what I look like

ぼくのキャリア上のできごと

Incidents from My Career
(A. Heertje, ed., Makers of Modern Economics, 1995)

Paul Krugman
山形浩生



目次

  1. 経済学者になる 1953-1977
  2. ビジョンを見つける 1978-1982
  3. ワシントン 1982-1983
  4. 収束と危機 1983-1987
  5. 研究の再燃 1987-1988
  6. もっと広い読者層 1988-1992
  7. ビジョンの復活 1990-1995
  8. これまでやってきたこと
  9. 要するに何なの?

 ぼくの私生活はつまんないものだ。別にいっしょにご飯を食べて死ぬほど退屈とか、人生でそれ相応の喜びや悲惨に遭遇してないってことじゃない。ぼくが言いたいのはつまり、ぼくの個人史のこまごましたことに興味を持つのは、ぼくの友だちや家族だけだってことだ。この文を読んでいる人はだれも、ぼくの結婚生活だの健康問題だのについて知りたいとは思わないだろう(思ったとしても、あなたの知ったこっちゃありませんがな!)。読者が知りたいのはたぶん、ぼくがどうしてこんな経済学者になったのか――ぼくがどうしてあんな本やら論文やらを書くようになったか、もっと一般的には、ぼくがこの世に放った各種のアイデアや、ぼくの知的なスタイルにある独特のスタイル(それがなんであれ)にどうやってたどりついたか、ということだろう。人生はすべてが網の目なので、すべてのことがすべてのものに影響する。ぼくの経済理論は、まちがいなくぼくの猫たちとの関係に影響されているだろう(ちなみに猫たちとの関係は相互に支え合うオトナの関係なのよ、とあわててつけ加えておこう)。その逆もあるだろう。でもこの論文では、ぼくが重要だと思う仕事上のできごとに専念しよう――ぼくの書き方や考え方にはっきり影響したような経験だ。

 その過程で、20 世紀末のアメリカで成功した経済学者であるというのがどんなものか、ちょっと味見できるようにもしよう。みんな口ではなんと言おうと、だれも哲人や聖人じゃないのだし、経済学者が直面する報酬の構造を少しはわからないと、経済学の発想の発達は十分に理解できない。だからこの小文の題名は「ぼくのキャリア上のできごと」なんだ。ぼくは真善美を追求していたかもしれないけれど、でもやっぱりみんなと同じく、成功も求めていたんだから。

 このエッセイのほとんどは、ぼくの専門生活の断片集を時系列にしたものだ。自分の生活の話を、その全体の意義と思っているもの、つまりは自分が経済学に何を貢献し、そのために何をやったか、ということとの関連で語ってみよう、というわけだ。

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1. 経済学者になる

 ぼくには手前みそな理論がある。おもしろい発想とおもしろい人生経験とはほとんど関係がない、というものだ。この理論によれば、八カ国で育ち、五つの言語を操って、シベリアを犬ぞりで横断してアマゾンを筏で下った人物であっても、安全な郊外の中流家庭で SF 小説を読んで育った人間に比べて、社会科学に関する洞察が優れているとは限らない、ということになる。

 この理論が正しいことを祈りたい。というのもぼくの出身は実に平凡だからだ。生まれは 1953 年、ベビーブームの頂点だ。ニューヨーク郊外で育ち、ごくふつうの教育を受け(通ったのは数多い J.F.ケネディ高校の一つ)、大学時代の4年間も大したことは起きなかった。

 確かに、SF 小説はあった。というか、ぼくが経済学者になったのはそのせいかもしれない。SF なんか読む人たちは、アイザック・アシモフの古典、ファウンデーション/銀河帝国の興亡三部作を知っているかもしれない。これは社会科学者が出てくる数少ないSFだ――社会に関する数学的理解を使って、銀河帝国の崩壊の中で文明を救おうとする「心理歴史学者」たちの話なのだ。ぼくはこの『銀河帝国の興亡』が大好きで、中学時代の密かな妄想は、心理歴史学者になることだった。残念ながら、そんなものは(まだ)存在しなかった。ぼくは今も昔も歴史が大好きだけれど、歴史という手法は、「なぜ」よりも「なにが」「いつ」のほうをずっと得意としていて、ぼくはだんだんそれ以上のものを求めるようになった。経済学以外の社会科学だと、対象には興味はあるけれど、手法にまったく興味が持てない――もっともらしい仮定が意外な結論を導き、一見ぐちゃぐちゃの問題からはっきりした洞察を抽出するという経済モデルの力に匹敵するものは、政治科学や社会学にはまだ存在しない。いつの日か、アシモフが想像したような統合社会科学が生まれるだろう。でもいまのところ、心理歴史学に精一杯近いものといったら経済学になる。

 というわけで、大学では経済専攻になった。でも経済学の講義はそんなにとらなかった。というか、必修以上のものはほとんどとらず、その分を歴史の講義をたくさん入れて埋めていた。でも、本当の経済研究をやる見習いをはやい時期に経験できたのは、とても幸運だったと思う。1973 年の春(3 年生のとき)、ウィリアム・ノードハウスとチャリング・クープマンスはエネルギーと天然資源問題に関する学部セミナーをやった。期末レポートのネタを探そうとするうち、ぼくはガソリンの価格と消費についての世界各地の横並びデータをたまたま見つけて、そのデータを使ってガソリンの長期需要が実はかなり価格弾性が高いことを示唆した――当時アメリカでは、そうではないと思われていたんだ。その論文を根拠に、ノードハウスは研究助手をやらないかと要ってくれた。そしてたぶん、ぼくが実質的に専門の経済学者になったのはそのときだったと思う。

 ビル・ノードハウスは古典的なMIT の伝統に連なる立派な経済学者だ。古典的な MIT の伝統というのはつまり、ロバート・ソローの伝統、ということだ。よい経済学をやるにはいくつか道がある。深遠な定理を証明してみせてもいい。そうだな、若きケネス・アローの業績の重要性を誰が否定できるね? そして詳細でゴリゴリの計量経済をやってもいい。たとえばツヴィ・グリリカスの業績をぼくは深く尊敬している。でもぼくが昔から魅力を感じていたのは、ノードハウスがエネルギー問題に適用してみせたような、MIT のスタイルだった。小さなモデルを現実の問題に適用して、実世界からの観察と数学を少々まぜて、問題に核心に切り迫る、というやり方だ。

