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私がLinuxと最初に出会ったのは、LinuxのCD-ROMディストリビューションの先駆
けであったYggdrasilのCDROMで、1993年末のことであった。その時、既に私は15
年にわたってハッカー文化と関わっていた。私の最も初期の経験は1970年代末の
原初的なARPAnet
にさかのぼる。
私はITS
でさえ少しばかりの短い間、使わせてもらったことがある。
私はFree Software Foundation(FSF)
が1984年に始まる以前からフリーソフトを書いてUsenet
に投稿していたし、FSFでもその初期の投稿者の一人でもあった。私はちょうど
その頃「新ハッカー辞典」の第二版を発表したばかりだった。私はハッカー文化-そしてその限界-をとてもよくわかっているつもりだった。
Linuxとの出会いはショックだった。私は長年ハッカー文化のなかで活動して
きたけれど、私は、アマチュアのハッカー達は、どんなに才能があったところ
で、実用的なマルチタスクのOS
を開発するのに必要な資源や能力を集めることはとても
できないはずだという思い込みを持っていた。
HURD
の開発者達
は結局、この十年間どう見ても失敗しつづけてきているじゃないか。
しかし彼らが失敗したことに、Linus Torvaldsと彼のコミュニティは成功した。 そして彼らは単に最小限の安定性の要求と実際に機能するUNIXインターフェー スを満たすだけでなかった。それどころにとどまらなかった。彼らはその溢れん ばかりの才能で、その要求をずっと飛び越えて、何百メガバイトにも及ぶプログ ラム、ドキュメント、その他のリソースを供給した。完全な一揃いのインター ネット用のツール、DTP用のソフトウェア、画像処理のソフト、エディタ、 ゲーム、その他なんでもだ。
素晴らしいプログラムコードの山が実際に動作しているシステムとして私の前 に広がっているのを見ることは、単に頭の中に、おそらく全てのパーツがそこに そろっているんだろうな、ということを知っているのとは全く違う遥かに強烈な 経験であった。それはあたかも、何年もの間、私がバラバラになった自動車部品 の山を仕分けしているところに、いきなりそれらが組上がり、きらめくフェラー リ--ドアが開き、、キーがロックからぶら下がり、そのパワーを約束するエン ジンが静かにうなる--に変貌するのを見たような気分だった。
私が20年にわたって観察してきたハッカーの伝統が、突然わくわくするような生 まれ変わりを遂げたように思えた。ある意味では、私は既にこのコミュニティに 入っていた。私の個人的なフリーソフトのプロジェクトのいくつかが一緒に加え られていたからだ。しかし私はもっと深く踏み込んでみたかった。なぜなら歓喜 するたびに当惑も深まっていったからである。こんなうまくいくはずがない!
ソフトウェア工学の知見では、N人のプログラマーが参加すると、仕事はN倍で進
むが、その複雑さとバグの起こりやすさはNの2乗倍になるというBrooksの法則
が支配的だった。Nの2乗は開発者達のプログラムコード間のコミュニケーショ
ンパス(そして潜在的なプログラムコード間のインタフェース)の数である。
つまりBrooksの法則は数千人もがかかわるプロジェクトは不安定でいつばらばら になるかわからない混乱に陥るはずだと予言しているのである。それがどうした わけかLinuxコミュニティはそのNの2乗の効果に打ち勝ち、驚くべき高品質なOS を生み出した。わたしはどうしてもどういう風に彼らがそれをやってのけたか理 解しようと決意した。
私がある一つの
理論を組み立てるのには3年にわたる参与と密接な観察が必要だった。そして
もう一年がその理論をテストするのに必要だった。それから私は腰を落ち着け、
自分が何を見たかを説明するために「伽藍とバザール」
を書いた。