崩れる将来像:1990年代の日本

The future that didn’t work Japan in the 1990s

Paul Krugman
訳liddy



 ついこの間まで日本はアメリカ人にとって悩みの種みたいだったよね。日本の産業の成功は賞賛と恐怖の両方を巻き起こした。空港の本屋に入れば、日いづる国とサムライを取り上げた本の山がほこりをかぶっているのを見ずにはいられなかった。日本的経営の秘密を教えてくれることを請合う本もあれば、経済戦争を予言(そうじゃなかったら要求)する本もあった。お手本か悪魔か、あるいはその両方として日本人の存在はぼくらの頭の中の少なくない部分を占めていた。

 そんなことも今は昔。また日本の大銀行が破綻したり、日経平均がさらに数パーセント下がったりしたときに、他人の不幸を喜ぶ気持ちと混乱が入り混じった、いっときの興奮がたまにあるくらい。ぼくらはほとんど関心を失っている。結局、日本人はたいしてタフじゃなかったって納得して、かれらを無視できるようになった。

 こんなのってばかみたい。日本の失敗は、その成功と同じくいろんな意味でぼくらにとって重要なのに。日本に起きたことは悲劇と前触れの両方なんだ。世界で2番目に大きい経済は、依然として高い教育水準と意欲的な労働者、現代的な資本ストック、目を見張る専門的なノウハウを抱えている。安定した政府だってあるから徴税になんの支障もない。ラテンアメリカとは違うし、それを言うなら、日本より小さなアジアの国々とも違っている。日本は債権国家だし外国人投資家の善意に依存してもいない。それに経済の規模がとっても大きいよね。つまりそれは生産者がおもに国内市場に向けてモノを売っていることを意味するんだけど、そのおかげで――アメリカと同じように――小さな国にはできない行動をする自由が日本にはあるんだ。

 だけど、日本は過去10年の間ほとんど停滞しつづけてきた。短く不充分な経済成長の期間とそれよりも深刻な景気後退期が交互に訪れながら。かつては先進国の成長チャンピオンだったのに、日本の産業は1998年には1991年以下の産出だったんだ。そのパフォーマンス自体よりもダメなのは、宿命主義と無力感という空気なんだ。経済を運営している人たちが状況を好転できるとは日本の大衆ももう期待してないみたいだし、運営者自身も自分が何か出来るなんて思ってないみたいなんだよね。

 これは悲劇なんだ。こんなにおおきな経済なら長期的な停滞をする必要も無いしそれに値しもしない。日本の悲しみは他のアジアの国々ほど痛ましいものではない。でもずーっと長い間、あまり弁護されていない。これは前触れでもあるんだ。日本に起こり得るならぼくらに起こらないって誰が言えるの?

 これってどうやって起きたんだろう?

ジャパンアズナンバーワン

 1953年から1973年にかけての高度成長期の日本ほど、経済が驚くべき変質を遂げた国って他に無いんだ――スターリンの5か年計画期のソビエト連邦だって及ばない。もっぱら農業ばかりの国が20年の間に世界最大の鉄と機械の輸出国になったんだ。東京は世界最大で、たぶん最も活気ある大都市圏になったし、生活水準も飛躍的進歩を遂げた。

 西洋人でもちらほら気付く人が出てきた。1969年にはもう未来学者のハーマン・カーンが、「超大国日本の挑戦」という本を出版して、日本の高い成長率からすると、2000年までには世界最大の経済になると予言したんだ。そして、1970年代後半、つまりエズラ・ヴォーゲルの書いた「ジャパンアズナンバーワン」がベストセラーになった頃に初めて、日本の発展の成果がどれだけのものかがより多くの人に広まっていった。良く出来た日本製品――特に機械製品や電化製品――が欧米市場に氾濫するにつれ、みんな日本の成功の秘密を不思議がりだしたんだよね。

 日本に関する議論がかまびすしくなりだしたタイミングにはちょっと皮肉めいたものがある。こっけいなんだけど、日本の経済成長の栄光時代は、欧米人が日本を真面目に扱い出したあたりで終わっちゃってたんだ。1970年代初頭には、今尚ちょっとはっきりしない理由から先進国の成長は鈍化したんだよね。日本はそれまで最も高い成長率を誇っていた。しかし、成長の鈍化のしかたも1番――1960年代の9%から73年以降には4%以下にまで――だった。この成長率は他の先進国よりは高かったけど(アメリカの成長率の1.5倍)、その程度の成長率だったら日本が世界一の経済に踊り出るのは21世紀に先延ばしになっていただろうね。でもまだ、他の国は日本の成長ぶりを文字通り妬んでいた。それに多くの人が、日本が経済運営の上手いやり方を発見したっていうだけで無く、その成功の少なくとも一部はうぶな西洋の競争相手の犠牲のもとに成り立っている、という議論をしていたんだ。

 ここで日本の成功についての議論を全部再現する必要は無い。基本的には2つの立場がある。1つは、成長は優良なファンダメンタル――特に、優れた基礎教育と高い貯蓄率――の産物だと説明する。そして、これには何故日本が低いコストで高品質の製品をつくるのが得意なのかを説明しようとするありがちな素人社会学も絡んでくるの。もう1つの立場は、日本は根本的に異なる経済システム、つまり新しくて優れた資本主義の形態を発展させてきたと主張する。そして日本を巡る議論は経済学についての議論にもなったんだ。つまり、一般的には西洋経済学の考え方の妥当性についてだし、より具体的には自由市場の長所についてのね。

