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『高度一万メートルからの眺め』 連載 2 回??

LHC 稼動に思う、現代科学の意義とは

月刊『GQ』 2008/10号??

要約:LHC 稼動がニュースで、もはや実用性などほぼ期待できず、多くの人はあまりロマンを感じられない段階にまできてしまった先端科学の意義は、ファッションみたいな究極の無駄ということなのか?


 欧州合同原子核研究機関(CERN) の超大型粒子加速装置 LHC が稼働した、というニュースはお聞きになっているだろうか。これ自体はご存じなくても、これが稼働するとミニブラックホールができて地球が消滅してしまうから運転をやめろというまぬけな訴訟の話や、それを真に受けて自殺してしまったインドの女の子のニュースなどはごらんになったかもしれない。稼働した直後にアメリカの金融危機がすさまじいことになり、そうしたニュースもすぐに見かけなくなってしまったけれど。

 LHCというのは、要は長さ27キロにもおよぶ、円形のでかい電磁石だ。全世界60カ国の共同プロジェクトで、日本も当然ながらいろいろ協力している。陽子を思いっきり加速して反対方向から正面衝突させ、いったい何が起きるかを見よう、というもの。この宇宙は何もないところから生まれた(はず)なので、誕生時点では普通の物質と同じ量の反物質ができたはずなんだけれど、それはどこへいった? そんなことがわかるかもしれない。あるいはこの世のいろんなものに質量がある理由を説明するはずのヒッグス粒子が確認できるかもしれない。そして各種の素粒子や基本的な力を統一的に説明する、大統一理論が検証できるかもしれない。

 それがどうした? 何か役にたつのか? 実は、ほとんど何の役にも立たないだろう。明日の自動車産業や原子力産業に匹敵するような一大産業の源になるかといえば、たぶん99パーセントはあり得ない。そして、それが何か人類の夢をかなえてくれるかというと、うーん、それがつらいんだ。

 かつて科学少年たちが湯川秀樹や朝永振一郎にあこがれて夢見ていた素粒子物理学には、万物が単純なものに還元されるという魅力があった。万物はほんの百個かそこらの原子に還元され、その原子はすべて陽子と電子と中性子に還元され……この複雑な世界のすべてが非常に単純な原理で説明できるという発想には、素人にもわかる魅力があった。人類のロマンなんだと言われて説得力もあった。

 でもそれが緻密化するにつれて、単純だったはずの素粒子がどんどんわけがわからなくなり、今や11次元を丸めた亀の子だわしの親玉のような代物だ。素人にはわけがわからないし、亀の子だわしでは科学のロマンもクソもない。物理学内部ですら飽きが見え始め、検証できもしない理論のお遊びという批判の声が物理学者たち自身からも出ている。今回のLHCは、それを多少なりとも実地に検証できるかもしれないとはいえ、それができてどうなる?

 が、個人的にはそうした無駄なお遊びこそが、人間の文化の本質だとは思うのだ。どんなふうに役にたつかわからないものを、許容できるところに豊かさの本質があるはずだ。そしてそれは人類にとって、何らかの形で有益なはずなのだ。それを多くの人が漠然とながらも感じていればこそ、まったく実益の期待できないものに大金をかけ、最先端の技術を惜しみなくつぎ込んで、各種の反対の声にもめげず、何の役にもたたない巨大プロジェクトをわざわざ手間暇かけてやることになっている。

 収益性でははかれない豊かさをどう考えるのか、そしてその結果としてこのLHCのようなものを今後どう正当化するか、実学志向の風潮の中で、今後大きな課題になってくるはずだ。LHC のニュースを見ながら(あ、早速ヘリウム漏れで稼働停止だとか)考えてしまったのである。そして本誌の読者諸賢はその意義を理解するだけの下地があるんじゃないかとも思う。本誌で紹介されているような、スタイリッシュな服や靴やガジェットだって、何の役にもたたない。だが、それに敢えて(無駄と十分に承知しつつ)こだわるところに人間の人間たるゆえんがある。数百万円もする腕時計の延長上に、本誌の読者であれば LHC のようなプロジェクトの価値も感じ取ってくれるんじゃないかと思うんだが、いかがだろう。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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