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『ケトル』書評 2014

『ケトル』2014/02 17号

シャシャ&ラゼール『生物化するコンピュータ』(講談社)

 科学や技術の先端は、しばしば何をやっているか説明されてもよくわからないことが多い。現在ぼくたちが目にしているものの延長なら――もっと速く、もっと大量に、もっと大きく/小さく等々――みんなピンとくる。でも本当に革新的なものは、そもそも既存のものとはまったく発想がちがう。それをうまく説明するのは、なかなかに至難の技だ。

 そのむずかしいことを、本書はかなりうまくやっている。いま、いろんな分野――コンピュータでも機械でも――で、これまでの完全なデジタルで機械的なアプローチに加えて、自然で行われていること、生物が行っていることを取り入れようとする動きがある。

 たとえば人間は怪我をすれば、ある程度は自力で勝手に直る。機械や既存のコンピュータはそうはいかない。ムカデやゲジゲジは無数の足を整然と使って動くけれど、それをプログラミングするのは実に面倒だ。大した頭も神経系も持たない昆虫は、はるかに計算力があるはずのロボットよりも実にスムーズかつ見事に動く。自分で学び、勝手に動き、解決策を見つける。これを機械に取り入れてやらせることはできないものか?

 本書はそうした方向性の研究を行っている最先端の学者16人を集め、その出自や研究の道に入るきっかけ、いまの方向性を目指すようになったきっかけ、それが持つ意義を、本書はおおむね見事に描き出して、多少のゴシップやお話を交えつつ、その研究の意義とおもしろさを実にわかりやすく描き出している。

 どの技術も、すぐにどうにかなったり、明日の新製品にいきなり取り入れられたりするようなものではない。理論の理論で、それもまだ仮説段階だったりするものも多い。それでも、分野全体の大きな動きから、今後重要になりそうな思いつきを拾い出す著者の目の付け所は大したものだ。そして、本書の題名とはうらはらに、話はコンピュータだけではない。数学の問題解決から安全学の考え方まで、対象としている範囲も実に広範だ(ときに「生物化するコンピュータ」という書名の範疇すら超えるくらい)。題名を見たときには、バイオチップの話ばかりだろうと思っていたけれど、その予想はいい意味で裏切られた。

 たぶん本書の読者の多くは、こうした先端の技術にはあまり興味ないかもしれない。むしろ技術は人類の幸福の敵だといった考えを抱いている人も多いかもしれない。そして本書の技術も、使い方次第では幸福以外のものももたらせるだろう。が、描かれているものがあまりに先端すぎて、実際にどう使われるかさえわからない状況では、直感的に半テクノロジー的な反応をするのも困難だろう。

 そしておそらく、今後数十年、今世紀半ばまでに、本書に描かれたような各種技術が、いつのまにか世界を一変させているはずだ。世界を常に本当に変えてきたのは技術なのだから。本書を読んで、その未来の変わり方を少しでも考えてほしい。そして自らそうした新しい研究に乗り出す心意気を持った人が出てきてくれれば……


『ケトル』2014/04 18号

バロン他『ギークマム』(オライリー)

 本誌の読者層で子持ちが占める比率がどのくらいいるのかは知らない。かくいうぼくも、まだ子供はいない。が、兄弟や友人たちの子育てを見ているだけでも、決して楽しくハッピーなだけの活動ではないのは明らかだ。ガキにはガキなりの意志があり、しかも計算高いし人の顔色をうかがうのは得意だし、変なところでずるがしこい。勉強しろとかお稽古事の練習をしろとか、親がいくら言ったところでなかなかやってはくれない。あれこれ知的好奇心を発達させてほしいと思っても、どうすればいいのかはなかなかわからない。そして気がつくと、「静かにしなさい」「おとなしくしなさい」というばかりで子供の興味をどんどん削ぎ、テレビとゲーム漬けにしてしまって、それを取り上げては大騒ぎされ、何か無理に習わせようとしてもまったく興味を示してくれず――というのがありがちな子育ての姿だ。

