Unleashing The Millennium (Fortune, March 6, 2000)
ポール・クルーグマン
山形浩生 訳
要約:
100年にわたる試行錯誤——そして1930年代と1970年代のえらく暗黒な日々を経て——経済人がやっと解放される。
20世紀末、資本主義は勝ったように見える。他の競合制度が打倒されて、なんだかんだ言いつつ、自由な市場体制がいちばんいいようだ、というコンセンサスができつつある。経済危機その他、解明されていない問題はあるし、また情報時代の経済はこれまでの理論が通用しづらい面はある。だがそれが中心的な課題とはならない。完璧ではないけれど、これが精一杯ということで今後も続いていくことになるのでは?
なんでも、新しいテレビ番組があるそうで (観てないけど)、一見すると普通の高校生たちが、実はエイリアンなのだという。気持はわかる。ぼくもときどき、自分が経済学の学位を取ったのは別の星なんじゃないかと思うことがある。その星——1970年代の世界——は資本主義全般と、特にアメリカが、比喩的にも文字通りの意味でも、ガス欠に陥っていたように見える時代だった。年ごとにますます悪い報せがやってくる。ほら、また共産主義に寝返った国が出たよ。またもや高失業なのにインフレが一段上がった。またも生産性は低迷。
その世界では、自由市場支持の経済学者でいるのはなかなかキツかった。いや、頑張りはした——実際、1977年 (ぼくが博士号を取った年) の学術経済学者たちは、その十年前に比べて、ずっと自由市場を支持するようになり、計画経済に懐疑的だった。でも負け戦を戦っているという印象は否めなかった——市場システムやそれを信じる従来の経済学者たちを批判する連中の思考がいかにいい加減ではあっても、実体経済のお粗末な成績で、彼らの物言いにもレトリック的な鋭さがあるように見えた。
でもちょっとずつ流れが変わっていった。このミレニアムの突端ではアメリカ経済もそれが象徴する自由市場システムも、いたるところで大勝利の様子。事態は資本主義にとって絶好調というだけじゃない。ほとんどだれも代替案を提案さえしない。いまのぼくたちが尋ねるべき疑問は、この新しい自信が以前の悲観論と同じくらい的外れかどうか、というものだ。自由市場制度が正しかったのはズバリどういう点で、それは持続するだろうか?
1967年に未来学者ハーマン・カーンは、『熱核戦争について』といった題名の著書で名声を得ていたのに、驚くほど元気いっぱいの大著『紀元2000年――33年後の世界』を発表した。この本の基本的な発想は、1960年代の経済的、技術的な好調がこのまま続く、というものだった。低失業、急速な生産性上昇、着実な技術改善の流れはその後33年間も続くというものだ。長きにわたり、カーンのような楽観論者は大まちがいをしでかしたように思えた。1974年頃にはすべてが崩壊しそうだった。生産性成長は横ばいになり、インフレと失業がはねあがり、派手な新技術は生産性にも生活の質にも何ら影響しないようだった——そしてアメリカの技術からの利益はいつも日本がかっさらうように見えた。国の気分は陰気になって、それがドナルド・L・バーレットとジェイムズ・B・スティールの影響力ある1991年著書の題名にもあらわれている。『アメリカ:何がいけなかったのか?』
そしてそのとき、ちょうどミレニアムに間に合う形で、すべてがまたうまく回り出した。数字だけ観ると、1990年代末の経済は、1960年代末の経済とかなり似ている。生産性は再び毎年健全に2-3%ずつ延びているし、失業は4%ほどに下がり、実質賃金は上がっている——2000年のアメリカ人は1967年の2倍は豊かになるし週30時間労働になるというカーンの予想は実現していない (ブルーカラーの実質賃金は1967年と同程度だし、週の労働時間はむしろ長くなった) けれど、経済は再びノリを取り戻したようだ。進歩——そしてそれが続くという全般的な自信——が復活した。
で、ぼくたちのどこがよかったんだろうか? 新技術は確かに大きな役割を果たしている。時に経済全体で生産の歯車の潤滑油となるデジタル技術の利用は大きい。でもハイテクだけのおかげなら、世界全体が好景気になっているはずだ。実は大幅な改善を見たのは、アメリカといくつかの小国だけだ。そして産業ロボットとファックスの時代には実にうまくやっていた国——特に日本は、インターネット時代に乗り遅れているようだ。
