Valid XHTML + RDFa cc-by-sa-licese

『ケトル』書評 2016

『ケトル』2016/02 28号

スタックラー他『経済政策で人は死ぬか?』(草思社)

 『経済政策で人は死ぬか?』この本の邦題は、非常に明解な質問の形をとっている。そしてそれに対して本書はとても明解な答を持っている。イエス。経済政策で人は死ぬ。

 もちろん経済政策も様々だ。本書で扱う経済政策とは、基本的には緊縮財政だ。本書の原題(の副題)は「なぜ緊縮財政は人を殺すか」というもの。これまたたいへん明解。

 これまでも、経済状況と死亡率や病気との関係についてはいろいろ研究がある。不景気になると、倒産する企業が増え、自殺する人が増える、という具合に。あるいは本書では、ソ連崩壊で酒(それも密造酒やメチルアルコール)に頼る男が増え、ロシアの男が激減したという例も紹介されている。そしてもちろん、所得の低い人は医者や薬のお金も出せず、健康状態も悪化する。これは当然のこと……なんだけれど、あまりに多くの人がこれを無視する。粗食は健康にいいとか、日頃の運動不足の結果だとか、犠牲者をしばく根性論が平気で持ち出される。

 もう一つある。不景気になると、しばしば世界の政府は緊縮財政を敷く。国民が苦しんでいるのに、政府が無駄遣いをするのは許せないとか、公務員の給料が高いとかいう声が高まることもある。そして、放漫財政こそが景気の悪化を招いたからだ、といった議論も平気で出てくる。

 その結果……まっ先に削られるのは、失業手当とか、生活保護とか、医療補助とか。いちばん弱い人たちを保護するための各種支だ。そういう人たちは弱いからこそ、だれもその立場を代弁してくれない。そして、スケープゴートにもされやすい。読者のみなさんも、生活保護の不正受給や、外国人の失業手当は許せないとか、その手の主張をインターネット上のあちこちで見かけたことはあると思う。いくつか目立つ事例が報道されたりすると、そうした声は一気にわき起こる。自分たちは不景気で苦しんでいるのに、あいつらは税金にたかっていい目を見てやがる、というようなことが平気で言われるようになる。

 実際には、生活保護だの失業保険だのの費用はそんなに多くない。不正受給だって、きわめて少ない。それなのに、あたかもすべての福祉が不正にまみれているかのような印象が出てしまう。そして不正受給バッシングを恐れる行政は、資格のない人が福祉を受け取るのを警戒するあまり、本来受け取るべき人々が福祉を手にすることさえ拒絶するようになる。

 本書は、リーマンショック後のアメリカやヨーロッパの事例を中心に、これを次々に指摘する。経済危機のあとにIMFがやってきて緊縮財政を命じると、必ず死者が増え、健康状態は悪化する。さらに本書では、訳者たちが簡単ながら日本の状況についても解説を加えてくれる。

 だから本書を読んで、できれば日本の経済政策についても本気で考えてほしい。緊縮財政は、支出を下げることだけじゃない。増税も立派な緊縮財政で、消費税率の引き上げはせっかく回復しかけていた日本の景気を再び減速させてしまった。それでも、来年さらなる引き上げを主張する人がいる。そんなのは決して認めてはいけない。そして、そこまでいかなくても、そこらで見かける生活保護叩きや福祉批判の安易な論調にうかつに同調しないだけの思慮を、読者のみなさんは本書から得て欲しいな、と思うのだ。


『ケトル』2016/04 29号

高須正和他『メイカーズのエコシステム』(インプレスR\&D)

 自分が関わった本を採りあげるのは気がとがめるのだけれど、今回はお許しいただこう。香港の隣に、深圳という都市がある、というか中国が経済開放を進めた1980年代に、香港のおこぼれを目指すコバンザメ都市として、何もなかったところに深圳を作ったのだ。中国の各種ガイドブックを見ても、深圳について大した記述があるものはほぼない。最近、やっと『地球の歩き方』香港編に、まとまった記述がではじめたくらいだ。

