山形浩生
GQがレイアウトその他を変えて、書評欄も刷新。というか縮小。1600字が670字ほどになってしまいました。けなして別の本をほめるという方式は好きだったんだが、普通の書評、それも本当に通り一遍のことしか書けない量に。まあしょうがない。
やり方はこれまでとほぼ同じ。毎月、編集担当が候補を5-6冊挙げてくれる。その中から選んでもいいし、また別の本をこちらで選んでもいい。
会社に入ってぼくが(そして同期の同僚たちの多くが)感じたのは、自分の勉強してきたことがいかに役に立たないか、ということと同時に、自分たちがさぼってきた勉強が実は役にたつものだった、ということだった。ああ、あのときあの地味な統計学をもっときちんとやっておれば。法学とはこういうときに役立つのか。その体験もあって、ぼくは子供にははやいうちに仕事に触れさせるべきだと思う。少なくとも、仕事のことを考えさせるべきだと思っている。
その意味で、この村上龍『13 歳のハローワーク』は決して悪い本じゃない。いろんな嗜好に応じて、こんな仕事が世の中にはありますよ、というのを紹介した本だ。正直言って、十三歳ではたぶん理解できない本だとはおもう。書き方もかたくて難しいし。でも、こういう形で世の中の仕事というもののことを考えてもらうのは、悪いことじゃないのだ。高校生くらいが積極的にこういう本を読んで欲しいと思う。もちろん不満はある。例えば、アート関係とか出版関係は妙に職業の切り方が細かいけれど(幼児リトミック指導員なんていう得体の知れないものまで紹介されている)、エンジニアは「エンジニア」で一括りにされてしまっている。そしてたぶん、一番大きいポイントとして、ここに描かれた職業を実践する場の会社ってなんだとか、サラリーマンってどういうものなのか、という話があまりに弱い。正直いって、それなしに起業だNPOだなんて話は無意味だと思う。それを説明しないと、結局こういう本も、小学生の頃の「電車の運転手になりたい」とか「野球選手になりたい」レベルの話で終わってしまうから。
実は、サラリーマンの仕事をきちんと説明する本ってあまりないのだ。サラリーマンが一日中「資料作成」をしているのはなぜか、とか。会社というものの存在意義とあわせて説明する必要があると思うんだけれど、ないなら仕方ない。とりあえず、会社については岩井克人『会社はこれからどうなるのか』を挙げておこう。これは象牙の塔の人が書いた、日本の会社ってものに関するとてもおもしろい本。読んで損はないと思う。一部の見通しには疑問なところもあるけれど。
それともう一つ、網羅的に紹介するのも大事だけれど、何か一分野をおもしろそうと思わせる本を読むことも重要。これはいろいろあるけれど、関満博『現場主義の知的生産法』(ちくま新書)を挙げておこう。これは研究者としてのあり方と、そして中小工場の生産現場で働く、ということの興奮を両方味あわせてくれる良い本。
最後に、『十三歳のハローワーク』関連の余談をちょっと。この本は単なる職業解説以外に、ところどころ村上の見解がストレートに出ている。「評論家」の項に見られる村上の(かなりクールな)文学認識なんかは実におもしろい。そういうところを探して読むのも、この本の楽しい読み方ではある。/p>
(コメント:結構いい本。部分的にはケチがつくけれど、全体としては、そして方向性としては非常に有益な一冊です。)
が……同時に認識しといてほしいこと。それは、ビジネスと経済「学」というものとの関係は、一般に思われているほど親密でも密接でもない、ということだ。
一時、ビジネスマンが国の経済政策にあれこれ言うのがはやったことがある。多くの経済学者はあざ笑った。国は企業とはちがう。国はリストラできないし倒産しない。経済とビジネスはちがうんだし、優れたビジネスマンに国の経済運営ができるとは限らんのよ。
そして経済学者のビジネスセンスのなさ、というのも昔から無数の冗談のネタだ。道ばたに一万円が落ちているのに経済学者は「そんな収益機会はとっくのむかしに使い果たされているはずだ」と言ってそれを拾おうとしなかった、というジョークが有名だ。よい理論家がよい実践家とは限らない。相場に手を出してやけどした経済学者は数知れず。
本書もそれが悪い形で出ている。伊藤元重は最近、なぜか通俗エコノミストとして売り出そうとしているけど、えらい経済学者らしくビジネスセンスはあまりないのだ。どこかの雑誌の企画で、いろんな経営者と対談していたけれど、結局単にお話をうかがって感心してみせるだけ。本書「ビジネス・エコノミクス」でもしかり。
たとえば本書の一番最後で伊藤は、ITについて「顧客の顕在・潜在ニーズにソリューションを提供できる対応が必要」「顧客にソリューションを提供することでそこに大きな付加価値が生まれる」という。さて、この言い方ってあたりまえすぎて無意味だ。今も昔もあらゆる買い物は、何らかの意味ではソリューションだ。おにぎりを買うのは、空腹に対するソリューションでしょ。何がちがうの?
