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『リバティーンズ』書評 2010/5-11

『リバティーンズ』2010/05 号

飯田泰之他『経済成長って何で必要なんだろう?』(光文社)

 先日、朝日新聞がゼロ年代の五十冊を選ぶという企画を行ったが、そのセレクションに経済学系の本がまったく入っていないことが、一部では話題となった。

 それはある意味で、日本の「知識人」と称される人々の中での優先順位を如実に示している。多くの知識人は経済=お金としか思っておらず、一方ではお金など卑しいとする文化貴族的な偏見、そして一方ではお金は資本主義の道具と考える左翼的な偏見にとらわれている。そして各種経済活動の現場に対し、劣等感と嫉妬のないまぜな感情を抱いて、それをバカにしたり貶めたりすることに卑しい喜びを見いだしている人が多い。多くの知識人は、内心は本気で士農工商という階級を信じていたりするのだ。

 それは過去十年以上にわたる日本の不景気継続の、一つの理由でもある。世界的に見てもそれはきわめて異常な現象であり、また世界経済の足を引っ張ることにもなっている。アジア通貨危機でも、今回のリーマンショックでも、日本経済がしっかりして世界経済の安定に貢献していれば――外国からモノやサービスを買い、資金を提供できれば――世界経済はずっと傷が浅くてすんだはずだ。

 なぜ日本では不景気が続いているかについては、すでにもう日本以外のところでは結論が出ている。バブルを過度に恐れる日銀のデフレ的な金融政策と、明確な政策方針を出せない政府や財務省のせいだ。だから諸外国では「いかにして日本の失敗を避けるか」といった論文がいくらも見られる。日本の知識人たちが少しでもまともな経済常識を持ち、諸外国の知見を伝えていれば、もっと有効な経済政策がうたれていただろうに。

 それを打開しようとしていた数少ない知識人エコノミストである岡田靖が先日急逝した。かれは各種論文などでそうした知見を自ら実証する一方で、ネット上の匿名掲示板では「ドラエモン」名義で実に高度な経済学的知見を、ぼくたち下々の連中にもよくわかるように伝え続けてくれていた。かれが他界したことで、世のまともな経済学的な言論の質は大きな痛手を被った。まだまだこれからだったのに。

 残されたぼくたちが、その遺髪を少しでも継がなくてはならない。岡田靖の手に取りやすい本としては、飯田泰之他『経済成長って何で必要なんだろう?』(光文社)に収録された対談を読もう。そしてこの本全体が、経済学的な常識の基礎の基礎を作ってくれる。経済はある程度は成長しないとみんな困るんだ、という(橋本治すら認める)常識すら、日本の多くの知識人は持っていない。本書を読み、岡田靖の発言を読んでそれを身につけよう。その「みんな」というのは、日本国内で就職氷河期に苦しむ若者、既得権にしがみつく年寄りにとどまらない。世界のすべての人々のことだ。この本を手始めに、みなさんがいまの通俗知識人たちの持ち合わせていない、本物の知識を身につけてくれますように。


『リバティーンズ』2010/07 号

モシャー『地球温暖化スキャンダル』(日本評論社)

 地球温暖化問題がむずかしいのは、それが一般人にはなかなかわからないレベルの話をしているからだ。今世紀末に平均気温が三度上がる――これは実感できるような数字じゃない。実感できるような脅し――世界水没、氷河消滅、食糧危機、人類絶滅等々――はほとんどすべて、裏付けのないただの脅しだ。ぼくたちは、自分にはとらえきれないデータを分析し、予測を行う科学者たちの作業に基づいて、対策や対応の必要性や程度を決めなくてはならない。

 それだけに、その科学者たちが誠意をもってきちんと仕事をしてくれているかどうかはとても重要だ。そして科学者たちは、通常はある結果の再現性(同じ実験やデータ解析を行ったとき、同じ結果が得られるか)と、そしてその結果のピアレビュー(科学者同士の相互チェック)により、自分たちの仕事の信頼性を確保しようとする。