 みんなが日本システムの良い点だと思っていた点の1つが政府の指導。50年代と60年代に日本政府――名高い通産省とおとなしいけど影響力はそれ以上だった大蔵省――が経済を指導していく強い役割を演じたんだ。銀行の貸付金と輸入認可が、選ばれた産業と企業に分配された。経済成長のうち少なくとも一部は、政府の戦略的なデザインによって成し遂げられたものなの。西洋が本当に日本に注目しだした時には政府の統制はもうかなり緩んでいた。でも「日本株式会社」、つまり世界市場の支配を掲げる中央統制経済、というイメージは1990年代まで説得力があったんだ。

 日本の経済システムに特徴的なもう1つの要素は、短期的なファイナンスのプレッシャーから大企業を遠ざけていたことなんだ。日本の系列――メインバンクの周りに組織された連帯しあう企業群――のメンバーが、典型的には、互いに株式シェアのかなりの量を持ち合うことで外部の株主からかなりの部分独立して経営を行う。日本企業は株価や市場からの信頼をそんなに気にしなくてよかった。だって、株や社債を売って資金を調達することなんてほとんどしないから。その代わりに必要なお金はメインバンクが貸してくれるんだ。最終的には、銀行の財務状況が系列の投資を決めるんだって考える人もいると思う。もしも、貸付が不健全だったら、銀行から預金者が逃げちゃうんじゃないの?でも、他の国と同じように、日本でも預金者は政府が自分たちの預金を守ってくれるって信じているから自分たちのお金で銀行が何をしているかなんてどうでもいい。

 こういうシステムがもたらすものは長期的な展望が出来る国なんだ。これはこのシステムに賛成する人も反対する人も認めている。政府は成長の原動力になりそうな産業に、1つずつねらいを定めていった。民間部門はそういった産業に導かれ、まず、国内市場で技術を身につけるまでの間、外国との競争から守られていたんだ。企業が収益性を無視して市場シェアを広げ、外国の競争相手を叩きのめしていくにつれ、輸出が上昇する。

 懐疑論者はこの説明の細部にいくつもの穴を見つける。でも、日本の獰猛なやり口を免責する人や、通産省のスーパーお役人が、巷間伝えられているほどに全能なのか疑う人達も、日本の成功には日本型システムの際立った特徴が何かしら関係あることは認める方向だったの。同じ特徴――政府とビジネスのなぁなぁな関係や政府に保証された銀行が仲間内の企業に安易に貸付の拡大をすること――が、腐敗した資本主義と名指しされ、経済停滞の根っこだと考えられるのはもう少し後のことなんだ。でも、このシステムの弱点は見る人が見れば1980年代の終わりには明らかだったんだよね。

バブル、苦労、トラブル

 1990年の初頭には、日本の時価総額―一国の全企業の株の価値の合計――は、日本よりも人口が倍で国内総生産は2倍以上のアメリカよりもおおきかった。ごみごみとした日本では土地の値段は下がったことがなく、とんでもなく高くなっていた。よく引用されていた事実によると、皇居の土地1平方マイルの方がカリフォルニア全体よりも高かったんだよね。ようこそ “バブル経済”へ、それは“狂乱の20年代”の日本における等価物だった。

 1980代後半は、日本にとって、高い成長率、低い失業率、そして高い収益という繁栄の時代だった。にもかかわらず、1980年代後半には3倍になっていた土地の値段と株価を正当化するような経済データはなにもなかったんだ。当時でさえ、多くの人は金融好況にまつわる熱狂的で非合理的な気分が漂っていると考えていた。つまり、低成長産業の企業が、PER(訳注:株価収益率)が60以上といった成長株として評価されるなんておかしい、と。熱狂する市場ではありがちなんだけど、根拠となる資料を持ってないか勇気がない懐疑論者は自信に欠けがちなんだ。伝統的な知恵が青天井の価格をありとあらゆるかたちで正当化した。

 金融バブルは目新しいものではない。チューリップ熱狂からインターネット熱狂まで、誰もが豊かになっている時には、最も用心深い投資家でさえ長期的な展望をもって流行に抗うのは凄く難しいことなんだよね。長期的戦略思考という日本にまつわる噂を考えに入れたとしても、つまり、完全自由市場、というよりは計画経済よりである日本株式会社、という共通認識を前提にしても、バブルの凄まじさがもたらす驚きって変わらないのよね。

 長期的視点に基づいて、社会的に管理された投資をしているっていう日本の噂は常に現実を誇張していたことが明らかになってきている。日本では政治家を買収して分け前に預かろうとする不動産関係の投機家やヤクザのコネクションがビックリするくらい重要な立場を占めていたことはみんな覚えている。不動産への投機的な投資は1970年代に銀行危機を誘発しそうな程だったんだ。爆発的なインフレのおかげで、投機家の負債が減り、不良債権も健全化したからこそ回避されたんだけどね。でも、日本のバブルの真の規模には腰を抜かすよ。単なる群集心理以上にうまくこの現象を説明してくれるモノってある?