 本書は、そんな子育てに悩む親御さんたちが、子供にどうやって知的好奇心を抱かせるかを述べたマニュアル本だ。

 ギークというだけあって、一応、話は科学っぽいネタが主となる。といっても、お勉強だけの科学ではない。物事の仕組みにどう興味を持たせるか? 電子レンジで遊んで見るには? 料理への興味をどう育てる? ヒーロー物の話を自分で作らせるにはどうしたらいいか? プログラミングを始めさせるにはどうしよう? 自分でやってみて発見というプロセスを通じた様々な活動を、家庭の中で自然にやらせるためのいろんなヒントが入っている。

 そして本書で大事なのは、それを単に子供にやらせるだけではないことだ。自分もいっしょにやってみよう。その中で、自分もまたいろんなことを発見しよう。その体験を子供と共有することこそが重要なのだ。そしてその意味で、本書は単に子供のためだけじゃない。その親自身のための本でもある。ちなみに子供はまねが好きだ。親がおもしろがってやっていると、子供もしばしば興味を示す。親や、親予定者だけでなく、ちょっと子供心を失ったかなと思う大人にもお奨めだ。

 ちなみにほぼ同じシリーズで、『子どもが体験するべき50の危険なこと』なる本も出ていて、これもお奨め。いまの社会は、ちょっとでも危険だというと、すぐにそれを禁止してしまう。特に子供に対してはその傾向が強い。でも一方で、危険な目に遭わなければ、本当にそれを避けるようにはならない。いくらヤケドのことを本で読んでも、実際にヤケドをしたことがない子供(いや大人でも)にはピンとこないし、ヤケドを避けられるようにもならない。では、子供が危険を体験しつつも、本当に危険な目に遭わないようにすればどうしたらいいのか? 電池をなめてちょっと感電してみる、指をアロンアルファでくっつけて見る、車を運転してみる、高いところから飛び降りてみる――学校でもどこでも、こんなことを積極的に「やれ」と子供に言うことはない。でもそれを体験してみることは重要だ。では、それを安全に実施するにはどうしたらいいだろう? これまた、子供だけでなく、大人にとっても重要なテーマだ。こういう本を読んで、みなさんが少しでも好奇心と冒険心を復活させられますように。


『ケトル』2014/06 19号

ゴードン『ミシンと日本の近代』(みすず書房)

 本誌の読者は、たぶんぼくよりかなり若いだろう。家にミシンがあって、親が日々縫い物をしていたという記憶のある人は少ないかもしれない。だから、ミシンというものにちょっとノスタルジックな思いを抱いている人も少ないかもしれない。

 ぼくは年寄りなので、少しそういう時代を知っている。だが――本書は、ぼくにとって(そしてぼくより上の)多くの人が無邪気に抱くノスタルジーなど蹴倒すような、得体の知れない代物だったというのが本書を読むとわかるのだ。

 今の世間の通念からすれば、ミシンは掃除機や洗濯機や電子レンジと同じ、家事を楽にするための道具だ。つまりは、賃金労働をしない主婦というものを前提とした、女性を家庭につなぐ商品だと思われている。が、19世紀末から20世紀頭にかけて導入が始まったミシンはむしろ、女性の自立を即すものだった。ミシンを使って内職をすることで稼ぎ、家計に貢献するとともに社会に進出して自活を図るためのものとして普及していった。

 そしてミシンの影響はそれにとどまらない。そのミシンを購入するための割賦販売が日本におけるローン普及の急先鋒でもあった。小規模ビジネスの手段であるミシンと、それを買うためのマイクロファイナンス的なローン制度、そしてそれを通じた産業発展という、いまの途上国援助が必死で実現したがっている実に見事な仕組みがそこでは成立していたことになる。