 だけれど、ここが今世紀に入ってから、特にこの十年ほどでとても面白いことになっている。

 実はここ、特に電気電子系各社の中国工場の中心地だ。あのiPhoneを製造していることで有名な台湾の鴻海精密工業(フォックスコン)の製造拠点も深圳にある。そして、その下請けや、そこからの横流し品をいじくって各種パチもんを作る中国の製造業系中小企業が大量にできた。

 当初は粗悪コピー商品(特に携帯電話)ばかりだったけれど、ちょうど中国の携帯が爆発的に伸び、安物の需要は大きく高まった。そしてすさまじい競争の中で、それがあなどれない存在となってきた。そうしたパチもんやその部品を扱う市場も拡大し、秋葉原の三十倍にも及ぶ電気街もできた。そして、パチもんのアイデアを一瞬で商品化するための、多品種小ロット生産に対応した異様な製造業ネットワークが誕生している。普通の工場なら、数千、数万のロットでないと相手にしない。でもここでは、百個、いや数十個でも平気だ。すごい。それが折しも世界的なIoTやメイカーズの流れと合体して、変なエコシステムを生み出しつつあるのだ。

 ただ、その面白さをきちんと説明した本は世界的にもなかった。最近ではシリコンバレーのベンチャー資本が、おもしろいアイデアを持った起業家候補を深圳に半年送りこんで新製品作りをさせたりしている。いまやここは、世界のイノベーション拠点となりつつあるのだ。

 そうした動きを見物してきちんと報告した本が、この一月に出た。高須正和他『メイカーズのエコシステム』だ。たぶん世界初。著者代表高須正和が実施してきた深圳ツアーに参加した日本のメイカーズたちが、実地に見た深圳の状況をまとめた本だ。

 そしてこれは、イノベーションの源泉とは何かを考える本にもなっている。日本で実際に各種の分野でイノベーションを自ら実践している人々が、深圳の状況を見て興奮している。何がそんなにすごいのか?それを他のところで作り出すにはどうすべきか?この山形の昔話はさておき、他の人の文は、イノベーションの本質に迫る非常に面白いルポ兼感想文のかたまりだ。

 いろんな人のクチコミもあって、だんだん深圳の面白さは広まりつつある。いまのうちにこの本を読んで是非ともその流れを先取りしておこう。そして香港旅行の予定があるなら、一日くらい割いて深圳ものぞいてきてはいかがだろうか。本書はそのための絶好のガイドにもなる。


『ケトル』2016/06 30号

海部陽介『日本人はどこから来たのか?』(文藝春秋)

 自分の起源は多くの人が興味のあるところ。本書『日本人はどこから来たのか?』は題名通り、日本人の起源を探る本でとなる。

 もちろん、人間がいきなり日本列島にわいて出てきたはずもないので、北からきたか、南からきたか、朝鮮半島経由できたか、といったくらいしかルートはあり得ないのだけれど、実際に日本人はどこからきたのだろうか?

 本書は、この問題について、非常に総合的かつ大きな視点で答えようとする。日本だけを見ることなく、アフリカから出てきた人類の先祖がどのようにアジア全域に広がったのか、という分布の中で日本人を捕らえようとする。そして、日本人(というか、古代の縄文人たち)は世界人類史の中でもなかなか興味深い存在だということが指摘される。アフリカを出てユーラシア大陸を一万年かけて東へ向かってきた人類は、海岸伝いにインドから東南アジアを経て中国にきた連中と、内陸をたどって中央アジア経由で中国にやってきた連中とに別れた。いまの日本人は、この数万年前に別れた人類の派閥が、再び出会って混じり合った存在かもしれないという。

