マルクス経済学

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第一インターナショナルのポスター

 カール・マルクスの死後間もなく、マルクス派の経済学が、マルクスの仲間や共著者の内輪を指導者として登場した。特にフリードリッヒ・エンゲルス と カール・カウツキーが大きい。どちらもドイツ人だった。でも、マルクス学派はやがて内部からの修正主義論争に揺らぐ――エデュアルド・ベルンシュタインが、マルクスの古い唯物論的な解釈に対して、人間主義的な挑戦をつきつけたのだった。具体的には、ベルンシュタイン (1899) は資本主義の経済的な崩壊が「不可避」だというマルクスの考え方を疑問視した。そして、もし社会主義が実現するなら、それは意識的な選択として、政治や教育システムを通じて導くべきもので、「必然的」な革命の用意をするだけじゃダメだ、と論じた。似たような立場を取ったのは、イギリスのシドニー・ウェッブフェビアン社会主義者たち と、フランスのジャン・ジョレス (Jean Jaurès) だった。

 ベルンシュタインの政治的メッセージは、危機と崩壊の理論をめぐって初期マルクス派を揺るがした経済論争につながった。『資本論』第2巻で、カール・マルクスは安定成長の必要条件はあまりに数が多すぎて、資本主義はとても崩壊を避けられないと示唆している。ベルンシュタインの後を受けて、ミハイル・トゥガン=バラノフスキー (1905) はこれに反論して、資本主義は安定成長を実現できるし、だから資本主義の崩壊は必然ではないと論じた。さらに現実的な経験は、資本主義は 1900 年代初期にはどう見ても改善に向かっているとしか見えなかった。

 正統マルクス学派の大物たちみんな――カール・カウツキー、ローザ・ルクセンブルグ、ゲオルギー・プレハーノフ等々――がベルンシュタイン修正主義者たち打倒に立ち上がった。でも正統派の応答はバラバラで、それ自体がさらに議論を引き起こした。たとえばカール・カウツキーはまず、マルクスの著作には資本主義崩壊の理論なんかそもそもない、と主張し、それから 1902 年になって、カウツキーは「危機的な不況」の理論があると認めた――ドーンと一発で崩壊するんじゃなくて、繰り返し起こる危機がだんだん深刻になっていくのだ、と強調しているんだというわけ。この理論はまた、ルイス・ボーディン (Louis Boudin) も述べている。

 これを追う形で変なひねりを加えたのがローザ・ルクセンブルグ (1913) だった。要するに彼女は、「剰余の蓄積」が何を実現するのかはっきりしていない、と論じた。特に、拡大した生産力によって生産された財を買ってその剰余を実現する人がいない場合には。「財の需要はどこにある?」と彼女は何度も繰り返し尋ねる。マルクス体系の批判の中で、彼女は閉鎖系においては危機は不可避だけれど、開放系(つまり外部に消費が存在する系)では、非資本主義諸国で新しい購買者を獲得することにより、危機は避けられる。帝国主義とは、資本主義国家がまさにそうした消費者を獲得しようとする競争なのだ、と彼女は論じた。ウラジーミル・I・レーニン (1916) とニコライ・ブハーリン (1917) はルクセンブルグの理論に同意せず、帝国主義について独自の理論を提示した。かれらの説だと、帝国主義は利益レントを求める資本主義者の競争の結果であり、危機回避の結果では必ずしもなかった。かれらは第一次世界大戦を、まさに競争資本主義の「熱い」バージョンだと考えた。

 修正主義論争は、ウィーンの法律家と学者の一団を活気づけた。これが有名なオーストリア・マルクス派――マックス・アドラー、オットー・バウアー、ルフォルト・ヒルファーディング、カール・レナーだ。ドイツ勢に対して、オーストア人たちは革命戦略の問題にはあまり関心を見せず、むしろマルクス主義の理論分析に専念した。おかげでかれらは修正主義もどきの態度を採用するようになる。