いま偉そうに言われるソリューションってのは、プロダクト(製品)と対比させないと意味がない。製品と同時にその使い方の相談やらもあわせて売れ、ということだ。そしてそれは、ITが単体じゃあまり役にたたない特殊な製品だという背景がある。ところが、伊藤はそれを十分に説明もせずに「ソリューション」という安易なキャッチフレーズの請け売りをしているだけ。
また本書はいろんなビジネス動向を経済学用語で言い換えたりはしている。でも、それはビジネスにあまり役にたたないだろう。経済学の多くは、ビジネスの後づけ説明でしかない。現場に使うにはもう一段いるんだけれど、伊藤の本にはそれが常に欠けていて、どこを読んでもまちがっちゃいないけどあたりさわりなく「それで?」としか言いようがない。
じゃあ何を? まずビジネスと経済学との差については、クルーグマン『良い経済学、悪い経済学』を見て欲しい。それと、実際に使う話では、最近出たミラー『仕事に使えるゲーム理論』(阪急コミュニケーションズ)なんてあたりのほうがいいかも。経済学的に説明できるだけじゃ、ビジネスには役にたたない。それに自覚的でないと、なかなか使い物にはならないのだ。
(コメント:伊東元重は、なんか売れっ子になろうとしてすべって失敗ばかりしているのだ。変な色気を出さずにもっと堅実な学者として生きればいいのに……。)
森嶋通夫は、とんでもなくえらい経済学者だ。前回とりあげた伊藤元重ですら、この人の前では小物だ。ましてぼくのようなチンピラサラリーマンにとって、この人は雲の上の存在。一時はノーベル記念経済学賞に一番近いとまで言われた。
でも一方で、この人は過去の人だ。主要論文は精々1970年代どまり。その後日本の大学での権力闘争に破れて、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにずっといる。そしてしばらく前に出た自伝では、自分を受け入れなかった日本(の大学、ひいては教育制度)への恨み節全開。そしてその後も、日本は没落する、日本はダメになる、それも人間が根本からダメなんだ、という本ばかり出している。
この本も、その一例だ。日本経済のダメぶりを分析した本なんだけれど、ネットの紹介にあるように「著者は、経済的に分析し、そこから将来を予想するという方法はとらず、歴史学、教育社会学、宗教社会学などに基づく、より広範な日本分析を試みる」。経済学者が社会学でなにすんの、と思っていたら……あーあ、素人社会学の大爆発に成り下がっている。
いろいろ泊をつけようとえらそうな文献からの引用はするんだ。でも要するに、戦後教育では道徳とか倫理を教えないからだめ、そしてそれを導く宗教もないからダメ。結局戦後世代はダメだ、と言っているだけなのだ。日本の戦後の高度成長は戦前教育を受けた連中が担って、それが消えた1980年代には新人類が出てきて日本はだめになった。すぐ売春する援助交際女子高生が増えてる(週刊誌の下ネタに反応してるのが実に痛い)。日本人はかつてのローマ人のように堕落し、官僚たちは自信喪失している、だからまだまだ日本は没落する……これがまともな分析のつもりだとは。ぼけた企業人が哲学ぶったり宗教がかったりする醜悪な例は多いけれど、森嶋通夫までこんなになるとは情けなや。日本の若い世代の諦めと焦りが、経済停滞の原因ではなく結果かもしれないことにさえ思い至らぬとは。あなたのいるイギリスの状況をごらんよ。そして自信喪失が停滞の原因なら「停滞は続く」なんて言うのは事態を悪化させるだけじゃん。
