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0 山形浩生の『ケイザイ2.0』

第12回 投げ銭と青空文庫と:電子テキストについて考える

text: 山形浩生



●投げ銭運動の不満

 まえにこのHotWired Japanでもインタビューを受けていた、ひつじ書房の松本功って人がいる。
 この人は、ホームページの投げ銭運動というのをやっている。そのHWJでのインタビューも、まさにそれがテーマだった。復習しておくと、これは各ホームページごとに、きた人が10円とか20円とか、ちょっとした額のお金を払えるようなシステムをつくろう、という話だ。これがうまくまわるようになって、ネット上で文章を発表したりしている人が、そこから直接お金を稼げるようになると、いまの紙メディアとはち がう形での著者・読者の結びつきができるし、そうなればいまは商業的に成立しないので本にならない文章でも(たとえば学術書なんかね)、お金がとれて、書く人ももっと出てくるようになる、という話だ。

 考え方としてはフンフンなるほど、という感じだ。けれどそれが現在、かれが期待していたほどは盛り上がっていない。そしてかれが当然賛同してくれると期待していた青空文庫の関係者も、なんだかいい顔をしていない。青空文庫というのは、著作権がきれたか、あるいは著者がそれを行使しないと宣言したテキストを電子化してフリーで公開しているプロジェクトだ。そういうところが、それで松本は、かなりフラストレーションを感じているようで、ちょっとグチっぽいことを言っている。それがここだ。

かれがここで言っていることは、要するにこういうことだ。「無料というのは不健全だ」なんか価値あるものを提供しているんなら、それに対する対価を胸を張って受け取るべきだ。なのに、せっかくそういう仕組みをつくろうというのを拒否するというのは、なにごとであるか、これはもうイデオロギー的な偏向がかかっているに決まっている!

そしてかれはそこから、Linuxやフリーソフトのバッシングに入る。「LinuxはUnix互換OSにすぎない。(「にすぎない」!!!)ここでやろうとしているのはまったく新しいことなんだから、あんな古いものを再生産しているだけのしろものは参考にならない」
 Linuxにおいては、それがUnix互換であることは、別に後ろ向きではない。既存の資源がそのまま使えるし。それにフリーソフトは、互換ソフトばっかりじゃないんだけどな。
 そして松本がものすごく反発しているのが、特にあの「ノウアスフィアの開墾」に出てくる、「フリーソフトに協力するハッカーたちは、生活の苦労がないので金銭的報酬がなくても名声を求めて協力する」という部分。「残念ながら、書き手も、編集者も、生活に困っているのが実状だ」。いや、そりゃご愁傷さまだけれど、そうでない人たちはたくさんいるのですよ。このぼくみたいに。さらに松本は、Linuxの開発者たちは、どっかのお殿様に召し抱えられるために果たし合いを演じているんだという……あなた本気? Linuxや各種フリーソフトの作者のほとんどは、それをきっかけに転職したりなんかしない。「生活の苦労はないんだ」って言ってるではないの。お金をもらわなくてもいいんだし、転職先だって無理して探す必要はないのよ。このあとで松本はまた、ノウアスフィアの開墾で、フリーソフト開発者たちをアカデミズムの終身職の研究者にたとえた部分にも、ものすごく反発する。「いまは国立大だって独立法人化しようとしているんだから、終身職を前提にしてる議論は甘い」いやだからさ、それはたとえであって、Linuxやフリーソフトの開発者がみんな終身職を得ているわけじゃない。みんなふつうの会社でふつうに(クビになるかもしれない)仕事についておるのよ。それにしかもアメリカでは、終身職は別に危うくなってなんかいないのだ。


●「さもしい」という感覚

たぶんここにはいくつかポイントがある。
 一つは、青空文庫とLinux・フリーソフトと投げ銭、ということについてのお話。
 松本がなぜ青空文庫を「投げ銭にもっとも近いと思われる」と考えているのかはわからない。電子テキストを読者が直接サポートするシステムだから、だろうか? でもプロジェクト全体として考えたとき、ぼくはあんまり近くないと思う。青空文庫の人が、Linuxを引き合いに出すのは当然だ。
 ポイントは2つ。目標と、そして「作り手・受け手」の差という点だ。
 松本は、書き手にお金が入ることを目標としている。いや、それはテキストの継続的な生産を確実にするためのステップなんだ、といっても、でもそのための唯一の手段は、読者から何らかの形で書き手にお金がいくことだ、というのが投げ銭の基本的な前提だ。
 でも、青空文庫のボランティアたちも、Linuxなどフリーソフトの協力者たちも、自分たちにお金が入ることを目標としていない。かれらの目標は、自分の使っているソフトが向上する、使えるテキストの総量が増えることだ。そしてそのためには、お金をもらって自分のインセンティブを高めるよりも、それをあげてしまって他人を圧倒して、その人を引き込むほうが効率が高い。「ノウアスフィアの開墾」というのは、そういうことを言っている論文なのだ。
 さらに青空文庫やフリーソフトは、「作り手・受け手」というのがはっきりわかれていない。読みたい人、使いたい人が、往々にして作る人でもある。ところが投げ銭が念頭においているモデルでは、この両者ははっきりわかれている。両者がわかれていなければ、受け手から作り手へのお金の還元というのは本質的な問題ではなくなるから、投げ銭というのは大した意味を持たなくなってしまうのだ。