 ノードハウスの下で働いた最初の夏、かれはエネルギーの適正な価格づけ問題についてどう考えるべきか、漠然とした考えしかもっていなかった。その漠然とした感覚をかれがモデルに結晶化させ、そしてそのモデルがこの問題に対するあらゆる人の見方を変える様子を、ぼくはずっと見物することができた。自分で同じことをやるのは数年先のことではあったけれど、でも経済学をやるってのがどういうことか、こんなに早い時期に目の当たりにできたのは幸運だった。1974 年にイェール大を卒業して、ノードハウスの手下としては MIT の院に入るのはごく自然のなりゆきだった。

 1970 年代半ばの MIT はなかなか壮絶な時代だった。一つには、当時はマクロ経済学における合理的期待革命の日々だった。MIT の教授陣はこれをちょっと眉唾だと思っていたので、ケインズ派的な発想も引き続き講義されていた――これはいいことだった。というのも 1980 年代になると、均衡マクロというのは反証が次々に出てくる中で歯を食いしばっているような状態になっていたからだ。とはいえ、学生たちにしてみれば、当時はすべてが発明しなおしを待っているように見えた。 Saddle-path 図式はまた目新しくてエキサイティングに見えた(いまはもう、使い古されたつまらないクリシェになっちゃったけれど)。いまでも、仲間がわいわいとランチルームのテーブルで、予想されるショックの幾何学を解いていたのを覚えている。国際マクロ経済学に興味のあった生徒たち―― 1975 年にルーディ・ドーンブッシュが MIT にやってきたということは、多くの学生が興味を持っていたということだ――にとっては、変動為替相場の新しい世界を解明しようとするオマケの興奮があった。その頃は、だれが勝ち残る理論を手にするという栄冠を勝ち取るか、というのが問題であるように思えていたんだから(繰り返すけれど、実証的な騒動はまだ先の話だ)。

 最後に、MIT でぼくははじめて、経済学者が世の中で果たすもっと広い役割について感触を得た。ルーディ・ドーンブッシュが MIT にきたとき、かれはすごく学者然とした経済学者で、論文の教訓的な明晰さで有名な人物だった。ところがかれは、ぼくの目の前で政策案内係に変身して、世界中の政府や銀行家がアドバイスを求めてやってきた。そういう役割の拡大の可能性がどこまで目新しいものかは知らないけれど、ぼくにとっては目新しかったのだ。

 1976 年の夏、ぼくは実地に政策世界を味見することになる。MIT の学生団が、ポルトガルの中央銀行で三ヶ月働くことになったんだ。当時のポルトガルは、革命とクーデター未遂の直後のとんでもない混乱状態にあった。課題の大部分は、そもそも何が起きているかをつきとめることだった。その経験から学んだのは、ごく簡単な経済学的アイデアの力と、実務的な文脈を持ち得ない理論がいかに無意味か、ということだった。具体的には、産出がそもそも増えているのか減っているのかすらなかなかわからないような国での経験のおかげで、潜在的には有効な政策があるはずだと指摘するのに、その政策が何なのかを決める手がかりをまったく与えてくれないモデルに対する長期的なアレルギーができた。

 ただ MIT では大いに学んだけれど、華々しく活躍したというにはほど遠い。はやく院を卒業したくてたまらなかった。それはぼくがその頃もまだ内気でひとりぼっちだったから、というだけのことで、現実世界に出たら自分の殻を破れるんじゃないかと期待していたからだ(同じ理由で、ボブ・ソローがハーバードの Society of Fellows に推薦してやろうと言ってくれたのを断った。三年間、オフィスでひとりぼっちですわってるだけになるのが怖かったからだ)。結果として、手っ取り早く論文をでっちあげてさっさと院を卒業した。その論文には、ぼくがそれまでに書いた本当に価値ある一本のペーパーさえ含まれていなかった (これについては後述)。運のいいことに、それでもイェール大が職を提供してくれた。でも教職の初年度も半ばにさしかかるまで、経済学者としての足がかりは見つからなかったんだ。

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2. ビジョンを見つける

 自分らしいと思える初のペーパーを書いたのは、大学院でのことだった。連邦準備銀行で二ヶ月インターンをしているときにふと思いついた「A model of balance of payments crises」だった。商品在庫に対する投機攻撃の話をスティーブ・サラントがしていて、それが通貨危機にも適用できるな、と気がついたんだ。でも、ぼくの手腕も自信もまだ弱かった。モデルは無用にややこしくなっていて、書き方もちょっと不明瞭だった。たぶんそのせいか、その頃論文の指導教官だったルーディ・ドーンブッシュは、初稿を読んでも論点を理解してくれず (最終的に投稿したときの査読者たちも理解してくれなかった)、そしてぼくはかれが出した疑問点に応えようともせずにそれをお蔵にして、一年後にルーディがあれを見直せと言ってくれるまでそのままにしておいた。

 今にして思えば、投機攻撃ネタを寝かしておいたのは幸運だった。というのも、もし続けていたら、その後数年を国際金融の合理的期待形成モデルに費やすことになっていた可能性が高いからだ。そうなるかわりに、ぼくは教職の最初の半年をちょっと茫然自失状態で過ごし、それからもっとずっと大きなものを見つけた。15 年以上たった今も、ぼくの研究を導き続けているビジョンだ。そのビジョンとはもちろん、貿易における収穫逓増と不完全競争の重要性だ。

 独占的競争について知ったのは、1976 年にボブ・ソローがやった短い講義でのことで、たぶんその新しいモデルを貿易に適用してみようという発想は、それ以来ずっと頭の中で熟しつつあったんだろう。でも、ぼくの仕事には典型的なパターンがある。まずは漠然としたアイデアがあって、それと時々たわむれてみる。それが何年も続くこともある。そして何かが起こって、いきなり霧が消え去り、ほとんど完成したモデルができあがっている。この場合には、1978 年にルーディ・ドーンブッシュを訪ねて自分の研究について話をするときに、いくつかアイデアの一覧を作ったんだけれど、独占競争型の貿易モデルの発想を、ほとんどあとづけの思いつきでくっつけておいたんだ。ルーディが、それはおもしろいアイデアだよと指摘してくれたので、家に帰って次の日から作業をしてみた――そしてものの数時間で、一生のキャリアを開く鍵が手に入ったのがわかった。興奮して一晩中寝られず、ダマスカスへの道で神の啓示(ビジョン)を受けたような気分だったのを覚えている。