いまの若者、そしてこれからの日本の状況について読みたければ、玄田有史「仕事の中の曖昧な不安」を読もう。あと景気回復については、田中他『エコノミスト・ミシュラン』を。そりゃ日本の地位は下がるかもしれないけど、こんな年寄りのペシミズム恨み節に流される必要まったくなし。森嶋は、もういまの連中が総入れ替えになる今世紀後半まで日本はダメ、というんだけれど、その入れ替え後が今よりましというヘンな期待をどうして抱けるのかさっぱり不明。そんなのあてにしなくても、やれることもできることもいっぱいあるんだよ。
それにしても、この本って実は戦前の修身教育礼賛に近い中身なんだけど、岩波書店がよくこんなの出すな。その意味ではオドロキの本ではある。
(コメント:これがでてしばらくして森嶋は他界。たぶん恨み辛みにまみれた不幸な死だったんだろうなあ。第三者的には、文句なしの人生なんだろうけれど。)
前二回は、ある意味で苦渋の罵倒ではあったのだ。それなりに優れた人たちの不幸な凡作をつついた意地悪な文なうえ、能力的な差を考えればぼくが何か優れた論点を見落としている可能性もないわけじゃない。でも今回はもうお気楽極楽。だって読む前からろくなものじゃないのは予想がつくし、実際読んでみてもその通りだったんだもの。
基本的な主張は簡単で、日本はこれからダメになる、借金しすぎでそのうち国債が暴落する、年金もどうしようもない、移民も入ってくるし云々、そして円が暴落して日本経済はどうしようもない、だから世界経済はアメリカと中国に牛耳られるようになる、やがて国内でも円が通用しなくなり、ドルにつくか人民元につくかの選択を日本は迫られる、という話。そして素人はそのなかでうまいこと売り逃げたりすることもできないからダメ。
だけど目先は株があがってるし、日経平均も2万円を越える、そこで短期的に儲けることはできる、という。そして最後にはその推奨分野や銘柄がうだうだあがっている。そして、もっと詳しく知りたければオレんとこに連絡しろ、と連絡先が書いてある。やれやれ。
円よりドルが通用するようになるなんて、別に大した話じゃない。決済通貨なんて為替リスクの問題でしかないもの。スイスはユーロに加盟していないけれど、スイス国内の企業は主な取引相手がヨーロッパのユーロ圏にいるので、いろんな決済をユーロでやると為替レートの変動リスクがない。だからスイスの企業は、ユーロ建ての決済をしているし、給料もユーロだったりする。でもスイス経済はだめになんかなってないでしょ。国債が暴落したら他に心配することがあると思うけどな。
そして将来がそんなにだめなのに、なぜ目先に株が上がると思うのかも不明。さらにそこでねらうべき株ってのが新エネルギー関連株、ナノテク関連株――つまらん、どこのビジネス雑誌にも出てそうな、政府の重点産業育成ナンタラの中身そのまんま。さらにその中身についても、きちんと知ってるわけじゃなくて、伝聞ばかり。
こんなもん読むほどの株の素人なら、まず読むべきは山本一郎『美人投票入門』。一見おふざけだけど、こっちのほうがずっと投資に役立ついいこと書いてるよ。投資するんなら、投資する業界をしぼってまずそこについてきちんと勉強しなさい、とか(人から聞いた話を受け売ってるだけじゃだめだよ)。メディアでの発表だけに目を奪われちゃだめだよ、とか。そして(ぼくとの対談部分にも出てくるけど)中国がそんなにいいかどうかも、気をつけたほうがいいよ。
あともう一冊上げるとすれば、株式投資の古典、マルキール『ウォール街のランダムウォーカー』。とにかく、自分一人が(他人が数ヶ月前におおっぴらに書いたようなネタで)市場を出し抜けるなんて思わないこと。自分が思いつくくらいのことはだれでも思いつくんだから。それが投資の心得の第一歩よ。
(コメント:すでに何の本かも忘れたが、思い出す価値のないものたっだことは覚えている。)