 著者は世界の遺跡年代測定から、この説を唱え始める。実は、世界の定説では人は何があるかわからない内陸なんかには行かず、海岸づたいにずっと移動したはずだ、ということになっているんだって。だから、この説自体が世界の人類移動史研究における画期的な議論なんだとか。そしてまた本書で驚いたのは、こうした日本人の起源論争では、これまであまり他分野の成果というのが使われていなかったという話。昔は沖縄とかは台湾からずっと地続きで人々が容易に移動できた、という他分野ではまったくナンセンスとされる説が、かなり勢力を持っていたとか。

 本書は、そうした他分野の成果も活用しつつ、遺伝学の分析、遺跡の年代測定、石器の技術など文化面での証拠を多面的に集めて、古代日本人の起源を検討している。そして特に神津島から出る黒曜石の分布から、元日本人が数万年前に高い航海技術を持っていたことがわかっていることに注目する。その技術はどこから来たのか?いきなり自分で考案した、と考えるのはつらい。南方の島伝いに、台湾、沖縄を経て日本にきた連中がいて、それが北や対馬からきた人々と交じる中で技術も伝えたのでは、というのが本書の説だ。

 非常に平易に書かれていて論旨も明快。そして本書がさらにおもしろいのは、この説を確認すべく、著者が自分で本当に古代技術だけで船を造り、台湾からの北上航海を実際にやってみようとしているところ。そのための資金をクラウドファンディングで集めている(本誌が出る頃には締め切り過ぎているだろうけど)。もしこの身体を張ったおもしろい試みが実現した暁には、本書で予習してその意義を十分に理解しつつ、是非とも応援したいところだ。執筆時点では募集目標2000万円の七割ほどが集まっているようだけれど、さてどうなっていますやら……


『ケトル』2016/08 31号

フエンテス『テラ・ノストラ』(水声社)

ずいぶん昔から、邦訳が予告ばかりでいっこうに出なかったカルロス・フエンテスの超大作『テラ・ノストラ』がついに刊行された。実はこれ、数年前にあきらめて、英訳版でひいこら言いながら読み終えた小説だ。それが出たこと自体がまず驚きではある。なんせ、邦訳で千ページを超える代物だもの。だから、日本語で出たときも、手に取るべきかどうか迷った。

 というのも、英語で読んだときのぼくの印象はかなり否定的なものだったからだ。そして今回、日本語で(多少流し読みとはいえ)読み終えても、その印象はあまり変わらない。でもやっぱりどこかで触れておくべき作品なのはまちがいない。それはある意味で、現代におけるこういう小説とかの役割について示唆するものでもあるからだ。

 二〇世紀末のパリは、セーヌ川が沸騰し父親なしの子供がそこら中で生まれる異常事態。その中で主人公らしき人物が橋の上で出会う、唇にヘビの入れ墨をした女性が、この事態につながる数百年前の出来事を語り出す。それは、完璧な秩序の世界エル・エスコリアル修道院を作り出そうとするフェリペ二世と、その周辺にうごめく秩序を食い破る異形の存在たちの物語。それがスペインから新大陸にわたり、様々な文学や歴史上の人物を吸収し、秩序構築の試みを解体してしまう。話が二〇世紀末のパリに戻る中で、それまでの歴史をすべて見てきた男と女が合体してアンドロギュヌスと化し、そして新しい世紀を生み出す……

 こんなあらすじを知っても、ほとんど訳にはたたないだろう。秩序への指向がもたらす停滞と不毛と死、それに対する秩序破壊者たちの豊穣性と可能性、そしてその敗北と再生――それが技巧をこらした様々な形式で絡まり合いながら進むのは、圧巻ではある。

 ただ……その一方で、そのメッセージはきわめて単純だ。直線的な時間/進歩史観/固定的秩序と変化の拒否/二項対立/アメリカ資本主義やソ連共産主義はダメで、南米原住民とかの神話的な円環的時間/変化と多様性/三の豊穣といったものがいいんだ、というもの。それをフエンテスは、様々に描いて見せる。