 もちろん、このビジョンの正しさを人に納得してもらうには、しばらくかかった。実はその後一年半は、実に悩ましい時期だった。雑誌にははねつけられ、先輩たちはほとんど興味をもってくれず(でもカルロス・ディアズ=アレハンドロは大いに支援してくれた)、イェール大学経済学部は研究フェローシップの申請を断ってきた。それでもぼくはあきらめず、そして1979年の春に再び霧が晴れ、そして独占競争と比較優位を統合する道がはっきり見えてきた (ここでもその天啓の瞬間を非常に正確に指摘できる。このモデルを可能にしてくれた分析上のひねりは、ボストンのローガン空港で、ミネアポリスへの飛行機を待っているときに思いついたんだ)。

 その新しいペーパーを、同年 7 月の National Bureau of Economic Research の夏期講習で発表した――理想的な場所だ。有力な国際経済学者たちの集団に確実に聞いてもらえるんだから。その後いろいろあったけれど、いまでもあのペーパーを発表した一時間半こそが、ぼくの人生で最高の 90 分だったと思う。映画『歌え!ロレッタ愛のために』にはクサい場面がある。若きロレッタ・リンが騒々しい酒場で初めて舞台にたち、そして一人ずつ客がおしゃべりをやめて、彼女の歌に耳を傾けるようになる。そう、ぼくもそんな気分だった。ぼくはいきなり、のし上がったんだ。

 のし上がったって、何に? 現代の学術世界には、どんな分野でも――国際ファイナンスだろうと、ジェーン・オースティン研究だろうと、内分泌学の一部だろうと――ある「一線」ってのがいる。学術会議の講演に呼ばれる人々で、いわば事実上のノーメンクラツーラを形成する人々だ。昔は国際経済学におけるこの一線というやつを、「変動クラップス」(訳注:クラップスってのは、チンチロリンみたいなさいころ博打ゲームね)と呼んだことがある。そこに入るのはむずかしい――すごくいいペーパーを二本は書く必要がある。一本は注目を集めるため、もう一本は最初のがまぐれじゃなかったと証明するため――けど、いったん入ったら、絶えず会議や招待論文のお声がかかるので、残るのは易しい。1980 年の夏には、すごくいいペーパーが 5 本刊行されたかその予定だったので、ぼくはおおむね終身の地位が約束されていた。

 続く数年は、学会に確固たる地位を保証されたために、ちょっとダレたと思う。とはいえ、相変わらず貿易と不完全競争の経済学の研究は続けたし、いまだに赤面せずに読める論文も何本か書いてはいるけれど。でもその頃の記憶のほとんどは、国際会議への出席だった。これは別に豪勢なイベントじゃなかった。エコノミークラスで飛んで、空港からもバスでホテルに向かい、エレベーターのないホテルの六階に泊まったり、便所が廊下の奥にしかないような会議場にカンヅメになる、というような代物だ。それでも、いまやぼくの旅費を他の人が負担してくれていた。イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、フィンランド、スウェーデン、スイス、イスラエル、メキシコ。やっと若い頃にはできなかったエキゾチックな体験ができるようになった――ただしもちろん、どこへ行っても同じような面子にばかり会うのはアレだったけど!

 学問の一線を離れたことはないし、これからも離れるつもりはない。その世界の仕組みについてはちょっとシニカルだったこともあるけれど、でもそのメンバーたちは、すばらしいほど気取りのない、真のエリートたちだ。この文を書く数週間前に、ミラノの教室で開かれた国際貿易に関する会議に出席した。部屋はボロくて、椅子もすわりにくく、お年寄り参加者の一部は背中をやられたほど。ホテルはまともではあったけれど、そこそこ。でもそこでの議論には、G7 サミット一ダースよりはるかに多くの真の洞察があったことは保証できる。本当におもしろい意見をもっているのは、ピンストライプのスーツを着た有名な政府高官なんかじゃなくて、ブルージーンズの若い経済学者たちなんだということを決して忘れませんように。それでもぼくは満足していなかった。これはまちがいなく、ここで話すつもりのない種類の個人的な問題と関係しているんだろうけれど、でも学術会議に 3 年出続けて、ぼくはちょっと熱意が薄れて退屈してきていた。なにかちがったことをやる機会があったら、すぐにも飛びつこうという状態だった。それが最終的に必ずしもいまよりいいものでなくても。

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3. ワシントン

 1982 年の 8 月に、スウェーデンの会議から家に戻ると、マーチン・フェルドシュタインに電話しろという伝言があった。二週間後、ぼくは MIT を休職してワシントンに向かい、経済顧問評議会 (Council of Economic Advisers) で国際経済の主任スタッフになったのだった。

 ある意味で、ぼくがレーガン政権に参加するというのは奇妙なことだった。ぼくは当時もいまも、福祉国家の支持者を任じて恥じることがない。福祉国家は、これまで編み出された中で一番まともな社会体制だと思う。また、ぼくは「政策実業家」どもに敬意を払うふりができない。「政策実業家」ってのは、政治家たちの顔色をうかがって気に入るような話をなんでもしてやる、知的に不誠実な自称専門家たちだ。レーガン政権はもちろん、福祉国家が大嫌いで、真実なんかにまるで関心のない連中だらけだった。でも 1982 年の夏はレーガン信奉者の中でほとんどパニックに近い時期だった。不景気と債務危機が大災厄をもたらしそうに見えたからだ。だからなんとか状況を改善してくれるんじゃないかと思ってフェルドシュタインを雇ったばかりか、政治的に「偏向」した若き天才たち(ラリー・サマーズやグレッグ・マンキューなんかもいた)も好きに雇っていいと言った。1983 年には、景気が十分に回復しつつあったので、政治屋どもが再びハンドルを握り、フェルドシュタインは公式の席上で財政赤字について懸念を表明したということで、地位を追われることになる。が、これはまた後の話。