 そしてそれがこんどはミシン産業を通じて日本の機械工業発展にも発展する。もともと主流だったのはグローバリズムの急先鋒とも言うべきアメリカのシンガー製のミシンだが(その営業部隊は日本初の大規模労働争議を起こした)、その補修用コピー部品メーカーが発達し、やがてはそれを組み立てることで、猿まね日本企業のコピーミシンが出て、それが日本の機械産業基礎ともなった。ある産業が他の産業の発展の下地を作り、それが国としての産業多様化にも貢献し――

 いやーすごい。本書を読むと、産業発展も女性史も、労働争議も近代化やグローバリズムも、世間的な通念とはまったくちがう様相を示すようになる。「近代化」とひとくくりにされる20世紀(あるいは明治期以来)の日本の発展も、よく見ると単一の「近代化」とか英米グローバリズムの浸食とかいう単純なものではなかったということだ。

 グローバリズムとか近代化への疑問というような議論がよくあるけれど、それはときに、チョンマゲ時代に戻って電気も医療もない世界に戻るべきだとでも言いたげな(でもそこまでの覚悟などまったくない)ものだったりする。コカコーラやジーンズやスタバが普及しているからグローバリズムに毒されているとかね。

 でも本書を読むと、単独のモノの有無だけでは見えないものがたくさんあることがわかる。ミシンがあるから近代化でグローバリズムで画一化ということではない。そういう発想自体が、乱暴で悪質なグローバリズムそのものだったりする。むしろそれぞれの地域が、ミシンに代表される大きな流れをどう受け止めたかというところにこそ、オリジナリティがあり地域性がある。それを見ようとすることこそが、安易な近代批判やグローバリズム批判にとらわれないためにも必要らしい。そこまでむずかしいことを考えずとも、小ネタも満載で実に楽しいので、是非一読を!


『ケトル』2014/08 20号

山本義隆『世界の見方の転換』(みすず書房)

 分厚い三巻本。そしてそれがまた、長大な三部作の最終巻となっているのがこの『世界の見方の転換』だ。もちろん、お気楽に読めるような本ではない。そして読んだからといって、安易な感動だの生活の知恵だの、お手軽な教訓だのは与えてくれない。でも、いまぼくたちが当然のように享受している、科学に支えられたこの文明の成り立ちについて少しでも不思議に思ったことがある人なら、この本は——そしてこの三部作すべて——他ではなかなか得られない壮大な見取り図を与えてくれるだろう。

 この『世界の見方の転換』は、平たくいえば天文学の歴史であり、昔のプトレマイオスによる天動説モデルから、コペルニクスの地動説モデルを経て、ケプラーが惑星はすべて楕円軌道を巡っているのだということを発見するまでの歴史を描いたものだ。もちろん、たいがいの人はいま書いた一行以上のことをわざわざ知ろうとも思わない。でも、ここには何重もの思考の決定的な転換があった。

 そもそも、こうした発見の背後にある、データ重視の発想そのものが元々は異様なものだった。学者たるもの、理念を考え、そこにあらわれた神様の意志を考えるのが仕事であり、データがその理念からずれていてもどうだっていい、というのが昔の考え方だ。でも天文学は占星術のために必要だったので、実際のデータが学者の間で重視された数少ない分野の一つだった。

 そしてコペルニクスは、天動説から地動説への転換が重要と思われているけれど、むしろ地球も一つの天体で、天の世界と同じ法則にしたがっている、というのが重要な発想だった。それまでは、天は神様のいる世界で絶対不変であり、この卑しい地上とはまったく別の尊い世界と思われていたのだ。それを受けて完成させたケプラーは、一方ではあらゆる力の源たる神様という変な発想を本気で信じていて、神様のような太陽が謎の力を惑星や地球に放出している、という発想が得られたのだそうな。一見非科学的な信仰こそが、科学のブレークスルーをもたらしたという皮肉というか不思議。