 その実にチンケで安っぽいイデオロギーと歴史認識に、英訳版で読んだときにはかなりうんざりさせられた。二〇世紀の半ばであれば、この本のイデオロギーにもっと説得力があっただろう。原著発表の1975年頃であれば、この小説も今よりはるかに力を持ち得ただろう。でも現在、こうした主張を真に受けられる人はよほどおめでたい存在だ。

 でも、それだけなのか?背景となるイデオロギーがどうあれ、本書が圧倒的なパワーを持ってかかれた超弩級の力作であることは否定できないし、日本語で読み直したときにそのイデオロギーとは離れた小説としての力が、以前より強く感じられたのも確かだ。本書はアナクロではある。そのストーリーは、二〇世紀の終わりの瞬間(まあ厳密にはちがうが)で終わる。実は本書も、二〇世紀的な小説として、二〇世紀とともにその役割を終えた部分はある。でもそれがいまなお残している価値は何か?それを、この邦訳を機に改めて考え直すのも、小説読みたるぼくたち読者の仕事だろうと思うのだ。


『ケトル』2016/10 32号

井上『人工知能と経済の未来』(文春新書)

 最近になって、あちこちで人工知能の話題を目にするようになった。人工知能が発達し、チェスや囲碁で人間のトップにも勝てるほど頭がよくなっている。一般道での自動車の運転ですら、かなりうまくこなせる。そして、こうやっていろんな仕事が人工知能に取ってかわられるようになると、いずれ人間の出番はなくなり、みんな仕事がなくなってしまうんじゃないか、という話もよくきかれる。

 かつて産業革命でも同じことが言われたし、インターネットの普及でもそういう議論があったけれど、みんな新しい仕事に移っているじゃないか、と。その一方で、今回はちがうのでは、これまでは人間の決して得意でなかった物理的な強さや速さの分野での競争だった。でも今回は人間の本丸であるはずの知的作業の分野だ。ここで負けたら、人間はもう逃げ場がないぞ!

 本書は、この話を経済学者が一応きちんと考えた本になる。これまでも、人工知能などとの競争を扱った本はマカフィー&ブリニョルフソン『機械との競争』などがあったけれど、基本的には危機を煽りつつ「でも人間大丈夫」という本だった。本書は逆に、人間が負ける可能性をもっと真剣に考え、負けた場合にどんな対応があるのか、というのを分析した点で、他とは一線を画している。その結論は、もう人工知能が本当に優秀になったら、もう人工知能に任せればいいじゃないか、人間は失業するなら、仕事しなくてもいいじゃん。でも人間であるというだけで生活費をあげるようにしよう(ベーシックインカム)、というものだ。

 さてもちろん、本当に人工知能がそこまで行くのか、というのはだれにもわからない。人間の仕事のほとんどは代替されてしまう、といった調査結果を発表したところもある。一方、そんなことにはならない、という。労働経済学のデビッド・オーターは、職とタスクはちがう、という考え方をする。たとえばかつての秘書は、資料作成や整理、いわばタイピスト業がほとんどだった。その部分は、いまやコンピュータにとってかわられている。でもその分他のタスクの重要性が高まり、秘書という仕事はなくなっていない。他の職でもそうなるんじゃないか?

