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女性

HB 2000.10 表紙

Harper's Bazaar 日本版 1号(2000 年10 月)

山形浩生



 むかし「女性のための」経済解説コラムを依頼されてぼくはずいぶんと悩んでしまったのだった。

 だってふつう「女性のための」というのは、「頭の悪い人のための」とか「集中力がない人のための」とか、「科学や技術がわかってない人のための」とか「自分の身の回りだけで関心が閉じてる人のための」とかいうのと同じ意味なんだもの。もちろん「女性のための」以外にもそういう形容詞はある。「中高年なんたらのための」とか「サルにもわかる」とか。でもそれは、多少なりとも照れまじりと開き直りを込めた表現だ。ところが「女性のための」っていう表現は、ずいぶんバカにした話なのに、言うほうも聞くほうも、実に満足そうな顔で口走る。「女性のための」。それが何か、サービスででもあるかのように。

 「女性のための」。ぼくにはこういう言い方がよくわからない。さっき飛行機に乗るときに買った、ある女性ファッション誌をぼくは何度もめくってみる。いま書いたみたいな、バカにした意味以外のところで「女性とは」とか言うのに何か意味があるのか。もちろん、政治的な意味はあるんだけれど、そのほかに実質的な意味ってあるのか。

 それは単に、ぼくが変なやつで、ぼくの周辺にも比較的変なやつがたくさんいるという、単にそれだけの理由からくるものなのかもしれない。ぼく以外の人はそんなことはもうはっきりとわかっているのかもしれない。世の中、そこらのエロ本から女性誌の恋愛相談まで「女は……」「男は……」なんてせりふだらけ。こういうせりふが出たとたんに、その場の雰囲気はだらしなくゆるむ。そしてそういうことを口走る人は、いつだって妙に自信たっぷりで、すごく断定的なんだ。でもそういうのを聞いて、ぼくは目を伏せてしまう。そこに書いてあることは、自分や自分の知り合いたちにあてはまるだろうか?あてはまるときもあるし、あてはまらないときもある。「男はなわばり意識が強くて」「男はいつまでたっても子どもで」。ぼくはなわばり意識が強いときもあれば、弱いときもある。子どもじみているときもあれば、老獪なときもある。ついでに言うなら、ぼくはとっても女々しいことが多々ある。

  たとえばいまみたいに。

 今回のこの雑誌のテーマも Woman だそうで、ぼくは身のすくむ思いでこれを書いている。ぼくのこの文書のまわりは、ひょっとしたら、「女とは」と自信たっぷりに断言しまくる文章や記事ばかりで、この文章はあたりを所在なげに見回しながら「どうしよう」とおろおろするばかりなのかもしれない。

 「……まあそうね」とここまで読んであなたは言う。

 「まあそんなものなのかもしれない。」あれもあってこれもあって。そう、そういうのもありなんでしょう。でも……いい。こういう雑誌の存在意義は、なんていうかな、それに対してさも何か確実なものがあるかのように、強くイメージを打ち出して旗をふることなのよ。そういう明快さと力強さが、こういう雑誌の機能だし、買う人もそれを求めてるんだ。だれも他人の優柔不断なんかにつきあわされたくなんかないもの。でも実際にはそうじゃない。だれもそんなに確信をもって生きてはいなくて、それがある種の不自然さをつくっていて、それがその確信のなかに不安を持ち込んでいるのね。見て。その微笑、そのちょっとした腕の広げ方。指先のさりげない力の入れ方。そのすべてに不安が宿っている。男である不安。女であることの不安。それがくずれる不安。まわりがくずれつつある不安。その不安に抵抗しなくてはならない不安。女であることも、たぶん男であることも、おまえみたいな優柔不断さと、どこかにあるらしき確信らしきものの間をうろうろして、そういう不安と折り合いをつけようとする、そういうことなんだと思うけれど。それがいいか悪いかはわかんないけど」

 そうなのかも。もうどこまできたろう。遠くで笑い声が聞こえる。

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