卑しい本を読んでしまった。お金に縛られてはイケナイとか言いつつ、実は心底縛られきっていて、お金のことしか考えられなくなった人の書いた本。豊かさとか幸福とか言いつつ、生きることの本当の喜びを知らない人のこざかしいお説教集だ。お金は自分や人の幸せのために使えとか、お金の奴隷にならずに豊かな人生を送れとか。それ自体はまあいい。でも問題は、この人の描く「幸せ」とか「豊か」さとかのとてつもない貧相ぶりなんだ。
たとえば本書の数少ない具体的なアドバイスで、著者は預金口座を五種類にわけろ、という。ミリオネア口座と、日常口座と、本やセミナー用の講座と、プレゼント口座と、投資講座と。つまりこの人にとって、本を買うというのは非日常的なことなのね。人にプレゼントをするというのも、別口座で用意しておく必要があるほど特別なことなんだ。情けない。本くらい日常的に買って読まないの? 著者の金持ちというのは、そういう無教養な成金でしかない。プレゼントだって自然に出てこないの? けちくさいやつだ。そして、とても象徴的なのが最後の一文。「窓の外を見ると、まだそこには、真っ暗な空に、きれいな朝日が輝いていた」
こいつ、まともに日の出を見て感動したことがないな。空が白んできて、明るくなった中に日が昇ってくる――そんな基本的なことも知らずに、なんか黒い中にぬっと太陽が出てくると思ってる。それのどこが好奇心に満ちた充実した人生かね。
これ意外にも著者の生の貧相ぶりは、本書には充満している。著者自身がモデルのフィクション仕立てだけれど、低級な願望充足全開。スイス人銀行家になぜか気に入られ、天才的ビジネスセンスを発揮し、英語のスピーチばりばりで、ジョークのセンスも超一流、金髪青い目の女の子にも一目惚れされ、大金をポンと提供され――バーカ。すべてが頭痛がするほどの貧困なステロタイプ。こんな想像力のかけらもないのが豊かさか。ちなみに本書の大きな主張は、金持ちのライフスタイルをまねすれば金持ちになれる、という話だ。でもね、収入が伴わなずにライフスタイルだけまねすると、普通は破産するから注意してね。
こんな本に比べたらフランス書院のエロ小説のほうがずっと精神衛生上もいいんだけれど、まあ類似テーマってことで、ここではソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』でもおすすめしておこう。金と暇のある金持ちは、見栄を張るためだけに無駄な消費をする。ヴェブレンはそれが経済の中で特異な役割を果たしていることを見事に示す。本書なんかよりずっと金持ちの実像をえぐってくれる。でもそんなことよりも、読者のみなさん、時々空を見上げてその青さに感動してね。ふと見上げた夕暮れの空の、異様な赤さに見ほれてね。そういう基本的な感動のない人間は、金があろうとなかろうと、充実した生なんか送れっこないんだから。
(コメント:卑しさのみなぎる一冊。この卑しい著者は、この手の卑しい本を量産して人生アドバイザーとかいう卑しいお題目で人々からお金をむしっている。まあその程度の人はむしられればいいんだけど。)
電車の中で携帯電話を使うのがあーだこーだって、やたらにうるさい人が多い。この本の著者もそうだ。そして、それに代表される各種の「ケータイ世代」の行動というのが、サルの行動様式への「退化」だというのがこの著者の基本的な主張だ。
でも日本以外の国、特にアジア圏に出た人ならだれでもすぐに気がつくけれど、香港でも韓国でもタイでも中国でもシンガポールでも、公共交通の中で携帯電話でしゃべったりすることなんて、ごく普通のことだし、だれでもやってることだ。そんなことを問題にするのは、日本人だけなのだ。
それに最近の傾向として、おっさんどもだって平気で大声はりあげて(おっさんどもは、電話のマイクが口の前にないから大声をはりあげないと電話の向こうに聞こえないと思ってる人が多い。あるいは一所懸命話すときには携帯を口元に移動させるとか)ぎゃあぎゃあしゃべってるぞ。
