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オープンソース運動の実際

オープンソース運動はマウンテンビューでのミーティングで始まり、そしてイン ターネット上で、同志たちの非公式なネットワークが急速に形成されていった (なかにはNetscape社やO'Reilly & Associates社の重要人物も含まれている)。 以下の文章で「我々」 というのは、このネットワークを指している。

(ミーティングのあった)2月3日から、実際にNetsacpe社がソースコードをリリー スする3月31日あたりまでの間、 我々の第一の関心事は、「オープンソース」と いうラベルとそれにともなう各種の議論が、主流産業界を納得させる試みとして いちばん優れたものなんだということを、ハッカーコミュニティに納得してもら うことだった。ふたを開けてみると、(「フリーソフト」から「オープンソース」 への)ラベルの変更は、予想したより簡単だった。FSFほど教条的でないメッセー ジに対する需要が、かなり鬱積していたことがわかったのだ。

3月7日のフリーソフトウェアサミットで、ハッカーコミュニティのリーダーたち 20人あまりが「オープンソース」という用語を採択することに賛成したが、かれ らは実は、開発者たちの草の根レベルでは明らかになっていたトレンドを、公式 に裏書きしたということになる。マウンテンビュー のミーティングの6週間後に は、コミュニティの大多数が我々の用語を使っていた。

四月に入り、サミットが終わって、Netscape社が実際にソースコードをリリース すると、我々の一番の関心は、オープンソースの早期採用者をなるべくたくさん 集めることへと移った。その目標は、Netscape社の動きをなるべく特異なもので ないようにすることだった――そしてそうすることにより、Netscape社のやり口 がまずくて目標が達成できなかったときのために、保険をかけておくことだった。

これがいちばん気をもんだ時期だった。表向きは、すべてがバラ色に花開いてい るように見えた。Linuxは技術的にどんどん力をつけていたし、広義のオープン ソース現象は、業界紙での報道における扱いが、めざましいほど爆発的に増大し ていたし、主流メディアですら、肯定的な記事が載るようになってきていた。そ れにもかかわらず、我々の成功はまだ脆弱だということを認識していて、それを 不安に思っていた。 NetscapeのMozillaプロジェクトへのハッカーコミュニティ からの参加は、最初に怒濤のような貢献があったものの、その後は開発にMotif [*] が必要だったために、ひどくスローダウンしてしまっていた。大きな独立系のソ フトウェアベ ンダーはどこもまだLinuxへの移植を発表していなかった。 Netscape社は孤独に見えたし、そのブラウザのシェアは相変わらずMicrosoft社 のInternetExplorerに奪われ 続けていた。ここで何か派手な逆風が吹いたら、 マスコミや世論からは意地の悪い反動を受けることになってしまうかもしれない。

Netscape社に続く初の大きな突破口は、Corel Computer社がLinuxベースのネッ トワークコンピュータであるNetWinderを5月7日に発表したことだった。しかし、 これだけでは十分ではなかった。勢いを持続させるには、ハングリーな業界二番 手の参加ではなく、産業のトップリーダーたちの参加が必要だった。というわけ で、この危うい時期に本当に幕を引いてくれたのは、7月半ばのOracleと Informixからの発表だった。

データベース企業がLinuxの世界に加わったのは、予想よりも3ヶ月は早かったけ れど、早すぎるなんてことはない。もともと我々は、メジャーな独立系ソフトウェ アベンダー(ISV)のサポートなしでは、この肯定的な熱狂もいつまで続くことや らと思っていたし、本当にそんなISVが見つかるかどうか、だんだん心配になっ てきていたところだった。OracleとInformixがLinux版を発表してからは、他の ISVもLinuxのサポートをほとんどお約束のようにアナウンスするようになったし、 これでmozillaの失敗も、オープンソースの息の根を止める心配はなくなった。

7月半ばから11月始めまでの期間は地固めの局面であった。The Economist誌の記 事や、Forbes誌のカバーストーリーなどを皮切りに、私が元々標的にして いた 一流メディアにも、そこそこ安定して採りあげられるようになってきたのがこの 時期である。様々なハードウェアやソ フトウェアのベンダーが、オープンソー スコミュニティに探りを入れてきて、新しいモデルを活かすための戦略を検討 するようになってきた。そしてソース非公開のベンダーの中でも最大手のあの巨 人が、社内的に本気で心配し始 めていた。

まさにかれらがどれほど心配していたかが明らかになったのは、いまや悪名高い かの「ハロウィーン文書」 [*] がMicrosoft社からリークされた時だった。

ハロウィーン文書はダイナマイトだった。それはLinuxの成功によっていちばん 失うものの多い企業からの、オープンソース開発の強みについての鳴り物入りの 証言だったのだ。そしてそれは、オープンソースを止めるためにMicrosoft社が 使用を検討する戦略について、多くの人が抱いていた最悪の疑念を裏付けるもの でもあった。

ハロウィーン文書は、11月の最初の数週間にわたり、すさまじい報道を受けるこ とになった。それはオープンソース現象について新しい関心の波を引き起こし、 われわれがそれまで数ヶ月にわたって述べてきたあらゆる論点を、はからずも裏 付けてくれたのだった。そしてその直接の結果として、メリルリンチの主要投資 家による特別グループとの、ソフト産業の現状とオープンソースの見通しに関す る会談に、私が招かれることとなったのだった。

ついにウォール街が、われわれのもとにやってきたのだ。



Takashi.Nakamoto
7/4/1999