 オーストリア・マルクス派たちは、特に科学の新カント哲学と、当時登場しつつあってウィーンで大流行の positivist 哲学に大きく影響を受けていた。オーストリア・マルクス派の見方では、マルクス体系は社会的探求のための体系、というかもっと一般的な社会理論の中に埋め込まれている経済理論で、その一般社会理論それ自体の中心が、経済関係にあるのだった。

[Georg Lukacs (1923) の研究と、社会学におけるフランクフルト学派(ホルクハイマー、アドルノ、マルクーゼ等々)によって 1920 年代に登場したいわゆる「西側マルクス主義」は、部分的にはこの「社会学的」アプローチにヒントを得たものだったけれど、オーストリア・マルクス派の強調する政治経済からは離れて、社会や哲学、文化、芸術における国の役割に関心を向けた。そしてかれらは、オーストリア・マルクス派がだれ一人考えもしなかったほど、主観的な人間要素を強調することになった。でもこの話は、ここではとっかかりさえ説明できるもんじゃない!]

 オーストリア・マルクス派はまた、当時有力だった新古典派のオーストリア学派とも関係が深く、したがってマルクスの理論的・経済的側面を多少深刻に考えて、新古典派からの批判にもっときちんと耳を傾けざるを得なかったんだろう。特に重要なのは、マルクス主義の価値理論に対して新古典派の経済学者のフィリップ・H・ウィックスティード、ヴィルフレド・パレート、そしておそらくは最も大物だったオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク (1896) が行った批判だった。これらの理論家はみんな、マルクスの「労働価値説」に一貫性を欠く部分を見つけた、と述べていた。特にかれらは、労働価値を生産の価格に転形するときの有名な「転形問題 (Transformation Problem)」を指摘していた。

 ベーム=バヴェルクの批判に対するマルクス理論の防戦は、ほとんどがオーストリア・マルクス派によって行われた――特にルドルフ・ヒルファーディング (1904) によって。マルクス自身の転形問題に関する「定量的」解法が不完全なものだと示したのはラディスラウス・フォン・ボルトケヴィッチ (Ladislaus von Bortkiewicz) (1907) で、かれは独自の方法を提案した。あまり有名でない論文で、ウラジーミル・ドミトリエフ (Vladimir Dmitriev) (1898) も別の解法を示した。この問題は、1940 年代のマルクス復活まで大きく影響した。

 1918 年、マルクス学派は大きな課題二つに直面した――ドイツとオーストリアにおける第一次世界大戦の後始末、そしてロシアでのボルシェビキ革命の成功だ。戦争が終わると、ドイツでもオーストリアでも、政治経済システムはボロボロだった。両国とも、いきなり社会民主党が政権をとって、そこにはかなりマルクス主義者も加わっていた。

 ドイツでは、「社会主義化委員会」がカール・カウツキーとルドルフ・ヒルファーディングのもとで設立され、左がかった「改革」経済学者、たとえばエミール・レーデルラー, Eduard Heimann, アドルフ・ロウ そして(これはびっくり)ジョセフ・シュムペーター などが、その移行をどうにかすることになった。ヒルファーディングは、1920 年代の社会民主党政権二つで、財務大臣を務めることになった。オーストリアでは、 Karl Renner が宰相(後に大統領)になり、オットー・ バウアーは外務担当国務大臣となった(かれらの財務大臣は、ここでもまたジョセフ・シュムペーターだった。かわいそうなシュムペーターは、その後のハイパーインフレの責任を負わされることになるのだった)。

 マルクス派は全般にそうだけれど、なかでもオーストリア・マルクス派は、1930 年代のファシズム台頭まで中央ヨーロッパで大きな役割を果たすことになる。戦後の軍備解体、ハイパーインフレ、賠償金支払いなどを一度に抱え込んで、1929 年には大量失業が発生してきて、経済的にきわめて厳しい状態となって、ほとんどだれもがそれをマルクス派のせいにした。さらに、ロシア革命の成功が想像力をかきたてたおかげで、まっすぐ完全な社会主義に向かいたがる連中と、もっと段階的で現実的な社会改革を好む人たちとで、マルクス派の党内でも分裂が起きていた。