 でも本書——そして『重力と磁力の発見』『十六世紀文化革命』——で描かれるのは、そうした天才たちの発見だけではない。このブレークスルーを可能にするためのデータ収集や分析においては、単なる学者たちの論争以外の要因が大きく作用した。まず、数学というのがきちんとした分野として発達してきたこと。それは商業の発展で金勘定のために必要となったものだったのだけれど、その手法を導入したことで、データを容易に表現できるようになった。また印刷術の発展で、同じデータを大量に同時代人たちに広められるようになった。さらに金属加工の精度が上がったことで、観測機器の精度も飛躍的な向上を遂げた。

 つまりあらゆる社会、文化の結集として、コペルニクスやケプラーの発見はある。たまたまケプラーがそこにいたわけではない。ケプラーが中国にいたら中国で科学が開花した、というものではない。科学が持つそうした必然、西洋文明との連続性をあらゆるレベルで感じさせてくれるところに、この本の醍醐味はある。いまのぼくたちの文明が、いかに偶然と必然のからみあいの結果として生まれたのか——その壮大な流れを感じたい人は是非。


『ケトル』2014/10 21号

スミス『道徳感情論』(日経BP社)

 いまの経済学の開祖たるアダム・スミスの、『国富論』以外の主著、というのがこの本の売りだ。岩波文庫にあったこれまでの翻訳は、それはそれはひどい代物で、まともな人間が読めるものではなかった。それがまともな読める翻訳になって登場したのは、本当にありがたい限り。

 が、一般にこのがありがたがられるのは、何やら資本主義を否定したい人の我田引水の道具として使われているからだ。『国富論』で利己性に基づく見えざる手を主張したスミスが、実はこの本で共感とか優しさの重要性を説いている。そしてスミスは『国富論』よりもこの本こそが自分の主著だと考えていたそうな。つまり、経済学の開祖ですら、利己性はやっぱりダメだと言っているではないか。つまり利己性に基づく経済学は見直して、人に優しい人間の顔をした経済を築かなくてはなりません、といった議論がしばしば登場する。

 さて、資本主義が人間をダメにしているとか、お金が純粋だった人間を汚して醜い争いをもたらしている、といった発想は実にありがちなんだけれど、ぼくはこういう物言いが基本的にきらいだ。どんな体制だろうと、どんなシステムだろうと、私利私欲のために他人を犠牲にする人は存在する。ほとんどの社会体制というのは、まさにそういうものだったとすら言える。資本主義が人々にそうさせたわけじゃない。お金がそうさせたわけじゃない。

 そして「協力」も様々だ。協力してよいこともできるし、協力して悪いこともできる。お金や資本主義は、大規模な協力を可能にするけれど、その協力がどっちに向かうかまでは、必ずしも面倒みきれない。その面倒を見るためには、社会に何か別の仕組みもいる。それは、道徳とか正義とか法律とかの仕組みだ。それはどんなふうに成立して、何がその根底にあるんだろうか? それを考えたのがこの本だ。

 つまりこの本は、別に利己性を否定したわけじゃないし、『国富論』に書かれたことやその後の経済学のちゃぶ台返しをした本でもない。むしろ、それを補うものとでも言おうか。人には、他人に共感する力がある。楽しそうな人を見ると自分も楽しい気分になるし、泣いている人を見るともらい泣きしたりするじゃないか。スミスの出発点はそこだ。そしてその感情をもとに、その場で何が適切で、何がそうでないか、という感覚が生まれ、それがある社会全体で共有されるとルールになる。みんながそれを守ろうとすることで、立派な社会ができるんだ、と本書は述べる。

 こうした内容を、この本は念入りに例やたとえをたくさん挙げて述べる。道徳に関するいろいろな心の働きを、あれこれスミス自身の気分と過去の学説とに基づいて考察しているし、本の最初から議論を積み上げて、最後に大きな主張を構築する本というよりは、あんなこともある、こんな側面もある、といった類似テーマをめぐる断想集かエッセイ集みたいな色彩が強い。だから、分厚い本だけれど、冒頭から順番に読み進める必要はまったくなくて、あっちこっち適当に飛ばし読みして全然OKだと思う。

