世界資源研究所 (WRI) と世界自然保護基金 (WWF) による批判と、ロンボルグのコメント

Bjørn Lomborg、山形浩生訳


ロンボルグのコメントは赤字December 17, 2001, 6:21 PM 原文 pdf
日本語訳の pdf 版は https://cruel.org/kankyou/wrirebuttal.pdf

(web-site address: http://www.wri.org/press/mk_lomborg_09_things.html)

世界資源研究所 (WRI) と世界自然保護基金 (WWF) によるビョルン・ロンボルグの問題の書に対するコメント

『環境危機をあおってはいけない』についてジャーナリストが知っておくべき9つのこと

『環境危機をあおってはいけない』は、デンマークの統計学者ビョルン・ロンボルグによる毀誉褒貶かまびすしい新刊で、地球環境は悪化するどころか改善していて、地球への脅威は環境保護団体やメディアによって過大に報道されている、と主張しています。メディアが関心を抱いたロンボルグの主張の中で主要なものは[1]:

などがあります。

 「主要なもの」という言い方からわかるように、 WRI/WWF はぼくの主張の非常に限られた一部を取りあげているだけだ。そこまで選び抜いているなら、これらはたぶんぼくがまちがっていることを示すにあたっての最高の論点なんだろうと想像される。

  最初の2つの主張は正しく参照されているけれど、最後の地球温暖化に関するものはかなり誤解を招く。地球温暖化があの本で圧倒的に最長の章であること、さらにぼくがはっきりと「地球温暖化は重要だ。その総コストは5兆ドルにのぼるかもしれない」(p.519, p.489, 490 も参照) と述べているということを考えあわせると、ぼくの立場を「地球温暖化は心配しなくていい」とまとめるのは、はっきりまちがっている。ぼくはまた――国連気候パネル (IPCC) にしたがって――地球温暖化は先進国には純便益をもたらすだろうけれど、発展途上国の相当部分には被害を与える、と述べている (p301):

  これは2つのメッセージを伝えている。まず地球温暖化は高くつく――年間500億ドルくらいだ。次に発展途上国は地球温暖化によってずっと大きな打撃を受けるだろう。これは一部には、かれらがずっと貧しくて、だから適応余力も低いせいだ。

  だから、ぼくの主張が地球温暖化が多くの人に便益をもたらすというものだとしか言わず、それがもっと多くの人にとって害になるとも言っていることに触れないのは、ちょっと歪んだ物言いだろう。

 ロンボルグは、かれが「定番話」と呼ぶものを攻撃します。これは環境保護団体が、環境の悪化胃について述べる主張の集合で、かれはそれが根本的に誤解を与えるものだと考えています。これには、たとえば「地球上での環境はひどい状態だ(中略)空気と水はますます汚染されている。地球上の生物種はすさまじい勢いで滅びつつある。(中略)森林は消失し、魚のストックは激減、珊瑚礁は死滅」[2]といった主張が含まれます。

  ロンボルグの著書の信頼性を評価するにあたって、ジャーナリストは慎重さをもつべきです。以下に留意すべき点を挙げます:

1. 肩書きが限られている

  ビョルン・ロンボルグは、デンマークのアーハウス大学政治科学部の統計学助教授です。かれのこれまでの刊行物は、ゲーム理論やコンピュータシミュレーション関連のものでした。生態学、気候科学、資源経済学、環境政策など、かれの新著でカバーされている分野についての専門的な訓練は受けていません――また、専門的な研究もしていません。ロンボルグによればこの本はかれの学生向けプロジェクトから生まれたものだとか。

  もちろん著者は新しい分野に手を出して個人的な見解を述べる権利は確かにあります。でも読者は同じように、かれの判断が持つ権威について疑問視する権利もあるのです。

  もちろんだれでも、公開で述べられた判断について疑問視する権利はある――それがぼくの判断だろうと、WRIやWWFのようなところの判断だろうと。実は『環境危機をあおってはいけない』の序文(これはぼくのウェブサイトからダウンロードできる)で、ぼくはまさにこうした懐疑的なアプローチを推奨している (p620-4):

  過去数十年にわたり、ぼくたちはあの定番話が世界の描写として適切で真実だというはっきりした印象を植えつけられてきた。ぼくたちは環境がよい状態にないことを確信している。だからこそ、人々がこれまで見てきたようなまちがった主張をしても、それを裏付けるための証拠は提供しないですんでいる。同じ理由で、ぼくたちは環境がそんなに悪くないよという人たちを大いに疑問視する傾向がある。ぼくにしてみれば、これは自然で健全な反応だ。だからこそ、ぼくは自分の主張を裏付けようとして精一杯努力しているのだ。

  これはつまり、本書には異様なほどの注があるということだ。でも同時に、読者が注を読まなくても本を楽しめるように配慮はした。すらすら読める一方で、書いてあることがあまりに信じがたいと思ったらすぐに情報源をチェックできるとわかって安心できる。

  本書には、1,800強の参考文献がついている。でも、なるべく多くのインターネット上の情報源も挙げるようにした。もしぼくの書いたものをチェックしたいと思う人がいても、その人が研究図書館を自由に使えると期待するのはあんまりだろう。むしろ、インターネットにつないで、関連テキストをダウンロードし、ぼくの情報源をチェックしてぼくがそれをどう解釈したか確かめれば十分な場合も多い。もちろん、その情報について重要な本や論文で、ネット上にないものはどうしてもあるだろうけれど。さらにネットのおかげで、本を最新に保てるようになった。データは2001年5月まで更新してある。

  でもぼくにとっていちばん重要なのは、自分の情報源の信頼性にまったく疑問の余地を持たせないことだった。このためぼくが使う統計のほとんどは、環境論争に参加している人の多くに広く受け入れられた公式の情報源からきている。これは世界最高のグローバル組織である国際連合とその各種下部機関を含む。FAO(食糧)、WHO(健康)、UNDP(開発)、UNEP(環境)。さらに、世界銀行やIMFなど、主に経済指標を集めている国際機関の発表する数字も使っている。

  世の統計の多くを集めている組織が二つある。国際資源研究所 (WRI) は、UNEPやUNDP、世界銀行といっしょに、隔年で世界の重要なデータの概観を発表している。ワールドウォッチ研究所もまた毎年大量の統計データを用意している。多くの分野でアメリカの各種省庁は世界中から、たとえば環境やエネルギー、農業、資源、人口になどに関する各種の情報を集めている。こうした省庁としてはたとえばEPA(環境)、USDA(農業)、USGS(地理調査)、アメリカ国勢調査局などがある。最後にOECDとEUはしばしば地球や地域ごとのデータをまとめていて、これも本書で使われている。国別統計としては、その国の省庁などの公共機関からの数字を使うようにしている。

  数字がUNEPからきているからといって、そこにまちがいがないってことにはならない。そうした数字は、もっと「公式」ではない性格の出版物からの転載であることが多いからだ。だからこうしたデータの出所について批判はできるけれど、でも非常に問題の多いデータから恣意的に選んだものじゃないか、常識から激しく逸脱しているんじゃないかというほどの心配はしなくていい。同時に公式の情報源だけを使うことで、インターネットの大きな問題の一つは避けられる。ネットはあまりに分散化していて、ほとんどどんな代物でも出てきてしまう、という問題だ。

  だから本書を読んで「こんなの本当であるわけがない」と思っている自分に気がついたら、ぼくが提示している統計データはふつうはWWFやグリーンピースやワールドウォッチ研究所の使っているものとまったく同じだ、ということに留意するべきだろう。人はよく「他の人たち」の使っているデータはどこにあるんだ、と尋ねるのだけれど、そんなデータはないのだ。本書で使っている数字は、みんなが使っている公式の数字なのだ。

  レスター・ブラウンとぼくが世界の状態についてのテレビ論争で顔を合わせたとき、論点の一つは1950年以来総森林面積が増えたか減ったか、ということだった。ブラウンが真っ先に言ったのは、1949年から1994年までに森林面積を調べた唯一の文献であるFAOの『食料農業白書』を手に入れようということだった。これはぼくが参考文献として使ったのと同じ本だから、基準については合意を見たわけだ。実際の議論は、どっちが数字をちゃんと参照できるか、ということだった。