 日本のバブルって、1980年代あたりから世界中で発生した数ある投機フィーバーの1つだったってことが解ってきた。そこで発生した投機フィーバーの全てに、おもに銀行貸付でファイナンスしているという共通した特徴があったんだ――特に、それまで伝統的に穏当な貸し手だった機関が、市場より高い利子率と引き換えにリスク選好の高いヤツラや、いかがわしい人達にまで信用を提供しだした。1番有名なのはアメリカのセービングアンドローンのケースだね。かつての一般的なイメージは「素晴らしき哉、人生!」に出てくるジミースチュワート演じる小さな街の銀行員みたいな真面目さで定義されていた機関が、1980年代には打って変わってテキサスの不動産の大立者として認知されるようになった。でも、同じような疑わしい貸付はいたるところで起きている。スウェーデンという投機的熱狂とは無縁と思われている国でさえもね。経済学者たちは長らく、こうした話の裏にはすべて同じ経済的原則があると主張してきた。それは、不況についての子守モデルみたいに、これから本の中に何度か出てくることになる経済原則の1つで、モラルハザードという名前で知られている。

 「モラルハザード」という用語は保険業界に起源がある。中でも、特に火災保険の提供者はそのごく初期にある事実に気付いていた。つまり、損失を全部保険でカバーされている資産保有者は、全てを失うような火災に遭いがちだという興味深い傾向があるということに。特に状況の変化によって、ビルの資産価値が保険のカバーする範囲以下になった時にね。(1980年代中頃のニューヨークには “放火を招き寄せる”家主がたくさんいた。連中の内には、自分の所有するダミー会社から高値でビルを購入し、その価格を基準にして保険に加入して、おあつらえ向きに火事が起きるなんて人がいた。モラルハザードの典型ね)結果的にこの用語は、どれだけリスクを負うかをある人が決める一方で、失敗した時のコストを別の人がかぶる状況一般をさすようになったんだ。

 借りたお金というのはそもそもモラルハザードを起こしやすい。ぼくが資本は全くないけど、賢い奴だったと想像してみて。そしてぼくの疑い様のない賢さを見て、あなたはぼくに10億ドル貸すことを決める。1年以内に返す限りはぼくの好きなように投資をするという条件で。たとえあなたが高い利子率を僕にかそうとも、ぼくにとってこれは願ってもない取引だ。ぼくはその十億ドルを、儲けはでかくなる「かもしれない」、けど、失敗したら文無しになる何かに金をつぎ込んで、後はうまくいくことを祈る。投資が上手くいけばぼくも上手くいく。もしダメだったら個人破産をして、はいさようなら。表ならぼくの勝ちだし、裏ならあなたの負け。

 もちろん、こんなわけだから、自腹を切らない奴が(投資が)上手くいくと判断したとしても誰もそいつに10億ドルを貸したりしない。いくら賢そうに見えてもね。たいてい貸し手は、貸したお金で借り手がやれることに制限をつける。そして借り手は自腹でかなりの量のお金をつぎ込む事を義務付けられている。損失を避ける理由付けのために。

 時々、貸し手がこのルールを忘れたみたいに、自分のしていることを熟知しているように振舞う連中になんの疑問も持たないで大金を貸す。7章ではヘッジファンドについてのビックリ仰天の話をする予定。別の場面では、借り手が充分な額の自分の金をつぎ込む、という要求自体が市場の不安定性を産み出す源になることもある。資産の価値が減少した時、借りた金でその資産を買った人は、「マージンの要求」に直面する。つまり、もっと自分の金をつぎ込むか資産を売って貸し手に清算するか。さらに価格の減少が続いたのが、ここ2年の金融危機の中心的なプロセスなんだ。でもそんな市場の病理学を別にしても、何故ルールが破られるのかについてのもう1つの、もっと構造的な理由がある。それは、モラルハザードゲームは納税者の犠牲でなりたっているということなんだ。

 日本の「系列」のメインバンクについて書いたことを思い出して。預金者は預けたお金が安全だって信じている。だって政府が保証しているからね。同じことが第一世界のほとんど全ての銀行に当てはまる。そして他の国のほとんどの銀行にも。近代国家はたとえ明示的に預金を保障していなくても、両親のいない子や未亡人が、間違った銀行に預けていたというだけで虎の子の蓄えを失うのを見過ごすなんて出来ないと考える。それは洪水が起りやすい平野に愚かにも家を建てたがために、氾濫する川に家を流されちゃった人を放っておくのが出来ないのと同じようにね。保守派の1番強硬で鼻っ柱の強い連中は違うかもしれないけど。でも、人はどこに家を建てるかにそんなに関心を払わないモノなんだ。まして金を蓄える場所においておや。

 この無関心さって悪意ある商売人には格好の餌食なんだよね。銀行を開行して、かっこいいビルに入って素敵な名前をつける。許可されているなら高い金利で、ダメならトースターでもなんでもつけて預金者をひきつける。そうしたら高い利子率で投機家連中に貸し付ける(それがあなたの友達やあなたの別会社ならなお一層喜ばしい)。預金者はあなたに投資の質なんて問わない。だって自分の預金はいつだって保護されるって解っているから。そして君は片道切符の選択肢を手にした。投資が上手くいけばお金持ちになれる。ダメでもとんずらすれば政府が片付けてくれる。

 わかってる。ことはそんなに簡単じゃないね。監督する政府もそんなに馬鹿じゃないし。実際に1930年代から1980年代にかけては銀行がこの類の行動をすることはほとんどなかった。ぼくが貸してもらった10億ドルでお遊びをする前に、個人的な貸し手がしたのと大体同じようなことを監督官庁もしていた。行き過ぎたリスクを銀行が引き受けないように、預金の使い途を制限していたんだ。必要な資本量を定めて銀行の経営者に自分たちのお金をかなりの額つぎ込むことも求めた。もっと微妙な話で、おそらく意図的にやったわけじゃないけど、監督官庁は歴史的に銀行間の競争を抑制もしてきた。銀行業の認可をそれ自体で価値のあるものにすると、認可を持っている人はかなりの「フランチャイズバリュー」を手にするので、銀行を破綻させる可能性のあるリスクをひきうけてこのフランチャイズバリューが危機に晒されるのを嫌う。