あの悪い時代のアメリカビジネス批判を今読むと不思議な気がする。その頃の糾弾は、企業が株価や財務収益にばかりこだわりすぎているというものだし、政府が競争を積極的に抑えて特定技術を後押しした国に比べて、アメリカは不利に置かれているというものだった。最近では、その悪徳だったはずのものが美徳に聞こえる。既存企業が成功にあぐらをかいていられないようにする株式市場、結果として生じる企業の市場インセンティブへの素早い反応、目新しいものを開発しようとする激しい競争、どんな官僚も潜在的な利得があるなんて思ってもいなかったところへ大胆に乗り出す、大胆不敵なシステム。昔の批判がまちがっていたのか、アメリカの特徴だった弱点を強みに変える形で世界が変わったのか。理由はどうあれ、いまのぼくたちは自分たちの事業のやりかたにかなり自信を持っている。
この道はいつか来た道、とは言える。現在の繁栄を見て1960年代からの浦島太郎は驚かないだろう。そして資本主義体制に対する新たな信頼ですら、20世紀初頭の人にはそんなに変には思えなかったはずだ——これまた世界資本市場が支配し、政府は単にそうした市場を喜ばせようとしていただけの時代だ。それでも、歴史感覚のある人は、たとえば1913年頃の絶対優位に思えた自由市場資本主義が、実は予想したよりもかなり不安定だったことを指摘するだろう。その体験を繰り返すことになるのでは?
うん、今回の自由市場はイデオロギー的にも政治的にも、おそらく前回よりはしっかりした土台に立っているはずだ。でも、資本主義への大挑戦が、再び20世紀の相当部分にわたり得てきたような支持を二度と回復できるとは考えにくい。仮に21世紀のレーニン候補が、不満を抱いた大衆に (まだいるのをお忘れなく) 貪欲と不正なき世界のユートピア的ビジョンを売り込みたいとしよう。何を提案する? 生産手段の国家所有? 労働者運営の協同組合? ご冗談を。革命国家が一つ、また一つとコソコソこっちの方向に戻ってくるのを見たら、次の大きな反資本主義思想への熱意をかき集めるのは、なかなかむずかしくなる。
実は、小粒なアイデアのいくつかさえ輝きを失ってしまった。第二次世界大戦後の数十年にわたり、第三世界のほとんどは、発展への道は政府主導の工業化であって、国内市場を目指すものであるべきだと思い込まされていた。でも発展途上国の成功物語は——チリから中国まで——すべて輸出主導型だった。つまり、グローバルな市場経済とのつながりを減らすのではなく、高めることで繁栄したのだった。
あるいはアジア型発展モデルの奇妙な例を考えよう。ほんの6-7年前には、日本、タイ、シンガポールなどアジア地域の強国が、もっと良い方法を見つけたのだと主張する影響力の高い一派があった。アメリカのおめでたい自由市場イデオロギーに阻害されることなく、政府主導の資本主義を構築し、それが技術と経済成長で優位性を与えているのだ、という。当時ですら、ぼくたちの一部はこのモデルの有効性というのがおとぎ話だと思っていた。アジア諸国は、官僚的な介入のおかげで成長したのではなく、介入にもかかわらず成功したというほうが正しいというのがぼくたちの考えだった。そしていまや「深い戦略的計画」なるものの大半が、ただの縁故資本主義だったことが曝露された現在、自由市場に勝ると書する仕組みについて今後出てくる主張はすべて、かなり眉ツバと見なされるだろう。
市場システムが、アメリカのものほど苛烈でなくてはならないのか、という問題はまだ残る。数年前には、多くの人が中央計画経済だけでなく、福祉国家ですら持続不可能だと示されたと思った——セーフティネットを最低水準にまで引き下げた国だけが、新世界秩序で競争できるのだ、と。さてこの結論は行きすぎに思える。高い税金と社会保障の国——特にスウェーデン——はアメリカ並の成長を実現している。
つまり千年紀の変わり目における経済学の物語は、自由市場資本主義が、その崇拝者たちですら予想しなかったほど耐久力のある仕組みだったというものではある。完璧じゃないが、もともと完璧だなんて言ってないし、それ以外の道はどれも行き詰まりだった。20世紀の嵐を資本主義が乗り切るのに成功したということは、政策担当者も世間もいまや、市場がたまにわるさをしでかしても、多少は我慢するつもりがあるということだ。