  レスター・ブラウンは、森林が減ったと思っていて、ぼくは増えたと思っていた。ぼくはレスター・ブラウンに賭を申し出たけれど、でもかれは残念ながらと言って辞退した。受けていたら、かれは負けていただろう。

  FAOは、世界の森林面積は4,024万km2だと推定し、1994年にはそれが4,304万km2だと推定していた(これはp.の図60で見られる)。

  さらに、ぼくは実は社会科学と統計手法については専門的な訓練は受けているし、研究もしているのだ。これらは世界の状態について総合的な判断をするにあたっては重要な技能となる。

  最後に本の主要な論点について、ぼくは自分を信じてくれとはいわない。むしろぼくの情報源 (国連、世界銀行、OECD, EU, US, ワールドウォッチ研究所――そしてはい、当のWWFも)を信じてくれと言っているのだ。

2. 見せかけだけの学術性

  『環境危機をあおってはいけない』は3,000近い注がついていて、慎重な研究が行われたように思えます。実はこうした注を見ると、きわめて偏った引用やしばしば不正確な出所の例がたくさんあり、原著者の主張を歪めたり、正反対のことを述べたり、その他ロンボルグの主張を裏付けない場合が多いのです [3 世界が農業以前の時期(6000 BC と定義) に比べて原生林の2/3がどこかの時点で切り倒されたというWWFの分析に異議を唱えるにあたり、p.37 のロンボルグの文は、「ほとんどの情報源は20%くらいと推定している」と述べています。ここでロンボルグは、森林被覆の純ロス(かれの数字)と、もとの森林のロス(WWFの数字)を混同しているのです。]

  WWFからのもともとの引用は以下の通り:

  WWF は本日(10月8日)、世界の原生林の2/3近くが破壊されたということを初めて示す、ショッキングな新データを明らかにした。8000年前に地上に存在していた80.8億 ha の森林のうち、今日残っているのは30.44億 haでしかない。 [http://www.panda.org/forests4life/news/10897.htm]

  「ほとんど2/3」というのはたぶん、 (8,080-3,044)/8,080=0.62 という計算で出てきたんだろう。WRI/WWFがここで言う、 30.44億ha は今日の総森林面積の推計値ではなく、どうやらむしろ、原生林の残った面積の総計ということらしい。こういう主張は、まともな形では評価できない。というのもこの数字は、そもそもまともな報告に基づいたものじゃないのだ、ということはぼくが同書で指摘したとおり。さらに、この解釈はかなり了承しがたいものだ。というのも、WWFによる総森林面積の推計は 32億ha だからだ (WWF 1999:4, 1995年のFAO推計値 34.54億haと比べてみよう, FAO 1997c:189)。するとつまり、今日の森林の95%以上が原生林だということになるけれど、WRI は自分の2000年森林評価の中で「今日の森林被覆のうち、もとの状態を保っているのは半分以下」と述べているからだ (Emily Matthews, Richard Payne, Mark Rohweder, and Siobhan Murray 2000: Pilot Analysis of Global Ecosystems: Forest Ecosystems, World Resources Institute, Washington D.C., http://www.wri.org/wr2000, p16)。だからこの数字が原生林の絶対面積だというWRI/WWFの主張は、受け容れがたい――これはまちがいなく純面積(つまり実際に残った森林面積)のことのようだ。この解釈はまた、北アメリカの数字を見ても裏付けられる。もとの発表で、WWFは30.44億haの根拠となる個別地域ごとの森林消失を仕分けしている:

地域 失われた原生林比率 保護されない森林比率
アフリカ 45% 95%
アジア太平洋 88% 95%
ヨーロッパ 62% 98%
ラテンアメリカ 41% 91%
北アメリカ 39% 95%
ロシア 35% 98%

  ところが WWFの 1998年 Global Annual Forest Report に明記されているけれど、北アメリカ(カナダとUSのみ、メキシコは「ラテンアメリカ/カリブ諸国」に入る。p.11)については: 「推計によればアメリカ合衆国大陸部の厳正森林の95から97パーセントが初のヨーロッパ人到着以来伐採され、オンタリオ州南部の原生のアカマツとシロマツ林についても同じくらいの消失が見られた」となっている。これを見ても、30.44億ha というのが原生林だけというのは考えにくい。

  最後に WRI 2000 調査 (Matthews et al., op. cit., p16) でも WWF の独自調査が言及されていて、ここでは最新の推計(というのは30.44億ha のことだと思われる) は「現在の森林面積」の推計値だと記述されている。これまた、30.44億ha がもとの森林面積だという急にあらわれた新解釈は不正確ではないかという点を裏書きしている。

  結論として、ぼくが純森林面積ともともとの森林面積とを混同したという批判は、当のWRIやWWF自身の著述を見てもまちがっているようだ。

  それでも、ロンボルグの注103に挙げられた出所は、かれがそこで述べている主張を裏付けるものになっていません。最初のものは、Andrew Goudie による1993年の大学教科書ですが、実際に農業以前の時代に比べて森林被覆の純ロスが20%という数字をあげていますが。著者はこの数字について何の参照も権威付も行っていません。

  これは得体の知れない主張だ。WRI/WWF は、ぼくの挙げた出所である Goudie が、まさにぼくが述べたとおりのことを書いているのを認めている。原生林の被覆が農業以前の時代に比べて20%減った、というわけだ。だからこの出所が「(ぼくが)そこで述べている主張を裏付けるものになっていません」というのははっきりまちがっている。

  WRI/WWF は単に、そのGoudieの著書でこの数字に参照文献や権威付がないからということで、疑問を呈しているわけだ。でもWRI は古典的な20%という数字の出所については、熟知しているはずなのだ。だってこれは、最新のWRI森林評価の筆頭著者が実は挙げた数字で、以下ではっきり述べられている (Matthews et al., op. cit., p16): 「農業開始以来の全世界の森林被覆低下は20パーセントほどだ」

  第二の出所は Michael Williams によるもので、注ではそれが(驚くほど)低い7.5パーセントの消失という数字を挙げている、と述べられています。でもその資料を見てみると、ロンボルグは、744.9 万平方キロというのをパーセントと読み違えたのだということがわかります。

  この資料を再入手してみたぞ。ぼくの挙げた参照は Williams (1994:104) だけど、744.9 万km2 というのは105ページに出てくる。104ページにはちゃんと、森林が7.5パーセントポイント減ったという数字が挙がっているのだ。でも、この数字をほかのといっしょに参照すべきじゃなかった。これはパーセントポイントの減少で、森林消失の比率そのものじゃないからだ。正しい森林消失の数字は16パーセントだ。

  WRI/WWFが、Williamsが農業以前の時期に比べた相対的な森林消失の比率について実際にどう言っているかを述べるのが重要だと思わないというのもオドロキだ。「したがって、世界の森林総面積は、16.0%くらい減っていて、樹木地は18.6%くらい減っただろう。すさまじい量ではあるけれど、よく考えられているような世界的な荒廃ではないと言えそうだ」 (Williams 1994:106). つまりこれは、ぼくの20パーセントの森林消失という主張をはっきり裏付けている。

  そして最後の2つの出所は、19%と20%という数字を挙げていますが、これは直近の300年と140年についてのみの数字で、したがってロンボルグが引用しているような8000年の時期全体にわたる森林消失を計測しようとしたものではありません。それどころか、この二つの情報源は、問題の時期のうちごく小さな一部(それぞれ 4% と 2% 以下) しかカバーしておらす、そしてこのわずかな期間ですらおよそ20%の森林消失を見せているわけです。]

  森林消失の圧倒的大部分が起きたのは、この300年間のことだから(ただしヨーロッパは除くけれど、ヨーロッパは総森林被覆の11%でしかない)これらの数字はWWFの2/3の森林消失という主張のまともさを判断するにあたっては重要なものだ。でも、誤解を避ける意味で、注の最後の部分は以下のように修正しておくべきだろう(これはウェブページ上の正誤表に追加した):

  Goudie (1993:43) の推計は 20 パーセントでこれはたぶんMatthews 1983からのもの。Williams (1994:104) は農業以前の時期から20 パーセント減と推計している。農業以前までさかのぼる推計は他にはなく、森林消失が圧倒的な勢いで進行したここ数世紀についての推計しかない。こうした推計は、農業以前のすべての森林消失全体から見て少なめの評価にはなっているだろうが、過少評価分はごくわずかだろう; この場合 Richards (1990:164) は過去300年で19 パーセント。IPCC もまた、1850--1990年にかけて世界の森林地帯が20パーセント削減と推計している (2001a:3.2.2.2)。