 でもね、1980年代には多くのところでこの制限が崩れた。その主な理由は規制緩和。伝統的な銀行は、安全だけど凄く保守的だった。おそらく最も生産性の高いであろう使い途に資本を注ぎ込めないでいた。改革派は治療法は更なる自由と競争だ、と主張する。銀行が1番良いと思ったところに貸し出すのを認め、公的貯蓄をめぐる競争の参入者を増やす。そうなれば、第1に、銀行に悪性のリスクを引き受ける自由を与えることになるし、第2にフランチャイズバリューが減る。第3に、たちの悪いリスクを避けるインセンティブが下がる。でもみんなどういうわけかこれらのことを忘れていた。市場の変化、つまり典型的には企業のファイナンスが銀行に頼らなくてもよくなって安全と時代遅れのビジネス方式に固執する銀行の利益を侵食していった。

 そして、1980年代には世界のあちこちでモラルハザードが蔓延していたんだ。こうした状況を上手く処理できたって誇れる国ってほとんどないんだよ。もちろんアメリカもダメ。セービングアンドローンの処理は典型的な軽率で近視眼的な失敗例だし、政治の腐敗もまじってる。でも日本は、政府と民間、銀行と顧客、政府が保証しているものとしていないもの、といった当然の区別が特に曖昧だったから、緩和された金融の枠組みに悪い意味でピッタリだったんだよね。日本の銀行はどこよりも借り手の質を考えずに多くのお金を貸したし、そうすることでバブル経済を不気味なくらい肥大させた。

 遅かれ早かれ、こうしたバブルははじける。日本のバブルが100%自発的にはじけたわけじゃないことは解っている。行き過ぎた投機を案じた日本銀行は、風船から空気が抜けるように1990年に金利を上げ始めたんだ。最初この政策は上手くいっていた。けど、1991年の初めに土地と株の値段が急落し始め、それから数年のうちにピークと比べて60%落ちた。

 当初、そしてその後何年かは日本の当局はこの流れを健全――妥当で現実的な資産価値への回帰――だと考えていた。でも段々とバブル経済の終焉が健康的な経済では無く、着実に悪化する沈滞をもたらしていたことが明らかになってきたんだ。

ステルス型不況

 1995年のメキシコや1998年の韓国と違って、日本は間違えようのないほどの破滅的な経済の後退を(まだ?)経験していない。バブル崩壊後の8年、日本の実質GDPはたかだか2%収縮しただけ。失業率も少しずつしか上がってなくて、欧米的な基準からするとそんなに高くない(大部分は計測方法の問題みたい。日本で最初に首を切られて、最後に雇われるのは女性や高齢の労働者なんだけど、彼女たちが仕事を見つけられなくても、常に失業とカウントされるとは限らないんだ。アメリカの基準だったら失業率はおそらく10%に近いはずだよ)。

 でも、毎年毎年、経済成長率は過去の経験よりも低い、というだけじゃなくて、あらゆる合理的な推計に基づく潜在成長率にも満たない。1991年以後、それ以前の10年の平均的な成長と同等の成長をしたのは1年だけなんだよ。たとえ、潜在的な産出の成長率――完全雇用化でなし得る産出――が突然1991年以前の半分に落ち込んだとあなたが考えたとしても、潜在成長率と同じ成長をしたのは1996年の成長という短い上昇だけなんだ。

 経済学者は、日本が経験していることに、有名になるほど奇妙なフレーズをつける。「成長しながらの景気後退」。成長しながらの景気後退とは、経済が成長してはいるけど潜在成長率の増加を利用しきれていない時に起きる。その結果、より多くの機械や労働者が遊休状態になる。普通は成長しつつの景気後退はかなりまれなの。だって、好況も停滞も、更なる成長や急激な減少を産み出して加速しがちだからね。けれど、日本は本質的には8年間、成長しながらの景気後退を続けている。その結果、本来あるべき水準をはるかに下回っているために新たな現象に見舞われようとしている。成長しながらの不況。

 日本経済悪化の遅さはそれ自体混乱の種なんだ。不況がこっそりと国に忍び寄ったものだから、(去年まで)政府に行動を求める場面がまったくなかった。日本経済のエンジンは急停止するのではなく緩やかにその力を失っていったがために、政府自身は一貫して減速は成功だと定義して、経済の継続的な成長が自らの政策を弁護するものだと考えた。たとえ経済成長が、達成可能で、かつ、そうあるべき水準を到底満たしていなかったとしても。(これを書いている時点で、日本政府は1998年の第4四半期に――膨大な公共事業支出によって――ちょびっと多めに成長したことで自らの成功を吹聴している。まるでファンダメンタルが好転したかのように。)そして、同時に日本とアメリカの経済学者両方が日本は低成長を長く続けたためにこれ以上早くは成長出来なくなっていると推測している。

 だからうぬぼれと悲観主義という奇妙な組み合わせが、日本の経済政策の特徴なの――もう1つは、何故物事がこんなに間違った方向に進んだのか全然真面目に考えたがらないことか。

日本の罠

 1991年の日本の突発的な不景気に謎めいたところはない。早晩金融バブルははじけるはずだったし、そうなれば投資と消費が落ち込み結果的に需要も落ち込む。もしもアメリカの株式市場が明日暴落すれば(本が出版されるまでに起きていたりして)、結果おそらく景気は減速するし、アメリカ経済は短い景気後退に入るかも。けれども「短い」が最適なコトバだろうね。確実にアラングリーンスパンは経済を再活性化させるのに必要な事をするだろう。もっと間違いないのは、その状況を運命だと考える理由がないこと。飲みすぎたら多少二日酔いが長引くのは仕方のないことでしょ。

