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エポックメイカー

HB 2001.3 表紙
Harper's Bazaar 日本版 6 号(2001 年 03 月)

山形浩生



 それ以前はよくわからないけれど、少なくとも20世紀ってのは、ぼくは極端の時代だったと思ったりなんかしているのだ。そしてエポックメーカーというのも、ある種の極端を実現したり体現したりした人だと思うのね。

 たとえば共産主義や社会主義。少数の人がいろんなものを独占しているのはよくない。なんでもみんなで共有しよう。あれをやった人たちには、少なくともそういう理想があった。そして、共有なんかしたくない、という人に対して、共産主義や社会主義には答があったのね。大量生産。あらゆるものをみんながいやというほどつくれれば、だれも「これはオレのもの」なんてケチなことを言わないだろう。かれらはその理想をそのまま実現しようとした。

 「龍の子太郎」という児童文学を読んだことのある人は多いと思う。あれはまさにその理想を描いたお話だ。太郎くんのおかあさんは、妊娠中でおなかがへって、イワナを三匹一人で食べちゃう。物資のとぼしい山間部では許し難い大罪だ。だからお母さんは、龍にされちゃう。そしてその話をきいた太郎くんは、そんなのまちがっていると泣く。イワナが百匹いれば、その他食い物がいくらでも豊富にあれば、だれがイワナ三匹ごときで文句をいうものか。そして太郎くんは、湖を干拓して生産力をあげることで、その理想社会を実現する。だからかれは、村の救世主となり、小説の主人公になる。

 もちろん実際にその理想実現のために動いていた人たちは、やっぱりふつうのケチで強欲で無能で自分がかわいい人たちだった。あらゆるものをいくらでも、なんて無理だった。だから結局実現できた社会は、その理想とはほど遠いどころか、ものすごい恐怖社会だった。でも、その極端な理想を追求したマルクスやレーニンは、二〇世紀の(よくも悪しくも)エポックメーカーとして名を残す。

 絵でも、ピカソの持っていたあらゆる視点をまとめてしまう極端さとか、小説でもジェイムズ・ジョイスの持っていたすべてを駄洒落化する極端さとかがある。あるいはセックス・ピストルズの持っていたパンクの極端さ。その極端さのゆえに、かれらはその分野でエポックメーカーとして名を残している。科学テクノロジーでも、インターネットだってある種の極端さの発露なんだ。極端には極端なりのいさぎよさと爽快感があって、それも極端の人たちをエポックメーカーにする一つの要因ではある。極端ならなんでもいいってもんでもないんだけれどね。でも一方で、なんか極端なことをしてみせるだけでえらくなったような気分にひたっている、えせエポックメーカーはよく見かける。

 でも、21世紀は、ぼくはもっと中庸とか穏健とかバランスとか、そういうのが重要になってくるはずだと思っている。経済だって、いまは市場万能主義がまかり通っていてなんでも規制緩和だけれど、だんだんその失敗があちこちで出てきているのね。そのうち、その揺り戻しがくるだろう。それに多くのところでは、もう極端のネタがつきている。ロックの持っていた、若さや過剰なエネルギーの発散みたいな部分は、スマッシングパンプキンズのビリー・コーガンが言うように、すでにもう力を失っているし、ほかでももう極端だけでは市が栄えない。

 だからどういうバランスをとるか、いろんな極端をどう調和させるか、というのがこれからしばらくいろんな面での課題になる。それも極端なバランス、針の先で車を支えるみたいなバランスじゃなくて、ほどほどのバランス。そういうほどほどさは、うーん、ひょっとして今までのエポックメイカーのような爽快さはもたらさないかもしれないけれど……いやどうだろう。もしもたらさなければ、今の意味でのエポックメイカーは今後だんだん少なくなっていくわけだけれど、案外そういうほどほどなバランスに対する感覚というのも、意外と今後できてくるんじゃないかな。そのとき、エポックメイカーということばの意味も変わってくるんだろうけれど。

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