ちょうどこれを書いている頃、ぼくんちの近くでは八重桜が散り盛りで、近くの歩道は一面桜の花びらで敷き詰められているのだ。深夜過ぎまでの残業を終えて、終電で最寄り駅までたどりつき、やっと晩飯を食ってから家にもどるまでのその道は、夜中一時をまわるともう誰もいない。ここ数年、毎年年度の変わり目あたりは厳寒のモンゴルだの、実に快適なマグレブ諸国だの、ソメイヨシノの満開時には日本に居合わせたことがなくて、でもぼくはソメイヨシノの軽薄さというか、花としての存在感のなさがあまり好きじゃなくて、うちの近くになぜかいっぱい植わっている八重桜のほうが重厚で好きだ。でもこれを見るのも、二年ぶりか。桜ごしに街灯がさくら色の光を投げかけて、そしてそれが足下で反射してそこらじゅう一面がぼうっと桜色に照り輝いている。積もった花びらを踏みしめながら、その光と舞い散る花びらを浴びつつ、こうしてたった一人で歩くのは確かにすてきだで、不覚にもああ、日本もいいな、なんて思ってしまったりしたのだ。ちょっとね。ほんのちょっとだけだけれど。
ぼくは、こういうチマチマした箱庭的な自然と戯れていい気になっちゃうのが、実はあまり好きじゃない。アジアの美、とか、アジア的な感性というと、古代シナの一時の自然崇拝ブームを鵜呑みにした人たちはすぐに自然との共生だのなんだのと言い出す。それがアジアなんだと思っている。ウィスキー会社の広告に出てくるようなのが、アジアの美だと思っている(そう、日本で「アジア」というとみんなが連想するのはおおむねシナ文化圏で、かろうじてインド文化圏も入ってきて、中央アジアや中東まで含めて考えてくれる人はなかなかいない)。でもそうじゃない。北京の天安門広場にいくと、その人間離れしたスケールに度肝をぬかれるだろう。むかし、ある小説で、登場人物二人が「天安門広場で待ち合わせよう」「ああ」という会話をする場面があって、ぼくは大爆笑したものだった。あの広い天安門広場のどこで?! ああいう、いまなお続く巨大専制政治を背景にした完全に人工の空間――それがアジアの美だ。
あるいはアンコールワット。みんなアンコールワットの写真を見てはいるけれど、あれがどんなにすさまじいシロモノかは理解できていない。多くの人は、あれを法隆寺くらいのものだと思っている。とんでもない。アンコールワットのお堀は、一辺が二キロあるのだ。あの塔が三本写る位置から、実際にその根本に到達するまで1キロ歩かなきゃいけない。しかもそれを構成している石にいちいちレリーフがしてある――そこにどれほどの労力がつぎこまれたことか。あるいはタージマハール。国を傾けてまでこしらえた専制君主の妻の墓。それはウィットフォーゲルとかが言った、「アジア的専政」のあらわれなんだけれど。アジアの「美」は、むしろそういう謹厳なほどの高圧的で人工的で、巨大な構造物の世界のほうにある。
……のだけれど今日は桜を踏んで、王家衛の『花様年華』を見に行った。それはそれは美しい映画だった。ひたすら背中と足下が映され、そして主演の二人(そしてその他数人)以外の顔がほとんど映されない映画。そこで人々は、いつもすき間で動いていた。狭い階段、狭いビルの谷間の屋台、狭いアパート。狭い廊下。狭いひさしの下。その中で人々は動き、すれちがい、微妙な仕草をかわしながら、やがて思いをひきずったまま別れる。それはアジア的な巨大な構造物が基本にあってこそ存在するすき間の美、でもある。
そして別れた一人が最後にその秘密を託しにでかけるのが、アジア的専政の結晶ともいうべき――そしてそれが自然の前に敗北した証拠ともいうべき――アンコールワットなんだ。映画としては、なんか余計な気もしたけれど、でもそれが何事かを物語っているような気はしなくもない。
HB Japan Tさま
なんかもっときゃあきゃあしたアイドル話でも書くつもりが、ぜんぜんちがう話になっちゃいました。うーん、最後のはぎれが悪くておさまり悪いです。毎度もうしわけありません。あと、さんざん遅れてすみませんでした。
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