 だが、地球温暖化で、その信頼を揺るがす事件が起きた。日本ではほとんどまともに報道されていないが、通称クライメートゲート事件。本書はそれを手際よくかつ詳細にまとめたものだ。

 この事件は、温暖化調査の中心的な機関からメールが大量に流出し、その中にデータ隠蔽工作や自分たち(温暖化の深刻さを是が非でも強調する立場)に少しでも異論を唱える論文やその掲載誌に対する組織的な圧力工作を訴えるメールが大量に含まれていたことから、温暖化の科学的な議論の信憑性にまで疑問が投げかけられたもの。

 むろん、公開されると思っていないメールで罵詈雑言が頻出するのは当然のことだ。でも、本書はメールだけでなく、それに並行する実世界のできごとをきちんと併置させる。自分がいかにデータの公表を逃れるかについてのメールは、まさに現実世界での公開要求はぐらかし戦術と対応しており、その場限りの仲間内での悪態ではすまないものであることがよくわかる。

 こう書くと、すぐにこの本(そしてこの評者)を「反地球温暖化」に歪曲して分類したがる人はいるだろう。だが誤解のないように書いておくと、本書の著者は(そして評者)は、温暖化を否定する立場ではない。穏健な温暖化が起こっていることは十分に認めているし、CO2がそれに貢献していることも完全に求めている(p.294)。ただしデータに基づく科学的な議論は不可欠だと語っている。ベースとなるデータすら隠蔽するような「研究」に基づく、他にだれも追試できないような代物は、科学的な議論といえるだろうか? いまの気候科学は、残念ながらそれができていないようだ。そしてそのあやふやな議論をもとに、何兆円もの対策投資を云々していいんだろうか?

 環境科学は、冒頭に述べた通り難しい分野で、科学と政治、経済が不可分に入り組む。でもそれであればこそ、一番のベースとなる科学が揺るぎないものであることがすべての議論の前提だ。ぼくは、日本はできもしない炭素削減目標値なんか掲げて悦にいるより、こうしたデータについて公開圧力をかけることで、温暖化議論の根底に貢献して欲しいと思っているんだが。


『リバティーンズ』2010/09 号

カーマイン・ガロ『スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン』(光文社)

 いま、アップル社はぶいぶい言わせているし、出す製品がすべてものすごい注目を集める。そして各種イベントで、アップル社長スティーブ・ジョブスが行うプレゼンテーションは、大きな注目を集める。本書は、そのプレゼンテーションのコツをまとめたと称する本だ。

 さて、本書の指摘で重要な点はある。パワーポイントのスライドづくりにばかり手をかけずに、ストーリーとメッセージをよく考えろ、そしてリハーサルを十分にしろ。詰め込みすぎずに、中身を徹底的に絞れ。スライドに書いてあることを読むようなプレゼンはするな。これらはすべて、その通りだ。でも本書のような本――広告屋の書いた、プレゼンテーションの小手先の技に注力した解説書で、決してはっきり言われないことがある。

 どんなプレゼンテーションも、腐った中身は救えないということだ。

 そしてそれは、実は当のジョブスのプレゼンテーションを昔から見てきた人ならよく知っていることなのだ。

 二〇〇一年にスティーブ・ジョブスは、当時マックで採用していたパワーPCのクロック周波数がなかなか上がらず、マシンの速度がウィンドウズ系に比べてかなり見劣りするという事態に直面していた。そして新機種でもその短所を克服できなかったので、ジョブスは「メガヘルツの神話」なるプレゼンテーションをやって、それをごまかそうとした。

 要は、コンピュータの使い勝手はクロック周波数だけで決まるものじゃないから、つまらない数字にこだわらず、マックのすばらしさを総合的に判断しようじゃないか!  さて、そんな能書きで納得した人がいたと思う? みんな当時のマックが総合的に見て遅いと感じていたからこそ文句を言っていたのだ。それはキャッチフレーズや、かっこいいプレゼンテーションなどではごまかせない。このプレゼンは失笑をかっただけだった。