 少なくとも 1918 年ドイツ革命失敗の後では、マルクス派は一般に後者を選んだ。自分たちが新たに就いた地位を正当化して中産階級の恐怖をなだめるために、かれらは崩壊理論から退いて、社会主義というのはプロレタリアートの「意識的選択」なのであって必然的な結果じゃないという修正主義の考え方を採用した。その道をとらなかった例外的な大物は、ヘンリク・グロスマン (Henryk Grossman) (1929) とオットー・バウアー (Otto Bauer) (1936) で、かれらは消費過小から生じる「崩壊」の新しい(そしてもっと定式化された)理論を提出した。

 かわいそうなシュムペーターを例外として、ライバルのオーストリア学派 の経済学者たちは、1918 年以前のハプスブルグの公的役職では重要な地位についていたのに、民間ビジネスや商工会議所といった安全なところに引っ込んで、事態の進行を見守っていた。かれらは特に、社会民主党の一部産業の国有化と社会保障方式の計画にカンカンだった。ちょうどこの頃に、ルトヴィヒ・フォン・ミーゼス とフリードリッヒ・フォン・ハイエクとの「社会主義計算論争」が巻き起こった。対するオーストリア・マルクス派の計画者たちは、傑出した数人のパレート派経済学者たちをシンパにつけていた――特にオスカール・ランゲとアバ・ラーナーが大きい。もっとマルクス派の伝統に近い経済学者たち、特にフレッド・M・テイラー、エミール・レーデルラー、ヤコブ・マルシャック、ヘンリー・ディキンソンは、みんなマルクス派側についてこの論争に参加した。

 計画は、当のソ連でも問題になっていた。1920 年代に登場した主要な論争は、工業と農業にどれだけ相対的に注力すればいいか、ということだった。エフゲニー・プレオブラゼンスキー (e.g. 1922, 1926) は、農業を犠牲にしても急速な工業化を進めるべきだと強力に主張した。これはかれが「原始社会主義的蓄積」(つまり農業財については市場を国家独占交易体で置き換えること)を通じて実現されることになっていた。これに反対したのがニコライ・ブハーリンで、農民の余剰を取り上げてしまうことによるディスインセンティブ効果によって、ロシアの農業セクターは完全に崩壊する、と論じた。ブハーリンの「市場に基づく」新経済政策 (NEP) では、農民たちは自分の産物を自分で売って、余剰は自分のものにできる。これは 1921 年に レーニンの元で実験された。スターリンの台頭と共に、NEP はお取りつぶしの憂き目にあい、農業セクターは恐怖政治と集団農業によって急停止状態となり、国家主導の工業化(およびさっきのプレオブラゼンシキーその人)が返り咲いた。ソヴィエト計画経済の手法が本当に再活性化したのは、1950 年代にスターリンが死んで、オスカール・ランゲやレオニード・カントロヴィッチがマルクス的な労働価値説ではなく「新古典派」的価格理論を導入した考え方を持ち込んでからのことだ。

 中央ヨーロッパでは、トゥガン=バラノフスキー を中心に渦巻いた論争のおかげで、多セクタービジネスサイクル理論の伝統が始まって、これが 1920 年代から 1930 年代頃まで続く。これはマルクスの拡大再生産の仕組み and/or その危機の理論のプリズムを通して見ることができる。特に重要な貢献は、アドルフ・ロウ (Adolph Lowe)、ヴァシーリー・レオンチェフ (a href="../profiles/leontief.html">Leontief) とキール学派構造的経済成長理論、そしてソ連でのグリゴリー・フェルドマン (Fel'dman) の 2 セクター成長モデだ。ミハウ・カレツキ分配サイクル理論は、「消費過小」危機に関するマルクス派の論争への回答としてもっぱら開発されたものだった。

第二次大戦後の発展については、新マルクス派/ラディカル学派のページを参照。

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