本書の著者も含め、最近の若者は公共心がない云々の論者というのは、こういうのを見ない。自分がたまたま目にした話を勝手に一般化して平気だ。そして、それをなにやら自分の限られた研究分野といい加減に結びつけて悦に入るのだ。澤口俊之だの養老孟司なら脳がどうした、そしてこの『ケータイを持ったサル』の正高信男なら、サル学だ。
その他、この手の人々が毎度やり玉にあげる話はいつも同じだ。車内で化粧するとか、仲間同士で固まって外部とのアレがないとか。でも、そうかね。それって最近の日本の若者固有の現象かね。ほんの20年ほど前には、日本の農協ツアーが問題になっていたのをご記憶か。公共心がない、傍若無人に大騒ぎ、一人じゃ何にもできずに群れるとやたらに気が大きくなる……昔と同じじゃん。そして言葉の乱れがどうしたこうした。この著者は、アラビア語のフスハとアンミーアの話を聞きかじってうれしげに書いている。フスハってのは、コーランで使われている文語だ。アンミーアは各地の方言、というより口語だな。フスハという「正しい」言葉のあるアラビア語はいい、という。でもフスハが決まっていても、みんなそれを勝手に変形させて、各地の方言口語ができた。だったらフスハがあっても特にことばが「正しく」保たれたわけじゃないじゃん。一方で、フスハとアンミーアの分裂は、たぶんイスラーム社会における宗教官僚支配の大きな要因の一つとなっただろう。なぜ日本で言文一致運動が起きたか、正高は考えているのかな? たぶん何も考えてない。
いろいろ読んでいると、結局かれが問題視している「ケータイ世代」とやらの行動って、結局のところ単に豊かになったが故の適応行動にしか読めないんですけど。新しい知り合いを作らないというけれど、知らない人とやりとりするのはおっくうなものだ。おっさんどもだって、なじみの店とか作って決まった範囲内でしか動かないじゃん。さらに、おっさん世代の多くの新しい人間関係は、仕事がらみのものだけれど、若年層の失業率がきわめて高い現状では若年層にそれが期待できないでしょ。いまどきの若者は……というなら、年寄りがさっさと引退して就業機会を若者にやれよ。そして、最後のほうになってくると、結局著者が何を問題にしているのかもよくわからなくなる。家族の再生、というバカなことを言わないのは評価できる。でもそれ以外のところで、結局何がいいたいわけ? サル的に「退化」していることを、あなたはいいと思っているのか、ナントカすべきだと思ってるのか? あれこれ言ったあげくの腰砕けぶりは、読んでて実に情けない。
というわけで、おっさん慰撫すら貫徹できないダメな本です。こういうのに対抗するためには、何を読めばいいかねえ。生物学から脳の情報処理、言語までまとめて扱ってくれた大著、スティーブン・ピンカーの『心の仕組み』と『言語を生み出す本能』を挙げておこうか。
(コメント:どうしてこんな本が売れるのか。嘆かわしい。)
各種企業の没落ぶりをまじめに調べて、何がいけなかったのかを抽出した本。世のビジネス雑誌を見ると、なにやらエラい経営者がビジョンと信念に基づいてリーダーシップを発揮すると企業が成功し、ダメな経営者がそれをつぶす、と思われている。でも実際に見てみると、昨日まであれほど立派で名経営者ともてはやされていた人が、いきなり大失敗をこいている。そしてそういう場合の多くは、経営者が名経営者であるが故に、そうした事態を引き起こしてしまう。成功してマスコミに名前が出ると、本業そっちのけで本を書いたりテレビに出たり。一途な信念の持ち主は、それに反対する人をついつい切って、気がつくとまわりはイエスマンばかり。自分が市場をコントロールしていると思って変化についていけなくなる――そんな例が、実名入りでどんどん出てきて、いや実に痛快。