 子守り組合のおはなしにもどろうか。アメリカの株式市場が暴落して消費者の信頼を脅かそうとしているところを想像して。これが必然的にひどい景気後退を意味するのだろうか?こう考えてみよう。消費者の信頼が落ち込んだ時というのは、ちょうど、なにがしかの理由で典型的な組合のメンバーが外出したがらなくなり、雨の日にももっとクーポンを集めるようになったようなものなんだ。これは景気停滞に直結する――でもその必要はないんだよ、もしも管理者が危機に気付いてもっとクーポンを刷って対応すればね。これは正確に僕達のクーポン発行者のトップ、アラングリーンスパンが1987年にしたことだし、再びそうすると僕が信じることだ。

 あるいは、グリーンスパンの対応が遅れて経済が停滞に陥ってしまったとしよう。パニくらないで。たとえクーポン発行者が一時的にカーブで後れを取ったとしても、もっとクーポンを刷れば――つまり、1981‐82と1990‐91の景気後退を終わらせたような精力的な通貨拡大をすれば――状況は好転するんだよ。

 好況期のダメな投資はまるまるどうするの?うん、それってかなり資本の無駄だよね。でも、過去にされたバカな投資のせいで、現在の産出が落ち込まなくてはならないはっきりした理由ってないのよ。潜在成長率は期待するほど上がらなかったけどそんなに落ちてもいない。それじゃあ支出がアップするだけのお金を印刷して、持っているキャパシティーをフル活用させようよ?

 思い出して。子守り組合のはなしは、経済の停滞は僕らが犯した罪に対する罰でもないし、苦しまなければならない痛みでもないんだって事を教えてくれた。キャピタルヒル組合はメンバーがダメで非効率的なベビーシッターだからってトラブったりしなかった。トラブルに陥ったからといって「キャピタルヒルの価値」や「腐敗したベビーシッター」のファンダメンタルの瑕疵が明らかになったりしなかったよね。それは――少な過ぎる仮の株券に人が殺到するという――技術的な問題だった。ちょっと頭をひねれば解決しうるものだったし実際解決したでしょ。だから子守りの話で運命主義や悲観的な考え方を無害化したほうがいい。景気後退は常に、そして結構簡単に治るモノだってことをこの話は教えてくれている。

 でもなんで日本はバブルがはじけた後に気合を入れなおさなかったんだろう?日本は一見抜け出し難い停滞――単純にクーポンを刷って抜け出せるようには見えない代物――にどうしてはまっていられるの? うん、子守りの話をちょっと拡張すれば、日本の問題にそっくりな状況を作り出すのは難しいことじゃない。そして解決策の大枠を探ることも。

 初めに、子守り組合のメンバーが自分たちのシステムに必要のない非効率性を発見したとしよう。つまり、ある夫婦は何日か続けて外出したいけどクーポンが足りない。けれど、そのための埋め合わせの子守りをする気持ちは満々――結局子守りはしてもらえない――といった状況もありうるよね。この問題を解決するには、メンバーが管理者からクーポンを借りること――そしてその後に子守りをしてクーポンを返すこと――を組合が認めればいい。(メンバー同士でクーポンを貸し借りできるようにすれば、ぼくらはこの話をより現実の経済に近づけることが出来る。この子供組合の利子率は、ぼくたちのお話でいえば組合の管理者による「割引率」と同じ役割を果たすだろう)この特権を濫用させないためには管理者はちょっとした罰を課す必要があるだろう。借りた人は借りたよりも多くのクーポンを返さなくてはいけない。

 この新しいシステムの下では、夫婦が手元においておくクーポンは前より減るだろう。必要なら借りられることを解っているからね。ところが、組合の管理者は新しい運営手段を手にしていた。もしも、組合のメンバーが、子守りを“してもらう”のは簡単だけどなかなか子守りを “自分がする”チャンスが見つからないと報告してきたとしたら、もっと多くの人が外出するように奨励すれば、メンバーがクーポンを借りられる条件をもっとよくできる。もしも、子守りをする人が少ないならば、人々の外出を抑制すれば借りる条件を悪くすることができる。

 言いかえると、子守りにたいする需要と供給には季節による偏りがあるんだ。寒くて暗い冬の間は夫婦はそんなに外出したがらずに、自宅で他の家の子供の面倒を見たがる――それゆえに蒸し暑い夏の夜に使えるポイントを集める。この季節による偏りがそんなにたいしたことないならば、組合は冬には低い利子率を、夏には高い利子率を請求することで子守りの需要と供給をバランスできる。でも、季節による偏りがとっても大きい場合を想像してみよう。冬にはたとえ利子率がゼロでも、外出したい夫婦より、子守りをしたい夫婦の方が多いだろう。つまり、子守りをする機会を見つけるのは大変だってことだし、それは夏の楽しみのために蓄えを増やそうとする夫婦はいっそう冬にはポイントを使いたがらなくなるってことだし、子守りをする機会がもっと少ないってことだし……つまり、組合はゼロ金利下でも景気後退におちいったってこと。

 そして、日本の、憤懣遣る方ない冬は今なんだ。おそらくは高齢化や国民的な将来に対する不安のせいで、日本の人々はたとえ金利がゼロでも、経済のキャパを使いきるほどの消費をしたがらないんだ。日本は 恐怖の“流動性トラップ”に陥っていると経済学者は語る。そう、今みんなが読んだのは流動性トラップとはなんであって、どうやって起り得るのかについての子供っぽい説明なんだ。そして、みんなが、失敗はこういう事だって解れば、日本の抱える問題への答えはかなりはっきりしている。

 あぁ、そんなにはっきりしていないか。書いている現時点では、日本の当局は完全に途方に暮れているみたいだもん。

さまよえる日本

 景気後退への標準的な対応は利子率を下げる――人々に子守りのクーポンを安く借りられるようにして、再び外出しはじめるようにする――ことなんだ。日本はバブル崩壊の後金利を下げるのがちょっと遅かった。結果的にゼロまで下げたけどまだ充分じゃない。じゃあ、今度は?