  用心のため、本文のほうも、単に20パーセントと書くのではなく「ほとんどの情報源の推計では20-25パーセント」の森林消失が起きているとすべきだろう。なお、過去300年が8000年のたった4パーセントだと述べるのはきわめて誤解を招く。この300年こそが、大半の森林消失が起きた時期なんだから。

  さてこの時点で、 WRI/WWF の批判を見直しておくほうがいいだろう。かれらが批判したぼくのもともとの論点は以下のようなものだ:

  同じように1997年にWWFは「世界の森林の三分の二が永久に失われた」というプレスリリースを出した。そのリリースでも、『地球年間森林報告一九九七』でも、かれらは「WWFの新しい調査で、もともと世界にあった森林の三分の二近くが永遠に失われたことが示された」と述べている。これはいささか驚くべき数字に思えた。だって、ほとんどのソースの推定では、20--25パーセントくらいになっているからだ。そこでWWFイギリスに連絡して、このプレスリリースの担当者レイチェル・サッカレーとアリソン・ルーカスと話をして、そのWWFの研究報告書を見せてくれと頼んだ。ところがかれらが話してくれたのは、実はそんな報告書なんか実在しておらず、WWFはその数字を世界動植物保全監視センター (WCMC) のマーク・アルドリッチにもらっただけだ、ということだった。どうやらかれらが見たのは最大値で、しかも定義の問題から、最初に森林面積を見るときには北半球を含めたのに、現在の森林面積を見るときには南半球しか見なかったということらしい。

  この実在しない報告書に基づいて、WWFはこう述べる:「今や、失われた森林の大きさが証明された。(中略)恐るべきことに、森林破壊の速度は過去5年で急速に加速し、さらに加速を続けているということだ」。でも、国連によれば、森林消失の速度は1980年代には0.346パーセントで、1990--95年では年0.32パーセント――劇的な加速どころか、むしろ減速している

  WWFは、ブラジルほど森林消失が激しいところはないんだよ、と教えてくれる。ブラジルは「いまでも世界最高の年間森林消失率を記録しています」とのこと。本当の現実を見てやると、ブラジルは熱帯雨林ではむしろ一番低い部類に入る。国連によれば、ブラジルの森林消失は年0.5パーセント、それに対して世界平均では年0.7パーセントだ。

  もっと最近の発表資料では、WWFはもとの森林面積推計を80.8億ヘクタールから67.93億ヘクタールに引き下げた(約16パーセント減らしたわけだ)。一方、現在の森林面積は30.44億ヘクタールから、34.10億ヘクタールに引き上げた(12パーセントほどの引き上げ)。それでもかれらの推計は、国連の推計よりも1億ヘクタールほど低いのだけれど。でもこれはつまり、世界で失われた森林量の推計を、もとの62.3パーセントから49.8パーセントに下げたという計算になる。

  それでもこれは、一般の推計である20パーセントよりかなり多い。でも、ロンドン大学とサセックス大学の研究者がそれぞれ独自に、WWFや世界動植物保全監視センターなどがこうした気が滅入るほど大量の森林消失予想を出すときに使う情報源やデータを評価しようとした。データはあまりに大量なので、二人は西アフリカの森林消失推計に的をしぼった。WWF/WCMCでは、この地域で87パーセント、約4,860万ヘクタールの森林消失が起きたと推計している。でも、文献を見ると、これは問題の多い生物気候地帯だけに基づいていて、基本的には今日の森林と、かつて森林があったかもしれない場所とを比較しているものだった。全体として研究者たちは「今日出回っている森林消失の統計はおおむね、20世紀における森林消失を大幅に過大評価している」と述べる。結果として西アフリカでの実際の森林消失は約950--1050万ヘクタール、つまりWWF/WCMC推計の5分の1程度でしかない、ということだった

  つまりぼくは、 WWF が主張を裏付ける論文もないし、行われた計測には手法的な問題もあり、手法を学問的に検討してやると、森林消失を極端に過大評価する方向に偏向していることがわかっていて、ほとんどの推計が20パーセントの消失と述べていて、そして当のWWFが後に自分たちの推計を、2/3近くから半分以下に減らした、ということを指摘している。

  これらの問題はどれ一つとして、軽く触れさえもしていないしコメントもされていない。WRI/WWFは、ぼくが純森林面積と原生林とを混乱したとか(まちがい)、20パーセントという数字を支持しない文献を参照しているとか(Goudie/Matthews/Williamsについてはまちがい) 言うばかりで、要するにぼくが他の数字についても、それがちょっと低めの数字だと言うことを書くべきで、というのもそれが森林消失のほとんどが起きた過去数世紀分についての消失の数字だから(正しいけれど些末な点だ)、というにとどまる。

  この程度の話なら、メールで訂正要求をするくらいが関の山じゃないだろうか。こんな議論(それも二度もまちがえていて、指摘できたのはどうでもいい点が一つ)を「見せかけだけの学術性」の裏付けにするなんて、まったく根拠レスだし、もともとのぼくの文で指摘された大きな問題点をまったく無視してこんなことを言うのは、いささか皮肉だと思う。

  さらにロンボルグは、科学的な査読を経ておらず、現在の科学的な総意を反映していない論文を権威ある情報源として挙げています。[4 たとえば p.443 の地球温暖化の章で、ロンボルグは雲が「光彩効果(iris effect)」を持っていてそれがCO2による温暖化を相殺するかもしれない、という最近発表された論文を引用します。読者は、ロンボルグが「革命的な可能性を持つ」と述べるこの研究が、先進科学雑誌での刊行に要求される基本的な査読を受けておらず、少なくとも一つの雑誌では刊行を拒否された後で、やっとロンボルグの引用する気象雑誌に発表されたのだ、ということを報されないのです。]

  これは驚いた――WRI/WWF は、Lindzen 2001 論文 (Lindzen, Richard S., Ming-Dah Chou & Arthur Y. Hou 2001 "Does the Earth Have an Adaptive Infrared Iris?" Bulletin of the American Meteorological Society 82(3):417-32. http://ams.allenpress.com) が査読を受けていないと主張しているわけだ。WRI/WWF は Bulletin of the American Meteorological Society がすべての科学論文について査読を求めるという手続きから逸脱したことを示すような、一般には入手できない資料にアクセスできるのかもしれないけれど、それならそういう証拠を公式に示してほしかった。

  それがないのであれば、みんなはアメリカ気象学会の公式声明を信じるしかない。そこには明らかに、すべての科学論文(Linzen論文を含め)が査読を受けていると述べられている (§2):

  本学会はいくつかの刊行物を発行しており、これはexecutive directorの監督下で出版され、さらにAMS 評議会の指導のもとにおかれている。本部刊行物の中でも筆頭にあげられるのは Bulletin of the American Meteorological Societyであり、これは1920年以来刊行されており、AMSの公式機関誌である。Bulletin は各種の情報を含み、特定の科学雑誌には簡単におさまりきらない広い視野を持った科学論文も刊行される。Bulletinスタッフによる最初の選別を受けた後、こうした論文は査読をうける。最終的な刊行判断は executive director によって行われ、かれが Bulletinの編集者として活動する。 (http://www.ametsoc.org/AMS/pubs/ag_docs/ag1998/authguide.pdf.)