というのも、1998年の数週間にわたり、市場は確かにひどくわるさをしでかし、ミレニアムが金融メルトダウンで終わるようにさえ思えたからだ。その前年にタイで始まった危機は、ロシアとブラジルにも広がり、そして主にLTCMというヘッジファンド経由でアメリカにもやってきた。不安になった投資家たちが安全性と流動性を求めると、債券市場が凍り付き、不安を除くにはアラン・グリーンスパンの特異ながらも強力なカリスマをありったけ必要とした。
1997-1999年金融危機がよいものだったと言いたがる人もいる。そうした危機への対処方法がわかっているのを実証したというのがその主張だ。最悪のことが起きたのに、結局のところそんなにひどいことにはならなかったじゃないか、と言って。でも現場近くにいた人々は、当時そんな答があったかどうか確信が持てないし、なぜこんなに軽症ですんだのかも、あまりはっきりわかっていない。大波小波の一世紀を経た現在でも、資本主義の欠陥の一部はまだ解明され尽くしてはいないようだ。
つまるところ、経済危機は自分たちの思っていたほど理解はできていない——ましてその防ぎ方はわからない。ぼくも含め経済学者たちは、日本が見たところ永続的な停滞に捕まってしまったのをなんとか説明しようと苦闘しているし、アジアの虎たちが世界最先端の経済だったのに、ものの数ヶ月で災厄地帯になってしまったのなんとか説明できたけれど、でも後付で合理化するよりは、そういう危機を予想できていたら、ずっと安心できるだろう。次の危機にも不意をつかれるだろうという、不穏な気分はどうしても避けがたい。
さらに危機に対してぼくたちが構築する防御は、経済変化プロセス自体によって崩されてしまうようだ。国内の金融問題にはかなりうまく対処できるゲームのルールは、国境を越えて流れる熱いお金が問題になると機能しないかもしれない。銀行システムを保護する金融セーフティネットは、問題となる機関がLTCMのようなノンバンクの金融仲介業者だとあまり役に立たない。21世紀には、サイバー空間にしか存在しないバーチャルノンバンク規制の問題が生じ兼ねない。
21世紀の経済がすでに理解を超えつつあるという感覚をつかむには、マネタリズムの不思議な死を考えよう。二十年前にミルトン・フリードマン一派は、FRBなど中央銀行はマネーサプライの増加を、たとえば3%で一定に保つだけで経済を安定航行させられると主張していた。たぶんこれは当時としてもあまりいい考えではなかったはずだけれど、いまや問題外だ。というのもだれもマネーサプライが何なのか合意できないからだ。フリードマンのルールのかわりに、中央銀行は裁量に頼らざるを得ない——そして一部の人は、その能力すらいずれ失われるのではと懸念している。連邦準備銀行や外国の中央銀行は、いまでも経済を動かすかなりの力を持っている。というのも新しい金融形態と新しい種類の市場の広がりにもかかわらず、勘定の決済は最終的に緑のお札か、FRBでの預金——これは同じものだ——で行われるからだ。だが経済学者たちはすでに物理的なお金が陳腐化し、電子的な勘定が、公式に認められた交換媒体なしに精算できる世界について考え始めている。そうした世界で金融システムをコントロールするのはだれだろう? 何かがおかしくなったときに、それをだれが救う?
いずれこうした問題への答えも編み出されるはずだ。でもその手法を確立するためには、嫌な経済危機があといくつか必要かもしれない。そしてその一方で他の問題も出てくる。
マイクロソフト社が司法的におとなしくさせられたのは、強引な事業の手口、法的な対応のまずさ、検察の熱意のおかげらしいが、この千年紀の公式反トラスト裁判は、この一件が提起するもっと大きな課題をまるで解決できていない。マイクロソフトはいまや、ほぼ独占企業だとされた——でも一方で、新技術開発のために大金を費やすのは、他のだれも提供できないものを販売できる数年間を確保することだ。もっと怪しげな糾弾として、マイクロソフトは顧客をぼったくっているというものがある。でも、開発に何十億とかかるのに、製造原価はゼロというものの公平な価格って何だろうか? マイクロソフトはたぶんルール違反をしている——でもそのルールブックはずばりどこにあるのだろうか?
