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WHITE

HB 2002.04 表紙
Harper's Bazaar 日本版 19 号(2002 年 04 月)

山形浩生



   あれはなんだったろう、ナボコフの短編に、色鉛筆のエピソードが出てくる話がある。子供の頃に色鉛筆のセットを買って、どの色もちびて行くのだけれど、何の使い道もない白だけはいつまでも残っていた、という話。「いや、いつまでもではなかった。一度使ってみたら何も書けないまやかし物どころか、めちゃめちゃ書いても何でも好きなものを書いたつもりになれる、とわかって一ばん理想的な道具になった」(中西秀男訳)。そうだ、「マドモワゼルO」だ。ぼくは、この部分が印象に残っている。自分の体験と似ているからだ。

 絵を描くとき、たぶんいくつかハードルがあって、第一段はたぶん人間を肌色(と今ではもう言わないそうだけれど)以外で塗れることを悟り、水をすべて水色で塗らなくていいのだということを認識した段階、次が遠近法を理解した時の衝撃、そして白という「色」に存在意義があって、単にそれが何もない色じゃなくて、白であることに積極的な意味があるのを悟る、そんな段階じゃないか。遠近法を覚えた直後にひたすら地平線まで線路が延びるような絵ばかり描いていたのと同じように、ぼくは白の意義をおぼえた時には黒い紙を見つけては影だけ残して白い建物を描いたりして喜んでいたっけ。ひたすら黒い紙を白鉛筆で塗って白くしたり。そして一時、すごく熱中したのがそこらの紙の字を白鉛筆でなぞって消し、真っ白い紙にすることだった。まさに「白紙に戻す」。ぼくの手元にあった色鉛筆は妙に粘っこい芯で、そういうことができたのだった。

 尾辻克彦「雪野」には高校の美術部員がユトリロに感心する話が出てくる。で、みんなユトリロっぽい絵を描こうとして失敗。そこへある部員が、ものすごく太い白の絵の具を買ってきて、それを思いっきりキャンバスナイフ(いやパレットナイフだろうな)にてんこ盛りにして、そのまま分厚くキャンバスに一気に塗り込める。すると見事にユトリロができあがる、という話。ぼくはこれが気に入って、まず水彩絵の具でこれをやろうとして失敗し、初めて油絵の具を手にした時に真っ先にやったのもこれだった。とにかく、白い壁のある建物を描いて、キャンバスの真ん中に思いっきり分厚く白を塗って「建物の立体性を表現」と称してみたり、友だちと絵の具の厚みだけを競ってみたり。今にして思えば、なんでもかんでも白に戻すのが好きだっただけだな。ひとしきり描いた絵の上から白を分厚く塗って「純化」と題してみたり。

 思えばその後もそんなことばかりやっていたな。OHP のシートにホワイトやリキッドペーパーを均一に塗って、OHP シートをはがして白紙を作ろうとしたり。あるいはホワイトで字を消すとき、字のインキ部分だけにそれを細く重ねる技術を極めようとしたり。情報があるのにそれが見えない――そしてそこに何か別の可能性がある――なにかそういう状態が好きなんだ。

 いま思うと、ぼくがマッキントッシュに惹かれたのもそこかもしれない。マッキントッシュは一般向けコンピュータとして初めて、白地に黒い字が標準となったマシンだ。そしてマックのソフトでは、字を白くして、見えなくしてしまえた。長い文書を作ってから、字を全部白にする。それをずっと、何ページも何ページもスクロールする。そこにあるはずの字は見えなくなり、そこにあったかもしれないいろんな可能性が、その間だけ浮かび上がってくるような気がする。

 いまでもぼくは、よくそれをやる。長い文章を書いてから、それを全部白い字に変える。そしてその白紙をしばらく眺める。もっと、別のものが書けたんじゃないか。ほかの可能性があったんじゃないか。ナボーコフの主人公が、白い鉛筆で描いた絵に見たような可能性を、ぼくはスクロールする白い画面に見る。

 そしてそれを、ぼくはこうして黒字に戻す。この黒字の文章は、あの白紙の可能性を超えられただろうか。

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