 ワシントンは、最初はスリリングで、それから幻滅だった。そこは世界の首都だし、世界的な重要性を持つ意志決定に自分が影響を及ぼせると思うのは、若者にとってはすばらしいことだ。いまでも、機密文書の表紙についている長い禁止事項一覧を暗唱できるくらいだ (「機密/外国籍者閲覧禁止/業者閲覧禁止/独占情報/出所制限」)。一部の人はそのスリルに中毒して、中心近くに残るためならなんでもする。

 でもしばらくするとぼくは、政策決定が実際にはどう行われるかに気がつき始めた。実は、ほとんどの政府高官は自分が何を言っているのかまったくわかってない。高次会議での議論は、おっかないほど原始的だ(たとえば、名目金利と実質金利のちがいはややこしくて無用な学問的重箱の隅つつきだと思われたりしてる)。さらに、多くの権力者たちは、自分にきちんと考えることを強要する人々よりも、自分に心地いいことを言ってくれる人からアドバイスを受けたがる。つまり、本当に政策に影響を及ぼせるのは、ふつうは最高のおべっか使いで、最高の分析家ではない。ぼくは自分がいい分析家だと思いたいけれど、でもおべっかを使うのは確実に下手だ。だから、ワシントンに残りたい気はしなかった。

 でも、自分の新しい才能は発見した。真剣な経済学について、一見わかりやすい英語で書く能力だ。その才能は、機密メモを書くので磨かれて、それが十分に上手だと見なされたので、結局 1983 年「大統領経済報告」はぼくがほとんど書いた。それ以来、ぼくは一種の副業の基盤として、経済学についてあまり専門的でない文を書くという能力を使ってきた。そしてそれによって、政策世界の中心には滅多に届かないけれど、その周辺部にはとどまり続けている。ワシントンを離れてすぐに、産業政策に関する大会議用に論文を書くことで、その副業の幸先のいいスタートを切った。その論文は、当時出回っていた産業政策上の提案の一部を深く疑問視するもので、特にロバート・ライシュとかいう政策実業家が出しているバカげた提案はボロクソに批判した。これをやることで、ぼくは 9 年後に爆発する時限爆弾をセットすることになったのだった。

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4. 収束と危機

 ワシントンで一年過ごしたぼくは、学問生活に戻るという問題に直面した――これは容易なことじゃない。政治の世界でしばらく働くと、もう学問研究能力が破壊されてしまう。論文を書くのが直接できごとを左右するというスリルを欠いている、というだけじゃない。実際の政策議論がどれほど原始的かを見てしまうと、3次条件だの尤度比検定なんてのが本当に意味があるように思えなくなってしまう、というのもある。でもぼくは運がよかった。同僚が面倒を見てくれたんだ。

 1983-4 年度にかけて、テルアビブ大学のエルハナン・ヘルプマンが MIT の客員できていて、ぼくとかれが先駆けの一翼となった「新貿易理論」と、産業組織論と貿易の統合に関する研究をまとめた大作をまとめようと説得してくれたのだった。続く 10 ヶ月は、ひたすら没頭作業が続き、結果として出てきたのは Market Structure and Foreign Trade だ。これはエルハナンが想定していた狙いをすべて実現した。この分野のまとめになったばかりか、一冊の総合的な参考文献を作ることで、この本は宣伝の道具としてもすばらしかった。つまりその後だれかが「新貿易理論とやらって何なの?」ときいたら、この本を読めといえば話がすんでしまう。これは新貿易理論のためにもよかったし、決して偶然ではなくぼくたち自身のキャリアにとっても有益だった。

 この大作業の後で、ぼくは一種のスランプに陥った。実は自分で見る限り、3年にわたる職業上の危機に陥っていたんだ。外見には、これはわからなかったかもしれない。だってその頃には、世界先端の経済学部で終身教授になっていたし、会議の一線でもまだ活発に活躍していたんだから。この時期にかなりいいペーパーだって書いた。でも内面的には、自分が何をすべきかという感覚が失われた気がした。いい論文を書いても、継続的な探求の一部という感じじゃなくて、散発的なまぐれのようにしか思えなかった。

 正直言って、自分が十分に評価されていない気もしていた。ある面で、これは実にセコイ。すてきな仕事があって給料も結構いいし、世界中の会議にも招かれてるのに。人類の 99.9 パーセントに比べれば、文句なしの生活だ。でももちろん、人間という動物はそんなふうにはできていない。ぼくの感情的な参照群は、同世代の最高の経済学者たちだったし、ぼくはふつうはその数に含まれていなかった。

 1987 年の春と夏には、感情的なドツボにはまった。グラントいくつかを断られたので、翌年は大学を一年休もうという計画もかなり面倒になった。そして研究を続けようという本気の元気もないようだった。会議にもいったけれど、でも形ばかりという感じ。そしてどういうわけか、すべてがまたきっちりおさまってきたのだった。

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5. 研究の再燃

 1987 年後半になって、研究の生産性が再び爆発した。理由ははっきりしないけれど、いくつか考えられなくもない。

一つは、MIT を 1 年休職して National Bureau of Economic Research に腰を据えていたことだ。NBER はきゅうくつな環境で、数十人の若き俊英経済学者たちが詰め込まれている。あまり快適じゃないけれど、どんなときでもコーヒールームでは経済学についてほぼ確実に何かおもしろい会話が進行している。これほど刺激的な場所は他には知らない。

 もう一つの理由は、ぼくがはっきりとは知らぬ間に、材料を集めていたということだ。過去 2 年にわたり、根本的な研究上の発想がなく(手元不如意だったこともあって)、ぼくは多くの政策的な会議に出席した。そうした会議は、ドルについて、途上国債務について、貿易赤字についてなどについて、革新的ではなくてもそこそこ筋の通った論文にお金を出してくれた。ぼくはこれがかなり上手だった。まじめな経済学を専門用語抜きで書くという能力のおかげだ。この種のちょっと目先の変わった会議群に参加できる理論家は少ないし、またしたがる人も少ない。だからぼくは、賢いモデル構築者でありながら、その時代のトレンディな国際経済問題は何か、政策に関わる人々が何を考えているかという点について、かなりよくわかっていた。