3. 議論の混同

  ロンボルグの本の副題は「地球環境のホントの実態(原題を直訳すると:世界の本当の状態を計測する)」です。これは世界の状態は環境保護論者たちの指摘するように衰えてはおらず、むしろ改善しているのだということを匂わせる先触れとなっています。 この議論を支持するために、ロンボルグは人間が世界中でもっと長生きして健康になっており、所得もあがって余暇も増えているという証拠を示します。そして世界的な環境衰退の証拠をかれは否定します。 でも社会が直面している環境問題は、われわれが物質的な福祉を増しているかどうかではありません――物質的な福祉は高まっています。むしろ、われわれの繁栄が自然環境を損なわない形で行われているかどうかです。 ロンボルグはこのまったくちがう問題をいっしょくたにして混同しています。

  これはWRI/WWF の批判の中で変な部分だ。ワールドウォッチ研究所の報告の伝統にしたがって、ぼくは「世界の状態」ということばを人間の福祉と環境の両方を含むことばとして使っている。 WRI/WWF は、ぼくがまさに両方とも扱っていることを述べる。「この議論を支持するために、ロンボルグは人間が(よくやっている)という証拠を示します。そして世界的な環境衰退(が正しくない)と述べます」(はっきり言って、ぼくはもっと強いことを述べている。地球環境に関する最も重要な指標のほとんども改善しているか、今後改善するだろう、と主張しているのだ)

  その後 WRI/WWF は、問題が環境のほうだけなのだ、と主張する。WRI/WWFはそう思っているかもしれないけれど、でも「世界の状態」の定義について、かれらの権威だけにこだわった主張をされても、当然ながら疑問の声は上がるだろう。とはいえ、ぼくは人間の問題も環境問題もはっきり扱っているので、 WRI/WWF は単に本の環境問題部分を読んでくれればすむ話だ。

  ところが WRI/WWF はいきなり、ぼくが「このまったくちがう問題をいっしょくたにして混同しています」と述べる。何の例もあがっていないので、こんな主張はよく言っても無根拠だ。ぼくがこれをどう混同しているのだろう。ロンドンの大気汚染を1585年から論じ、生物多様性は1600年から論じ、沿岸海域の富栄養化やその将来方向として可能性が高いものを論じているのに?

  最後に、見出しは非難がましく「議論の混同」となっているけれど、これは文中ではまるで裏付けられていないばかりか、単にぼくが意図的に読者を誤解させようとしているかのような、おっかない印象を与えている。これもまた論証されていない。

4. 統計的なごまかし

ロンボルグは、相関と因果関係をとりちがえることで、この混乱をさらに悪化させます。これは統計学者としては考えにくい誤りです。 この本の至る所で、かれは環境上の改善を生活水準の向上のせいだとしており、科学的な理解の向上につながる研究や、しっかりした環境政策のおかげではないとしています。

  これははっきり言って、あの本のまとめとしては不当なものだ。あの本で幾度となく、ぼくは有効な環境政策を形成するにあたっての科学的理解や政策の役割について書いている。経済成長だけで環境改善に必要十分だ、なんてことは絶対に言っていない。以下の WRI/WWF のあげる例を見て、自分で判断してほしい。

  CFCの廃止につながったのは、オゾン破壊に関する科学的な研究でしたし、工業国で空気の質を改善したのは大気汚染規制が厳しくなったせいですし、アメリカで酸性雨の原因を削減したのは、SO2排出権取引の導入でした。環境の改善につながったのは、富だけでなく、よい科学と政治的な意志だったのです。しかしロンボルグ教授は、公害のひどい発展途上国では、所得が上がれば自動的に似たような環境改善が起きると主張し、これ以上の研究や環境政策上の努力はだから不要なのだ、と匂わせています。

  このとんでもない物言いを最後のほうから見てやろう。まずぼくは、公害のひどい発展途上国では所得があがれば自動的に環境改善が起きると主張していて、だからこれ以上の研究も環境政策の努力もいらないと主張している、とのこと。

  ぼくは確かに、所得の上昇が低い公害(たとえば大気汚染)と密接につながっていると指摘している。だからといって、自動的なつながりなんか主張していないぞ。そんな主張はばかげている――当然ながら、豊かさが増せばそれはいろんな方向に影響する(たとえば環境に割くリソースが増えたり、マズロー的な意味での高次の(非物質的な)ニーズへと向かったり等々)。

  確かに、政策上の努力が環境改善の唯一の原因ではないし、一番重要な原因ですらないということを示す研究がある、ということは指摘している。でもぼくは、 WRI/WWF とまったく同じように、富と同じく政治的意志が重要だと結論づけている (pp277-8):

  専門家の資料には、大気汚染の減少にとって法規制がどのくらい不可欠だったか、少なくともどのくらい重要だったか、という議論がいろいろ書かれている。多くの研究が――驚くべきことかもしれないけれど――特筆すべき影響をまったく記述できていない。イギリスの1956年の大気浄化法 (Clean Air Act) の分析によると、汚染が減っているのは事実ではあるけれど、1956年以前と以後の減少速度には、はっきりわかるような差がないということだ。あるいは公害規制のある都市とない都市でも、明らかな差はない。「1956年の大気浄化法がなくても、どのみち空気の質はかなり改善されていた見込みが高い」。なぜ空気がきれいになったかというと、産業や家庭で使う製品や技術が改善されたおかげが相当部分だ。

  アメリカの3都市の研究では、公害規制の義務づけは効果があったけれど、規制コントロールの効果は「おおむね経済変化、天候などの要素の影響によってかき消されてしまう程度のものだ」ということが明らかになっている。一般的に、規制が公害削減の理由の一つだというのは正しい主張だろうけれど、ほかの技術的な要因も大きな役割を果たすのだ。

  でも、これが環境政策上の努力が不要だと言ってることにするのは、まったく根拠がない。これについては序文できっちりまとめてある (p18):

  でも、ひどくよく聞く怪談が不正確だと指摘したからといって、環境改善の努力をしなくていいことにはならない。それどころかまさに正反対。資源の管理に努力を割いて、森林や水管理、大気汚染や地球温暖化といった分野での問題に取り組むのはとても賢いことだ。そしてその際に、その取り組みの多くをどこに向けるべきかについて、裏付けある最高の意志決定ができるように、最高の証拠を手に入れることが大事になってくる。

  最後に、困った WRI/WWF の第三段落をざっと見てやろう。ここでは「工業国で空気の質を改善したのは大気汚染規制が厳しくなったせいです」と述べられているけれど、上で見たように、これはよく言っても部分的にしか正しくない。これは WRI/WWF が富と政治的意志についての発言でも認めていることだ。第二に WRI/WWF は、「アメリカで酸性雨の原因を削減したのは、SO2排出権取引の導入でした」と述べている。これははっきりまちがっている。排出権取引は単に政治的な狙いで導入されただけで、こんな取引がなくても、大気浄化法改正 (Clean Air Act Amendment) で大気汚染は同じくらいの水準にまで下がっただろう(が、ずっと高くつくことになっただろうけれど)。

5. 海洋

ロンボルグは「海洋生産性は1970年以来ほとんど倍増した」[5, p40、ただし邦訳はすでに訂正済み] と述べます。多くの商業的な魚のストックが低下していることはよく記述されていることを考えると、これには驚かされます。ロンボルグが実際に言いたいことは、本の中で後のほうになって、総漁獲高と、養魚場での生産をあわせた数字の増加を示すものとして登場します[6]。 海の天然魚の漁獲高は、1970年以来20パーセントしか増えておらず、100パーセントは増えていません。

  p.17での記述で、ぼくは確かにまちがいをした。「海洋生産性は1970年以降60パーセント近く増えた」と書くべきだった(もちろんこれはウェブサイトの正誤表に載せた)。(翻訳ではすでに反映済み)。

  でも WRI/WWF の20パーセントという数字はまちがっている。1970年に地球の総水揚げは 58.2Mtで、1999 年にそれが 92.3Mt に増えた。およそ 58.6% の増加だ (FAO, 図57, p183を参照).