 これは本当におもしろい議論で、しかもいまはだれでも参加できる。ぼくはまだ腹が決まっていないのだけれど、もし人工知能がもっと栄えるにしても、いまの人工知能にはできなことが一つある。消費する、という行為だ。もし本当に人工知能が人間にとってかわるにしても、人間は消費することに価値がある、という変な理屈がいずれ成立するかもしれないとぼくなんかは思っている。いまは生活保護が白い目で見られたりするし、ベーシックインカムは受け入れられにくいかもしれない。でも、いずれ消費の価値、という変な概念が成立すれば、案外ベーシックインカムも市民権を得て、労働というものの意義が一変する世界がくるのでは——本書を読んで、是非そういう妄想を広げてほしい。たぶんそれは決して無駄な妄想ではなく、本当に世界の先行きを考えるための重要な思索になるはずだ。


『ケトル』2016/12 33号

エリスン『死の鳥』(ハヤカワSF文庫)

翻訳SF業界には、伝説的な作家が何人かいる。それも伝説だけがつたわって、実際の作品が一向に訳されないという作家だ。でも、それが名作揃いだという評判だけはしっかり伝わり、翻訳SFのファン層ならだれでも知っている——そんな作家たちの相当部分は、伊藤典夫という天才翻訳家にして天才紹介者のせいだ。かれが半世紀も前に『SFマガジン』のコラムで紹介し続けた各種作家や作品は、当時の英米SFが見せていた新しい動きを反映してどれも実におもしろそうで、みんなこんなすごい代物がいつ読めるのかと思って涎を垂らして待ち続け——そして数十年の放置プレイ。なぜか?それは、その伊藤典夫自身がその作品を抱え込んでしまっていたからだ。

 ある意味で、それは仕方のないことだ。伊藤典夫が訳したがる作品は、おもしろいが故に一筋縄ではいかない凝った作品が多いから時間がかかる。ある意味で、それはいいことだった。数十年たってやっとこさ出た翻訳は、見事に原文のこだわりを活かしきったものとなっていた。でもある意味で——それも大きな意味で——それは残念なことでもあった。一部の作家は、ある時代の背景の中でこそ、その輝きを見せていた。それがいかに見事な翻訳とはいえ、数十年遅れで出たときには、もはやアナクロとなり、欠点のほうが目に付くようにさえなる。サミュエル・ディレイニーの諸作がそうだった。それはもちろん、ぼくが老いて、そこに描かれた情感に対する共感を失っただけかも——でも結局それは同じことだ。

 だから、そうした伊藤典夫のお抱え作家の一人であるハーラン・エリスンの本邦二冊目の短編集が出ると聞いたとき、ぼくは不安になった。かつてあれほど期待したディレイニーが、出てみたらかなりの期待負けだったときの二の舞では……特にこのエリスンの作品は、アドレナリンたぎる性欲と暴力衝動と権力欲を、とんでもない華美な文でくるんだものだった。いま読んだら、そのどちらに対しても拒絶反応が出るのでは——

 それは杞憂だった。数十年ぶりに出たエリスン二冊目の短編集は、最初の『世界の中心で愛を叫んだけもの』とまったく遜色ない衝撃を与えてくれる傑作揃いだった。

 確かにそれは、きわめてプリミティブな性や暴力や復讐や生存欲を格にしている。でもそこに変に知的な処理が入り込んでいないがために、読む側が知恵をつけたり老いたりしても関係なく、プリミティブな部分に作用してくれる。そしてそれを包む、無用に華々しい美文ときたら。

 「山頂に着くと、ネイサン・スタックは灼けつく極寒と砂をたたきつけるような凶暴な魔風の中を見はるかし、不変の聖地、不変の寺院、回想の性、完全の避難所、祝福のピラミッド、創造の玩具店、救済の墓所、渇望の碑、思想の貯蔵所、驚異の迷宮、絶望の棺台、宣言の演壇、最後の企ての炉に眼を止めた」

 この8割くらいはほとんど何の意味もない。でもその無意味な過剰がなんとかっこいいことか。いいから読みなさい。いまのくだらない希薄なラノベの百倍にはなる衝撃が待っているから。



『ケトル』2015年 『ケトル』2017年 『リバティーンズ』/『ケトル』トップ 山形日本語トップ


YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML + RDFa Creative Commons License
『ケトル』書評 2016 by hiroo yamagata is licensed under a
Creative Commons 表示-継承 2.1 日本 License.