 最後に、くだらなく聞こえるかもしれないけれど、パソコン用ソフトの向上と、特に外国旅行に持って行けるラップトップの登場が、ぼくに理論ペーパーを書きやすくしてくれたと思う。ぼくはすごく作業ははやいけれど、乱雑で気まぐれな研究者でもある。ペーパー一本を――方程式もシミュレーションも何もかも――どこかのホテルで週末に書き上げさせてくれる技術というのは、実にぼくのスタイルにあっている。

 とにかく理由はどうあれ、1987 年と 1988 年には機関銃みたいにペーパーを書きまくった。何本書いたか自分でもわからない――いまでも重要な理論ペーパーが8本かそこら、そして会議用の時事的なペーパーが15本くらい、さらには共著書 2 冊だな (ちなみに、アイデアが浮かんでくる時や方法は、相変わらずかなり変だ。為替レートのターゲットゾーンに関する基本モデルは、ぼくのペーパーの中で最も成功したものの一つだろうけれど、東京からロンドン行きのフライトの中で思いついたものだ)。

 この噴出期に書いたペーパーは、院を出て数年で書いたペーパーとはちがっていた。初期の研究は、その動機づけをほぼ完全に経済研究自体の論理から拾ってきており、「なぜ貿易は起こるのか」といった昔からの問題に答えようとしていた。いまやぼくは、目下の政策上の問題――第三世界の債務救済、EMS の仕組み、明らかな交易ブロック化のトレンド――を出発点にするペーパーを書いていた。そこから小さいエレガントなモデルを作って、問題を論じるための言語を作る。検討した課題のいくつかは、もう忘れ去られてしまった。でもモデルのほうはそのまま生き続ける。

 1987 年と 1988 年にやった研究は、研究に関する自己懐疑に終止符を打ってくれた。そしてぼくの学者としての地位に嬉しい変化があったと認めないのは嘘つきってもんだ。もっと華々しい会議に呼ばれるようになった――ただし危ぶんだとおり、会議の華々しさとその知的な質はほぼ完全に負の相関しかなかったけれど。もっと重要なこととして、貿易の外で、新貿易理論の成果に関する評価が高まっていた。この評価はやがて、いくつか大きな学問的栄誉に反映される。エルハナン・ヘルプマンは、イスラエル賞を受賞した(これはノーベル賞と同じかそれ以上に受賞のむずかしい学術賞だ)。そしてぼくはアメリカ経済学会のジョン・ベイツ・クラーク賞をもらった。重要な点は、1987 年と 1988 年にぼくは再び一種のバリアを突破したってことだ。そしてぼくはまたもや満足していなかった。もっと新しいことをやりたかった。

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6. もっと広い読者層

 1988 年秋、もとは国会の副官でいまはワシントン・ポストで働いていたマイケル・バーカーが本を書かないかと言ってきた。ポスト社が計画している「ブリーフィング」という新シリーズで、アメリカ経済の入門書を書いて欲しいという。ぼくはいささか安易に引き受けて、かなりぐずぐずためらってから、一夏ほとんどマーサズヴィンヤードで過ごして『クルーグマン教授の経済入門』を書き上げた。ふたを開けてみると、ぼくが書いたのはマイケルもぼくも予想しなかったような本だった。それは確かにアメリカ経済入門ではあったけれど、でも一方でそれはさりげなく経済理論の教科書にもなっていて、アメリカの本当の経済問題を、経済原理の説明のためのエピソードに使って、高度なモデルを一見単純な文章の下に隠したものになっていた。万人に気に入られたわけじゃないけれど、すぐに一種のカルト本になって熱烈な支持者ができた。

『クルーグマン教授の経済入門』は、本当のベストセラーにはならなかった。これはぼくにはどうしようもなかったマーケティングと流通のせいだということにしとこうか。でもこの本は、それまでぼくが書いたどんなものよりも広い読者層に届いたし、いろいろ新しい門を開いてくれた。ジャーナリストたちは『経済入門』を読んで、話をきかせろと電話をよこした。ビジネスマンたちも読んで、会議で話をしてくれと言った。そしてもちろん、新聞にインタビューがのったり、ビジネススピーチをしたりすれば、そのたびに追加のお座敷がかかる。

 これはいいことばかりじゃなかった。ぼくの生活のペースは変わった。いままでだって忙しかったけれど、いまやぼくは絶えず不幸なオーバードライブ状態になった。エージェントと契約して、講演の条件をかれらに交渉してもらった。それはかれらが仕事をとってきてくれるからじゃなくて、かれらが高い料金を要求することでぼくの時間を節約してくれるからだ (でも講演はかなり上手になったし、講演料も上がってきたのでついついやりすぎてしまう)。毎日1-2時間は電話で記者たちと話をすることになった。ぼくの正気と将来の生産性にとっては運のいいことに、テレビタレントとしての役割は開花しなかった。もしそうなっていたら、研究を続けるだけの自制心が持てたかどうか。

 タレント的なぼくの役割は、1992 年の大統領選挙戦で大きく広がり、その直後に急落した。ぼくが目立つようになったのは、所得分配に関する熾烈な公開論争だった。レーガン政権時代に所得の不平等が急上昇したのは事実だけれど、保守派はこの事実を認めたがらない。ぼくは不平等に関する章を『経済入門』に入れた――ちなみに編集者たちはそれが重要と思わなかったので反対したけれど、ぼくはそれを押し切った。この問題については、1992 年初期にいくつか議会証言もした。具体的には、ぼくは不平等の規模をあらわにする有効な方法を思いついたんだ。1977 年から 1989 年にかけての平均世帯収入の増加のうち、7割強はトップ 1 パーセントの世帯の懐に入っている。この数字はなかなかキャッチーなものだったので、クリントンの選挙キャンペーンは嬉々としてこれを使った。