  そして人間が海から獲っているものと、海が生産しているものは、もちろん根本的にちがうものです。

  これはまったくそのとおりではあるのだけれど、自分自身のまちがいや外部からの批判について驚くほどのいい加減さがここにはあらわれている。WRI/WWFが引用している段落を丸ごともってこよう (p.39-40):

  第三に、世界の状態を評価するにあたり、もっと多くのもっといい指標を見なきゃいけないということ。これがいちばんはっきりするのは、WWFが生態系の総価値が年33兆ドルだと主張する新研究を引用していることだ(この困った調査は、生態系が地球の年間総生産額31兆ドルを上回る価値を持っていると推計している。この調査については第V部でとりあげる)。WWFによれば、「生きている地球指標」が30パーセント下がったということは、生態系から毎年得られる利益も30パーセント減ったということだそうだ――つまり毎年11兆ドルの損害が出ている、と。こんな主張はナンセンスもいいところだ。森林の産出は1970年以来、減るどころか40パーセントほど増加している。そして海洋や沿岸部の価値の相当部分は、栄養物のリサイクル機能にあるのに、「生きている地球指標」はこれをまるっきり見ていない。さらに海洋食料生産は、1970年以来60パーセント近く増えている(図57参照)(訳注:ここは原書の初刷りでは「1970年以来倍増」になっていた)。だからかれら自身の指標を考えても、生態系サービスは低下しているどころか増加していることがわかるのだ。

  ここでの議論は、問題の多い「生きている地球指標」が、ぼくたちが毎年11兆ドルほどを喪失していると主張するのに使えるか、ということだ。そしてぼくが指摘したのは、一つはLPIと生態系の純価値調査がほとんど重なっていないということ、そして二つの大きな経済領域である森林と漁業において、産出は実は予測が示すように減るどころか、増加しているということだ。

  確かに、60%とすべきところを100%にしたのは残念なことだけれど、でも結論はどう見ても変わらない。WWFが、LPIの減少がすさまじい経済的な結果をもたらすという推計をしたのは、計測されている3領域のうち少なくとも二つではまちがっていて、そこでは産出は減るどころか増えていたということだ。問題になっているのは明らかに最大持続可能性ではなく産出量だ。

  この二つを混同するのは、ロンボルグの本が根本的に誤解を招くものであることのよい見本となっています。

  単純な(遺憾ではあるが)まちがいをあげつらって――それももとの論点が変わるわけではない――それがぼくの本が「根本的に誤解を招く」見本だと主張するのは、根拠が薄いし必死すぎるように思う。さらに、WRI/WWF がLPIを、生態系からのすさまじい経済損失と結びつけること(この結びつきは、後の当のWWFが捨てた)の問題をなぜか無視しているのは不思議だ――まちがいを修正したって、ぼくの議論はまだ成立しているのだ。

  さらに、この場合には(LPIと経済学との結びつきのため)海洋生産性の増大こそが関係ある指標なのだという主張を無視し、ぼくが最大持続可能収量と生産量のちがいがわからないなんて主張するのは、あまり感心したやり方じゃない。

  総生産にばかり注目することで、ロンボルグのグラフは、タラ、ニシン、hake、ひらめ、カジキ、イワシ、halibut、Atlantic Ocean Perchなど多くのストックが激減したことを隠しています。

  グラフなんて、どれも限られた情報しか示せないのだ。あのグラフがこうした魚のストック激減を隠している、なんていうのは変な物言いだ。p. 39-40の文の議論と、p.183のグラフ周辺の議論は、総漁獲高と世界の食糧の話だ。だったら、関係あるのは総漁獲高だ。もちろんぼくは、魚の獲りすぎの原因についても論じている。こういうのは市場の失敗と共有地(コモンズ)の悲劇の明らかな例だからだ (p183-4)。

6. 森林

ロンボルグの森林に関する章は、WWFの国際主幹クロード・マーチンによる発言「世界の森林地帯は、面積的にも質的にも著しい低下を見せ続けている」を否定するところから始まっています [7]。 ロンボルグはあっさりと「こんな主張をする根拠はない」と述べます。ところが、国連 FAO による最新の権威ある地球森林評価は WWF の主張を裏付けており、しかもほとんど同じ用語さえ使っています:「世界の自然林は非常に高い率で他の土地利用に転換され続けている」[8]

  これはぼくの森林の章冒頭部について、驚くほど選択的な引用だ。ここでぼくは、WRIもWWFも、森林がほとんど絶滅寸前だという印象を与えるような物言いをしているのだ、ということを述べている (pp.188-9):

  森林も、ぼくたちが乱開発しているかもしれない再生可能資源のひとつだ。多くの人が、森林は消え続ける一方だと強く信じている。『タイム』誌の環境調査はこんな見出しを掲げた。「森林:世界規模のチェーンソー殺戮」。世界資源研究所は端的にこう呼んでいる。「森林破壊:世界的侵攻は続く」。WWFも似たようなメッセージをウェブサイト上で広めている。1998年の4月まで掲載されていた森林についてのトップページは図59の通り。「地球上に残された最後の森林を保存するためにいますぐ行動を」と書かれている。他のところでは、WWFは「世界の森林は驚くべきスピードで消失しつつある」と主張している。これはWWFの国際主幹であるクロード・マーチンの声明とも一致している。かれは1997年に「瀬戸際の世界森林」というプレスリリースの席上でこう述べた。「世界のリーダーたちに懇願します。それぞれの国に残されている森林を保存するといま誓ってください。世界の森林は存亡の危機にあるのです」。また、こうも述べている。「世界の森林地帯は、面積的にも質的にも著しい低下を見せている」。ワールドウォッチ研究所は「森林破壊は過去30年にわたり加速する一方だ」とまで述べている。

 でもこんな主張をする根拠はない。世界的には、森林に覆われた地帯の総面積は1950年からあまり変わっていないことが図60を見ればわかる。世界の森林についての未来予測(21世紀中)は図150にまとめられている。最も悲観的な予測では2100年までに20パーセントの減少という結果が出ているものの、ほとんどのシナリオでは森林地帯の面積は変わらないか、いくらか増加さえしている。

  WRI/WWF が自分たちの主張についてはほっかむりしていることに注意。従属的な部分だけをとりあげている。でも、ここですらかれらは、数字に関するボクの批判に応えようとしない。まあわからないでもない。1992年のリオ・サミット前後でのクロード・マーチンの発言と、ここでの国連の数字を見れば――マーチン/WWFの主張とは裏腹に――森林消失の速度は下がっていることが示されているからだ (1980年代には、森林消失は1990年の森林面積推計値によるけれど年率1920万haまたは1240万haだった。それが1990年代初期には年間1120万haになっていた。p.190 図60のFAOの出所を参照).

  ロンボルグがこれに反する主張をするのは、森林面積の変化を世界の総陸地面積の割合で表現するやり方からくるものです。この手口では、何百万haが1パーセント以下の数字になってしまいます。

  いいや。冒頭の段落からもわかるけれど、ぼくの主張は世界の森林が消失寸前だというのがまちがっているということだ。なぜなら「世界的に見て、森林に覆われた地帯の面積は1950年からあまり変わっていない」からで、森林面積は実は2100年まで増え続ける見込みが高いからだ。

  かれはまた、まったくちがった種類の森林(一次森林と二次森林、熱帯林と北方林、植林と天然林)をいっしょくたにして、主要なトレンドが見えないようにしてしまいます。[9 森林に関する章を通じて、ロンボルグは各種の矛盾したFAOの森林データを引用し、読者のためにどれを区別したり、どれがいちばん信頼できるかを示したりしません。森林に関するかれの最初のグラフ (p.190の図60) は、農業目的で作られたFAOの時系列データを大きく取りあげていますが、これはまさに、森林の評価には信頼性が低いということでFAOがもうデータを使わなくなったものです。FAOの森林データは理解しにくいものです。これはロンボルグの注を見てもおもしろいほどよくわかります。注767でかれは、閉鎖森林を森林被覆の20パーセントとしていますが、実は木のキャノピーが地上面積の20パーセント以上を覆っているところです。もっと重大な点として、かれは国連が1995年と1997年に世界森林調査をおこなったとしています(p.190)。実は国連は、森林調査は10年に一度しか行いません。1990年の調査結果が数学モデルにもとづいて1995年に更新され、その結果が1997年に森林現況報告で刊行されたのです]

  まずは、ちがった種類の森林をいっしょくたにしているという話。ちなみに、ここについている注は、いっしょくたにしている様子をまったく記述していない。でも、ぼくが冒頭部で総森林について話をしているのは、それがまさにWWFのやっていることだからだ――「地球で最後に残された森林」等々、と言って。でももちろんぼくは、森林にもいろいろあることを論じている (p189):

  もちろん、何をもって森林と呼ぶかを決めるのは難しい。密林からサバンナ、低木のステップまで、段階的な遷移があるからだ。辺縁部に近付くほど木々が低くなり、まばらになるのと同じだ。それに、ブラジルの雨林をデンマークのブナ林やアメリカの植林地と比較するのも実に難しい。それでもそんな比較を敢えてするなら、世界の森林地帯に関する最高のデータをまとめたのが図60だ。でも、これが状況の大まかな雰囲気を伝えるものでしかないことをよく覚えておく必要がある。