 古典的な回答というのは、これを聞くとみんなケインズの名前を思い出すんだけど、もしも民間部門が完全雇用をたもつほどの支出ができないなら政府部門が失業をなくすこと。政府の借金を認め、その金で、公的投資プロジェクト――可能なら良い目的に、でもそれは優先事項としては2番目――を賄うことで、仕事を供給する。そうすれば人々がもっとお金を使うようになりそれが新たな仕事を産み出し、それがまた…。アメリカの大恐慌は第2次世界大戦という膨大な借金による公共事業によって終わった。どうして、同じ事をもっと太平洋式にして日本の成長を刺激しないの?

 実際日本も試してはみたんだ。1990年代初めから政府は必要かどうか関係のない道路や橋を借金してつくって景気刺激策を何度か実行してきた。こうした政策は直接的に雇用を生み出したし、そのたびに経済全体を明らかに加速させもした。

 問題は、円に充分な爆発を与えられなかったことなんだ。1991年に日本政府はかなりの財政黒字(GDPの2.9%)だったのに、1996年までにはGDPの4.3%もの赤字を抱えていた。だが経済のエンジンはまだ本調子にはならない。けれども拡大する一方の赤字は財務省を不安にさせる。長期的な財政状態を案じたんだね。問題は人口統計(日本の高い貯蓄率と低い投資需要とも大きな関係があるかも)。他の国と同じように日本もベビーブームの後に出生率の低下がやってきた。そしていま人口の高齢化という局面に直面しているのも一緒。でも日本の問題って究極なの。引退世代は急増しているのに、就業人口は着実に減っている。そして引退世代というのは現代の政府にとって物凄い財政的な負担なので――拡大する公的年金と健康保険の受け取り手だから――標準的な会計原則では日本は財政赤字を増やさないで将来のためにお金をためなくてはいけない。

 97年に、財政に責任を持つ人たちの声が勝り、橋本竜太郎首相は財政赤字を減らすために税金を上げたんだ。経済は急激に景気後退へ陥った。

 そして、また赤字による財政支出へとまい戻った。1998年には新規の大規模公共事業プログラムを制定した。財政問題は再びとり上げられたけどどっかにいっちゃった。投資家はすぐに日本がGDPの10%の赤字を計画していることや政府負債のGDPに対する比率がすでに100%を超えていることに気付いた。こんな数字は普通、ハイパーインフレの危機にあるラテンアメリカのレベルだよ。誰も日本に本当にこんなことが起きるなんて予期しなかった。でも11月にはムーディーズが国債の格付けを少し下げたし、12月には国債の利回りが急上昇した。これは投資家が少なくとも政府のファイナンスの長期的な健全性には疑問に思っていることを明らかにしている。要するに、借金して支出することで景気を再活性化する試みは限界にきているんだ。

 それじゃあ今度は何?

 政府支出が停滞する経済への1つの標準的な対応だとすると、別の方法は銀行にまわる資金を増やすことなんだ。大恐慌について広く共有されている認識のひとつは、1930‐31の銀行危機が信用市場に長期的なダメージを与えたせいで恐慌があんなに長引いたんだというもの。この考えによれば、信用にアクセスできていて、そして実際に融資の審査に通っていさえすれば、もっとお金を使ったというビジネスマンがたくさんいたことになる。でも、銀行に対するみんなの信頼が揺らいでいたから、お金を貸せたはずの銀行は、破綻していたか預金が集まらなかった。子守り組合の場合だと、夏に子守りをして、冬に外出をしたがる人もいたんだけど、彼らは必要なクーポンを貸してくれる人を見つけられなかったということに相当する。

 バブル時代に日本の銀行はたくさんの不良債権をこさえたし、引き続いておきたスタグネーションが長引いて他の債権も不良債権化した。今これを書いている時点では、銀行はどれだけの債権が回収できないのかちゃんと把握してない。けれどみんな、自己資本は空っぽか、少なくとも法律で求められている資本を多分相当下回っていることは知っている。だから、流動性の罠の原因は単に銀行が財政的に弱いだけ、っていうのも日本経済の停滞についての1つの仮説だ。銀行を修理すれば経済は回復ってわけ。1998年の後半に、日本の国会は5000億円の銀行救済プランをまとめた。

 問題は、銀行が貸し出すべきだが実行していない貸付というものが存在する証拠がほとんどないことなんだ。1930‐31のアメリカや95年のアルゼンチン、ここ数年の、日本より小さなアジアの国で起きたような種類の銀行経営に苦しんだことは(まだ?)日本にはない。日本の銀行はまだ存在感がかなりある。預金者は政府が保護してくれると確信してお金を預け続けているからね。銀行の財政的な弱さ――これは所有者が全く、あるいはほとんど自腹を切ってない事を意味する――が銀行にとってどんなインセンティブになるかと言えば、それはリスクを引き受けたがらない方向ではなく、どちらかといえば過剰にリスクを引きうける方にはたらくんだよね。

 事実、信用収縮についての報告が1997年の後半に広く出回った。この時期、日本の監督官庁が銀行の資本金に関する規制を強化するのにちょっと真剣になりだしたせいが大きいみたいだけど。たしかに、この信用収縮のせいで翌年の日本の産出の2%以上低下した。信用が逼迫したのは優良な貸付を止めたから?それとも悪い貸付を止めたから?多くの識者は後者だと思っている。この場合、資本強化をしても貸し出しは増えない。どちらの場合でも、銀行を清算すれば、日本経済に対する期待は変化するし、8年ごしのスタグネーションもひっくり返るだろう、という考えが回復の望みを託した細―い葦なんだ。

 じゃあ日本の苦境への答えってないの?