 その後数ヶ月は奇妙な時期だった。ぼくはメディアの友人数人の助けを借りつつ、『ウォールストリート・ジャーナル』の編集人と一種のプロパガンダ戦争を展開したのだった。たぶんぼくが勝ったと思う――最終的には、要は不平等は確かに大きく拡大したのであって、それを否定しようとする試みはだんだん変に見えてきた。でもそのおかげで、ぼくはそれまでにないほど目立つ役割を一年近く果たしていたわけだ。やがてこれが、ぼくをクリントンの選挙キャンペーンと引き合わせるのは避けがたいことだった。ぼくはかれの経済政策を肯定する論説記事を書き、当の候補者にも一度だけあった。新聞ではもちろん、ぼくは経済顧問評議会の議長確実、とうたわれていた。

 ところが実は、クリントンへの顧問たちは昔からぼくを知っていて、お互いにあまりいい感情は持っていなかった。選挙の直後、ロバート・ライシュ――ぼくが 1983 年に攻撃したまさにあの政策実業家だ――が経済移行チームの長官に指名された。そしてがっかりしたことに、ぼくは影響力のある地位から排除され(これはあまり気にならなかった)、そればかりかクリントン政権は系統的に、本当の専門家より政策実業家をひいきにするというのがはっきりしてきたのだった。特に、新政権を支配するイデオロギーは、ぼくが「ポップ国際主義」と呼ぶものになることがわかってきた。国際貿易を企業の競争みたいなものと考えたがるバカな発想だ。そして一級の経済学者でこんなドクトリンを受け入れる人はいないし、受け入れるような人が一級であるわけもないので、重要な地位を占めるのは二流の連中ばかりとなった。

 ぼくはこういう展開を大人しく受け入れはしなかった。手紙やインタビューでは、思ったことをそのまま語った。そしてもちろんマスコミは――いつも新大統領には優しいし、かれの口のうまさに感銘していたので――ぼくの文句を笑いものにして、自分がその役職につけなかったやつの酸っぱいブドウ談義だということにした。数ヶ月後にはみんなが新政権の人事の質の低さに文句を言っていたけれど、でもこういうことには記憶がない。ぼくはおおむね侮辱されて、ぼくの世評は当時も今も、頂点よりはかなり低いところにある。

 このお話はまだ終わっていないかもしれない。ぼくは今、一般向けの本をもう一冊書いているし、公開の論争からいつまでも逃げているつもりもない。でも 1992 年に体験したような、熱にうかれたような政治参加はもうないと思うし、またしたいとも思わない。政治への関与が引きおこした騒動の不快感を平静に受け止められた理由は二つ。一つは、私生活面が改善したこと。もう一つは、おもしろくて没頭できる大研究プロジェクトをまたもやつかんだということだ。

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7. ビジョンの復活

 ぼくの専門上の関心にはリズムがある。何年か学術研究に専念していると、だんだん退屈して政策にかかわりたがる。政策をしばらくやると、本物の研究をまたやりたくてたまらなくなる (研究にくらべて政策に飽きるほうがずっとはやい)。このリズムに忠実に、『経済入門』を終えて間もなくぼくは本当の研究をやりたくてたまらなくなった。ビジネス戦略家のマイケル・ポーターが、近刊『国の競争優位』の草稿を送ってくれたとき、新しいプロジェクトのヒントを見つけた。これは巨大な本で、結局全部は読まなかったけれど、でも国際競争における地域産業クラスターの役割を強調している部分にはかなりひかれた。間もなくぼくは、経済地理のモデルを開発しようと考えはじめた。複雑な発想からはじめて、だんだんそれを煮詰めていった。ブリティッシュ・コロンビア大学の教職員クラブで、夜も寝ずに紙をたくさん埋めていったのをはっきりおぼえているし、ハワイのホテル部屋で数値モデルをたくさん計算したのも忘れない。数ヶ月たつと、刊行向けに投稿できる基本的なモデルを手に入れた。1990 年の秋には、このテーマについて一連の講演をする用意ができた。これがGeography and Trade (邦訳:『脱国境の経済学』) で、これもまたカルト古典となった。

 ふたを開けてみると、経済地理学はぼくが 1980 年代に掘り出したテーマよりずっと豊かな研究分野だった。すでにこの分野で重要なペーパーを6本書いたし、それでもまだネタが尽きそうな気はまるでしない。またこの分野を布教するための系統的なプロセスも開始した。ぼくは経済地理を、国際貿易と同じくらい真剣に論じられる経済学分野として確立させるつもりだし、それは成功すると思っている。

 本当に新しくて自分でも本気で信じられるような、世界の仕組みに関する洞察をもたらすよい発想を思いつくのは、実に満足のいく経験だ。それ以上に満足のいく唯一のものといったら、その発想が次々に数珠繋ぎになって、関連しあった発見を山ほど行うときだろう。これが起きると、自分が物静かで慎ましやかな教授だなんてことは忘れて、神話上の探求をしている原型的な英雄みたいな気分になる。新貿易理論の構築中に、それを一度でも味わったのは実に運がよかったと思っているけれど、新経済地理が形成されるにつれてそれを二度目に味わえたというのは、ほとんど奇跡に近いことだと思ってる。

 それをもっと満足のいくものにしてくれているのが、二つの探求の間の関係だ。経済地理学は、新貿易理論と同じく、もっぱら収穫逓増と複数均衡をめぐるものだ。モデルを扱いやすくするための技術的な小技はしばしば同じだ。力点はちがう――貿易モデルはもっぱら内的な規模の経済に焦点を合わせていたし、地理学は外部経済が中心だ――そして政策の重要性の面でもちがう。それでも、二つの研究はどちらもある意味で、もっと大きなプロジェクトの一部なのは明らかだ。だからぼくは、2 ダースかそこらの賢い論文を書いた以上のことをやったと感じられる満足を抱いている。ぼくは一種の累積的な事業をなしとげたわけだ。この小論の残りでは、その事業の性質がどんなものだったと思うかを説明してみよう――つまり、経済学者としての自分を正当化してみよう。

8. これまでやってきたこと

 クリエイティブな仕事をする人は、一種の夢遊病者にならざるを得ない。というのも、未来のクリエイティブな仕事というのは、本質的に予想がつかないからだ。今後数年で自分が何をするのかわかるはずもない。わかっていたら、それは実質的にもうやり終えたってことだ。形を見て、パターンを認識できるのは、後から振り返ってのことでしかない。ぼく自身の研究におけるパターンには二つの側面がある。一つはその中身、つまり記憶に値する多くの論文に役立った、中核的なアイデア群だ。もう一つはそのスタイル――問題にアプローチする独特の手法で、これは中身と密接に関係している。