  そしてそれらの役割がちがうことだって、ぼくはちゃんと書いている (p192):

  温帯林のほとんどは北アメリカ、ヨーロッパ、ロシアにあり、過去40年にわたり拡大を続けている。その一方で、とても多くの熱帯林は消失しつつある。熱帯林にはすごくたくさんの動植物が住んでいて、バイオマスとしてもずば抜けて大きい。熱帯林の中の湿った部分である熱帯雨林だと、わずか数百平方キロメートルに何百種もの樹木が存在することもよくある。これとはまったく対照的なのが北方林で、カナダの北方林には1,000平方キロメートル強の広さにわずか20種ほどの樹木しかない。

  ぼくが単にデータをいっしょくたにしているという主張は、文を読んでもらえれば、まったくあたっていない。ぼくが「各種の矛盾したFAOの森林データを引用し、読者のためにどれを区別したり、どれがいちばん信頼できるかを示したりしません」というのもまちがっている。本文では、各種の時系列データについて説明して、各種の定義について最長の巻末注を参照するように述べている。

  でも、 WRI/WWF も正しい点はあって、ぼくは注767でいささか不十分な形で「先進国では20パーセントの森林被覆で発展途上国では10パーセント」(p.648) と書いてしまった。これは明らかに翻訳がまずかったせいだけれど、これがぼくの理解不足を示すように言い立てるのは、あまりにひどいんじゃないか。同じ注767のすぐ次の文で、ぼくは正しい定義を述べている。「新しい1990-2000年推計は、10パーセント森林という共通の定義に基づいている (0.5 ha以上で、キャノピーがその面積の10 パーセント以上を覆っていて、しかも主に農業・都市的な土地利用ではない土地, FAO 2001c:23)」そして注770でもまた、正しい定義を繰り返している:「森林の「正しい」定義が何かという議論は昔から続いている。 FAO は定義を三種類持っている (たとえば WRI 1996a:222-3; FAO 1999bを参照): 「森林 (Forest)」「森と林地 (forest and woodland)」「森林とその他樹木地 (forest and other wooded land)」だ。「森林 (Forest)」は閉じた森林だけで、10--20パーセント(先進国では20 パーセント、発展途上国では10パーセント)のキャノピー被覆があるものだけを扱う。」

  しかし世界の一次熱帯林――自然生命の大いなる停泊地――はすさまじい勢いで消失が続いています。二次温帯林の再生や、植林地の増大は、種の喪失などの生態的な影響を補うものとはとても期待できません。

  熱帯/北方林については、ぼくはWWFに同意しているし、本書でもまさにそれについて指摘している (p192):

  温帯林のほとんどは北アメリカ、ヨーロッパ、ロシアにあり、過去40年にわたり拡大を続けている。その一方で、とても多くの熱帯林は消失しつつある。熱帯林にはすごくたくさんの動植物が住んでいて、バイオマスとしてもずば抜けて大きい。熱帯林の中の湿った部分である熱帯雨林だと、わずか数百平方キロメートルに何百種もの樹木が存在することもよくある。これとはまったく対照的なのが北方林で、カナダの北方林には1,000平方キロメートル強の広さにわずか20種ほどの樹木しかない。

  FAOの直近の森林推計では、世界の残った自然熱帯林のうち、8.7%が過去10年だけで恒久的に他の用途に転換されているし[10]、この数字ですら、伐採されたり焼かれたりしても再生するに任された森林を無視しているので、生態的な真の損失を過少に評価しています。

7. 生物種の絶滅

ロンボルグの比較的短い生物多様性に関する省は、環境保護論者やメディアが種の絶滅速度を大幅に過大申告してきた、と主張します。ロンボルグは、種の絶滅が自然絶滅率の1500倍の速度で起きているということを不承不承認めますが[11]、かれは繰り返し、ノーマン・マイヤースによる4万種が毎年絶滅しているという推計をやり玉にあげます。

  別にぼくは生物種の絶滅が自然絶滅率の1500倍だということを「不承不承認めている」わけじゃない――いまの最高のデータではそうなっていると指摘しているのだ。「不承不承認めている」という言い方は、これをデータや科学に基づく論争ではなく、政治的な議論にしようとするものだ。

  しかし年間の種の絶滅をロンボルグの数字で計算してみましょう。ロンボルグの挙げる種の数を使い、ロンボルグ自身の注に出てくる絶滅速度を適用してみます。するとマイヤースの推定値は、見事にその範囲内にあるのです [12 FRA 2000 概要版では、1990年代には1.61億haほどの自然林が失われ、その大半 (1.52億haまたは 94%) が熱帯林だったと述べられています。FRA 2000 は、地球の森林被覆を39億ha程度とし、その95%が「自然林」としているので、自然林は37億haくらいとなります。そしてその47%、つまり17.4億haが熱帯にあります。1990年代に失われた1.52億haの自然熱帯林は、17.4億haの割合で見ると、8.7%になります]

  この注は明らかにまちがっている(注10を繰り返してるだけだ)けれど、どうやら WRI/WWFが言いたいのはこういうことらしい:種の数なんてどうせはっきりわからないんだし(160万種から1億種までいろいろ)、毎年死んでいる生物種の数は、全生物種の一部なんだから、最初の生物種総数の推計値を十分大きく見てやれば、年に4万種という数字だって出てくるでしょう。これは確かに数字の上では可能だけれど、でも明らかに関係ない話でもある。マイヤースが推計を行ったのは、種の数が最大で500万、という想定のもとでだったし、たぶん推計値は20倍くらいまちがえていたのだ。だから1億種いることにすればマイヤースの数字は出てくるけれど、でもこんなのは単なる Pyrrhic な勝利だし、はっきりいって WRI/WWF がこんな古くてはっきりまちがった推計値にしがみつきたがるというのは、不思議だしちょっとがっかりさせられる。

  生物種がどれだけあるか実際のところはわからないんだから、生物多様性での重要な議論は、たとえば50年間での絶滅比率であるべきだ。ぼくがやったのはそれだし、この点でマイヤーズはやっぱり大幅にまちがっているのだ。

8. 気候問題

ロンボルグの著書は、気候について大きな主張を二つ行っています:

  1. 気候システムへの潜在的な (potential) 変動はそんなに大きくない
  2. 気候変動抑制策は、とんでもなく高価になる

  ぼくは、気候システムについて起こりそうな (likely) 変動が、IPCCシナリオの低/中の限度くらいになりそうだと論じているだけだ。潜在的な変動が大きくないなんて主張するのはばかげているし、それについては潜在的に大災厄となるできごとに関する議論でも述べている (p315-7).

  ロンボルグは、気候シナリオのもとになったモデルの正確さを疑問視し、地球温暖化で洪水が増えたりしない、なぜなら(将来の)もっと豊かな世界は自衛できるからだ、と主張します。

  この文は、二つのまったくちがった論点を混同しているようだ。ぼくは確かに、IPCCの使うモデルが気温上昇を誇張しがちだと述べている、いくつかの可能性のある負のフィードバックが組み込まれていないからだ。でも、WRI/WWF はぼくの議論に反論しているわけじゃなくて、それを単に指摘しているだけだという点に注意。

  地球温暖化が洪水を増やさないという主張は、こうした洪水を予想するモデルが(不当にも)豊かな政府が海面上昇に対して洪水保護に投資をしないという想定をしている、ということを指摘することで書かれている (p471-4):

  まず地球温暖化は海面が何メートルも上昇するとか、南極の氷冠が溶けるといった話と関係づけられる。『ユネスコクーリエ』の記事は、大きな氷山が離れる光景を見せて問いかける:「地球温暖化は極氷冠を溶かしてしまうのか?」

  でも、こんな心配にはまったく根拠がない。そりゃ確かに最初の頃のモデルは、極端な海面上昇を予想していた。でもその予想値は、その後どんどん下がってきているのだ。地球の水面レベルは、過去100年間で10-25 cm上がってきたし、図137でもわかるように、ここ100年間でさらに31-49 cm上がると見込まれている。こういう海面上昇の約4分の3は、水が暖かくなって膨張するからであって、氷河が溶けたり、極氷冠流出の増加によるのはたった1/4だ。それでもグリーンランドは21世紀にはほとんど影響を及ぼさず (2.5 cmほど)、南極大陸は実はむしろ、海面を約8 cm下げるほうに働く。

