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『高度一万メートルからの眺め』 連載 15 回??

幸福度指標に思う

月刊『GQ』 2012/01月号

要約:幸福度指標を作るそうだけれど、幸福自体を追求しちゃいけないのでは? いま見たら、前書いたものとネタがかぶっている……


 今度政府が、幸福度指標なるものを作るという話があって、「有識者」なる人たちの最終案がこの十二月に発表されている。

 発想はきわめてありがちなものだ。人間、お金だけじゃないというやつで、先日王さま夫妻が来日したブータンの「国民総生産より国民総幸福」というスローガンは結構流行していて、多くの人はブータン国民が、物質的には豊かでなくても幸せなのだ、と思っている。

 でも実際には、ブータンはそんな理想郷ではないし、最近豊かになってきたブータン国民は、どんどん物質的な充実の追求に走っている。

 さらに国民の幸福を目指すのは、あらゆる国の政府として当然の目標だ。なぜこれまで、あまりそういう試みがないんだろうか。早い話が、なぜ「幸福省」というのをいろんな国が作らないんだろうか? さらには、学問は真理を追究するものであるはずなのに、「真理省」というのはどこにもない。なぜなんだろう?

 あくまで仮説だけれど、これについておもしろい説を読んだことがある。それはつまり、人々は幸福や真理(や平和)それ自体を目標にしてはいけないことを、直感的に知っているからじゃないか、というのだ。

 幸福というのは、結局のところある脳内物質が出るかどうかだ。もしそれ自体を目標にしたら、結局はその脳内物質をずっと注射し続ければいい、という話になってしまう。それではジャンキーだ。そしてさらに、人間の進化を考えると、幸せというのは生存に役立つことをしたご褒美として感じるように組み立てられている。それはあくまで、結果にすぎない。人間という生物にとって本質的に重要なのは、その生存に役立つ行動――衣食住を確保する、心身の健康を維持する、生殖活動をする、その他各種の目標と達成する――のほうだ。幸福という結果にばかりかまけると、ヘタをすればそうした活動がおろそかになるかもしれない。さらに、どんな活動に幸福を感じるのがよいのか、というのも進化の一環だ。それを「幸福指標」とやらで決めてしまうことは、実は適応力を下げることではないのか?

 真理だってそうだ。ひょっとしたら、重要なのは真理そのものではないのかもしれない。真理を得るためのプロセスと努力こそが、人間の発展のためには重要なのかもしれない。

 だからこそ、いろんな役所の名前と活動は、幸福や真理に到達するためのプロセスに注目したものとなっている。経済に注目したり、道路などインフラに着目したり、あるいは教育や研究を扱ったり。重要なのは、そうしたプロセスのほうだからだ。

 実はある小説には、「幸福省」「真理省」が登場する。かの『一九八四年』に登場する全体主義国家だ。その国イングソックは、超全体主義の管理社会実現のためにこうした省を作っていたとされるのだけれど、ぼくは最近、これが逆かもしれないと思っている。こうした結果を性急に追い求めるやり方こそが、イングソックに全体主義と管理社会をもたらしたのでは? 幸福度指標なんかをでっち上げようとする試みが、何をもって幸福とするかという基準の押しつけを経て全体主義をもたらすんじゃないだろうか?



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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