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Icon

HB 2001.4 表紙
Harper's Bazaar 日本版 7 号(2001 年 04 月)

山形浩生



 コンピュータのマッキントッシュが普及して、アイコンということばの意味はかなり変わった。というか、そのことばにかなりの具体性が出てきた。漠然として思っていたことが、具体的なアクションで表現されたというのかな。あるいはかたくるしくて、じっと動かなかったなにかが、ある種の行動と反応のペアにむすびついたような感じといえばいいかな。

 マッキントッシュがはやらせるまで、たぶんアイコンということばは英語圏でもそんなに一般的じゃなかったと思う。少なくともぼくの場合、むかしアイコンっていったら(というか、むかしはイコンと表記しかなくて、アイコンっていうのはなかった)、真っ先に連想したのはキリスト教の聖人さんの絵姿だった。それはぼくが当時、タルコフスキー監督の映画をいっぱい見ていたせいかもしれない。タルコフスキーは映画の中に思わせぶりなイコンをたくさん登場させるんだ。聖人さんの絵姿はみんな、眉根をしかめたおっかないものばかりで、それに「イコン」というと、「遺恨」と音が似ていて、なんかとってもドロドロしたわだかまりがあって、とっても重たいことばだった。

 それだけに、マッキントッシュが出てきて、かわいいゴミ箱の絵だのニコニコマークだのが「アイコン」と呼ばれ始めたときにはすごく違和感があった。アイコンという呼び名が気に入らなかったよね、まず。そういう英語かぶれの発音しなくてもよいのに。さらにアイコンの形が、イメージしている聖像画にくらべて実に軽薄に思えたし。衝撃ではあったけれどね。

 そもそもそれをアイコンと名付けたのが、グラフィックのユーザインターフェースを開発したゼロックス社のパロアルト研究所の人なのか、それともアップルのアンディ・ハーツフェルドあたりなのかは知らない。だけれど、人はまあ、なんにでも慣れるものだ。アイコンということばにも慣れたし、その絵柄にも慣れたし、そしてその過程で、イコンというものがそもそも持っていた意味合いも実は再発見されたんじゃないか。そんな気がするんだ。

 マッキントッシュでもウィンドウズでもいい。アイコンをダブルクリックすることで、そのアイコンが表現していた機能なりファイルなりが展開して目の前に表示される。アイコンは、何らかの全体像への通路、窓口だ。しかも単にそれを表現するだけにとどまらない、表象したものと直接的な結びつきをもった存在だ。

 聖像画という意味でのイコンも、もちろんその絵そのものじゃなくて、そこを通じて起動・アクセスされる概念なり信仰の体系なり、そういうものへの窓口として存在しているわけだ。でも、聖像画の場合、実際にはその窓口から奥の信仰にアクセスするのはむずかしい。コンピュータのグラフィックなユーザインターフェースは、その難しさを軽く乗り越えて、それを指先のダブルクリックの感覚と、視覚的な展開のイメージを強烈に印象づけている。

 たぶん本特集のほかのところでは、いろいろ時代のアイコンみたいな人を採り上げているんだと思う。でも、いまの時代のアイコンってだれだろう。こないだはエポックメーカーという人を何人か選んだけれど、アイコンとなるとちょっとちがう、のかな。アイコンが人じゃなくていいのは、マッキントッシュが教えてくれたとおり。いまの時代のアイコンは、人じゃなくて、たとえばパソコンが無数に並んだオフィスの風景だったり、工事途中で放棄された、大規模開発だったり、強制収容所やチェルノブイリの惨状だったりするんじゃないか。

 でも現代のアイコンとしていちばんふさわしいのは、宇宙から見た地球のイメージだろうと思う。地球が一つのかたまりで、政治的にも経済的にも文化的にも環境的にも、ネットでも、すべてが一体としてリンクしている感覚は、たぶんいまの世界のさまざまな課題の中でいちばん中心的なものだと思うし、その感覚を初めて多くの人が獲得できたのが現代だから。

 それはたぶん、21世紀を通じて人間の課題であり続ける。そして地球の姿も、中心的アイコンとして存在し続けるだろう。少なくともぼくのコンピュータのデスクトップには。

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