そしてこれは、この手のビジネス書読者にも大きな疑問を投げかける。人はいっしょうけんめい『プレジデント』だの『ウェルチ自伝』だのを読んで、名経営者たちの秘密を探り、二匹目のドジョウを狙ってその成功にあやかろうとする。でも下手をすると、それはその名経営者故の失敗の、前車の轍を踏むことになりかねない。ということは「立派な経営とは」なんてことを目の色変えて考えるのは、無駄どころかかえって有害かもしれないよ。ただの思いつきじゃない、きちんとした研究成果であるが故に、独善的なところもなく、説得力たっぷり。いわゆる実録ものビジネス書の嫌いな人には痛快だけれど、むしろそういうのが好きな人こそ本書を是非読んで、これまであれこれ学んできたことの意味を考え直すべし。
(コメント:経営戦略とかダメー、という話。いやその通りだと思う。)
成功しているところの話、というのはどれも楽しい。この本は、三割四割あたりまえ~っ! でお馴染みのビックカメラのお話で、特にハードウェア的な話はとてもおもしろい。有楽町のそごう跡に入ったとき、売り場面積を少しでも増やすべく柱の内装をはがしてしまった話、あるいは少しでも天井高を稼ぐべく、天井もはがしてむきだしにした、さらには壁や柱の面をなるべく見せずにすべてを商品で埋め尽くす、等の手法。企業としての哲学がどんなふうに形になるか、というのがよくわかるし、またそれを自分で確認できるのも楽しい。
一方で後半、なにやら社長ゴマスリみたいな話が延々続くのは閉口ではあるけれど、まあそれが類書に比べてことさらひどいわけでもない。この手の本はたいがい最後になにやら精神論でまとめようとするんだけれど、まあそれをどこまで真に受けるかはアレだ。本書でも、ビックカメラはなんでもあるのが売りだ、というんだけれど、こないだ行ったらリアプロジェクションの大型テレビはなかったし、何もかもってわけにはいかないやね。
それとこの手の本でおぼえておく必要があるのは、いったん落ち目になったとたん、それまでプラスに見えていたものがすべてマイナスに見えてくる、ということだ。若手にどんどん責任移譲してやる気を引き出す、というのは、落ち目になったら上層部の無監督無責任体質と言われちゃう。経営では何が原因で何が結果か、実はよくわからないのだ。だから鵜呑みにしないだけの注意は必要だけれど、でもこの本を読んでおくと、少なくとも今度ビックカメラに出かけたときの見る目は変わるだろう。
絶賛じゃないな。だれでも知ってることをかっこつけてえらそうに言い直した だけの本。たとえばオーナー経営者とサラリーマン経営者の差についてあれこれ 書いてあるけど、意外なことは何もない。前者はワンマン的でカリスマ性を持つ が独善的なこともあり、後者は比較的ことなかれ主義に陥りやすいが、そつもな い、といった話。言われるまでもない話でしょ。
また後半は、自分の会社の人事評価システムについて手前みそな宣伝が並ぶけ ど、これがなかなか笑える。経営者の資質をはかるためにいろんなテストをして 相関を見ると、知的能力の高い人とか、社交性のある人とか、実行力のある人が 経営者的資質(というか出世具合)と相関しているというんだけれど……そんなあ たり前以前のことを言われましてもねえ。
ただし、この本がダメかというと、そうでもない。この手の堂々巡り議論や、 後づけのアドホック議論のオンパレードは、あらゆる経営本に共通する特徴だか らだ。経営は相当部分が運に左右される。成功すれば、頑固は「確固たる信念」 とほめられ、優柔不断は「柔軟な対応」としてほめられる。本書は、一応いろん な議論を簡潔にまとめてあるという意味ではお手軽でいい本だったりはするの だ。日本の企業を中心とした各種の昔話は、まあ楽しいし、多少のうんちくも得 られる。『プレジデント』流の、経営者を英雄にまつりあげる書き方もうっとう しいけれど、比較的穏健なほうだし。あと本書でほめられている経営者のうち、 五年後に何人が無傷で残っているだろう。ダイエーの高木社長とか、早速苦しい ようだけどね。そういう意地悪な楽しみ方もないわけじゃない。