中身

 いままでのお話がはっきり示すように、ぼくはいろんなテーマの研究や著作をしてきた。でも、その中で最重要のテーマは収穫逓増の発想だ。そしてぼくが自分の存在を正当化できるのは、主に経済学における収穫逓増の役割をはっきりさせるのを手伝ったからだ。収穫逓増の発想はもちろん、ずいぶん古くて、少なくともアダム・スミスまでさかのぼる。それでも、1980 年代になるまで、経済学はいわばリカード的単純化に大きく支配されていた。これはつまり、収穫一定と完全競争という想定だ。

 なぜリカード的単純化が支配してきたか、というのは不思議でもなんでもない。ものすごい物理学の根本でもない限り、戦略的な単純化はあらゆる理解の本質だ。収穫一定の競争モデルは、世界の仕組みについて不完全とはいえ驚異的なほどの理解力を提供してくれる。経済政策的には、政治家たちが収穫一定モデルで何が正しいか(何がまちがってるかではなく)を理解できてくれれば、それはもう95パーセントの場合には僥倖というものだ。それでも、世界は本当は収穫一定にはなっていないし、だからリカード的単純化を超えることは重要だった。たとえそれが政策立案者に対し、そっちの方面も検討しましたが何も使えるものは出てきませんでした、と言うだけのためであったにしても。

 経済モデルに収穫逓増を認めたら、二つの影響が出てくる。まず、収穫逓増は複数均衡の可能性と密接に結びついている。収益一定のモデルにも複数均衡はあり得るけれど、ほとんど現実性がなかったり、つまらなかったりするものばかりだ。一方、収穫逓増による複数均衡では、その重要性や有意性はすぐに納得できる。HDTV にどんな技術が選ばれるか? ヨーロッパの金融首都になるのはどこ? こういうのは現実のおもしろい問題だ。第2に、おもしろい複数均衡が出てきたら、経済がどうやってその中の一つを選ぶのかということについて、お話がいる。自然なお話は動学を使うものだ――単に歴史の偶然だった初期の優位条件が累積して、というような。

 つまり大まかに言って、伝統的な経済分析は――きわめてまともな理由から――均衡が嗜好や技術や要素配分で一意的に決まる静的モデルにもっぱら集中してきた。収穫逓増をまじめに考慮した経済分析は、通常は動的モデルを使い、また均衡の選択は歴史を反映したものとなる。

 これはどれも言うまでもないことばかりだし、経済思想史を見れば収穫逓増や複数均衡や動学や歴史の役割をもっと重視すべきだ、といった宣言はあちこちに出てくる。たとえばニコラス・カルドアは、1960 年代後半に収穫一定に対するきつい攻撃をしかけた。トマス・シェリングは、1970 年代の一連のペーパーで、動学と複数均衡についてのエレガントな小寓話をいろいろ出した。でも、収穫逓増が経済学の主流に躍り出るのは 1980 年代になってからのことだった。この運動にいたのはぼく一人じゃない。特にポール・ローマーは、収穫逓増を成長理論に適用してみせて、ぼくが書きたかったと思うようなペーパーをいくつか書いている(これ以上の賛辞はないと思う!)。でも、まずは貿易、そして経済地理に関するぼくの研究は、だれにも増して収穫逓増をこの分野の地図に載せるのに貢献したと言っても不当じゃないと思う。

 新貿易理論では、基本的な論点は収穫逓増が伝統的な比較優位以外にそれを超えて専門特化と貿易の原因になり、比較優位がほとんどないところ――たとえば似たようなリソースと技術を持つ先進国同士――でも貿易を生じさせる、ということだった。収穫逓増からくる専門特化と貿易は、いささか行き当たりばったりだ。だれが何を作るかを説明するには、歴史的な偶然に頼るしかない。これはあたりまえに思えるけれど、新貿易理論家たちが登場するまで、それは主流の考え方には含まれていなかった。訓練をつんだ経済学者たちは、はっきりした形式的モデルにまとまらない限り、自明のことであってもなかなか目に入らないというのは否定しがたい事実だ (これはモデル構築というやりかたを攻撃するもんじゃない。何やら曖昧模糊とした思考で地平を拡大できると信じている連中は、たいがいもっと視野が狭くなる)。収穫逓増に関する貿易理論は、少しはあったけれど、あまりにへんてこで説得力がなかった。ぼくに言わせると、それはもっぱらスタイルの問題で、これについては後述。そしてぼく自身の貢献は、知的スタイルのバリアを突破したことだと思う。理由はどうあれ、1980 年以前には、貿易における収穫逓増の潜在的な役割は、経済学者にはほぼ無視されていた。1987 年には、それは標準的なお話の一部になっていた。これはかなり大きな知的シフトだったし、その功績のほとんどはエルハナン・ヘルプマンとぼくにあると言っても正当だと思う。

 経済地理の分野では、基本的な論点は経済風景は集積の事例だらけだ、ということだ――人口や活動が一カ所に集中している。それはロサンゼルスみたいに何もかもが集中していたり、シリコンバレーみたいに特定のビジネスが集中していることもある。こうした集積は、その場所に内在する特別なリソースではほとんど説明がつかない。それはむしろ、収穫逓増が機能している見本だ。そしてその形成における歴史の役割は明らかだ。1850 年以来、エリー運河には大した商業交通はないけれど、でもその運河がニューヨーク市に一歩優位を与えたために、ニューヨークは未だにアメリカ最大の都市だ。これまた当然のことだ。でも集積の収穫逓増をモデル化するのが一見すると難しいために、この当然のお話は経済の主流には入れてもらえなかった。今日でさえ、ジョセフ・スティグリッツの新しい経済学教科書は、1,200 ページもあるのに都市についての言及はずばりたった一カ所――第三世界における都市と田舎の人口移動に関するちょっとした説明だけ! これは絶対変わるよ。