インフレという異端説

 経済学者は長い間流動性トラップというテーマを真剣に考えてこなかったというのが本当のところなんだ。そのトラップに最後にはまった主な経済って1930年代後半のアメリカなんだ。その時代を専門にする歴史家は、あれは本当は流動性トラップじゃなかった――FEDが真面目にやっていれば抜け出せた――か、トラップに陥ったのは単に政策を完全に取り違えたからであって繰り返す事はないと信じてきた。だから、1990年代中頃に日本の陥った罠の大枠が明らかになった時、経済学者は基本的に不意をつかれたし、――同業人に辛口になれば――無関心だった。ぼくは驚きっぱなしだよ。日本のはまった罠が、現実的な問題としても、ぼくたちの経済学の枠組みに対する挑戦としても、それがどれだけ重要かわかっている経済学者が世界中探してもほとんどいないんだよ。

 でも、偉大なるヴィクトリア期の経済学者アルフレッドマーシャルが言ったように、経済学は「具体的な真実の集体ではなく、具体的な真実を発見するためのエンジン」なんだ。高尚な言い方を止めれば、古いモデルにも新しいトリックをしこめるってこと。ぼくがアレンジした子守りの話で見たように、なぜ中央銀行が利子率を下げることでたいていの場合景気後退を治療できるのかを説明するためのモデルで、この治療法が役に立たない環境も明らかになった。そして、この寓話によって日本がトラップから抜け出す方法もはっきりと解る。

 思い出してごらん。冬の子守り組合の基本的な問題は、たとえゼロ金利の下でも、冬に子守りをして獲得した信用を夏に備えて使わないことだったよね。でも、組合のメンバー全体としては、冬の子守りを夏に使うために取っておくことはできないんだ。だから個々の努力は結局冬の不況を産み出すだけなの。

 答えは、経済学者だったらすぐに解らなくちゃいけないんだけど、価格を正常にすることなんだ。冬に稼いだポイントは夏まで持っていたら価値が減る――つまり、冬に稼いだ5時間分の子守りポイントは夏にはたった1時間分に融けちゃう――ことをはっきりさせる。こうすればみんな自分の子守り時間を早く使うようになる。そうすると、子守りをする機会がもっと生まれる。なんかフェアじゃないなぁってみんな思うでしょ。みんな自分の貯金がとり上げられてるって思うでしょ。でも現実には、子守り組合全体としては冬の子守りを夏に持ち越せはしない。だから、実際は、1対1をベースに、夏と冬の時間をやり取りするのを認めると、メンバーのインセンティブを歪めていることになるんだ。

 でも、子守り組合じゃない方の経済にとって、夏に融けてしまったクーポンは何に相当するんだろう?流動性のトラップに陥った経済にはインフレ期待が必要なんだと言うのがその答えなんだ――つまり、みんなに自分が貯め込もうと思っている円が、1ヶ月後、あるいは1年後には今よりも価値が減っているということを納得させることが必要なんだ。

 結論。日本が流動性のトラップに陥っているという広く受けれられている考え方に従えば、日本にとって本当に必要なのはインフレを約束することなんだ。ぼくはこの考え方を子守り組合という風変わりなお話のかたちで説明してきた。でも、これは経済学者が金融政策を議論するために伝統的に使ってきた標準的な数学モデルを適用しても出てくるんだ。金融政策によって景気後退に立ち向かうことが出来るとするならば緩やかなインフレが必要なのかもしれない、と語る考え方は長らくあった。この考え方の著名な提唱者は、政府に入る前の、現財務長官ローレンス・サマーズだ。だから、1998年にぼくが「日本のはまった罠」という短い分析を書くまで、有名な経済学者のうちで誰も日本の「調整インフレ」について説得力のある主張をした人がいなかったというのはある意味で驚きだった。でも、ぼくや他の何人かの人たちがこの主張をしたときに日本のお役人と西洋の大学者さんたちから辛辣な反応が沢山出たのを見ると、このかなりはっきりとしたポイントを解ってもらうのになんでこんなに時間がかかるかわかる気がする。

 インフレの支持者にとっては、安定した物価が常に望ましいもので、インフレを促進すると危険で歪んだインセンティブを産み出すと考えるような、椅子に座りっぱなし的な感覚は満足できるものではないんだ。この物価安定の重要性に対する信念は標準的な経済モデルに基づくモノではない――逆に、普通の教科書の理論を、日本の普通じゃない状況に適用すれば、ごく自然な回答としてインフレがすぐに出て来るんだよ。でも、伝統的な経済学の理論と、伝統的な経済学の知恵が常に同じとは限らない――これはこれから多くの国が金融危機に直面して困難な選択を迫られるにつれ明らかになっていく争いだろうね。

 この本を書いている現時点では、日本の内外で危機をどうするかについての熱い議論が続いている。お役人の中には、今まさに経済は回復しようとしている、と主張して伝統的な政策に固執する人もいる。一方で、少数派だけれど、量的緩和――緩やかなインフレ期待を起こさせるためにお金をたくさん刷ること――を求める考えの人もいる。この人たちが僕も含めた外野の影響を受けていることは間違いない。同じくらい間違いないのが、彼らはすぐにそれを実行に移せるとは期待していないこと。このままだとさらに景気が悪化すると彼らは予測している。そうなればラディカルな政策をとりやすくなるよね。来たる政策転換のための土台作りを目的に彼らは発言しているんだ。

円についてのメモ

 子守組合の話は、他の経済と貿易や投資をしない“閉鎖”経済についての物語だったでしょ。このお話が物語るものに概念的もしくは現実的な根拠から反対する人たちは、国際貿易と投資がすべてを変える、と考え日本と世界のそれ以外の国との関係に焦点を当てる傾向にある。そんなはずはないんだけれども、これを説明するにはちょっと時間がかかる。

 さしあたって“調整インフレ”を求める提案についてのエコノミスト紙の反論から話を始めよう。彼らは、こうしたプログラムは日本人に、自分の貯蓄を海外に“持ち出”させるだけだから日本の支出を刺激しないと主張した。この記事の書き手は正しかったのだろうか?