自由市場の標準的な理論的支持は、市場経済では財の価格が、顧客にとっての価値と、その生産費用の両方を反映しているという主張に基づいている——そして顧客の支払い意志額と生産費用の差額はすべて、リソースをもっと効率的に配分するためのシグナルを提供する。追加で1キロのバナナを作るより、追加で1キロのリンゴを作るほうが2倍のお金がかかるのに、顧客がリンゴを買わないなら、リンゴの木は減らしてバナナの生産を増やそう——そして市場が自動的にその調整をしてくれる。
でもウィンドウズ1998を追加でもう一人の消費者に使わせるための費用は?ゼロだ。だから無料にすべきかもしれない——でもそうなったら開発する価値もない。また価格をいくらにすべきかという単純なルールもない。開発者の費用をカバーするだけ? 取れるだけ取ればいいのか? それともどこか中間? (そしてそもそもそれを誰が決める?) 生産者にとっては自分が負ったリスクに対する公正な収益に見えるものが、消費者にはぼったくりに思えることもある——処方箋薬は、開発者には最初のイノベーションに対する適切なレバレッジに思える値段に見えても、競合他社と反トラストの役人には、強欲な恫喝に等しいやり口に見える。
これはどれも、まったく新しい話というわけじゃない。いささか奇妙ながら、ソフトウェアのような知識ベース産業の基本的なルール——つまり開発はとても高価だけれど生産はほとんど費用がかからないし、顧客が増えれば増えるほど人気が出やすい——は、だれも何も知らないことで有名な産業に長く適用されてきた。エンターテインメント産業だ。基本的な経済学の点で、ハリウッドとシリコンバレーはかなり共通点を持つし、ディズニーとマイクロソフトは、生き別れの双子だ。だがエンターテインメント産業の変な事業はかつては例外的だったのに、知識ベース企業が今後は普通になるらしい——そしてぼくたちはそれをどう扱うべきか知らない。実はこれ、かなり皮肉なことだ。自由市場がやっと無敵な状態になったところで、経済が変わって自由市場経済学の前提を潰してしまうのだから。
じゃあ社会はそれに対してどうするのか? 一つの答は「グチる」というものだ。ビル・ゲイツの驚異的な業績の一つは、富が美徳だと決めたらしき国において、悪漢ビジネスマンとして描かれたということだ。でも知識の奇妙な経済学への対処法の問題は、新しいイデオロギーを台頭させ、市場システムへの新しい課題を生み出す結果になるかもしれない。
大きな声では言えないけれど、政府の介入を増やせという声さえ出てくるかもしれない。いやいや、中央計画経済じゃありませんよ、でも専門家たちが予想するように、アメリカのケータイとヨーロッパや日本のケータイとのすでに大きい機能ギャップが拡大したら、もし薬価が上がり続けたら、もし商業のロマンスがその魅力を多少失ったら——さあだれを呼ぼう?
が、こういうのは基本ルールの大変革よりはむしろ、周縁部での調整にとどまるのはまちがいない。倒産企業も出るし、技術開発の産官コンソーシアムができるし、価格統制すら少し起こるかもしれない。でも基本的には、企業は最大限に儲けるのが認められるし、見えざる手がおおむね正しい場所に導いてくれるという信念がその根拠となる。
では21世紀の経済学の基本線はどうなるだろう? こういう言い方をしようか。20世紀のほとんどは、完璧さの追求に費やされてきた。自由放任主義の、なんでも好意的に解釈したがる支持者どもは、市場が常に正しいと主張したけれど、それが大恐慌で信用を失った。理想的な革命家たちはユートピアを約束したけれど、実際にできたのはソ連だった。20世紀の終わりまでに学んだのは、資本主義というのは完璧にはほど遠いけれど、完璧は善の敵、という古い格言も思い出させられる。新しい千年紀が始まるのあたり、資本主義についてはチャーチルの民主主義評と同じことが言える。ぼくたちが知るなかで最悪のものだけれど、試してみたその他すべてを除く、というわけだ。