 ぼくが 1990 年以来書いてきた地理モデルは、ますます多くの支持者を産みだし、多くの実証的な研究群につながっている。いまから 10年したら、新経済地理学は新貿易理論と同じくらい確立したものになると予測しても無理はなかろう。もしそうなら、ぼくは主流経済学の確信部分に、かなりでかい収益逓増に基づく分析を持ち込むのに成功したわけだ。思うに、それがぼくの主な業績だ。でもそれを可能にしたのは、別に特殊な洞察じゃない――貿易でも地理でも、似たような発想を述べている人はたくさん指摘できる――むしろスタイルだ。実は、この作業における中心というのは、むしろぼくの開発した知的なスタイルだと思っている。

スタイル

 ロバート・ソローはよく学生に、理論家には二種類いるんだ、と語っていた。一般化するのが好きな人と、啓発的な特殊例を探すのが好きな人と。ぼくは圧倒的に後者だ。ぼくは特殊例を作り出すというのを、一種の私的な芸術様式にまで高めた。収穫一定のモデルだと、いったん大きな事実に反する想定さえ最初にしてしまったら、かなり一般性を持った結果を導けることが多い。たとえば、ヘクシャー-オリーン-サミュエルソンモデルは、資本と労働の代替性の度合いについて何ら仮定をおく必要はない。おもしろい例としてレオンチェフやコッブ−ダグラス技術を見てやってもいいけど、でもそうしなきゃいけないわけじゃない。一方、収穫逓増モデルだと、一般化できる結果はほとんどない。2財2国の1生産要素モデルでさえ、ややこしい結果分類の泥沼にはまりがちだ。さてどうしたもんか。

 ぼくの回答は、示唆的な特殊例に大いに依存する、ということだった。プロセスとしてはこんな感じだ。形式化されていない口承からはじめよう。非主流経済学文献とか、一般の経験的な通念からくるものだ。それから、そのお話をあらわす一番単純なモデルを作ってみよう。モデルを作る仮定で、最初のお話も直観にあわせて変わるけれど、でも最終的には、ごく特殊な例とはいえ直感的に筋の通った単純なモデルが手に入って、それが実質的にはそれまで未踏の地だったことについて議論する言語を与えてくれる。その直観がこんどは実証的な研究の基盤にもなる。とはいえ正直言って、ぼくは昔から計量経済学者としてはあまり辛抱強くないけれど。

 うまくいく特殊例はどうやってみつけるの? かつてどんなモデル構築者も到達したことのないような場所に行けるような特殊例はどう探す? それはとにかくどんな手を使っても。これまで時には特殊な関数形を想定したこともある。対称性、連続性があるはずのところで二種類の値しかとらないとか、伝統的なモデルでは二種類の財しかないところに連続的な財を想定してみたり。そしてある場合には、紙と鉛筆ではうまくいかないところで数値例に頼ってみたり。一種の理論における一点突破戦みたいなものだ。広い前線を前進させようとはせずに、狭い進入路からなるべく遠くに入り込んで、見つかる弱点はなんでも利用するわけだ。

 このスタイルはもちろん、ぼくの独創じゃない。古典的な例を挙げれば、成長と技術変化に関する初期の研究、たとえばアローの「やってみて学ぶ (learning by doing)」モデルやソローの古典的な資本モデルを考えてごらん。こうした論文には、このスタイルのあらゆる要素が出ている。常識的な経験論からくる直感的なお話が、扱いを可能にするために特殊な関数形に依存したモデルに内包され、でもその特殊さにもかかわらず、それは重要な洞察をもたらすようだ。ぼくがやったのは、その手法を絶えず自分の信じる目的のために適用したということだ。それはつまり、経済理論を収穫増大にとって安全な場所にする、という目的だ。

 このスタイルは、他のことでもうまく機能した。1980 年代末にやった、政策からくるモデル――国の債務、ターゲットゾーン、貿易ブロック、為替レート――も同じアプローチを使っている。こういう論文では、政策的な実用性と分析上のエレガンスは、ぼくから見ても他のかなりの人から見ても、驚くほどうまく調和している。政策論争では、いくつかナンセンスを排除して本当の問題に取り組むには、きれいな最小限のモデルこそが必要だったようだ。

 また普通のことばで経済学について書くという面でそこそこ成功したことが、このモデル構築のスタイルともちょっと関係していると思っていいかな。というのも、モデルは究極的な真理なんかじゃなくてただのメタファーだということを認め、そのメタファーをなるべく簡単にするよう自分を訓練してきたら、数学を使わないメタファーを見つけるのだって簡単かもしれないもの。あるいは別の言い方をしよう。ある発想を本質まで切りつめたら、その本質をことさら数学技能をひけらかさずに表現するのは実に簡単なんだ。つまりまとめると、ぼくが経済学に対して行ってきた貢献はすべて、中身――経済学への収穫逓増の統合――とスタイル――モデル構築戦略としての過激なまでの単純化――の両方の面からきている。このスタイルは、内容面でも重要なんだけれど、それ自体が力を持っていて、収穫逓増以外のいろんな分野にも生産的な襲撃をかけるのに役立ってきた。

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9. 要するに何なの?

 たぶん最終的には、どんな学者にでも問われるべきなのは、自分の研究がどんな役割を果たしていると思うか、ということなんだろう。ぼくはすごい高潔な人格者のふりをして、ぼくの研究は人類の福祉のためなのです、と言うこともできる。あるいは、金と名誉しか気にしてねーよ、と言ってみんなを驚かすこともできる。どっちも完全なウソってわけじゃない。ぼくは実際、ちょっとロマンチストで、あらゆる証拠に反してよい考えはやがて栄え、みんなの生活がよくなると信じてる。一方で、ぼくは禁欲主義者でもない。謝礼をはずまれればいやな顔はしないし、すてきな場所へのご招待は大歓迎だ。

 でも本当に正直なところ、ぼくが経済学者としてやっているのは、経済学が楽しいからだ。実に多くの人が、経済学は退屈だと思う理由はよくわかるつもりだけれど、でもその人たちはまちがってる。それどころか、歴史を動かす大事件、帝国の運命や王さまたちの生死を決める力が、とくには紙に書いたわずかな記号によって説明、予測、そして制御さえできる、というのを発見するほどわくわくすることなんて、他にほとんど何もないほどだ。ぼくたちみんな、権力もほしいし、成功もしたい。でも最高の報いは、単純な理解の歓びなんだ。

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