 そうだね。日本のインフレ期待のせいで日本人にとって海外投資がさらに魅力的になるのは完全なる真実だ(ちょうど、正常な状況で利子率が下がったときのようなものだね)。だからほかの要素に変化がなければ、日本人は資金を海外に持ち出そうとするだろう。でも、3章の国際収支の議論を思い出して。国際収支は常につりあうんだったよね。だからもしも日本人が資本を輸出するなら(資本赤字を増やすなら)、貿易(厳密に言えば経常収支)黒字も増えなくちゃいけない。これってどうやって起こるんだろう?もしも日本人が自分たちのお金を海外に持ち出そうとすれば、円をドルやユーロなんかに交換しなければいけないよね。そうすれば円の価値が下がって、外国人にとっては日本の輸出品が安くなるし、日本人にとっては海外からの輸入品が高くなる。その結果として貿易黒字は拡大する。そして、完全に会計上の問題から、その貿易黒字が望ましい資本輸出になるまで円は下がる。

 でも、貿易黒字の拡大は日本製製品に対する需要が高まっていることを意味する。この需要は、経済の回復しようとする努力を助けるだろう(邪魔はしない)。言い換えれば、お金を持ち出すことはお医者さんとしてはまさに望ましいことなんだ。

 それじゃあ、はじめ日本はどうやって流動性トラップにはまったのかみんな不思議に思うはず。もしかしたらゼロ金利でも日本には充分な投資の機会がないのかもしれない。でも例えばアメリカとか、どこにでも投資場所はたくさんあるんじゃないの?どうして日本は単純に余った貯蓄を海外に使えないの?

 答えは、この話の為替レートの役割にあるんだ。膨大な貿易黒字が出て、その結果たくさんの資本を輸出するくらいに日本の円が弱いと仮定してみよう。その場合結果的に、日本に住む人の海外への投資は、1910年ごろのイギリス人投資家と同じように海外から大きな収入を得ることを意味する。そして、彼らはそのお金を国内で使えるように円に換えるだろう。でも、日本人の貯蓄が投資の機会を常に上回り続けるというわけではないんだ。だって、人口が定年期に近づけば貯蓄を引き出し始めるでしょ。そうすれば海外の資産が売られて円に換えられることになる。だから、現時点では円は弱いかもしれないけれど、これは将来的には強くなることも意味しているんだよ。そうなれば、今度は海外投資はそんなに魅力がなくなる。すなわちドルやユーロ建ての資産のほうが魅力的になる。でも、ドルやユーロが円に対して下落することが望まれている場合、円建てのリターンは少なくなる――おそらくは原価割れする。だからこそ、日本の超過貯蓄を輸出する能力は円が再び強くなるという期待のせいで限界があるんだ。 だからぼくたちはこういうことができる。日本がその海外投資の能力にもかかわらずトラップにはまったのは、ゼロ金利にしても、なお充分に円安にすることが出来なかったから、だと。 それじゃあ日本がインフレという少数意見を取り入れて、今後長期的に物価が年率3〜4パーセント上がると投資家に納得してもらえたとしよう。インフレになると、貯蓄の魅力が薄れ消費の魅力は増すので国内消費を刺激することになる。でも同時に、さらに円が安くなることで日本製品の競争力が世界市場であがってしまう。だから調整インフレという提案はさらなる円安を認めることになるんだ。そして、これを根拠にした2種類の反論がある。1つは傾聴すべきものでもう1つはそうじゃないの。 尊重できるほうのものは、円安は他の国に問題を引き起こすというもの。それでもそれが全体として日本の貿易黒字より大きくなることはない。なぜなら日本の輸出も増えるけど輸入も同じく増えるから。だって、消費者も投資家も財全体に対してよりお金を使うようになるでしょ。

 でも特定の国の人は円安によって自分たちの生活が悪化するのを目の当たりにするだろう。悲しきかな、そこには問題を抱えているアジアの国や中国も含まれている。そして西洋の特定の産業、とりわけ鉄鋼産業は円安に青ざめるはず。ここには現実的な問題がある。でもね、世界で二番目に大きい経済がその回復のためにもっとも望ましい方法を追求する権利を否定することで、自由な資本市場と自由な貿易を守ろうとする試み――このケースに限って需要と供給を満たすように価格が決められていないと主張すること――は確実に失敗すると思うんだ。

 もう1つの方は円安を好まない日本のお役人によるもの。彼らは強い円にプライドを持っていたり、あるいはいまだに円を国際通貨にしたいと夢想しているんだ。(そうなりゃごもっともだけど、それがなんだっていうの?誰も信じようとしないけれどドルが国際的な役割を果たしていることのアメリカにとっての便益ってGDPの0.1とか0.2とかその程度のオーダーなんだよ)こうしたお役人の力ってまだまだ日本では根強い。でも、長くないことを期待している。彼らの虚栄心によって大国の経済的な利益が犠牲になるのを見ているのは嘆かわしいもの。