 さらに、投げ銭がそんなにいいか? 郵便振替ではダメなの?
 青空文庫なんか、もし松本的な「市民が支えるナントカ」というのをやりたければ、「みなさんからの寄付を募集。この郵便振替口座までどうぞ」というのを作っておけばよいだけだと思う。企業の寄付や協力は得ているようだし。

 松本の議論は、みんな5000円の本は買わないけれど、短い文を読んで10円20円なら気軽に払うんじゃないか、というのが根底にある。だからおそらく、そんな手間をかけるやつはいないだろう、とかれは言うかもしれない。でも、5000円ふりこんでくれる人が一人いれば、それは投げ銭で10円くれる人の500人分に相当する。そこで10円20円くれる人相手に目の色変えることにそんなに意味があるか? やってみないとわ からないところはあるけれど、でも青空文庫くらいになったら、たぶん5000円の寄付をつのるほうがよっぽど有効だろう。個別の文にいちいちせこい金払うのもアレだが、青空文庫すべてに対して1000円くらい払ってやろうか、と思う人は、ぜったいにいっぱいいる。

 そしてお金を要求すること、されることについての心理的な障壁はある。昔コンピュサーブに出入りしていた頃には、プログラムをおぼえたてのガキがクズみたいな電卓ソフトを作って「シェアウェアです、気に入ったら10ドルください」とか書いてアップロードしてやがって、ふざけんなっつーの、こんなクズみたいなプログラムで、「気に入ったら」だろうとなんだろうと金とろうなんて、ふってえやつだ、と一部でかなりたたかれていた。別にぼくも、それにお金を払った訳じゃないけど、でもそれを、条件つきであっても要求されたことについては、むかついた。マッキントッシュ系のシェアウェアでも、シェアウェア料をあまりしつこく要求するものはかなり反発をくらっていた。小銭ではあっても、金をくれということ、言われることにはそれなりの心理的なハードルがあるようなのだ。いわゆる「さもしい」という感覚だ。

 もしある文章がほんとうにお金がとれるくらい価値があるものならば、「価値があると思うやつは5000円振り込め」というので成立しなくてはいけない。そうだろう。布施英利は、実際にそれをやっている。おれのメールマガジンのようなものが読みたければ、コレコレのお金を払いなさい、というわけだ。投げ銭運動というのは、本当に極端なことを言うなら、ある意味でそれができないのを自覚したloser文章が、「まあ10円20円くらいなら、もしかしたらみんな払ってくれるかもしれない」というさもしい根性をむきだしにしているのだ、という感じも、ぼくは持っている。投げ銭要求ボタンをつけたとたんに、なんかページがものほしげでさもしくなるような気分がある。

 これがなんなのかはよくわからない。文化的なものも関係しているのかな。アジアやアフリカにいくと、とりあえず「くれ」と言ってみる、というような感覚があって、それはまああたりまえなことになっている。でもそれをやられると、欧米人やすでに西洋化した日本人は、かなりうろたえたり怒ったりする人が多い。それが正しいとかまちがっているとかいう議論はある。ほしいものをくれ、というほうが素直でストレートなのであり、それを隠す西洋文化のほうが偽善的で鼻持ちならない、とかね。まあそうかもしれないけれど……でもそういう感覚はまちがいなくあるのだ。


●成功する電子テキストとは・・

 電子テキスト、というのはみんな思いつくアイデアだけれど、よくわからないことがいっぱいある。中身を充実すれば……と思うんだけれど、でもそうは問屋がなんとやら。村上龍の有料サイト『tokyo Decadence』は、どうやらあまり成功しなかったらしい。村上龍ですらそうだ。アメリカのオンライン雑誌に、Slateというのがある。すっげえ雑誌で、執筆陣は超豪華。経済コラムはクルーグマンにランスバーグだもの。時事ニュースもレビューも、充実しまくりでほとんど毎日のように更新している。これもフリーではじめて、一年くらいして有料に移行して、でも半年ほどでまた無料にもどってしまった。あれほどの水準のものですら、有料運営はあまりうまくいかない。なぜだろう。一号あたりでは、日本のくだんねー週刊誌並の値段でしかないのに。

 一方で、布施英利がそこそこうまく自分のメールマガジンみたいなものを運営できているというのは、あれはなんなんだろう。大した中身じゃないのに。

 ぼくにはよくわからない。それが希少性と関係しているような気はしなくもない。紙の雑誌だと、買いのがすと手に入らない、というのがある。本もそうだ。でもオンラインの場合、いつでも戻ってくればいいや、と思ってしまうのがあるのかな。

 あともう一つ。ぼくが完全にフリーで訳して公開している「伽藍とバザール」はこないだ紙の本になってしまった。オンライン版があるのに売れるわけない、と内心思っていたらさにあらず、こんど増刷までされる。わおう。「会社、つぶれてしもたがな!」という名作オンラインノンフィクションがあって、それもオンラインで読めるのに本になってかなり売れたはずだ。デジタルテキストでも、投げ銭以外でお金が入ってくるような仕組みはあり得る。それは松本の期待する「まったく新しいシステム」ではないけれど……でも投げ銭そのものだって、実は昔からある大道芸システムではないの。かれの投げ銭でうまくいくものもあるんだろう。でも、ぼくにはそれがどういう性格の文章にとって有効なのか、いま一つ理解できないでいる。


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