  でも、海面が上昇することで、洪水に繰り返し襲われる人が増えると見込まれている。IPCCは、もし海面が40cm上昇するなら、海面上昇がない場合と比べて、洪水リスクにさらされる人は――適応対策にもよるけれど――2080年代には年間で7,500万人から2億人増えると見積もっている。ところが、こういう数字の背景にあるモデルを検討すると、いくつかわかることがある。まず、このモデルは一定の(海面上昇に対する)保護下で、海面上昇がないリスク人口を見る。人口は増えるから、リスク地域に住む人口も増えて、結果としてリスク人口は今日1,000万人なのが、2080年代には3,600万人まで増加する。けれど世界がずっと豊かになるから、海面上昇に対する保護措置にももっとお金を出せて、結果としてモデルは、保護強化により2080年代のリスク総数はたった1,300万人だと示している。

  次にモデルは、40cmの海面上昇と、一定水準の保護の場合を考えている。すると2080年代のリスク人口は2億3,700万人となる――IPCCが引用している約2億人の増加というのがこれだ。でも、ずっと裕福な世界が海面上昇に対して何も保護しないという想定は、どう考えてもあんまりだ。だからこの数字は、そもそも「IPCC政策立案者向け概要」に含めること自体がちょっとおかしいんじゃないだろうか。そこで最終的にモデルは、40cmの海面上昇と保護の増強を考えて、2080年代には9,300万人がリスクにさらされると示す――海面上昇のない場合より8,000万人多い。ところが、この数字は相変わらず非現実的だ。なぜかというと、モデルの想定では「保護の水準は海面上昇のない場合に対する保護レベルだけを考えるものとする」と明記されているからだ。世界がずっと豊かになって、途上国が少なくとも今の先進国並の豊かさになるのに(図149)、海面上昇への対策が、実際の海面レベルじゃなくて、80年前の海面レベルにしか対応しないと考えるのは、不合理もいいところだ。それに海面上昇に対する保護総コストはかなり安い。ほとんどの国ではGDPの0.1パーセントと見積もられている。ただし小さな島嶼国ではGDPの2、3パーセントに達するかもしれないけれど。

  結果として、豊かな国は(実はほとんどの国が、21世紀末までにはこの区分に入ってしまう)この程度の低いコストをかけて国民を守るから、事実上誰も、毎年洪水にさらされたりはしない可能性のほうが高そうだ。だからって、別に海面上昇が高くつかないってことじゃない――そんな保護強化コストを払わないですむような社会に住めれば、それに越したことはない。だから後で、海面上昇コストやその他もろもろの地球温暖化コストをまとめて考え、問題が全体としてどのくらいなにかを見極める方法について考えよう。

  同じように、IPCCは「政策立案者向け概要」で「たとえばエジプト、ポーランド、ベトナムなどの個別の国にとっても、沿岸域のインフラが海面上昇により被る潜在的な被害は何百億ドルにものぼる」と述べるけれど、かれらはこうした損失が絶対に起きないということを無視している。エジプトの場合、350億ドルの損害という見積もりは、エジプト第二の都市アレキサンドリアの3割が水没するのに、政府が手をこまねいて何もしないという想定に基づいたものでしかない。残念ながら、分析はこういう損失を避けるコストを見積もってくれない。ポーランドの280億--460億ドルという見積もりも、100cmというすさまじい海面上昇により、都市や農地が水没するという想定からきている。でもポーランドの分析を見ると、このものすごい洪水に対する全面的な保護でさえ、ずっと安い61億ドルですむことになっているし、もっと妥当な海面上昇水準として30cmを想定すれば、全面保護コストは23億ドル、部分的な保護ならたった12億ドルしかかからないことがわかる。要するにここで見えてくるのは、高価な水没を防ぐために、みんな比較的安あがりな対応策を講じるだろうということだ。

  まとめると、ぼくたちは人類が歴史を通じてずっと、問題に対応してきてそれを乗り越えてきた、という事実に絶えず注目してやる必要がある。実は過去1世紀でもかなりの海面上昇があったけれど、人類はちゃんとそれに対応できている。IPCCがエグゼキュティブサマリーで述べているように、「人間の居住地は、適切な計画と先見の明、それに適切な技術、制度、政治的な能力さえあれば、気候変動に最も簡単に適応できるセクターの一つだと考えられる」。だからこそ『USニュース&ワールドレポート』がみんなに思いこませたがる「世紀半ばまでに、今マイアミのサウスビーチに並ぶしゃれたアールデコ風ホテルは水浸しになり、放棄されたままとなるかもしれない」なんてのはまったくあり得ないのだ。2050年までの海面変化は、人類が過去100年ですでに経験した変化(図137)を超えるものじゃない。1920年代や1930年代のアール・デコ調のホテルがこれまでに経験してきたのと同じ程度の変化でしかないのだ。さらに海面上昇は21世紀を通じてゆっくり生じるものだから、経済的に合理的な先見の明により、保護が行われるのは保護コストよりも価値の高い物件だけで、コストが便益を上回るようなところは対応が見送られるだろう。だからIPCCはアメリカ全国での保護総コストと1メートルの海面上昇(2100年推計の倍以上)による財産放棄コストを合計して、21世紀を通じて50億--60億ドルくらいと見積もっている。適切なマイアミ保護コストは、この金額が21世紀全体を通じてのもので、しかもマイアミの分はそのさらにほんの一部でしかないことを考えると実に小さい。これに対して1998年のマイアミビーチの不動産総価値は70億ドル近かったこと、アール・デコ風の歴史的地域はディズニーワールドに続いてフロリダで2番目の観光資源で、年間110億ドルも経済に寄与していることを考慮すると、16cmほどの海面上昇でマイアミビーチのホテル群が水浸しになり放棄されるなんてことは、どう考えても絶対にあり得ない。

  ここでも、WRI/WWFは別にぼくの洪水についての議論を否定しているわけじゃなくて、単に指摘しているだけだというのに注意。

  かれは経済研究を選び抜いて、「二酸化炭素排出を大幅にカットするほうが、上がった温度に適応するためのコストを支払うよりずっと高くつく」と結論づけます [13 Lomborg, Bjorn. 2001. The Skeptical Environmentalist: Measuring the Real State of the World (Cambridge University Press: Cambridge, United Kingdom) p. 317-318.]。

  ぼくが経済研究を選んで使っているという記述はまったくないことに注意。そう主張されているだけだ。でも実はぼくは、引用している研究が選択的ではないということを指摘している――実はすべての経済コスト便益モデルは同じ結論を示している (p318):

  これはつまり、ぼくたちが地球温暖化対策で動くとき、とても慎重でなければならないということを強調している。もし世界的な排出権取引を認めなければ、世界は損失を被る。もし11パーセント以上のCO2削減をやったら、これまた世界は損失を被る。そしてこの結論は、単一のモデル出力からくるものじゃない。ほとんどすべての主要コンピュータモデルは、すさまじく乱雑な帰結まで考慮したとしても「最適な政策が、一番早くても21世紀半ばまで無制限の場合より排出量をほとんど抑えないものだというのは驚くべきことだ」。同じように、別の調査の結論では「このモデルが簡単だということは認めるが、それでもそのメッセージは、炭素排出が削減されるかどうかはほとんど関係なくて、排出量や濃度を横這いにするような議定書を避けることが重要だ、というものだ」。最近の概要によれば、こうしたモデルから真っ先に得られる洞察は「早期の大規模な低減は正当化されないことが実証されているようだ」というもの。すべての経済モデル作成者の会議からくる中心的な結論は:「現在の評価によれば、『最適な』政策はCO2削減を比較的穏健な水準にとどめるものだとされる」

  ロンボルグは非常に批判の多い経済モデル一つだけにもっぱら依存しています。そして自分の議論に都合よくするため、IPCCが計算した30年にわたる温室効果ガス濃度安定化コストを、1年のコストだとして示しています。

