Valid XHTML 1.0!

アート&クリエーション

HB 2001.2 表紙
Harper's Bazaar 日本版 5 号(2001 年 2 月)

山形浩生



 ことばにはいろんなレベルがある。たとえば「ぼくの時計はランゲ&ゾーネです」と言うことばは別にその時計のブランドをすなおに告げたいんじゃなくて、おれは時計マニアでしかも大金持ちだ、という意味だ。落語のオチは、中身よりはおさまりのいい駄洒落がほしい、というだけの話。ことばには、その音から、字面から、表面的な意味、裏の意味、語り口の持つ意味、文脈の中でのいろんな意味、といっぱいレベルがある。その中のどれを活かそうか? どれを捨てるか?

 すべてのものには、こういういろんなレベルがある。そして創造というのは、そういう意味のレベル操作のプロセスだったりする。「むずかしく考えずに、好きなものは好き、いいものはいい、と言えばいい」とか「心のままに創作すれば」とよく言われて、それはその通りなんだけれど、でも一方でいいものがいいとき、それはどこからきているのか。そういう計算なしには何も創れない。

 描き方、とかタッチ、とかそういうレベルでの感動はあるでしょう。たった一本の線をよくここまで豊かに使えた、というような。バランスや配置だけで成立している絵もある。そしてたとえばマグリットやエッシャーの絵は、タッチだの筆づかいだの色彩感覚だのよりそのベースの発想がおもしろい。本来ならエッシャーの絵を見て感激するかわりに「こう、無限ループになってる階段があるんだ」と説明するだけで、同じような感動が得られるはず。それをどう実現しているのか、というところにも多少の工夫はあるけれどね。

 そしてこれからは、さらにそれを分離できる。作品と、アイデアを完全に分離できる。純粋にアイデアだけを記述できるようになるはずだ。

 たとえば映画はCG化が進んでいる。表情、みぶり、仕草――そういうのをいまは人間が動かしながらつくるけれど、そこも自動化が進んでいる。人が犬に変わったりするモーフィングはもうみんなおなじみだけれど、喜びとか、性的な刺激とか、そういうのもだんだんあるコンピュータのプログラムとしてとりこめるようになってくる。そしてそのとき、人はその結果としてできたCGに感動するのと同じように、それを実現したプログラムやアルゴリズムにも感動できるんじゃないか。コンピュータの世界の人は、ほかの人には得体の知れない文字の羅列でしかないプログラムを見て、本気で感動できる。それがアートの世界も浸食できるんじゃないか。

 そしてさらに妄想。ぼくだけかもしれないけれど、ある種の作品を見たときの感動は、脳の前のほうから顔に効いてきて、あるものは後頭部から首筋をつたっていくような、そういう感動の効き方のちがいっていうのがある。たぶんそれはいまの、どういうレベルでその作品なりなんなりに感動しているのか、という話と関係があるのね。

 それがすべて解明されたとき、可能となる感動の広がりというのはすさまじいものになるだろう。そしてそのとき人間はすでに、ボタンを押すように外部からの刺激通りに感動するだけの機械になり下がることになって……なのか。

 実は創造にはもう一つ別の話がある。いままでの話は、既存の意味を切り分けて機械的に再現する話なんだけれど、たとえばナイン・インチ・ネールズの音楽は、わけのわからない雑音とひずみと絶叫のかたまりでしかない。でもそんな、意味なんかなかったはずのところから、いきなり意味のようなものがわき上がってくる。それはもっと背筋とみぞおちの感動だ。なぜぼくたちがそれに感動できるようになるのか。実はアートだろうとなんだろうと、本当にすごいものはそうやって自分で意味と自分が評価されるべき体系とを同時につくりあげちゃうのだ。創造と感動っていうのは、そういうあるものの先鋭化と、ないものの取り込みの両方があって……という話をしたいのだけれどページが尽きた。

Harper's Bazaar index  山形日本語トップ


Valid XHTML 1.0!YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)