 ごく最近、iPhone4のアンテナ問題に関する言い訳記者会見でも、ジョブスはまったく同じ手法でプレゼンをした。アンテナ問題に入る前に、出荷台数だのアプリの数だの、ポジティブなメッセージのほうに無理矢理目を向けさせようとするプレゼンテーションは、むしろ言い訳がましいはぐらかしに見えた。

 それでわかること:ジョブスのプレゼンは確かによく考えられている。でもそれがすばらしく思えるのは、製品自体の優秀さに負う部分が多い。クズ製品は救えないどころか、かえって印象を悪化させかねない。本書はそれをきちんと指摘できない。それは本書の著者のようなPR屋の限界だ。

 そんな本をわざわざ採り上げたのは、この手の勝ち組の尻馬に乗ったビジネス書のパターンとして実に典型的だからだ。本書は結構売れてるらしい。むろん、優れた製品がダメなプレゼンで台無しになることはある。でも多くの人が本書を読むのは、中身のなさをプレゼンで補う技術を求めてのことだと思う。それはたぶん、かなわぬ望みではあるのだ。


『リバティーンズ』2010/11 号

マイケル・ルイス『世紀の空売り』(文藝春秋)

 本誌の他の欄でレビューされている本を見ると、あまりに役立たずなサブカル&通俗衒学文化哲学めいた代物ばかりで、この人たち大丈夫かなあ、と思ってしまう。みんなもっと、まともな科学や経済活動や歴史その他の本を読まないと、まともな生産活動に従事できないごくつぶしばかりになってしまうと思うんだが。

 そういうごくつぶしの人々でも、リーマンショックとかサブプライム問題とかいう用語は、いまやみんな当たり前のように使っている。だが断片的な話は誰もが何となく知ってはいるものの、その全体像はあやふやだ。聞きかじりをもとに、岡目八目の上から目線で、あいつが悪いとか資本主義の矛盾がとか、きいたふうなお説教をするんだけれど……

 本書を読むと、そういう人たちのピント外れぶりが、ちょっと哀れに思えるかもしれない。本書はサブプライム問題からリーマンショックに至る一連の過程を実にわかりやすく、しかも手に汗握る形でまとめあげた本だ。

 むろん類書は他にもあるが、多くはあまりに後知恵だ。あんな仕組みは持続不可能だった、としたり顔で論じる人々の多くは、そのお見事な洞察を活かして儲けなかったの?  でも本書は、実際にこの経済危機で儲けた人々に焦点をあわせる。かれらはこの仕組みの崩壊を見越して逆張りをした。いったい、何に注目したのか? そのかけひきの中から、今回の一連の動きが浮かび上がってくる。マクロな金融の動きを、そうした個人ドラマと絡めることで、本書は複雑なデリバティブの仕組みに関する説明を端折ることなく、魅力的な読み物性を維持できている。

 ちなみに、ぼくもクレジット・デフォルト・スワップの仕組みは、本書を読むまでよくわかっていなかったし、これまで読んだ各種の解説も、実はかなりいい加減なものだったということも今回わかった。勉強になります。

 だが……本書のオチというかラストは、むしろ悲しいものだ。主人公たちの読みは、住宅ローンを組む銀行も、それを証券化した投資銀行も、それを評価した格付け機関も、すべてまったく機能していないという、常識では普通考えがたい前提を必要とした。そこまで世間の空気に完全に刃向かえる人は、多くの意味できわめて特殊な人だった。

 そしてかれらは、その慧眼故に讃えられることもなかった。読みがあたりすぎたが故に金融市場そのものが崩壊に瀕し、儲けを手に入れ損ねかけた面すらあり、その成功の後もかれらは相変わらず孤独なままだった。これはマイケル・ルイスのこれまでの著作にも通じる、成功者の悲哀でもある。

 本書はかれの処女作「ライアーズ・ポーカー」の続編でもある。いまから十年後に、またこの続編が書かれそうな予感を残しつつ本書は終わる。ちなみに類書の多くに見られる、再発防止のための規制強化の訴えは、本書にはない。それを慎みと見るか、あるいは諦念と見るかは、あなたが人間の欲望をどう見るか次第なのかもしれない。



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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