モデルを支持していることになるんだ、というのを示してあげることだ。それは財務担当の省庁が、ふつうならばバカげていてふざけていると考えるようなモデルなんだ。

 まずこの議論の出発点として、われわれとしては日本が意図せずして、昔ながらのケインズ式経済と化してしまったことを認識する必要がある。サミュエルソンの最初の1948年版教科書で考えられていたような経済だ。供給力が大量に余っている日本は、明らかに供給より需要に制約されている。コールレートがゼロ密着状態だから、日本はいちばん単純な乗数効果分析で想定されるような、固定金利を持っていることになる。というわけで、貿易と為替レートを無視すれば(これでも本質的なところはなにも変わらない。「日本:まだはまってます」のぼくの議論を見て欲しい)、日本の経済は昔ながらの「ケインズの交線」(またの名をサミュエルソンの交線)で表すことができる。

図 1:均衡点一つのグラフ

 この図は、経済の総所得――つまり GDP ――を総支出に対してグラフ化したものだ。産出の均衡条件は、二つの条件で決まってくる。まず、所得と支出は等しくなくてはならない。だから、所得=支出のところに 45 度の線がひいてある。次に、支出は所得と正の相関を持っている。これを示すのが、右肩上がりの直線 EE だ。上の図では、教科書通りの慣習にしたがって、所得が 1 ドル増えても消費は 1 ドル以下しか増えない(じゃなくて、104 円所得が増えても消費は 104 円以下、か。ごめん)。だから EE は45度線より寝ていて、均衡になる産出は一つしかない。

 この伝統的な構図では、赤字国債を出して財政出動すれば、EE をたとえば E'E' まであげて、経済を拡大することができる。でも、もしこの赤字が維持不可能なら、これは一時的な解決にしかならない。いずれこの財政からの刺激策は減らさなくてはならないので、グラフはまた EE に戻ってくるだけだ。経済はすぐに停滞に戻る(これは 1996 年の橋本政権下での景気腰折れ騒ぎの簡単な説明だと思ってくれてもいい)。

 それなら、財政出動による景気刺激策が長期的な解決になるというのは、どういう場合だろうか。あり得る答は二種類あるはずだ。まず、財政出動は一時的なトラブル時の橋渡し役にはなれる。仮に民間消費を引き下げている要因が、明らかに一時的なものだったとしよう――たとえば、明らかに一時的な金融危機が起きているとか、財務的な精算がすむまで新規の投資が控えられているとか。つまり、EE が放っておいても近い将来に上のほうに移動すると考えるべき理由がちゃんとある場合だ。だからそれを財政出動の刺激策で人工的に引き上げておくのは、主役の救世主がやってくるまでのつなぎにすぎないことになる。

 実はこういう財政プログラムの好例というのは、なかなか見つからないんだ。スウェーデンが、1970 年代半ばに第一次オイルショックを乗り切るときにこれをやったくらいかな。日本の場合だと、目をキラキラさせた楽観論者なら、日本の銀行や企業のリストラ再編が進めば、いずれ「ニューエコノミー」とやらができて、それがたくさん投資を生み出しますわ、なんて論じるかもしれない。でももっとありそうなシナリオとしては、リストラ再編が長引いて、消費者はさらに不安になって、どう考えても需要はおさえられてしまう、というものだ。主役の救世主がやってくるのはずいぶん先になるかもしれないよ。

 それに日本のお役人たちは、単にいい知らせがくるのをひたすら待つよりもすごいことを考えているみたいだ。かれらの考えでは、いまやってる巨額の景気刺激策はいつまでも続く必要はない、この刺激策が「自律的回復」を生み出すからだ、ということになる。こういう見方を正当化するためには、さっきのケインズの交線はどんな感じになる必要があるだろうか?

 答。次の図みたいな感じになるしかない。

図 2:複数の均衡点があるグラフ

 どこかの範囲では、所得が増えたら、それは支出を同額以上に増やさなくてはならない。だから、所得の均衡水準は複数出てくることになる。上の図で出てきた均衡点3つのうち、真ん中のやつはまともな均衡理論ではすべて不安定になるから、興味深い可能性は2つしかない。高水準の均衡(おそらくは完全雇用を上回る産出になって、これで金利もゼロから浮上して、まともな金融政策が回復するようになる)と、低水準のトラップだ。もしこうなると、十分に巨額の景気刺激策は、EEE'E' に押し上げて、経済を低水準のトラップから押し出すことになる。そしてこれを十分に続ければ、民間セクターの好意的な期待を生み出して、だから景気刺激策が終わって EE がもとの経済水準に戻ったときにも、不況では終わらずに、高水準の均衡で終わることになる。

 このおはなしを信じる気になる? マクロ経済で複数の均衡点があったって、悪いことは何もない。ときどき、事態をまともに説明するにはそれしかないような時もある。ほんの数日前に、このぼくもこいつとあまりちがわない図を嬉々としてつかって、アジアの通貨危機を説明しようとした(Analytical afterthoughts on the Asian crisis)。でも、この手の分析ゲームをやった人間ならだれでも知っているとおり、複数の均衡点というのは、そうそう簡単に持ち出すもんじゃない。オッカムのウィリアムなら「汝、均衡点を無用に増やすなかれ」とでも言っただろう。要するに、均衡点を複数つくれば話が簡単になりすぎる――これができると、どんな政策でも正当化できてしまう。だからどうしてもそう考えざるを得ないという説得力のある理由がない限り、そんなものを提案すべきじゃないのだ。

 さて、1920 年代の大恐慌とその後の体験は、まさにそういう証拠ではないかと論じることもできる。多くの経済学者は、第二次世界大戦の戦時支出が終われば、アメリカは大恐慌時代の状況に逆戻りすると考えていた。この考えをもとに「secular stagnation」仮説学派が誕生したくらい。ところが実際は、一回大恐慌からつつき出されたら、アメリカはもとには戻らなかった。これを説明するには、上の図みたいなお話があり得るかもしれない。

 でも、1990 年代の日本がこれと同じケースだと論じるのは、かなり苦しいものがある。まあそれが絶対ないとは言わない。でも、少なくとも同じくらいの可能性として、日本は金利ゼロでも構造的に貯蓄が投資を上回るようになっているという説もあり得る。このほうが可能性は高いかもしれない。もしそうなら、一時的な景気刺激策は一時的な結果しか生み出さないだろう。

 ぼくが前から驚いていること:日本のいまの、巨額で維持不可能な赤字財政での景気刺激策がいずれなにやら自律的回復をもたらすという戦略は、現在ではオーソドックスで理性的な手口だと考えられているのはなぜなんだ? これを正当化するには、複数の均衡点を持つかなりへんてこな理屈がないとダメなのに。一方で、金融政策をもっと進めろという議論――もっと伝統的で、退屈なモデル、要するに貯蓄と投資のバランスで話が片ずくようなモデルから出てくる議論――は、危険なほどにラディカルで、尊厳ある経済のやるべきことではないとして拒絶されてしまう。

 こりゃいったいどういうことなのか、だれかぼくに説明しておくれでないかい?



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