(コメント:かなり嫌味な読み方だけれど、ビジネス書を額面通り受け取ってるやつはその時点でもうダメでしょ。)
タイトルを見て、中身のないプレゼンをいかに派手な図でごまかすかという手 法解説かと思ったら(失礼、でもこの手のコンサルたちのプレゼンを聞きつけて いると、どうしてもそう思うのは人情ってもんだ)、きわめてまともな図の使い 方の説明で驚いた。何を主張したいか考えて、それをいちばんよく引き出すよう に図を作れ、というだけの話なんだけれど、これができてない人があまりに多す ぎるのだ。ごく単純な心がけですぐに改善できるのに。学界や各種国際会議で、 日本人のプレゼンが全体にしょぼいのは、その心がけを知らないからだ。
別に気がつかなかった目新しいことが書いてあるわけじゃない。棒グラフと円 グラフの使い分け、プレゼンテーションに使う字の文字の大きさ、といったごく 当たり前の話がほとんど。紙の論文のグラフをそのままコピペしただけじゃまっ たくダメよ、とか。聞き手や読み手の身になって考えれば、教わらなくても自分 で気がつく程度の話ではあるんだけれどね。その意味で、本書の「マッキンゼー 流」というタイトルは気にくわないのだけれど、でも社会人の多くがこれを読ん で、きちんと情報を伝えることについて考え、留意点をわかってくれれば、いろ んなことがずっとスムーズになるだろう。
それを超えたあたり、本書の最後のほうでは、よくある雰囲気を出すための図 の使い方まで説明されている。ここらへんはある意味で中身のなさをごまかすた めの技法ではあるので、あまり使わないでいただきたいとは思うのだけれど、で もうまくできているのは事実。また一方でそれを使う連中の手口を見破るために も読んでおいて損はない。
(コメント:結構まともで驚いた。)
ぼくはもともと工学畑出身の技術屋なので、マーケティングが嫌いだ。技術屋にしてみれば、あれはインチキな品物を口先で売りつけられるつもりでいる三百代言のペテン師集団だ。そしてえらそうなことを言う割には、何も実はできやしない。マーケットセグメンテーションとか後知恵であれこれ言うけど、それがまぐれ以上にあたったためしがないし、新しいものをきちんと評価するとか、本当に何かを必要としているものを見いだすことなんかできやしない、と思っている。そして、それは往々にしてその通りなのだ。
一方で、実際に作ったものを売るとなると、技術屋はド下手だ。技術的にどうすごいかは言えても、それをきちんと販売に結びつけることができない。結果として、マーケティング屋に技術屋はバカにされる。技術屋は技術オナニー製品ばっか作りやがる、と言って。それもまたその通りであることが多い。
結局はどっちも相手なしではやっていけない。じゃあうまく折り合いをつけるにはどうしたらいいだろうか? うん、一つには技術屋がこんな本でも読むことかもしれない。この本はマーケティングの神様に世界中からよせられたQ&A集だ。これを読んでも、マーケティングの細かい中身はわからない。でもまあ、そこでの考え方とか物言いとかが、ある程度は見当がつく。確かにひっでえ代物なんだけれど、でも思ってたほどじゃない。多少は技術屋の望む方向と妥協できる余地はあるかもしれない。そう思える片鱗はあちこちにある本だ。生産的な関係への第一歩くらいにはなれるんじゃないか。がちっとした教科書じゃないので、通勤電車の中で読み飛ばすにも好都合だよ。
(コメント:マーケティング屋の神様、コトラー。ぼくはこの人の何がすごいのやら正直いってようわからん。)