 たぶん本書に書かれていることについて、大きく反対する人はいないと思う。それぞれの章はごく短くて、とても妥当なことを言っているし、構築的な本ではないので、それが積もって最後にとんでもない結論が出てきたりはしない。くどいけれど、その分明解だ。読んで見て決して損はしないし、とてもいい本。でも、みんな道徳的になりましょう、優しくしましょうと口でいくら言ったところで、あまり意味はない。どんな悪人も、ギャングも、自分は道徳的で誠実なつもりだ。でもその基準が人によってちょっとだけちがい、それが大きな混乱を招く。それをどうまとめればいいのか? 本書はその答の部分は弱い。これは仕方ないことではある。でも、まさにその答の弱さは、歴史の中でこの『道徳感情論』よりは『国富論』が圧倒的な影響を持ってきた原因でもある。機会があれば、『国富論』にもちょっと目を通して、本書との差などを考えていただけるといいのだけれど。


『ケトル』2014/12 22号

コルタサル『八面体』(水声社)

 この『八面体』は、ラテンアメリカ文学界における短編の大名手フリオ・コルタサルの、中期にあたる1970年代の作品集だ。コルタサルの作品はどれも、日常の中のちょっとした不安や何気ない会話から、一気に異世界がそこに出現する。その変化のあざやかさ、さりげなさ、そして終わった瞬間にその世界が閉じて独自の独立した空間を作り出す感じ——それはもう、推敲してできるものじゃない。数学の問題を解くときに、最初はもやの中で手探りのようにあれこれいじっているうちに、突然あらゆる変数がぴたっとはまるところにはまり、一気にその問題の答えにいたる道筋が見えてくる瞬間がある。コルタサルの短編は、そういう瞬間を切り取ったような作品だ。本書には、コルタサルの短編創作論も収録されているけれど、短編を書くのがある種のインスピレーションであり、詩を書くような神がかったひらめきの体験なのだと高らかに宣言されていて、実に感動的だ。

 だが……本書をほぼ最後に、コルタサルはそのシャープな世界構築力を失う。なぜだろうか? ぼくがこの本で最も嬉しく、同時に最もやるせなかったのは、その事情を説明してくれた訳者寺尾隆吉の解説だった。コルタサルはあるとき、キューバやニカラグアの社会主義革命政権にどっぷり入れ込むようになったそうな。そのために創作に割く時間がますます減って——そして創作の質もどんどん下がっていった。文芸評論の世界は左翼がかった人が多いので、コルタサルの政治参加はこれまでむしろ立派なことだとされてきた。それがかれの墓穴だったという非常に納得のいく指摘をしてくれたのは、日本ではこの解説が初めてだと思う。

 そして悲しいのは、それが意外でもなんでもないということだ。ミュージシャンやアーティストや作家は、常に自分たちが社会的に重要な役割を果たしているんじゃないかという不安にかられている。だからこそ、多くのアーティストはすぐに、エコロジーだの左翼っぽいイデオロギーだのにからめとられる。コルタサルの短編は、洗練されたきわめて高度なもので、つまりはエリート主義的なものではある。本来、それはまったく責められるべきことではない。うわっついたところ、軽々しいところ、カッペにはわからないことにこそ、価値がある活動だってこの世の中にはたくさんあるのだ。多くの人はそれを胸張って認められるほど強くはないけれど、本書の短編小説論で自作の虚構性を力強く肯定したコルタサルですら、その誘惑には耐えられなかったのか……

 本書はそのコルタサル最後の輝きではある。一部の作品は、もはや「この世界」と「異世界」の区別すらなく、バロウズのカットアップのような、断片的なフレーズがひたすら並び、その両世界が冒頭から共存するという離れ業すら見せる。その世界に驚嘆しつつ、もしコルタサルが「あちら」に行かずこちらにとどまってくれたら、何が実現できていたかを想像してみるのも、悲しいながら楽しいお遊びではある。



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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