  またまたこの段落は二つのまったくちがった発言を含んでいる。最初のものは、ぼくが批判の多い経済モデル一つだけに依存している、というものだけれど、これは誤解のもとだ。確かにぼくの示すほとんどの数字はノードハウス/ボイヤーのモデルからのものだ。でもこれは最初の地球温暖化に関する費用便益モデルだったし、いまでも一番引用されるモデルだ。でも、同時にぼくは、すべての費用便益モデルが基本的に同じ結論に達しているということをはっきり指摘している (上の引用を参照)。だからあれこれモデルを示す必要はないのだ。

  さて「IPCCが計算した30年にわたる温室効果ガス濃度安定化コストを、1年のコストだとして示して」いるという部分だが――ここは本当に参照文献をつけてもらえるとありがたい。ぼくは本当に WRI/WWF が何のことを言っているのかわからない。ぼくはIPCCの30年分のコストを単年度コストと比べたりなんかしていないぞ。

  人間の意志決定に左右される将来コストの話ですから、絶対確実と言うことはあり得ませんが、アメリカの全米科学アカデミー[14 FRA 2000 概要版では、1990年代には1.61億haほどの自然林が失われ(後略)] やその他[15] による大規模研究は、ロンボルグのものとまったくちがう結論に達しています。

  残念ながら注の14は明らかにまちがっている。注15は、WRI自身のコスト概観だ。でも、基本的な議論は同じだ。すべての統合費用便益モデルによれば、CO2を多少以上に削減しようとしたら、費用のほうが便益を上回る。これは上の引用でも示したとおり。重要な問題は相変わらずこれだし、WRI と WWF はこの問題に直面したほうがいいぞ。

  何千もの権威ある科学者たちが合意した見方は、人間活動が大気の組成を明らかに変えてきて、すでに気候や生物学的資源に目に見える変化を引き起こしており、過去1万年で見られたよりもずっと急速な気候変化をもたらす見込みが高い、ということです。ロンボルグはこの研究をまるごと否定しますが、なぜかれの見方のほうが信頼できるといえるのかはまったく明らかではありません。

  この最後の下りはまったく無根拠だ。ぼくはあの本で、IPCCが気候研究においては最高水準だと思っていることは明記したつもりだったし、科学的に、人間による地球温暖化が現実のものだということも明記したつもりだ。WRI/WWF がこんなウソを言えるというのは残念だ。ぼくはこの点について、地球温暖化の章の冒頭でまとめているのだ (p259):

  この章は、人間による地球温暖化の現実は認めるけれど、でも将来のシナリオをはじき出した手法は再検討して、21世紀末までに気温が6度上昇という予測は非現実的だということを導く。コンピュータモデルの限界、未来の技術革新についての非現実的な基本想定と、政策的価値判断のおかげで、一般向けに示されたシナリオが歪められている、と論じたい。さらに、CO2の即時削減の費用便益を経済的に分析してやると、気候変動にばかり注目した政策よりは、発展途上国の貧困問題解決と、再生可能エネルギーの研究開発に投資したほうが、世界全体としてはもっと有益なんだと論じるつもりだ。

  この先ぼくは――断らない限り――IPCC、国連の気候変動に関する政府間パネルが出した公式レポートの数字とコンピュータモデルを使う。IPCCレポートは、気候変動がらみのほとんどの公共政策の基盤となっていて、環境保護団体が持ち出す各種議論のほとんどの根拠となっている。

  ぼくは、地球温暖化が深刻な影響をもたらすと認めている。「何千人もの高名な科学者達」の研究を軽んじたりもしていない――それどころか、あの章でも本のその他の部分でも、そうした研究をいたるところで使っている。でもぼくは、「地球温暖化について何もしなければいくらかかるのか」という質問と、「地球温暖化について対策を講じたらいくらかかるのか」という(うっとうしいかもしれないけれど、重要な)質問をしている。もし治療法のほうがもともとの害よりもずっと高くつくことがわかったら、地球温暖化の防止への投資を減らして、特に第三世界援助など、もっといい使い道にまわしたほうがいいんじゃないか、たとえばきれいな飲料水や下水処理施設や、その他簡単だけれど重要なニーズにお金を使った方がいいんじゃないか、と尋ねるのは当然のことだと思う。

  もし議論を進めたいなら、WRIやWWFみたいな重要な団体は、ぼくの議論を(ぼくが「研究成果を丸ごと」無視するだけなんていうでたらめを言って)いい加減に否定するのではなく、将来の改善に資するためには世界の限られたリソースを地球温暖化に向けることが本当に一番いいことなのか、という重要な議論に直面する必要がある。

9. 見出し: 慎重に進むべし.

世界資源研究所 (wri) と世界自然保護基金 (WWF) は、新しいウェブサイト(それぞれのホームページからリンクつく)で歪曲した引用、不正確で誤解を招く参照、データの誤用、確立した科学の成果と矛盾する解釈など、ロンボルグの本における各種の深刻なまちがいをさらに記述してゆきます。(訳注:その後、こんなページは結局作られませんでした)

  ロンボルグは、かれが環境保護団体や環境ジャーナリストを糾弾したのとまさに同じ罪で有罪です。かれは恨みを晴らそうとしていて、そしてこの種の扇動文書の伝統に実に忠実にそれを実行しているのです。

  読者はこの本を慎重に読んで、その発言を信頼できる権威に問い合わせてみるべきです。ジャーナリストは読者や編集者たちにもそうするように薦めるべきです。

  だれでも慎重に進むべきなのは当然だ。ぼくの本についても、 WRI/WWF の議論についても。だからこそ、ぼくはすぐ手に入る参照文献をすべて挙げて、読者自身がぼくの主張の正しさを確認できるようにしている。

  WRI/WWF がわざわざぼくの本を検討してくれたのはありがたい。たぶんかれらがここで指摘したのはぼくの最悪の見落としやまちがい、あるいはとんでもないウソなんだろう。これが「歪曲した引用、不正確で誤解を招く参照、データの誤用、確立した科学の成果と矛盾する解釈など、ロンボルグの本における各種の深刻なまちがい」だらけだということを示せているかどうかの判断は、読者に任せたい。

  ぼくの見たところ、 WRI/WWF はまちがいを三ヶ所指摘したし、書き方のあいまいなところを2ヶ所指摘した。 (訳注:これらのまちがいは邦訳ではすでになおっている)。

  もちろんこうしたまちがいは残念だし、ウェブサイトでは訂正しておいたけれど、でも深刻なものは一つもない――その周辺の記述のインパクトすら変えない。海洋生産が100パーセントではなく60パーセントしか増えなかった、ということは、生きた地球指標が下がるといくつか重要な領域(たとえば海洋生産)における生産が下がるというWWFの主張に相変わらず疑問を投げかけるものだ。同じく、キャノピーの被覆のまちがいは単に言葉尻で、正しい定義は二回もその同じ注と、その次の長い注で述べられている。農業以前からの森林の消失推計が 20パーセントから 20-25パーセントになったからといって、WWFによるすさまじい62パーセント消失はやはり疑問視される(ちなみにこの数字はWRIすら認めていない。かれらは上限として50パーセントの消失を挙げている)。

  ぼくにとっては、こういう些末なまちがい3ヶ所と些末な訂正2つが行われたのはよいことだけれど、でもこれらの問題だけではWRI/WWFがぼくの本について述べるような「歪曲した引用、不正確で誤解を招く参照、データの誤用、確立した科学の成果と矛盾する解釈など多くの深刻なまちがい」というきわめて深刻な主張を支えることはまるっきりできないように思える。さらに、9つの論点を見る中で、ぼくは憂慮するほどにまちがった主張をかなりたくさん指摘してあげた。ぼくとしてはいずれ、WRI/WWFが折りを見てこれを訂正してくれるといいなとは本気で思う。

  まとめると、WRIと WWF はぼくの本が「歪曲した引用、不正確で誤解を招く参照、データの誤用、確立した科学の成果と矛盾する解釈など多くの深刻なまちがい」だらけだと考えている。でもこの長い批判文で、ぼくの事実関係について深刻な指摘が一つもできていないという事実は、なかなかに意義深いように思える。もしぼくがそんなに大間違いをしているなら、それをひっくり返すのはずいぶん簡単なはずだ。かれらがそれをまったくできていないということは、どうもぼくの議論をむしろ強化していることになるんじゃないだろうか。

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